「なんかとってもほっとするよね」
聖書箇所 ヨハネ13:31-35。18/482。
日時場所 2026年4月26日平安教会朝礼拝式・教会総会
旅行にいくときに、旅行先について書かれてある観光本を読んだりします。海外旅行にいくときなど、「地球の歩き方」という観光本を買って、その国や街についていろいろと調べたりするということをしたりしていました。
わたしの旅行というのは、名所・旧跡をひたすら訪ねるというような一人旅というのが定番でした。ひたすら名所・旧跡を訪ねるのです。暑い中、次々に名所・旧跡を訪ねて、気がつくともう2時になっていて、昼ご飯を慌ててとり、また次の名所・旧跡を訪ねていくという感じです。わたしはそうした旅行というのはふつうだと思っていましたが、どうやらそうでもないということに、数年前に気づきました。娘が旅行に出かけた時の話などを聞いていると、街をゆっくりぼんやりと歩いて、カフェに寄ってまったりと過ごし、すこし名所・旧跡を訪ね、ランチをゆっくりと食べて、まったりと過ごしというような感じで、旅行をしています。たぶんそうした感じがいまふうの旅行の仕方なのだと思います。そういう感じで、観光本をみてみると、「ことりっぷ」「ココミル」というような旅行本には、「いちおしのおしゃれなカフェ」などが、雰囲気の良い写真と共に紹介をされています。「なんかとってもほっとするよね」というような感じが、大切なのだと思いました。たぶん教会という場も、そうした雰囲気が大切なのだと思います。教会建物改修もあと1ヶ月くらいで完成ということになります。きれいになった礼拝堂で、「なんかとってもほっとするよね」という感じで過ごしたいと思いました。
今日の聖書の箇所は「新しい掟」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書13章1節以下は「弟子の足を洗う」という表題のついた聖書の箇所です。そして13章21節以下は「裏切りの予告」という表題のついた聖書の箇所です。そして今日の聖書の箇所であります、「新しい掟」となります。そのあとが「ペトロの離反を予告する」という表題のついた聖書の箇所となります。ですから今日の「新しい掟」という聖書の箇所は、イエスさまが十字架につけられる受難週という設定の聖書の箇所だということです。イエスさまが十字架につけられる前に、弟子たちに遺言のように語られたということです。
ヨハネによる福音書13章31−32節にはこうあります。【さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。】。
最後の晩餐とあと、イスカリオテのユダはユダヤの指導者たちにイエスさまを売渡しにいくために、部屋を出ていきます。イエスさまは「今や、人の子は栄光を受けた」と言われ、これから行なわれるイエスさまに対する十字架への出来事は、神さまの栄光を表す出来事であると言われます。神さまが人の罪を許すための、神さまの御子であるイエスさまが人の代わりに十字架につき、人の罪を贖う。人から見ればイエスさまが十字架につけられるという敗北の出来事に見えるけれども、それは神さまのご計画である栄光の出来事であると言われます。
ヨハネによる福音書13章33−35節にはこうあります。【子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」】。
イエスさまは弟子たちに、もうしばらくはあなたたちと一緒にいるけれども、しかしそれはもうしばらくの間だけだと言われます。もうイエスさまが捕らえられるときが近づいています。イエスさまの弟子たちは必ずあなたについていきますと言っていたわけですが、みんなイエスさまが捕らえられる時に逃げ出してしまいます。イエスさまはそのこともご存知であるわけです。みんな自分をおいて逃げ出してしまう。しかしそんな弟子たちに対して、イエスさまは弟子たちが歩んでいくべき掟を伝えます。
イエスさまは弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。弟子たちにとって「互いに愛し合う」ということは、「互いに赦し合う」ということでもあります。このあと、弟子たちはイエスさまを裏切ります。そしてみんな自分たちのことが信じられなくなります。イスカリオテのユダが、イエスさまを裏切ったように、あいつもわたしを裏切って、自分だけ助かろうとするかも知れないという思いに引きずり込まれます。そして逆に自分が裏切れば、ひとりだけ助かることができるのではないかという思いも出てきます。そしてそんな恥ずかしい思いをもつ人間であることに気づかされ、自分のことが嫌いになります。弟子たちはそうしたなかにあって、復活のイエスさまに出会い、イエスさまの新しい掟、「互いに愛し合う」ことを大切に歩んでいきます。「互いに愛し合い」「互いに赦し合う」。そしてそうした暖かい交わりを見て、人々がイエスさまの弟子である幸いを感じるようになります。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」のです。
