2023年6月27日火曜日

6月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「神さまの愛がいっぱい」

聖書箇所 ルカ15:1-10。494/482。

日時場所 2023年6月25日平安教会朝礼拝式


谷川嘉浩 (著), 朱喜哲 (著), 杉谷和哉 (著)の「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」(さくら舎)という本を読みました。「「わからなさ」を抱えながら生きる方法を気鋭の哲学者たち、熱論」とあります。

【ネガティヴ・ケイパビリティは、物事を宙づりにしたまま抱えておく力を指しています。つまり、謎や不可解な物事、問題に直面したときに、簡単に解決したり、安易に納得したりしない能力です。説明がすぐにはつけ難い事柄に対峙したとき、即断せずにわからないままに留めながら、それへの関心を放棄せずに咀嚼し続ける力だと言ってもいいでしょう】(P.2)。

「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」という本を読んでいますと、3人の若い哲学者たちが楽しそうに話をしている様子がうかがえます。とくに強い調子で決めつけるというようなこともなく、その様子自体が、「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」とはこんな感じなのかなあと思わされます。

私たちはキリスト教を信じています。信仰というと、「これを信じないと信じていることにならない」というような思いをもつことがあります。しかしそのように信じるということだけが、信仰というわけでもありません。わたしはどちらかというと、「信じているか信じていないかよくわからないけど、信じている」というような宙ぶらりんの信仰というあり方でよいのではないかと思っています。あまり凝り固まった信仰をもってしまうと、自分の信じているもの意外のものは、「不信仰」「サタンのしわざ」というような感じになって、人を裁きがちになってしまいます。聖書を読んでいますと、どうもよくわからないとか、ちょっといまのわたしには信じられないというようなこともあるかと思います。わたしも長年聖書を読んでいますが、よくわからないこともあります。でも細かいところにとらわれるのではなく、よくわからなかったり、信じられない部分もあるけれども、でも全体として信じているというので良いと思います。「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」というのは、まさに信仰の場面で発揮されるような気がします。

聖書のなかに出てくるファリサイ派の人たちや律法学者たちというのは、「こんな感じで信じないといけない」という思いの強い人たちでした。「あの人たちは律法のこの条項に違反しているから、罪人なのだ。だめなのだ」ということで、そうした人たちを裁いていました。いつも人を裁いているので、ファリサイ派の人たちや律法学者たちというのは、いつも怒っている人のような印象を、私たちはもってしまいます。実際のファリサイ派の人たちや律法学者たちにあったら、まあそうでもないかも知れません。「会ってみたけど、案外、いい人だよ」ということもあるような気がします。しかしなんとなく聖書に出てくるファリサイ派の人々や律法学者たちは、いつもイエスさまに反対していて、「なんかなあ」という思いをさせる人たちであるわけです。今日の聖書の箇所でも、ファリサイ派の人たちや律法学者たちは怒っています。

今日の聖書の箇所は、「「見失った羊」のたとえ」「「無くした銀貨」のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書15章1−2節にはこうあります。【徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。】。

イエスさまは人気者でしたので、いろいろな人たちがイエスさまの話を聞きにきました。徴税人や罪人も、イエスさまの話を聞きにきます。徴税人というのは、税金を集める人たちのことです。イエスさまの時代、イエスさまの国であるユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。税金の多くはローマ帝国のために使われます。その税金を集める徴税人は、ローマ帝国の手先ということです。そのため徴税人は人々から嫌われていました。罪人というのは、律法という法律をいろいろな事情のために守ることができない人たちでした。イエスさまの時代の人たちは、「まあやっぱり律法を守って生きていくことができればいいよね」と思っていました。そのため律法を守ることのできない人たちは、神さまの前に罪を犯している人たちということで、「罪人」と言われたわけです。

とくにファリサイ派の人々や律法学者たちは、律法を守ることのできない人たちに対して、とてもきびしかったのです。罪を犯している人たちと一緒に食事をするなんて考えられないという思いを持っていました。しかしイエスさまは徴税人や罪人と言われる人たちとも、一緒に食事をされました。そうした人たちも、悔い改めることのできるところは悔い改めて、神さまの愛のうちに歩むことができたらいいなあと、イエスさまは思っておられました。

ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、「罪人は悪い人たちだ」というような感じで切って棄てるような扱いをしていました。それに対してイエスさまは「そういう感じは、神さまの御心ではない」と、今日のたとえを話されました。

ルカによる福音書15章3ー7節にはこうあります。【そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」】。

百匹の羊のうち、一匹を見失ってしまった。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を探し回るだろう。見つけることができたら、とってもうれしいだろう。その羊を担いで家に帰り、友だちや近所の人達を呼び集めて、「見失った一匹の羊が見つかったので、一緒に喜んでください」と言うだろう。神さまも同じように、神さまのところから離れてしまった一人の人が悔い改めて、神さまのところに帰ってきたら、とってもうれしいと思う。悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも、罪人が悔い改めたということのほうが、神さまにとってはとってもうれしいことだと思う。そのようにイエスさまは言われました。

このイエスさまが語られたたとえを聞くと、「野原に残された九十九匹はどうなるんだ。狼に食べられるぞ」というような気持ちになりますが、でもこれはたとえ話ですから、そこに強調点があるわけではないのです。「でも気になって、気になって仕方がない」ということもあると思います。ついつい私たちは自分が何の問題もない優秀な九十九匹の羊のような気がしてしまうのです。そして神さまの言うことを聞かない罪人である一匹の羊を裁くのです。自分が迷子になってしまった一匹の羊であるかも知れないという思いをもつこともなく、「泣く子はいねがぁ〜」「怠け者はいねがぁ〜」「悪い子はいねがぁ〜」と、秋田のなまはげ状態になってしまうわけです。「迷子になるのは自己責任だろう」というようなことを言い始めるのです。でも人はだれしも迷子になることはあるわけです。わたしは子どもの時、万博会場で迷子になりましたし、わたしの母は認知症で迷子になりました。もちろん大人になってからも梅田の地下街で迷子になっています。

人は何かと、細かいところにとらわれて、人を責めることに熱中してしまうというようなことがあります。まあ、羊は狼に襲われたら大変ですので、そうした思いになってしまうのも仕方がないような気がします。ルカによる福音書では「そんなに言われるのであれば、ドラクメ銀貨ということにしましょう」と、同じ内容のことをドラクメ銀貨で、イエスさまはたとえ話をされることになります。ドラクメ銀貨は羊と違って、じっとしていますし、狼に襲われることもありません。羊のたとえは難癖をつけられますが、ドラクメ銀貨のたとえは難癖のつけようがないわけです。

ルカによる福音書15章8−10節にはこうあります。【「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」】

聖書の後ろのほうに、「度量衡および通貨」というところがあります。そこをみますと、1ドラクメというのは、1デナリオンと同じであることがわかります。1デナリオンというのは、一日の賃金ということですので、大ざっぱに考えると、1ドラクメというのは1万円くらいです。ドラクメ銀貨を10枚もっている女性がいて、1枚なくしてしまいます。こりゃ大変だということで、一生懸命に部屋の中を探します。ともし火を付け、家の中を見つかるまで、探し回ります。そして見つけたら、大喜びして、友だちや近所の人を呼び集めて、「無くした銀貨を見つけました。一緒に喜んでください」というだろうと、イエスさまは言われます。それと同じように、一人の罪人が悔い改めたら、神さまの天使たちの間では大きな喜びがあるのだ。一人の罪人が悔い改めたら、天ではみんなで大騒ぎして、喜んでくれているんだと、イエスさまは言われました。そう言われると、とてもありがない話だと思います。私たちが「神さま、本当にごめんなさい」と悔い改めたら、天ではみんなで大喜びしてくれるというわけです。なんかとってもありがたい気がします。

今日の聖書の箇所には、「喜」という感じが、何度も出てきます。喜びに満ちている聖書の箇所であるわけです。イエスさまはうれしいこと出来事を、一緒に喜ぶということは大切なことなのだと、私たちに言っておられます。もちろん見失った一匹を見つけ出すまで探し回るような生き方ができれば、すばらしいと思います。困っている人、さみしい思いをしている人、つらい思いをしている人。私たちの世の中にはそうした人たちがたくさんおられます。迷子になって、一人つらい思いをしておられる人たちもたくさんおられます。そうした人たちが安心することができるようにすることができれば良いと思います。

