2026年5月30日土曜日

5月31日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「天からの祝福を受けて」

 「天からの祝福を受けて」

聖書箇所 マルコ1:9-11。419/390

日時場所 2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝

      

改装をされた礼拝堂で、こうして敬愛する方々と一緒に、神さまを賛美することができますことを、こころから感謝いたします。今日は教会建物改修のために、献金をしてくださった方々へもご案内をして、共に礼拝を守っています。ありがとうございます。

「教会建物についての議論の経緯の略年表」をお配りいたしました。教会建物改修については、ほぼ15年間くらい話し合いがなされてきました。いろいろな話し合いを経て、こうして一区切りをつけることができますことは、教会に連なるお一人お一人の祈りがあってこそだと思います。そして何より私たちの思いを超えて働かれる神さまの導きがあってこそだと思います。まだ少し、手を入れなければならないところもありますが、これからも力を合わせて歩んでいきたいと思います。

毎週、私たちは礼拝に集い、礼拝を守っています。ですからまあクリスチャンとしての生活をしているわけですが、いつもいつも自分がクリスチャンであるという意識をもって歩んでいるわけではありません。しかしときになにか重要なことが起こり、自分がクリスチャンであるということが、その決断にとって欠かせないものとなるときがあります。

先日、『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画をみていました。どういう映画かと言いますと、ハリウッドで大きな影響力をもっていた映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインという人が、何十年にもわたって性暴力事件を起こしていました。そのことをニューヨーク・タイムズ紙の二人の女性記者が追いかけ、記事にしていくという話です。#MeToo運動が世界へ広がるきっかけの一つとなった出来事だと言われています。被害者はたくさんいるわけですが、でも和解の際に「秘密保持契約」などが結ばれていたりして、なかなか被害を公にすることができません。また匿名ということで、記者に話をしてくれる人たちはいるわけですが、なかなか実名で記事にしてよいという人は出てきません。当り前のことであるわけですが、なかなか実名で告発するのには勇気がいるわけです。

そのなかで、アシュレイ・ジャッドという女優が、実名で記事にしてもよいと言います。そのとき、「女として、キリスト教徒として」、告発しないわけにはいかないと言うのです。「女として、キリスト教徒として」。『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画の中に、実際にその本人として出演をしています。「女として」、これから先、このような事件が起こってほしくない。自分のような被害に合う女性がでないようにしたいというのは、この映画のテーマですから、それはそうだと思うわけです。でも同時に「キリスト教徒として」という言葉が添えられていました。アシュレイ・ジャッドは、キリスト教徒として、神さまの前に立つ者として、このような不正を許しておくことはできないというわけです。多くの人は実名で告発することはできないと思う。だからわたしが実名で告発するということを担うのは、キリスト教徒としてのわたしの務めだというわけです。アシュレイ・ジャッドのなかには、「わたしはキリスト教徒なのだ」ということが、自分が存在する第一のこととしてあるのです。「あなたは何者ですか」と問われるときに、「わたしはキリスト教徒だ」と答えるということです。

クレア・キーガンの「ほんのささやかなこと」という小説もまた、自分がクリスチャンであることについて考えさせられる小説でした。こちらはアイルランドの「マグダレン洗濯所事件」についての小説です。

【マグダレン洗濯所。別名、マグダレン収容施設、マグダレン修道院。実際には婚外交渉により身ごもった女性ばかりでなく、堕落する可能性があると恣意的に判断された女性、身寄りのない少女も収容され、食事のみのほとんど無報酬で、軍隊や施設等から集められた洗濯物の洗濯作業を強いられていた。】〔マグダレンの祈り、Wikipedia)。

マグダレン洗濯所事件とは、アイルランドでカトリック教会と国家によって行なわれた人権侵害事件です。1922年から1996年まで、未婚の母や身寄りのない女性たちを強制収容して、無報酬で過酷な洗濯労働を強いていました。その実態はなかなか明らかになりませんでした。

【1985年、アイルランドの小さな町。クリスマスが迫り、寒さが厳しくなるなか、石炭と木材の商人であるビル・ファーロングは最も忙しい時期を迎えていた。ある日、石炭の配達のために女子修道院を訪れたファーロングは、「ここから出してほしい」と願う娘たちに出くわす。修道院には、未婚で妊娠した娘たちが送り込まれているという噂が立っていたが〜隠された町の秘密に触れ、決断を迫られたファーロングは、己の過去と向き合い始める】(本の見開き)。

1985年のクリスマスです。教会が経営している母子収容所で、長年、ひどい女性虐待が行なわれています。主人公のファーロングという男性はたまたまそのことに気がつき、そしてそこから逃げようとする女性を助けるという話です。教会に対して楯突くと、世間から村八分にされてしまいます。しかしファーロングは決心します。ファーロングはこう自問自答しています。

【町を歩けば知った人にも知らない人にも行き会ったが、ファーロングはいつのまにかこう自問していた。たがいに助けあわずに生きてどうする?そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?】。(P.135)。

【そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?】。

日常生活のなかで、自分がクリスチャンであることが問われる出来事というのは、そんなにないわけですが、でもクリスチャンである私たちはときにそうしたことを考えざるを得ないときがあるわけです。そして「わたしは何者なのか」という問いの前に立つことがあるのです。

今日の聖書の箇所は「イエス、洗礼を受ける」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書1章9節にはこうあります。【そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた】。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを求めました。そしてその徴として、ヨルダン川で洗礼を授けていました。イエスさまもヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けます。

マルコによる福音書1章10節にはこうあります。【水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった】。イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に、不思議な出来事が起こります。天から霊が鳩のように、イエスさまに降ってきます。先週は聖霊降臨日、ペンテコステでした。ペンテコステはイエスさまの弟子たちに聖霊が降るという話でした。ここではイエスさまご自身が、洗礼を受けられた時に、鳩のような形をした聖霊がイエスさまに降ったことが告げられています。

マルコによる福音書1章11節にはこうあります。【すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた】。聖霊が天から降ったときに、天から声も聞えてきます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