ヨハネによる福音書が書かれた時代、ヨハネの教会の人たちも大きな課題を抱えていました。ヨハネによる福音書が書かれた時代は、ユダヤ教からキリスト教が切り離されていく時代です。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教であったわけですが、キリスト教はそうではありませんでした。キリスト教はユダヤ教の一派であったわけです。ヨハネによる福音書9章22節には、【ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである】という記述があります。新約聖書の185頁です。ヨハネによる福音書9章22節。会堂から追放されるということは、ユダヤ教の一派であったキリスト教が会堂から追放されるということです。するとキリスト教は公認の宗教ではなくなり、迫害を受けることになります。そうなってくると、イエスさまを信じていた人たちのなかにも、ユダヤ教に戻っていく人たちが出てきます。イエスさまの従うのか、それともユダヤ教に戻っていくのかということが、激しく問われた時代であるということです。
ヨハネの教会の人たちは、ユダヤ教に戻っていくことなく、イエスさまに従うべく、教会に残った人たちでした。そういう意味では信仰的にりっぱな人たちだったわけです。しかしこの出来事のために、去っていった人たちも残った人たちも、とても傷ついたことだと思います。たぶん教会の中や、親類や家族のなかで、怒鳴りあいやたくさんの非難がなされたことだと思います。「おまえは、イエスさまを捨てて、ユダヤ教に戻るのか」「そんな簡単なことじゃないんだ、あんたは実際に迫害を受けたことがないから、そんなのんきなことを言うんだ」「志を失ったら、人間は終わりだ」「あんたはいつもそんな感じでえらそうなことを言っているだけじゃないか。そんなことえらそうなことを言うより、その暴力的な態度を改めるほうが先だろう」「大きな声で、どなりあうのはやめて。ちいさなマリアが怖がってるじゃない」「あなた、鏡を見てらっしゃいよ。悪魔の顔をしているわよ」。怒鳴り声や非難の応酬、暴力や蔑みの言葉。そうしたなかにあって、人々はとても傷ついたと思います。
そんなヨハネにの教会の人たちは、イエスさまの新しい掟として、「互いに愛し合う」ということを大切にしようと思います。「互いに愛し合う」という掟は、掟としてはそんなに新しい掟であるわけではないわけです。「互いに愛し合いなさい」ということは、たぶん日常的に言われていた掟です。しかしその掟を、イエスさまが自分たちに語ってくださった「新しい掟」として受けとめ直したのです。それは自分たちの交わりに、愛がなくなっていたからです。愛を無くして、怒鳴り合い、非難をし合い、暴力を使い、蔑みの言葉をかけあっていたからです。そんな人たちがやはり、イエスさまの教えに従って、「互いに愛し合う」歩みをしていきたいと思います。そして「互いに愛し合う」ということを、イエスさまからの新しい掟として受けとめたということです。
私たちはキリスト教を伝えていくにはどうすれば良いのだろう。私たちの教会に新しい人が来てくださるにはどうしたら良いのだろうと思います。聖書はその方法について語っています。ヨハネによる福音書13章35節の言葉です。【互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」】。
【互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」】ということですから、私たちが互いに愛し合っているということが大切であるということです。「ああ、やっぱりいいよね。この教会。みんな互いに愛し合い、敬っている感じがする」。そのように思われることによって、多くの人々が教会に集うようになったということです。怒鳴り合い、非難し合っていたヨハネの教会が、そうではなく互いに愛し合い、そこに集う人々が安らぎを感じる場にしていったように、私たちの教会もまた安らぎを感じることができる教会でありたいと思います。
「なんかとってもほっとするよね」。みんながそんなふうに感じることのできる教会の歩みをこれからも続けていきたいと思います。
(2026年4月26日平安教会朝礼拝式・教会総会)