しかしなかなかそこまでわたしは行なう自信がないということもあると思います。だからイエスさまは言われるのです。「一緒に喜んでください」「一緒に喜んでください」。見失った一匹が見つかったら、一緒に喜んでください。無くした銀貨が見つかったら、一緒に喜んでください。困っている人やつらい思いをしている人が、困っていることやつらいことがなくなったら、一緒に喜んであげてほしい。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というように、人を裁くのではなく、とにかく一緒に喜んであげてほしいと、イエスさまは言われるのです。

「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」。神さまの愛がいっぱいある世界に私たちは生きているのです。そのことに気づくことのできる歩みでありたいと思います。

自分だけがなんか損をしているのではないかというような思いになるときがあります。そして人を裁いてみたり、不平を言い出してみたりするのです。「わたしが野原に残されているのは、いかがなものか」「なんで見失った一匹の羊だけを、イエスさまは探し回るのか」。わたしのことはかまってもらえないのか。なんか不公平な気がする。そうした思いにとらわれてしまうときが、私たちにはあります。

しかし私たちは「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」、そうした出来事を共にしているということを思い起こして、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に喜ぶものでありたいと思います。皮肉を言ったり、人を蔑んだりすることなく、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に、喜ぶものでありたいと思います。

神さまの愛のうちに、私たちは生かされています。その愛に感謝して、共に喜つつ歩んでいきましょう。




(2023年6月25日平安教会朝礼拝式)

2023年6月18日日曜日

6月18日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「ただ信じなさい。そうすれば救われる」


聖書箇所 ルカ8:40-56。513/528。

日時場所 2023年6月18日平安教会朝礼拝

何かしている途中で、何かを始めてしまって、していたことを忘れてしまうということは、よくあることです。週報を印刷している途中に、玄関でピンポンとなったので、出て行くと、宅急便だったので、それを受け取って、受け取ったものを、自宅に届けて、咽が渇いたのでお茶を飲んで、「あっ、そうそう、郵便局に葉書を買いに行かなければならなかったんだ」と思い出して、郵便局に行って帰ってくると、もう夕ご飯の時間になったので、夕ご飯を食べて、コーヒーを飲んでいる途中、「なんか、忘れている気がするなあ。なんだったかなあ」というようなことが、私たちの日常生活には起こります。「やっぱり一つ一つきっちりと終わらせていかないと、だめだよねえ」と思うのですが、でも途中で何かが入るということが、よくあることです。

今日の聖書の箇所は「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」という表題がついています。この話は、マルコによる福音書にも、マタイによる福音書にもある話です。マルコによる福音書はルカによる福音書と同じくらいの分量がある話となっていますが、マタイによる福音書は少し短い話になっています。福音書は、マルコによる福音書が書かれたあと、マルコによる福音書を見ながらマタイによる福音書やルカによる福音書が書かれたと言われています。ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の話は、たぶん別々の話であったものが、一つの話とされるようになったということです。もうマルコによる福音書が書かれたときには、すでに一つの話になっていたということのようです。「十二歳ぐらいの一人の娘」と「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女」ということですから、この「十二」という数字が二つの物語をつなげたのでしょう。十二歳というと、私たちの社会では小学6年生くらいですから、ほんのこどもという感じですが、この時代のユダヤの女性は十二歳くらいで結婚しましたので、私たちの感覚とはちょっと違う年齢ということです。

ルカによる福音書8章40−42節にはこうあります。【イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た】。

イエスさまはガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ地方で悪霊に取りつかれた男の人をいやされました。しかし悪霊は豚に乗り移り、豚が崖から転落死するという事件になりましたので、その地方の人々は気味悪く思い、イエスさまに出ていってほしいと願いました。イエスさまは人々の願いを聞き、この地方から出て行くことにしました。そしてイエスさまはまた帰ってこられたのですが、群衆は喜んでイエスさまを迎えました。ヤイロという名のユダヤ教の会堂長が、十二歳くらいの一人娘が死にかけているのを救うために、自分の家にきてほしいと、イエスさまに願い出ました。イエスさまはその願いを聞き入れられ、会堂長ヤイロの家に向かいました。会堂長というのは、ユダヤ教の会堂を管理している人のことです。礼拝のプログラムを考えたり、誰にお話しをしてもらうのかとかを決めたりする人のことです。