洗礼者ヨハネは人々に悔い改めの洗礼を授けていました。洗礼を受けるということは、神さまからの祝福を受けるという、とても幸いなことであります。それは私たちが洗礼を受けるのも、イエスさまが洗礼を受けるのも、同じように幸いなことであるわけです。洗礼を受け、私たちは神さまから託されたことを、この世で証して生きていきます。そういうことでは、私たちもまた洗礼を受けるときに、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という祝福を、神さまから受けているということが言えるかも知れません。

ただ私たちとイエスさまが神さまの祝福を受けられるということには、少し違いがあります。それはイエスさまが歩まれる道が、十字架への道であるからです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というのは、イエスさまの十字架への道を表わしています。イエスさまは神さまの御心に適う者として、神さまの独り子であるわけですが、私たちの世に来てくださる。そして私たちの罪のために、十字架についてくださいます。イエスさまが私たちの代わりに十字架についてくださることによって、私たちは神さまによって赦され、永遠の命を受ける者として招かれることになります。イエスさまはそのために、私たちの世に来てくださいました。

私たちはイエスさまのように、人の罪を贖うために十字架につくことはありません。ただ私たちには私たちにとっての神さまから託された歩みというのがあるわけです。そういう意味では、イエスさまに語られた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、私たちへ語られた言葉でもあるわけです。

私たちもまた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」として生きています。神さまからの祝福を受けて生きています。神さまからの祝福を受けて生きているということは、とても幸いなことです。私たちは自分のことを見ていると、下を向いてしまわざるを得ないことがあります。「どうもわたしの心の中にあるこの気持ちは、神さまの前には恥ずかしいものだ」「どうしてわたしは自分のことを棚に上げて、人につらく当たってしまったりするのだろうか」「もっと人に優しくしたいと思うのに、ちいさなことでいつも腹を立ててしまって、自分のことながらなさけない」。自分に目を向けると、反省することが多いわけです。でもそんな私たちであるわけですが、でも神さまは私たちを愛してくださっているのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を、私たちにかけてくださっています。

私たちはクリスチャンとして、自分を見たり、人を見たりするのではなく、神さまを見て歩みたいと思います。神さまがわたしを見ていてくださり、神さまがわたしを守ってくださっている。神さまがわたしを愛してくださり、わたしにふさわしい歩みを用意してくださっている。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という励ましの言葉を胸に、神さまの霊である聖霊の力を信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


   




(2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝) 



5月24日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「聖霊に導かれ」

 「聖霊に導かれ」

聖書箇所 マルコ4:26-34。343/346

日時場所 2026年5月24日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ礼拝

 

ペンテコステおめでとうございます。

ペンテコステはイエスさまの弟子たちの上に、聖霊がくだり、弟子たちが神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝え始め、教会ができていくということで、教会の誕生日というふうに言われます。

ペンテコステの出来事の聖書の個所は、使途言行録2章1節以下に書かれてあります。「聖霊が降る」という表題のついた聖書の箇所です。新約聖書の214頁です。使徒言行録2章1−4節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした】。

イエスさまの弟子たちに聖霊がくださり、聖霊に導かれて、弟子たちは自分たちの国の言葉ではなく、ほかの国々の言葉で話し出します。世界にはいろいろな国の言葉があります。神さまのこと、イエスさまのことを伝えていくときに、自分の国の言葉で伝えていくと、それを通訳してくれる人がいなければならないわけです。まあそれよりも、相手の言葉で話すことができれば、そのほうが良いわけです。

しかし言葉が通じるからと言って、相手の言っていることに対して、「そうだなあ」と思えるというわけでもありません。相手を尊重する心とか、態度とか、そういうものがあるからこそ、互いに歩み寄ったり、信じ合ったりできるわけです。嘘をついても平気な人と話をするのは、なかなか大変です。この人は嘘をつくから、話を聞いていても、無駄だというふうに思えます。あるいは昨日言っていることと、今日言っていることが違っている人の話を聞くのも、苦痛です。今日、きいていることも、明日には違うことになっているかも知れないからです。嘘をつく人が多くなり、倫理観を失った社会は、衰退していきます。うそや基準がいいかげんな社会では、商いをするのがむつかしいですから、衰退していくわけです。ちゃんとした秤がないと、商売はできないわけです。

ペンテコステの出来事の「一同が聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出した」というのは、たんに外国語を話したということではなく、相手の立場に立って、相手の気持ちになって、互いに尊敬しあう歩みを行なうということです。そうしたことを初期のクリスチャンたちは行なうことによって、キリスト教は世界に広まっていきました。しかしそれは人の働きということではなく、聖霊の働きであったのだと、使徒言行録は私たちに伝えています。神さまの働きがあることによって、いろいろなことが実現していくのです。

今日の聖書の箇所は「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」「たとえを用いて語る」という表題のついた聖書の箇所です。

マルコによる福音書4章33ー34節にはこうあります。【イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された】。

イエスさまは弟子たちや人々に、たとえを用いて話されます。たとえは適切なたとえであればよくわかり、「そうだなあ」とみんなが思えるので、たとえを用いて話されました。しかしたとえはわかりやすく説明するために、身近なものでたとえたりすることが多いですし、そのときに使われていたものでたとえが話されたりします。そうしますと、場所が変わったり、時代が変わったりすると、たとえの意味がよくわからなくなるというようなことも出てきます。私たちがイエスさまのたとえをきいて、なんかよくわからないというようなことがあるのは、そうした事情があるからです。

マルコによる福音書4章26−29節にはこうあります。【また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」】。

イエスさまは神の国は、成長する種のようなものであると言われました。作物の種を植えるとだんだんと大きになっていきます。茎が成長し、穂が実り、豊かな実となっていく。まあ作物を育てているわけですから、手入れもされるけれども、でも本質的には種を成長していくのは、神さまがなさることだと、イエスさまは言われます。すべてのことがわかっているわけではないけれども、種は成長していくというのです。人の業を超えた、神さまの祝福があるのだと言うのです。暑さ、寒さ、雨がどのように降るのかを、人間が管理することはできないのです。

マルコによる福音書4章30−32節にはこうあります。【更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」】。

