「お調子者でごめんなさい」
聖書箇所 ルカ9:51-62。18/459。
日時場所 2023年7月30日平安教会朝礼拝式
太宰治の『走れメロス』は、友人を人質において妹の結婚式に出席し、帰ってくるという話です。「メロスは激怒した」。メロスは激怒するテロリストです。「必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した」。しかしメロスは失敗して、人間不信に陥っている暴君ディオニスに捕まります。メロスは死刑になることになるわけですが、死刑の前に妹の結婚式に出て帰ってくるから生かせてくれと暴君ディオニスに頼みます。
【「ああ、王は悧巧(りこう)だ。自惚(うぬぼれ)ているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」】。
しかし暴君ディオニスは信じません。そこでメロスは自分の身代わりに、親友のセリヌンティウスを人質として置いていくから、行かせてくれというわけです。
【「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」】。
続きは、お家に帰ってから「走れメロス」を読んでいただいたらよいわけですが、人生には「これをする前に、それをしておきたい」というようなことが起こるわけです。もちろんこのことは大切なことで、こころからそのことをしたいと思っているけれども、でも現実にはその前にそれをしておきたいということが起こるわけです。メロスにとっては「死刑に処せられる」ということはとても大切なことであったわけですが、しかしその前に「妹の結婚式」に出席をすることをしなければならなかったのです。
昔、ビジネスマンがリゲインというドリンクを飲んで24時間働いていたという時代の4コマ漫画にこんなのがありました。「田中くん、大阪に転勤で行ってくれ」「すみません。その前に、トイレにいかせてください」「トイレに行きたいだと、そんな暇あるわけないだろう。いますぐ、大阪に行きなさい」。
まあでも大切なことがあるけれども、でもその前にしなければならないことがあると思えるときというのが、私たちの人生にはあるわけです。
今日の聖書の箇所は「サマリア人から歓迎されない」「弟子の覚悟」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書9章51−55節にはこうあります。【イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。】。
イエスさまは私たちの罪のために十字架につけられるときが近づいてきたことを悟り、十字架に付けられる場所であるエルサレムに向かいます。エルサレムに向かう途中に、サマリア人の村にやってきました。しかしサマリア人はイエスさまを歓迎しませんでした。サマリア人とユダヤ人は当時、仲良くありませんでした。ユダヤ人はサマリア人のことを蔑んでいましたし、サマリア人はそんなユダヤ人のことを嫌っていました。でもイエスさまはユダヤ人の中でもまあいい人なのかもしれないとサマリア人の村人は思っていたかも知れません。でもイエスさまがエルサレムに行かれるというのを聞いて、「やっぱりイエスさまもエルサレムに行かれるのだ。ほかのユダヤ人と変わりない」と思いました。そしてイエスさまを歓迎しませんでした。ヤコブとヨハネはそんなサマリア人たちに腹を立てます。そして「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。そうした不適切な発言をするヤコブとヨハネを、イエスさまは戒められました。
ルカによる福音書9章56−58節にはこうあります。【そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」】
イエスさまたちはサマリア人の村から別の村に行きました。するとイエスさまに「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいました。イエスさまのことをすばらしい人だと思い、この人についていきたいと思う、志の高い人であったのだと思います。しかしイエスさまは「狐には隠れる穴があり、空の鳥には体を休める巣がある、しかしわたしには体や心を休める場所はない」と言われました。「そんなわたしに付き従うというのは、並大抵のことではない。それでもわたしに従ってくることはできるのか」と、イエスさまは問うておられるのです。
ルカによる福音書9章59−62節にはこうあります。【そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた】。
「あなたについて行きます」という人がいたので、イエスさまは別の人に「わたしに従いなさい」と言われました。その人は、「イエスさま、あなたについて行きます。でもその前に、父の葬りに行かせてください」と言いました。ユダヤは父親の権威の強い社会です。ですから親の葬りを行なうということは、ユダヤでもとても大切なことでした。しかしイエスさまは父の葬りは、他の家族に任せて、あなたは神さまのことを宣べ伝えるために、わたしについてきなさいと言われました。
また別の人も、「イエスさまに従います。しかしその前に最後に家族に会いに行かせてください」と言いました。しかしイエスさまは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われ、一度、わたしについてくるといったのだから、もう家族のことを顧みることなく、わたしについてきなさい。鋤に手をかけて、田畑を耕そうとしている人は、前を向いて田畑を耕す。後ろを向きながら、田畑を耕したりはしない。そのように、イエスさまは言われました。
イエスさまに付き従うということは、なかなか厳しいことであることがわかります。「走れメロス」のメロスではないですが、「このことの前に、せめてこのことをしておきたい」というようなことはあるわけです。メロスは死刑になる前に、せめて妹の結婚式に出席をしたいと思いました。イエスさまに従いますと言った人も、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言います。また別の人は、「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いました。父の葬りに行くことも、家族にいとまごいに行くことも、まあ常識の範囲ないだと思います。「ああ、行ってきなさい」と言ってあげるということのほうが良いのではないかとも思えます。