ルカによる福音書8章43−48節にはこうあります。【ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」】。

ヤイロの一人娘を救うために、ヤイロの家に向かう途中で、イエスさまは一人の女性をいやされます。十二年間、出血がとまらない女性です。ヤイロの娘は十二歳ですから、ヤイロの娘が生れ育って、そろそろ結婚をするかなあという年齢に達する十二年の間、この女性はずっとこの病気に悩まされてきたのでした。そして単に病気に悩まされてきてしんどいということだけでなく、この病気のために全財産を使い果たしてしまいました。しかし病気は治らない。お金がないので、この先、医者にかかることもできず、病を抱えてつらい思いをして生活をしていかなければならないのです。

出血がとまらないという、血に関する病気ですので、とくにこの女性は汚れたものというふうに考えられていました。ですからこの女性は、後からイエスさまの服の房に、だれにもわからないように、そっと触れたのでした。もしかしたらこのイエスさまはわたしの病気を治す力があるかもしれないと、この女性は思ったのです。そして勇気を持って、ただし誰にも気づかれずに、イエスさまの服の房にさわったのでした。だれかに見つかったら、どんなに非難されるかわからなかったからです。イエスさまの服の房にさわると、彼女の病気はいやされました。

イエスさまは「わたしに触れたのはだれか」と言いました。周りに一杯人がいたので、ペトロはだれかイエスさまを触ったとしても、わからなくても仕方がないでしょうと言うのですが、イエスさまはそれでも「だれだ、だれだ」と探し回ります。女性からすると、病が治ったので、イエスさまがあまり騒いでくださらないほうが良かったのだろうと思います。あとから日を改めて、またいつかお礼にお伺いするということで良かったのだと思うのですが、しかしイエスさまはだれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言います。女性は隠し切れなくなって、イエスさまの前に進み出ます。そしていままでの事情を、イエスさまに話しました。すると、イエスさまは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言い、この女性を祝福されました。

わざわざ大騒ぎをして、この女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言う必要があったのかというような気がするわけですが、イエスさまはこの女性を祝福せずにはいられなかったのです。「ああ、知らないだれか病気がいやされてよかったよね」ということではなく、イエスさまは「いままで十二年間苦しい思いをしていた『この女性』が、『この女性』がいやされたんだ」ということが大切であったのです。そしてこの女性に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言わずにはいられなかったのです。

ルカによる福音書8章49−56節にはこうあります。【イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった】。

十二年間、出血をわずらっていた女性は、イエスさまにいやされたわけですが、もともとイエスさまはヤイロの一人娘をいやすために、ヤイロの家に向かっていたのです。しかし会堂長の家の人がやってきて、「お嬢さんは亡くなりました」と言いました。ヤイロは驚いただろうと思います。そしてヤイロは、「イエスさまがもっと早く自分の家に着いてくださっていたら」という思いにとらわれただろうと思います。十二年間、出血をわずらっていた女性に関わっていなければ、もしかしたら娘が亡くなる前に、イエスさまは自分の家に着くことができたのではないのか。そうした思いにとらわれただろうと思います。

人は悲しい出来事や苦しい出来事に出会うときに、ときに心が弱くなります。そして人のことを恨んだり、人のせいにしたりします。ヤイロの一人娘が亡くなったのは、イエスさまが何かをしたからというわけではありません。イエスさまはヤイロに頼まれたから、一人娘をいやすためにヤイロの家に向かっていただけなのです。しかし人は「もう少し、イエスさまが早く来てくれたなら」という思いを持ってしまうのです。それは人としては仕方のない弱さでもあります。だれかのせいにしなければ、自分がどうにかなりそうなのです。しかしイエスさまはヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」と言われました。大切なことはただ信じるということなのだと、イエスさまは言われました。