イエスさまはからし種の話をされました。からし種はちいさな種だけれども、それが成長すると、鳥が葉の陰に巣をつくるほど大きな枝を晴ることができる。そのように、小さな良き働きが神さまに祝福されて、神さまの義と愛に満ちた神さまの国になっていく。すべては神さまの働きなのだと、イエスさまは言われました。

神さまの祝福が、聖霊の力が働いているのが、私たちの世界なのだと、イエスさまは言われます。だからいろいろな作物も育つし、私たちの命も保たれているのだと、イエスさまは言われるのです。

私たちはいろいろと努力をしたり、配慮をしたり、こころに留めたりしながら、一生懸命に生きています。農作物を育てている人たちは、いろいろな労力をかけて、農作物を育てているわけです。「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる」と聖書にはありますが、そう簡単なことではないのです。いろいろな労苦があります。

私たちの世の中は、人間の世の中ですから、そんなに平和な世の中でもありません。いろいろな競争があったり、人を傷つけることがあったり、人から傷つけられるようなことがあったりもします。一生懸命に努力をしても、うまくいかないこともあります。とくに現代は、競争社会となり、個人主義的な価値観が広がり、「まあ、どうなってるんだろうねえ」と思えるような気持ちになり、神さまの霊である聖霊が、私たちの世の中に働いているとも思えないというような気持ちになるときもあります。

みなさんは、最近、私たちの世の中には聖霊が働いているというふうに感じたことはありましたでしょうか。卑近な例で申し訳ないのですが、わたしは最近、「プラダを着た悪魔2」という映画を見ながら、私たちの社会には聖霊が働いているというふうに思いました。

先日、京都教区定期総会も5月15日、16日に終わり、ほっとひといきということで、妻と一緒に「プラダを着た悪魔2」という映画を見に行きました。「プラダを着た悪魔2」ということですから、「プラダを着た悪魔」という映画の続編であるわけです。「プラダを着た悪魔」は20年ほど前に上映された映画です。

五月の連休に下の娘にあったときに、「プラダを着た悪魔2」、見に行く?」と聞くと、「行くよ。見てて元気になる映画だから」と言いました。「プラダを着た悪魔」は、ファッション業界について描かれている映画で、いわゆるお仕事映画であるわけです。映画の中で働いている女性の主人公たちの歩みをみて、励まされ、元気になる映画だということです。

わたしはそんな感じで「プラダを着た悪魔」を見ていませんでした。女性の主人公の一人であるを演じているメリル・ストリープは、わたしが映画を見始めたころに出始めた女優さんですので、すこしわたしより年上ですが、一緒に人生を歩んできたような思いのする女優さんです。主人公の一人であるアン・ハサウェイやエミリー・ブラントという女優さんたちも、注目してきた女優さんなので、まあそうした女優さんが出るので、見に行こうというような感じで、この映画を見ていました。

わたしは男性ですので、女性が主人公のお仕事映画をみて、娘たちのように、元気が出るというような気はしませんでしたが、「プラダを着た悪魔2」を見ていて、社会が愛によって支えられていること感じさせられる良い映画だと思えました。もちろん現代アメリカの社会が描かれているお仕事映画であるわけですから、仕事の上での駆け引きがあったり、キャリアアップを目指していく歩みがあるわけです。それでもそうしたなかにあっても、人を思いやる気持ちや、信頼しあうこころ、競いながらも和解をして友だちとして受け入れあっていく歩みがあります。やっぱり、人の世界の根幹にあるものは、「愛」であるということを感じることができ、なんかとてもさわやかに気持ちがいたしました。とくにニュースで見る現代のアメリカの状況などをみるとき、昔の古き良きアメリカなどはもうないのではないかと思われ、「愛」などと言っていては笑われてしまうのではないかと、わたしは思っていました。しかし現代アメリカ映画である「プラダを着た悪魔2」をみて、「ああ、私たちの世界にはやっぱり神さまの愛が働いておられ、神さまの霊である聖霊が働いているのだ」と思えたというのは、とてもうれしい気持ちがいたしました。

「小笠原さんも意外にお人よしですね」と思われるかも知れません。しかし人の善意や優しさ、愛を気軽に信じることのできる、ぼんやりとした社会であってほしいと、わたしは思うのです。なにかにつけて「何か裏があるのではないか」とか、「なにか企んでいるのではないか」というようなことを感じることのない、人の善意や優しさが感じられる、ぼんやりとした良い社会であってほしいと思うのです。とくに若い人たちが安心して人に頼ることのできるやさしい社会であったほしいと願うのです。

私たちの世界は、神さまの愛が働いている、聖霊の働きに導かれた社会です。そしてイエスさまの弟子たちに降った聖霊は、私たちにも同じように降ります。私たちは神さまの霊である聖霊による祝福を得て生きています。神さまの愛を信じて、今日、私たちにくださった聖霊の導きによって、健やかな歩みをしていきたいと思います。



   

(2026年5月24日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ礼拝) 


5月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまの祈り」

 「イエスさまの祈り」

聖書箇所 ヨハネ17:1-13。120/433

日時場所 2026年5月17日平安教会朝礼拝


キリスト教の偉大な偉人の中に、アウグスティヌスという人がいます。聖アウグスティヌスと言われますから、いわゆるカトリックの聖人にまでなっている、りっぱな人です。「西方キリスト教会最大の教父」と言われます。「キョウフ」というのは、「恐ろしい」というのではなく、「教える父」と書いて、教父と言います。紀元4世紀から5世紀の人です。

《【アウグスティヌス/Aurelius Augustinus/354-430。西方キリスト教会最大の教父。聖人,北アフリカ,ヒッポの司教(396年)。ローマ官吏で異教徒の父,キリスト教徒の母モニカの間に,タガステで生まれる。カルタゴで修辞学を修めたが,放縦の生活を送り,マニ教を信じた。プロティノス研究ののち,ミラノ司教アンブロシウスの感化によって改宗,391年司祭となる。その著《告白》は古代自伝文学の最高傑作にして,第11巻には重要な時間論を含む。《三位一体論》《自由意志論》はともに正統教義の確立に大きく寄与したほか,長い論争の端緒ともなった。《神の国》はキリスト教史上最初の歴史哲学の試みで,政治思想上の重要作でもある。ほかに多数のマニ教,ドナトゥス派,ペラギウス派に対する反駁書がある。思想のプラトン主義的性格のゆえに,中世における影響は主としてフランシスコ会学派にとどまったが,ルター主義,ジャンセニスムなど近代以降には再興が見られる。祝日8月28日】(マイペディア97株式会社日立デジタル平凡社)》。