ヤイロの家に着くと、イエスさまはペトロ、ヨハネ、ヤコブと、ヤイロとヤイロの妻、信頼できる人だけを家に招き入れました。人々はみんな死んだ娘のために泣き悲しんでいます。そうしたなか、イエスさまは「娘は死んだのではない。眠っているだけだ」と言われました。たしかに娘は死んだのです。そのことはイエスさまもご存じなのです。しかしイエスさまは娘に再び命を与えられるのです。人々は娘が死んだことを知っているので、イエスさまのことをあざ笑います。人々はイエスさまがどのような方であるかを知らないのです。イエスさまが命の源であることを、人々は知らないのです。

イエスさまは娘の手をとって、娘に「娘よ、起きなさい」と呼びかけられました。すると娘は生き返り、すぐに起き上がりました。イエスさまは娘に食べ物を与えるようにと言われました。ヤイロとヤイロの妻はこの出来事に驚きます。イエスさまはこのことをだれにも話さないようにとヤイロたちにお命じになりました。信じられない人々は、何があろうと信じられないからです。

私たちには「もうだめだ」と思えるときがあります。十二年間、出血が治まらなかった女性は、医者にかかり続けて、それでも治ることなく、お金も尽きてしまった。女性は「もうだめだ」と思っていたのですが、最後に、イエスさまのところにやってきて、そしてイエスさまがいやしてくださったのです。会堂長のヤイロも「もうだめだ」と思っていました。一人娘が死にかけているのです。ヤイロもまたイエスさまのところにやってきました。しかしイエスさまが家に着く前に、一人娘が亡くなったということを使いの者から聞きました。ヤイロは「やっぱりだめだった」と思いました。しかしイエスさまは「だめだった」と思ったヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言われ、一人娘を生き返らせました。

私たちには「だめだ」と思えるときがある。しかし私たちを救ってくださる確かな方がおられると、聖書は私たちに告げています。不安になったり、信じられなかったり、自分ではどうすることもできず、「だめだ」と思える出来事に出会うときが、私たちにはあるけれども、しかし私たちにはすがる方がおられるのだと、聖書は私たちに伝えています。私たちの命の源であり、私たちの救い主である主イエス・キリストが私たちを導いてくださると、聖書は私たちに伝えています。

この「イエスの服に触れる女」の物語と、「ヤイロの娘」の物語は、十二年という数字が結び合わせた物語であるわけですが、しかしそれだけではなく、この二つの物語は「信仰」の物語であるのです。十二年間、出血が治らなかった女性は、イエスさまからいやされたのち、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われています。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」という言葉は、ルカによる福音書7章50節で、「罪深い女をいやす」という聖書の箇所にも出てくる言葉です。ルカによる福音書だけの特別な言葉なのかと言いますと、マルコによる福音書5章34節、新約聖書の70頁の「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」にも出てくる言葉ですから、イエスさまが語られた言葉のようです。しかし「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われているように、この物語は信仰の物語であるのです。そして「ヤイロの娘」の物語においても、イエスさまはヤイロに対して、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言っています。この物語もまた、信仰の物語であるのです。

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」「恐れることはない。ただ信じなさい」。イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。「ただ信じなさい。そうすれば救われる」。これはもう信仰とはそうとしか言いようがないのです。私たちが救われるのに、なにか理由があるわけではありません。なにかできるから救われるのでもないですし、なにかりっぱだから救われるのでもないのです。ただイエス・キリストを信じて、そして救われるのです。なにか資格があれば、それはそれで納得がいくということもあります。これこれのキリスト教の知識があれば救われるとか、これこれの良き行ないをしたら救われるとか、ある種の基準があれば、なんとなく納得がいくのにと思えるかも知れません。でも「ただ信じなさい。そうすれば救われる」です。

イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。神さまを信じること。このこと以上に確かなものはない。神さまはあなたを愛してくださり、あなたを祝福してくださる。安心して神さまにお任せしなさい。たとえ「もうだめだ」と思えることがあったとしても、神さまから捨てられたのだと、あなたが思ったとしても、神さまはあなたを愛しておられる。だから「神さまを信じなさい」。そのようにイエスさまは私たちを招いておられます。イエス・キリストの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。



(2023年6月18日平安教会朝礼拝)


2023年6月12日月曜日

6月11日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「わがままばかりでごめんなさい」

聖書箇所 ルカ14:15-24。105/507。

日時場所 2023年6月11日平安教会朝礼拝式・花の日こどもの日合同礼拝

 

新型感染症のために、子どもの教会との合同礼拝を行なうことができませんでした。今日はひさしぶりの合同礼拝です。昔はこどもの数が多かったので、日曜学校、教会学校が行われているということは、ふつうのことでした。しかしいまは教会学校を行なっている教会の数も少なくなってきていると言われています。平安教会は子どもの教会が行われているとても恵まれた教会であるわけです。私たちはなんでも当たり前のように思ってしまって、不平や不満に感じることも多いですが、すこし冷静になって考えてみると、このように多くの恵みが私たちに備えられていることに気がつきます。

友だちと旅行にいく計画を立てたり、なにか集まりを考えたりするときがあります。そうしたときに世話役になることが、皆さんもあると思いますが、なかなか大変です。大変なことのひとつに人数の把握ということがあります。わたしもよく牧師の研修会の世話役などをやりましたが、参加と出しているのに何も言わずに欠席をする人や、参加と言わずに参加してくる人がいたりということがあります。まあ牧師さんですから、葬儀のようにどうしても外すことのできない用事ができるということもありますから、あまり腹を立てるのもどうかと思うわけですが、それでも世話役としてはホテルに食事や宿泊をキャンセルしたりするわけです。昨日1名欠席としたのに、今朝はまた2名増やして、昼になると1名減らしてというようなことをしていると、「もうこれが最後ですよね」というようなこともホテルから言われます。

人それぞれですから、几帳面な人もいますし、あんまり几帳面でない人もいます。「あ、こんどの食事会、出席する、出席する」と調子の良いことを言いながら、出席の連絡をしてこない人もいます。「あの人は、出席するといつも言うけど、いつも出席しないから、もう誘わなくてもよいのではないか」と言うことになり、誘わないと、「どうしてオレを誘ってくれなかったんだ」と怒る人がいたりもします。なかなかむつかしいなあと思う時があります。実際自分も年をとってくると、出席の連絡したかどうかわからなくなって来る時があったりして、あんまり人を責めることもできないなあと思ったりもします。

今日の聖書の箇所は「大宴会のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。この箇所の前のルカによる福音書14章7節以下には「客と招待する者への教訓」という表題のついた聖書の箇所があります。どちらも宴会の注意事項のような話であるわけです。

イエスさまは宴会を開く時に、人を招くのであれば、お返しをすることのできない人を招いたほうが良いと言われました。ルカによる福音書14章13−14節にはこうあります。【宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」】。

イエスさまはこの世で宴会を開く時は、貧しい人たちや体の不自由な人たちを招きなさいと言われました。そうした人たちはこの世でお返しをするということができない。そのお返しは神さまがあなたにしてくださる。あなたが天の国に入ったら、神さまがごちそうしてくれる。そのほうがいいだろう。と、イエスさまは言われました。

そのことを受けて、今日の聖書の箇所の話になるわけです。ルカによる福音書14章15ー17節にはこうあります。【食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた】。

イエスさまと一緒に食事をしていた人は、この世で貧しい人たちを招いて、神の国に招かれて、神さまと食事をすることができるのであれば、それはいいですねと言いました。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言いました。それに対して、イエスさまのたとえとなるわけです。

ある人が盛大な宴会を開いた。大勢の人を招いてきてもらおうと思っていた。宴会の時間になったので、僕を送って、招いていた人たちに「もう準備ができたので、宴会にいらしてください」と案内をするわけです。

ルカによる福音書14章18−20節にはこうあります。【すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。】。

僕を送って、宴会に来てもらおうとすると、招いた人たちが次々と言い訳をして、断ります。「畑を買ったので、見に行かなければなりません」。まあ畑を買うというのは、なかなか大きなことで、その畑の状態を見に行かなければならないというのも、わからないではありません。でもそれであれば、前もって、「その宴会の日は畑を見に行かなければならないので、申し訳ないけれども、出席できません」と連絡をしておけば良いわけです。いろいろと宴会を催すほうも準備があるわけです。