ボッティチェリという15世紀の画家は、「聖アウグスティヌスの幻」という絵を書いています。子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿をアウグスティヌスが見ているという絵です。子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿をみたら、わたしなら子どもと一緒に、砂遊びをしてしまうわけです。しかしアウグスティヌスは違いました。アウグスティヌスは、子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとしている姿を見て、三位一体の神秘について考えました。

キリスト教の教えの中には、父・子・聖霊の三位一体という教えがあります。「神さまとイエスさまと聖霊が、三つであるけど、一つである」というキリスト教の教えです。それを三位一体の神秘というわけです。この三位一体ということを、人間がわかることはできないということを、アウグスティヌスは悟ったのでした。「子どもが貝殻で砂の穴に海の水をくみ出そうとする姿をみて」。人間が神さまのことを理解しようとするということは、海の水を貝殻でくみ出そうとするようなものだと思ったわけです。やっぱり子どもが砂遊びをしている姿をみて、一緒に遊んでしまう人と、思索にふける人との差があるんだなあと思わされます。もしかしたらみなさんのお孫さんも砂遊びをしながら、世界の真理について発見しているかもしれません。(ただうまく言葉にして、私たちに伝えることができないだけかもしれません。まあそうしているうちに、発見した世界の真理について忘れてしまうでしょうけど)。

キリスト教における業績から言えば、アウグスティヌスはやっぱり掛け値なしに偉い人です。でも小さい頃からずっと、すばらしい清廉潔白な人であったのかと言うと、そうではありません。アウグスティヌスは『告白』という本を書いています。いわゆる告白本のはしりのようなものですね。読んでいて、ちょっとどきどきします。こんなこと書いていいのかと思ったりします。この『告白』という本の中には、アウグスティヌスの少年時代の話や、青年時代の話が載っています。アウグスティヌスは偉大な聖人であると言われるわけですが、少年時代には友だちと一緒に物を盗んだり、勉強をなまけて遊んだりしています。また青年時代にはもっともっと悪くなり、欲望のままに女性に溺れていったり、キリスト教から離れてマニ教をいう異端を信じたりと、なかなかたいへんなワルでした。

アウグスティヌスにはモニカというお母さんがいました。モニカはアウグスティヌスのことが心配でたまりません。アウグスティヌスは、ちいさな子どものときも、そこそこ悪かったわけですが、カルタゴという街に留学してからは、ますます放蕩三昧の生活を送っていました。勉強もしないで、女性を遊んでいる。変な宗教に夢中になってしまって、キリスト教から離れてしまっている。母はアウグスティヌスのことが心配でなりませんでした。

モニカはあんまり心配だったので、カルタゴにまで訊ねていきます。しかしアウグスティヌスはローマに行ってしまったあとでした。ローマは大都市です。そしてひどく堕落した都でした。ですから母モニカの悲しみはいよいよ深くなります。「カルタゴでも放蕩三昧していたのだから、あの堕落した都ローマなどでアウグスティヌスが暮らすようになったら、もうどうなってしまうかわからない」。そんなふうにモニカは思ったのでした。それでアウグスティヌスをおってローマに向かいます。その途中、母モニカはミラノでアンブロシウスというとてもりっぱな神父(ミラノの主教)に会いました。

そしてアンブロシウス神父は母モニカにこう言いました。【しかし、子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい。そうすれば、子供さんは、自分で本を読んで、その誤りがどのようなものであるかを、またその不信がどのように甚だしいかを、さとるだろう】。しかしモニカはなかなか納得しません。「子どもに会って、さとしてください」とアンブロシウス神父に熱心に祈りもとめ、止めどもなく、涙を流しました。アンブロシウス神父はとまどって、少し機嫌を悪くしました。そしてモニカに言いました。【「さあ、帰ってもらおう。あなたのいのちに掛けても、そのような涙の子が滅びたりなどするものか」】(『告白』、P86)。アンブロシウスが「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」と言ったとおり、結局、アウグスティヌスは回心して、母のところに帰ってくるようになりました。そして聖人と言われるような人になっていったのでした。

母の日の礼拝のとき、いつもうたっていただく歌に、讃美歌510番があります。【1.まぼろしの影を追いて、うき世にさまよい、うつろう花にさそわれゆく、汝が身のはかなさ、(春は軒の雨、秋は庭の露、母はなみだ乾くまなく、祈ると知らずや)。2.おさなくて罪を知らず、むねにまくらして、むずかりては手にゆられし、むかしわすれしか。3.汝が母のたのむかみの、みもとにはこずや、小鳥の巣にかえるごとく、こころやすらかに。4.汝がためにいのる母の、いつまで世にあらん。とわに悔ゆる日のこぬまに、とく神にかえれ】。この歌は、アウグスティヌスの母モニカを題材にしているかのような歌です。モニカは「春は軒の雨、秋は庭の露、なみだ乾くまなく、祈」ったのでした。アンブロシウス神父ががアウグスティヌスに言った言葉。「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。いい言葉だと思います。

『育てるものの目』(婦人之友社)という本を書いておられる、保育士の津守房江さんという方がおられます。1984年に出版された本ですから、ちょっと昔の本です。津守房江さんのおつれあいは、保育学の権威といわれる津守真さんという方です。津守房江さんは「子育ては祈りである」というようなことを言っておられます。子どもはいらずらをしたり、自分がしたいことを親に隠れてしたいと思います。つまみぐいをしたり、きれいな服を着てどろんこ遊びをしたり。

(わたしの家でも下の娘の愛は、容子から「ストローで遊んだらいけない」と何度も何度も言われながらも、やっぱり勝手にストローを出してきて、工作をして遊んでいます)。子どもは母親に目をつぶっていてほしいという気持を持っています。

【母親に目をつぶっていてほしいという気持は、子どもの中に自己の世界が育っていることがもとになっているが、また母親の方にも考えなければならない点があるのではないかと反省した。母親としての自信は、何でも子どものことを見ようとし、知ろうとし、支配する方向へと向かってしまう。独自の意志を持った子どもが「目をつぶって、」というのはそんなときなのかと思う。子育ての中で時には目をつぶることが大切だと思うが、いらいらしながらでは目をつぶったことにはならない。私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う。母親である自分が、子どものためにできることは少しのことである。そのことを認めて、目を閉じて祈るとき、何と安らかに、見守ることができるだろう】(津守房江)。

【私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う】と、津守房江さんは言われます。子どもは私たちが思うようには育ってくれません。当たり前のことですが、別の人格であるからです。「もうちょっと、わたしの言うことを聞いてくれたら」。だいたい、そんなふうに思えるものです。「あーせい、こーせい」と言っても、なかなか聞いてくれません。いらいらしてきます。嘆く私たちにできることは、その子のために祈ることなのです。アウグスティヌスの母モニカが、アウグスティヌスのために祈ったように、私たちもやっぱり、わが子のために祈る気持が大切です。

祈りということは、現実的ではないですし、一見愚かにも思えることです。「祈って何になる」。そんなふうにも思えたりします。しかしアウグスティヌスをまっとうな道へと導いたのは、母モニカの愚かにも思える祈りであり、涙であったのです。一見、力のないように思える涙と祈りが、放蕩三昧を繰り返していたアウグスティヌスを、まっとうな道へと導いたのでした。「子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい」「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。

私たちの信じているイエス・キリストも、神さまに祈っています。今日の聖書の箇所は、「イエスの祈り」という表題のついている聖書の箇所の一部です。イエスさまの最後の説教が終わったあと、イエスさまが神さまにお祈りするという感じの聖書の箇所です。宗教改革時代以来、「大祭司の祈り」というふうに言われたりします。地上を去ろうとしておられるイエスさまが、祭司のように、残される弟子たちのために、神さまにお祈りしているからです。

ヨハネによる福音書17章1節には【イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください】とあります。

「時が来ました」というのは、イエスさまが十字架につけられる時が来たということです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために」というのは、イエスさまが十字架につけられるということです。十字架につけられて殺されるというのですから、それは世間一般から見れば、イエスさまの敗北であるわけです。しかしイエスさまは自分が十字架につけられることを、ここで「栄光」と言っています。

イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちはこころのなかに、いろいろな邪な思いをもっています。人をおとしめたり、人を傷つけたりする、弱い私たちです。神さまの御前に、私たちは罪を犯して生きています。本当は私たちが罪のため、神さまから裁きを受けなければならないわけです。しかしイエスさまが私たちにかわって十字架についてくださり、私たちの罪を担ってくださったのです。それは神さまの栄光が現されるためでした。

ヨハネによる福音書17章2ー3節にはこうあります。【あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです】。

神さまは、御子イエス・キリストを十字架につけるために、私たちの世に送られました。そして私たちの罪をあがなってくださいました。私たちは罪をあがなっていただいた者として、イエスさまから永遠の命を与えられています。私たちは神さまからイエスさまのゆえに罪赦された者として、イエスさまを信じて歩んでいくのです。

ヨハネによる福音書17章4ー5節にはこうあります。【わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を】。

イエスさまは十字架への道を歩まれます。それは神さまのご計画でした。人から見ると、十字架は絶望であり、みじめな死であるわけです。しかし神さまのご計画としてみるときに、イエスさまの十字架は、すべての人々にとっての救いの出来事なのです。イエスさまの十字架は、神さまの救いを表す栄光の出来事なのでした。十字架での死という絶望の出来事が、神さまの救いの出来事であり、栄光の出来事であると、イエスさまは言われ、そして弟子たちのために祈られました。

イエスさまは自分のために祈られたのではなく、弟子たちのために祈られました。自分を裏切ることになる弟子たちのために、イエスさまは祈られたのです。自分の思うとおりにならない弟子たちのために、イエスさまは祈られました。そしてイエスさまの祈りが、神さまのもとへと弟子たちを導いたのでした。

私たちの世界は、祈りによって支えられています。放蕩三昧を繰り返すアウグスティヌスのために祈る母モニカの祈り。子どもたちの健やかな成長を願う母・津守房江の祈り。「子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい」「そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。

そしてイエス・キリストの祈りは、そうした私たちの祈りを結び合わせ、包み込む祈りなのです。私たちの罪のために、十字架についてくださったイエス・キリストは、十字架によってすべての絶望を希望に変えてくださいました。イエスさまはいまも、弱い私たちのために祈ってくださっています。

イエス・キリストは私たちのためにいつも祈ってくださっています。私たちの弱さ、悩み、苦しみを、イエスさまは知っていてくださり、「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう」と、いつも私たちを招いてくださっています。



(2026年5月17日平安教会朝礼拝)


2026年5月8日金曜日

5月10日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

「生まれてきてよかった」

聖書箇所 ヨハネ16:12-24。470/493。

日時場所 2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日、

  

先週、新聞を読んでいますと、「あのイルカ20年ぶり復活」という記事があり、笑いました。あのイルカというのは、マイクロソフトの業務用ソフト「オフィス」を使っていると現れる、アシスタントキャラクターのイルカの「カイル君」です。作業を助けるキャラクターとして、1997年に登場ということでした。ワードを使っていると、勝手に出てくるイルカで、多くの人から、「ウザイ」「このイルカ、消したい」とよく言われたイルカです。わたしもよく腹を立てていました。いつのまにかなくなったのですが、またほかのアプリで復活ということのようです。いろいろと言われて、カイル君も、意気消沈していたと思いますが、また復活して多くの人たちの役に立てるようです。イルカのカイル君、大変な時もあったわけですが、「生まれてきてよかった」と思っていることと思います。