「牛を二頭ずつ五組かったので、それを調べにいかなければなりません」。たしかに牛を10頭も買ったのであれば、それがどんな牛であるのかを調べにいくことは大切なことだと思います。それであれば、出席できないことを伝えておけば良かったのです。

「妻を迎えたばかりなので、行くことはできません」。現代であれば、まあ妻を迎えたばかりであるのであれば、それは宴会に行かないほうが良いかなあとも思えます。迎えたばかりの妻は生活の環境もすべて新しいわけですから、まあ不安であると思います。知らないところにひとりぼっちというのは、なかなか精神的にきついものがあります。そうしたこともあるので、引っ越してきた妻を一人だけ残して、夫がどこかに出かけていくというのも、まあ考えたほうがええかなあと思えます。まあしかし、そうであるなら、あらかじめそのように伝えておけば良いわけです。

ルカによる福音書14章21ー24節にはこうあります。【僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」】。

僕は帰ってきて、招いた人たちが来ないことを家の主人に報告します。すると当たり前ですが、家の主人は怒ります。そして僕に、町の広場や路地に行って、貧しい人、体の不自由な人たちを連れてきなさいと言いました。それで僕はそのとおりにします。しかしそれでもまだまだ席はあります。そのことを主人に報告すると、主人はもう一度、通りや小道に行って、無理やり人を連れてきて、この家をいっぱいにするようにと命じます。主人はとても怒っているわけです。だれでもいいから連れてこい。ただ始めに招いていた人たちは、もう誰一人、一緒に食事をする気はないと、家の主人は言うのでした。

イエスさまのたとえに出てくる、「家の主人」というのは、神さまのことです。神さまは神の国の宴会に招かれます。まあ一般的なユダヤの人々の感覚から言えば、神の国に招かれるのはユダヤ人でしょう。ユダヤ人のなかでも畑を買ったり、牛を飼ったり、結婚したりすることのできる人たちです。しかしその人たちは、神さまから招かれながら、神さまの招きに応えないいわけです。それで神の国の宴会は、貧しい人たち、体の自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちのものになる。この世でとてもしんどい思いをしている人たちこそが、神の国の宴会に招かれることになると、イエスさまは言われるのです。それでもまだまだ神の国の宴会はいっぱいにならないので、「だれでも入れるようになります」。異邦人でも良いわけです。ただ招かれていたのに、来なかった人たちは、もう二度と入ることはできないのです。

「神さま、そんなに怒らんといてください」と思わないでもないわけですが、でも一生懸命に計画をして招いたのに、急に自分の都合だけを言ってくるというのは、まあ腹の立つことだと思います。

このイエスさまのたとえは、一緒に食事をしていたある人が、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったことから、このたとえが話されています。このたとえはこの人に対するちょっとした皮肉を含んでいるわけです。この人だけということではありませんが、この人に類する人たちに対する皮肉を含んでいるわけです。

いいことをいうわけです。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」。なんかわかっているような感じのことを言うわけです。宴会を招くのであれば、貧しい人たち、体の不自由な人たち、弱い立場の人たちを招きなさい。そうすれば神の国に入ることができますよと、イエスさまが言われているのに対して、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と応えるのです。それに対して、イエスさまは「いや、いや、神さまがそのようにあなたたちを招いているのだから、神の国に入るべく、そのようにしなさいよ」と思うわけです。あなたたちは「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」というけれども、そのことがほんとうにわかっているのであれば、そのようにしなさい。そうでないと、あなたたちも「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」ということになってしまうよ。というわけで、今日のたとえを話されたのでした。

この人たちもそうですが、私たちもまた神さまから招かれていることの恵みに気がつかないということがあります。神さまの招きをないがしろにしているようなところが、私たちにもあるわけです。私たちも招かれているにも関わらず、その招きを断るということがあるわけです。「神さまが招いてくださっていることを知りつつ、今日も礼拝を欠席してしまった」というようなことがあったりします。「なんか面倒だ」「それは良いことかも知れないけれども、でもね。こっちの都合もあるわけだし」「畑を買ったので、いけません」「馬を買ったので、いけません」「羊を買ったので、いけません」「犬を買ったので、いけません」「買い物にいかなければならないので、いけません」「雨が降ったので、いけません」「あまりに天気が良いので、いけません」。