今日は5月第二週の日曜日で、母の日です。人は人から生まれますから、生まれるとその人には母がいます。その人にとって母がどのような存在であるのかということは、まあいろいろなのだと思います。また時期によって、関係が良い時もありますし、まああまり良くない時もあるかも知れません。親子の関係というのは、むつかしいですから、「こうした良いよ」というふうに、わたしも簡単に言えるような気もしません。イエスさまとマリアさんとの親子関係も、まあいつもいつも良かったのかと言うと、そうでもないと思えるような聖書の箇所もあります。

ヨハネによる福音書2章1節以下に、「カナでの婚礼」という聖書の箇所があります。イエスさまが初めて奇跡を行なわれたという話です。婚礼でイエスさまが水をぶどう酒に変えたという話です。ヨハネによる福音書2章3ー5節にはこうあります。新約聖書の165頁です。【ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。】。イエスさまはお母さんであるマリアさんのことを、「婦人よ」と言いますし、マリアさんはマリアさんで、イエスさまのことを「この人」というふうに言います。「ああ、なんか、お二人の親子関係、あんまりよくないのかなあ」と思わされる聖書の箇所です。

まあそんな感じのときもあるわけですが、マリアさんはイエスさまのことをいつも心配していただろうと思います。そしていろいろあるにしても、イエスさまが「生まれてきたよかった」と思えるような人生であってほしいと思っていたと思います。人生、うまくいかないこともありますし、悲しかったり、つらかったりする出来事にも出会います。そうしたなかで、「死んだほうがましか」と思うようなときもあるかも知れません。でもやっぱりマリアさんがそうであったように、母は我が子に「生まれてきてよかった」と思える人生を歩んでほしいと思うのです。

良い季節ですから、散歩に出かけます。わたしは宝ヶ池に散歩に出かけます。宝ヶ池はとても良いところで、いつ行っても気持ちがよいところです。教会の前のつばきの径をとおって、プリンスホテルに出て、国際会館の通りを歩き、そして宝ヶ池に下っていきます。

宝ヶ池では幸せそうな人たちがいます。池を背景にして、スマホで自撮りをしているカップル。かわいい犬を散歩している女性。ジョギングをしている男性。池の近くにシートを敷いて、お弁当を食べている若者二人。お孫さんのご家族と散歩をしているおじいさん・おばあさん。林の風景をカメラでとっている男性。ゆっくりと話ながら歩いている人たち。幸せそうにしている笑顔にふれると、なんとなく幸せな気持ちになってきます。小さな幸せを楽しんでいる人たちを見ながら、「よかったね」と思えるのは、とても幸せなことだなあと思います。

人の幸せをみても、「よかったね」と思えないときというのもあるわけです。自分がつらい思いをしているときは、なかなか「よかったね」と思えません。自分だけがどうしてこんな目にあわなければならないのだろうか。みんな幸せそうにしているのに、どうして自分だけが不幸なのだろうか。とても人の幸せをみて、「よかったね」と思えない。そんなときも、私たちはあるわけです。

今日の聖書の箇所は「聖霊の働き」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「悲しみは喜びに変わる」という表題のついた聖書の箇所です。5月24日がことしのペンテコステ、聖霊降臨日です。だんだんとペンテコステが近づいているということで、今日の聖書の箇所が選ばれています。

ヨハネによる福音書16章12−15節にはこうあります。【言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」】。

ここで話されていることは、イエスさまが十字架につけられて殺されてしまうということです。ヨハネによる福音書16章5節には【今わたしはわたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている】とあります。ですからイエスさまは天に召されるということです。弟子たちはイエスさまが自分たちの前から消えてしまうということの意味がよくわかりません。大切な大切なイエスさまがいなくなるなんて考えられないわけです。しかしイエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださるために、この世に来られました。弟子たちがそうしたことを理解するようになるのは、のちのことであるわけです。聖霊によって導かれることによって、真理の霊に導かれることによって、弟子たちはイエスさまの十字架について理解することができました。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と書いてあるのはそのことです。弟子たちもそうですけれども、私たちもどうもよくわからない。どうしてこんな目にわたしがあわなければならないのかと思えるときがあるわけです。意味不明・理解不能。そうしたことが人生の中に起こってきて、戸惑い、気が滅入り、立ち上がることができない。そんかときを過すことがあります。しかしイエスさまはそうしたことがあっても、聖霊の導きによって、あなたは立ち上がり、また歩み始めることができるのだと言われます。

ヨハネによる福音書16章16−19節にはこうあります。【「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。】

イエスさまは【しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。】と言われます。そして弟子たちは【何のことだろう。何を話しておられるのか分からない】と言います。弟子たちにとって、イエスさまがいなくなるということは考えられないことです。イエスさまに付き従って、そして自分たちもまたイエスさまの弟子として、人間的な意味で豊かな歩みをすることができると、弟子たちは思っていました。イエスさまについていくと、立身出世がかなうのだと思っていたわけです。ですからイエスさまが「父のもとに行く」と、弟子たちは困るのです。弟子たちは動揺して、このことについて弟子たち同士で、いろいろと話すのです。

ヨハネによる福音書16章20−24節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」】。

イエスさまは弟子たちに、わたしが天に召されると、あなたたちは泣いて悲しみに打ちひしがれるだろう。しかしあなたがたのかなしみは喜びに変わると言われます。【女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない】と、イエスさまは言われます。イエスさまは子どもを産んだことがないので、この聖書の箇所を読みながら、目をぱちくりさせる女性の方もおられると思います。ただ、一人の子どもがこの世に生まれてくるということは、とても大きな喜びですし、「生れて、すみません」という社会にはなってほしくないと思います。

イエスさまは弟子たちに、わたしがいなくなり、あなたたちは大きな悲しみを経験する。しかしわたしはよみがえり、あなたたちと再び出会うことになる。そしてあなたたちは、こころから喜ぶことになるのだと言われます。そしてその喜びは神さまがあなたたちに対して与えてくださる喜びであるので、けっしてそれが消えてしまうことはない。わたしがよみがえるそのときに、はじめてすべてのことが、あなたたちのうちで理解されるようになり、大きな喜び、大きな安心にあなたたちは満たされる。どんな不安ななかにあっても、神さまはあなたと共にいてくださる。だからわたしの名によって神さまに願いなさい。神さまがすべてのことを導いてくださるから大丈夫だ。神さまにお委ねして歩みなさい。そうすればあなたたちは喜びで満たされることになる。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

先月、以前にいた教会の方が電話をしてくださり、教会員の方の訃報をお知らせくださいました。わたしと同じくらいの年齢の方で、教会のなかでよく働いておられる方でした。ときどき、私たちの平安教会に献金をしてくださったりする方でした。病気で突然、天の召されたということで、さびしい気持ちで一杯になりました。また先日は病気で仕事をやめて静養していた友だちが、回復をして復帰することができたということを聞いたので、お家をお訪ねしました。するとおつれあいが出てこられて、またちょっと調子を崩して入院をしているのだと伝えてくれました。このことも、なんともショックなことでした。なんか悲しいなあと思いました。つらいこと、悲しいことは起こります。そして「どうして。神さま。どうして」という思いになります。

それでも私たちは、イエスさまの御言葉を信じています。【あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる】。イエスさまが十字架につけられ、世は喜び、弟子たちは悲しみました。弟子たちはどうしたら良いのかわからなくなりました。しかし弟子たちは復活されたイエスさまに出会い、その悲しみは喜びに変わりました。弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださった神さまは、私たちの悲しみも喜びに変えてくださると、私たちは信じています。

「生まれてきてよかった」。イエスさまは私たち一人一人がそのように思える人生であってほしいと願っています。そして私たちが悲しいとき、さみしいとき、いつも私たちの傍らにいてくださり、私たちを守ってくださっています。「その悲しみは喜びに変わる」、大丈夫、わたしがいるから。安心して歩んでいきなさい。イエスさまの慰めの言葉に励まされ、また新しい歩みを始めたいと思います。





(2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日) 


5月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

 「イエスさまにつながって生きる」 

日時場所 2026年5月2日平安教会朝礼拝

聖書箇所 ヨハネ15:1-11。57/549


わたしが大学生で高松の大学に行っていたときは、まだ瀬戸大橋はできていませんでした。高松から岡山に行くのにも、宇高連絡船という船に乗って、宇野から宇野線に乗り換えて、岡山に行っていました。宇高連絡船1時間、電車1時間、合計2時間くらい高松から岡山に行くのにかかりました。わたしは京都で大学生活を送るために高松を後にするときに、高松の大学の後輩たちが見送ってくれました。紙テープを投げてくれて、「さようなら」となかなか感動的なお見送りでした。だいたい宇高連絡船にのると、かならずうどんを食べるのです。関西から帰ってきて、宇高連絡船のうどんを食べると、「あー、帰ってきたなあ」と思えるのです。いまでは高松から岡山は50分くらいでいきます。岡山で新幹線に乗り換えて、だいたい高松から京都まで2時間15分くらいです。便利になったなあと思います。四国に住んでいた者としては、やはりつながるということは、なかなか安心なものだと感じます。

つながるということは微妙なことで、なんにでもつながっていれば、なんにでも乗っかっていればいいということではないです。瀬戸大橋や明石海峡大橋で四国は本州とつながりました。そうすることによって経済的な発展を遂げるというはずだったのですが、しかし現実には本州から四国に来るというよりも、四国から本州に人が行くということが多く、あまり四国にはいいことがなかったのではないかというふうに言われたりします。四国の電車も本数がどんどんとなくなりました。安易につながるのではなく、やはり自分がどういうものを基盤として生きていくのか、何につながっていきていくのかということをしっかりと考えるということも大切なのだと思います。

ヨハネによる福音書15章5節の【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である】という聖書の言葉は、とても有名な聖書の箇所です。この聖書の言葉が好きだというかたもおられるのではないかと思います。ぶどうの木というのは、聖書の世界だけでなく、古代の世界では良きものとして扱われることが多いようです。古代オリエントでは、ぶどうの木は「健康と富」の象徴でした。また古代メソポタミアではぶどうの木は「生命の草」というふうに考えられていました。聖書では、ぶどう畑とぶどうの木は、選ばれた民の象徴として用いられています。

イザヤ書5章1ー7節には「ぶどう畑の歌」という箇所があります。旧約聖書の1067頁です。イザヤ書5章1ー2節にはこうあります。【わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねをほり、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ってのは酸っぱいぶどうであった】。

ぶどう畑やぶどうの木は、イスラエルにおいては、選ばれた民の象徴として用いられています。しかしイスラエルは神から選ばれた民であったのに、神から離れていくことがしばしばありました。そうしたことがこのイザヤ書5章1節以下には書かれてあるのです。

今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題がついています。昔のイスラエルではぶどうの木自体が、「選ばれたもの、選ばれた民」でありました。それに対して、イエスさまは「ぶどうの木はわたしだ」と言っておられます。そして「わたしは『まことの』ぶどうの木」と言われます。「まことのぶどうの木は、わたしである」ということです。いろいろなニセモノのぶどうの木があるわけです。イスラエルの民もそうでした。神さまから選ばれた者とされていながら、しかし結局は、彼らはニセモノのぶどうの木であったわけです。イエスさまの時代には、ファリサイ派の人々や律法学者という、ニセモノのぶどうの木がありました。彼らは律法を守りながらも、しかし虐げられている人々を蔑み、彼らを罪人であるとしていました。自分たちだけが神さまから選ばれた民であり、よいぶどうの木であるというふうに思っていました。しかし彼らはニセモノのぶどうの木でした。

ヨハネによる福音書15章1ー3節にはこうあります。【「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】。

ぶどうの木が良い実りを結ぶためには、手入れが必要です。【実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】というと、何かとてもおそろしい脅しのような印象を受けるかもしれません。そうしたこともあるわけですが、しかし大切なことは、神さまがちゃんと豊かに実を結ぶように手入れをしてくださるということです。わたしがなにか「いい子にしていないといけない」というようなことではないのです。【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】というように、わたしたちはすでにイエスさまによって祝福を受けているということです。私たちが何かするということではなく、私たちに大切なことはイエスさまにしっかりとつながっているということなのです。