まあ理由はいろいろあるわけです。それが日常生活というものです。私たちの都合に合わせていけば、「どうか、失礼させてください」「どうか、失礼させてください」「行くことができません」となってしまいます。

しかしそうした自分勝手な私たちをそれでも招いてくださっている神さまがおられます。私たちは「わがままばかりでごめんさない」という気持ちを思い起こしたいと思います。神さまから招かれているにも関わらず、わがままばかり言っている自分に気がつきたいと思います。神さまからいろいろな恵みをいただいているにも関わらず、それに気がつかないで、不平や不満を口にすることの多い自分に気がつきたいと思います。

「わがままばかりでごめんさない」。そして正気に戻って、神さまに感謝するものでありたいと思います。神さまは私たちを愛してくださっています。私たちに命を与えてくださり、私たちに生きる力を与えてくださいます。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、私たちが共に生きていく知恵を与えてくださいます。私たちがさみしいとき、私たちを慰めてくださいます。神さまが私たちともにいてくださいます。安心して、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。



  

(2023年6月11日平安教会朝礼拝式・花の日こどもの日合同礼拝)



2023年6月7日水曜日

6月4日平安教会礼拝説教要旨(高田太牧師)「百花のさきがけ」

「百花のさきがけ」 高田太牧師

使徒9:3-20節

2015年から同志社教会と梅花女子大学で働いています。以来、この両者の繋がりが、わたし達、会衆主義の伝統に連なる教会のための大切な遺産であると気付かされ続けて来て、これによって信仰を養われています。

 同志社の創立者、新島襄が死の間際に詠んだ有名な漢詩があります。「庭上の一寒梅、笑うて風雪を侵して開く。争わずまたつとめず、自ずから占む百花の魁」。この2年ほど前、1887年4月1日に新島は月ヶ瀬に出かけています。「梅花の消息を問わんと欲し、今朝、俄に思い立って木津に来たる」というのです。なぜ梅も終わりのこの時期なのでしょうか。

 1878年、大阪最初の女学校として梅花女学校が生まれました。その時代、女子の教育は必要と思われておらず、キリスト教への風も優しいものではありませんでした。それでも風雪を侵して、春を告げるべく花は開きました。この梅花学園の創立者は、浪花公会牧師の澤山保羅[ぽうろ]です。新島同様、アメリカに留学しましたが、英語の習得に苦労し、病に倒れることしばしばにして、私費留学で生活も貧しかったのでした。留学の3年目、公費留学扱いにしてもらえないかという願い出も却下され、目の前は真っ暗だったでしょう。ダマスコへの道で視力を失ったサウロの姿がこれに重なります。

 暗闇の中のサウロを訪ねたのはアナニアでしたが、澤山のアナニアは宣教師レビットでした。目からうろこが落ちました。なぜ自分がアメリカにいるのか、立身出世のためだと思えば暗闇であったその同じ状況が、まさに日本へのキリスト教伝道のための完全な備えであったと気付きました。澤山はパウロの名を自らのものとし、パウロのごとくに自給の道を行きました。しかしその精神が、京都と大阪の対立を生み出すこともありました。

 澤山の永眠は1887年3月27日、29日に告別説教をしたのは新島でした。新島の月ヶ瀬行は葬儀の三日後です。「梅花の消息を尋ね」に行ったのです。まさに梅の終わりの時、月ヶ瀬の梅林に新島は澤山の姿を、そして梅花女学校の姿を重ねて祈ったのでしょう。その祈りこそが美しい漢詩を生み出したのではないでしょうか。

 百花のさきがけとして大阪に開いた梅花の自給の精神は、「必要なものは神与えたもう」の信仰です。会堂に関する幻を抱いておられるこの時に、わたしどもの教会の原点にあるこの精神をお伝えできたらと思いました。


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》