ヨハネによる福音書15章4−6節にはこうあります。【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう】。

イエスさまは【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている】と言われます。私たちが一方的にイエスさまにしがみついているということではありません。イエスさまも私たちにつながっていてくださるのです。こちらのほうが大切なのです。もちろん私たちがイエスさまに救っていただこうと、イエスさまにしがみつき、イエスさまにつながっているという思いは、切実な大切な思いです。しかしそれは人間の思いです。人間の思いはうつろいやすいものです。使徒ペトロは【「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」】(マルコ14章29節)と、イエスさまに言いました。しかし使徒ペトロはイエスさまに従うことができず、イエスさまのことを三度知らないと言ったのです。

そういう意味では今日の御言葉の中で大切なのは、【わたしにつながっていなさい】ということよりも、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】ということなのかも知れません。「わたしはイエスさまに付き従い、私たちはイエスさまにつながっていくことのできるりっぱな人なのだ」ということよりも、「わたしはイエスさまを離れては、何もできない愚かな者なのだ」という思いが大切なのです。

ヨハネによる福音書15章7−11節にはこうあります。【あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】。

私たちがイエスさまにつながって生きるということは、私たちとイエスさまとの関係ということだけではないと言われます。私たちがイエスさまにつながり、私たちがイエスさまの弟子になることが、神さまの栄光をあらわすことになると、イエスさまは言われます。私たちがイエスさまにつながって生きるということが、神さまが喜ばれることなのです。私たちはしょうもないことをしますし、ろくでもないこともします。私たちは自分がだめな人間であることを知っています。そんな私たちですから、神さまが喜ばれることをして生きることなどできないと思います。しかしイエスさまはそんな私たちにも、神さまを喜ばせることができると言われます。それはただイエスさまにつながって生きるということなのです。イエスさまは私たちを、【わたしの愛にとどまりなさい】と招いておられます。

イエスさまは【わたしはまことのぶどうの木】「まことのぶどうの木は、わたしである」と言っておられます。そして【わたしにつながっていなさい】と言われます。これほどイエスさまにつながっていることが強調されるのは、とくにヨハネによる福音書の書かれた時代に、その理由があります。ヨハネによる福音書の書かれた時代は、ユダヤ教の一派であるとされていたキリスト教が、ユダヤ教から異端であるとされた時代です。「イエスを主と告白する者」は会堂から追放されるというになっていった時代です。ヨハネによる福音書9章22節には【ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである】とあります。またヨハネによる福音書16章2節で、イエスさまは【人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る】と言っておられます。ヨハネによる福音書が書かれた時代は、イエスさまを主と告白する人たちにとっては、大変な時代でした。そのためいったんキリスト者になっていながら、またユダヤ教のほうに帰っていった人々が出てきています。

ですからヨハネによる福音書が書かれて時代の人々は、「イエス・キリストにつながっている」ということが大切になってきました。そしてそうした時代の中で、「まことのぶどうの木とは誰であるのか」ということが、真剣に問われたのです。【あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる】というような言葉も、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々のことを考えると、ある種のきびしさを帯びた言葉であるということがわかります。

私たちは多くの場合、この「イエスはまことのぶどうの木」という箇所を、ある種のやすらぎをもって聖書を読みます。しかしやすらぎだけで、この聖書の箇所を読もうとするとき、いくつかの聖句にひっかかってしまします。ヨハネによる福音書15章2節の【わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】や、ヨハネによる福音書15章6節の【わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられ焼かれてしまう】などの言葉に、どうもひっかかりを覚えてしまいます。この二つの箇所は、私たちが気分よくこの聖書の箇所を読もうとするときに、どうも不愉快な感じを与える箇所です。しかしイスラエルの民が選民と言われながら神さまから離れていったことや、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々がキリスト教からユダヤ教の離れていったことなどを思い起すとき、私たちはやはりこのひっかかる聖書の箇所の御言葉をも、しっかりとこころに留めておかなければならないのです。

しかしやはりこの聖書の箇所は、私たちにやすらぎを与えてくださる箇所です。イエス・キリストに依り頼むことの確かさを豊かに表わしてくれています。【実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる】【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ】。私たち自身は自分の力で、とくにすばらしいことができるわけではありません。まさに、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】というとおりです。しかしイエス・キリストにつながっていることによって、私たちは希望をもって生きていくことができます。私たちは自分の中には自慢できるものがないとしても、しかし「わたしはイエス・キリストにつながっている」ということだけは自慢することができるのです。

イエス・キリストにつながっているということは、私たちの気持ちをやすらかにしてくれます。人間的な目で見るところの、えらい人になる必要もないですし、力ある者になる必要もありません。私たちはただ神さまから愛されている一人の人として生きていくのです。

イエス・キリストにつながって生きるということは、生き生きと自分らしく生きるということです。「キリスト者としてこうしなければならない」という思いに縛られて、自分では何もできない奴隷のようなつながりということでもありません。イエス・キリストは私たちを自分らしく生き生きといかしてくださいます。私たちはイエス・キリストにつながって生きていると、私たちは自分が神さまに愛されているかけがえのない一人であることを知ることできます。そして自分らしく生きていくことができるのです。

イエスさまは【これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】と言っておられます。私たちはしかめっ面をして生きていくのではなく、喜びに満たされて生きていきます。イエスさまの喜びが私たちの喜びとなり、私たちは喜びに満たされて生きていきます。

イエス・キリストにつながって、神さまの愛のうちに、やすらかに、そして自分らしく、生き生きと歩んでいきましょう。


(2026年5月2日平安教会朝礼拝)

5月31日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「天からの祝福を受けて」

 「天からの祝福を受けて」 聖書箇所 マルコ1:9-11。419/390 日時場所 2026年5月31日平安教会朝礼拝式・建物改修完成感謝礼拝        改装をされた礼拝堂で、こうして敬愛する方々と一緒に、神さまを賛美することができますことを、こころから感謝いたします。今日は...