イエスさまの時代は世の終わり・終末ということを、みんなが身近に感じていました。もう世の終わり・終末はすぐに来るというふうに思っていたわけです。ですからあんまり悠長なことを言っている場合ではないというような思いが強かっただろうと思います。どちらかというと激しい時代であるわけです。「どっちにするんだ。どうするんだ」ということが激しく問われるわけです。
マルコによる福音書1章16節以下に「四人の漁師を弟子にする」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の61頁です。マルコによる福音書1章16−20節にはこうあります。【イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。】。
イエスさまの弟子選びの話であるわけですが、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、どちらも「すぐに」、イエスさまについていくのです。イエスさまのお弟子さんたちは、いろいろな失敗をするわけですが、でもこの「すぐに」イエスさまについていったということは、とても良いことであったわけです。イエスさまの弟子たちは「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」「まず家族にいとまごいに行かせてください」とは言わないのです。
でもまあ、もうすぐ世の終わり・終末が来るということであれば、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスさまの後について行ってもよいかも知れません。でも私たちの場合は、なかなかそうもいかないのです。親の葬りということは大切なことだと思います。「この仕事についたら、親の死に目にも会えないということを覚悟しなさい」というようなことが言われたりしました。ですからまあ、葬りにいくことができないということもあるでしょう。あるいは家族にいとまごいに行くこともできないこともあるでしょう。あるいは妹との結婚式に行くことできないということもあるでしょう。それはそれで仕方がないかも知れません。みんな「かわいそうだけれども、仕方がない」と思ってくれるでしょう。それでは「介護」というような場合はどうでしょうか。自分以外のだれかがやってくるから、「まあええか」というふうに言うことができるでしょうか。
実際、イエスさまについて行く前に、やっぱりしなければならないと思えることということは、私たちの生活のなかで起こってきます。それを「不信仰」という言葉でもって片づけることはできないということがあります。
人はどちらかというといさましい物語が好きです。「すべてを棄てて、イエスさまに従った」という物語にこころ引かれていきます。わたし自身もそうです。こころが踊るような信仰の話を聞くとうれしくなります。「棄てられた人の介護をした人たちはだれですか」というようなことは、あまり気に留められてきませんでした。しかし高齢化社会になって、「ケア」の大切さということが言われるようになっています。ケアというのは、家事、育児、介護、あるいは医療や看護というようなことです。
小川公代という文学者が書いた『ケアの倫理とエンパワメント』という本を読みました。いろいろな小説をケアという観点から読み解くという内容です。【ウルフ(バージニア・ウルフのことです)が一九二六年に発表したエッセイには「病気が愛や戦いや嫉妬と同程度に文学の主要テーマになっていないというのは、いかにも奇妙なことである」と書かれている。(しかし、じつはその二年前に病小説とも呼べる『魔の山』がトーマス・マンによって書かれていた。ウルフがマンのこの小説を看過看過(かんか)していたことは極めて驚くべきことである)】と書かれています。とても丁寧に文学の読み直しがなされています。
今日の聖書の箇所などもそうですが、以前は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」とか「まず家族にいとまごいに行かせてください」とか言うことは、それは信仰の観点から見ると、良くないことと考えられてきました。しかし実際問題そうしたことは、私たちの生活から切り離して考えることはできません。
イエスさまの弟子のヤコブとヨハネが「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言うのを、イエスさまから戒められるという話も、また微妙な話であるわけです。サマリア人から歓迎されなかったからと言って、「天から火を降らせて、サマリア人を焼き殺しましょう」と思うというのは、まあどうかしています。自分たちを英雄視しているので、自分たちは何でもできると思っているのです。私たちは「父ゼベダイを残して、イエスさまに付き従ったヤコブさまとヨハネさまだ」という思いが、ヤコブとヨハネにはあるわけです。
聖書には「イエスは振り向いて二人を戒められた」とだけありますが、わたしはもっと、イエスさまがヤコブやヨハネを激しく叱ったほうが良いのではないかと思います。ただイエスさまにしても、【「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない】にも関わらず、よく父ゼベダイを家に残して、自分に付き従ってきてくれたという思いが、ヤコブやヨハネに対してあるのだと思います。
人にはさまざまな事情や人間関係があり、「これが正解です」というようなことにはなかなかなりません。多くの人は悩みを抱えながら決断し、その決断を後悔したりしながら、前に進んでいきます。またその人特有の個性というのもありますから、「ちょっとどうよ」というようなことをしてしまうというようなこともあります。
わたしはヤコブとヨハネのサマリア人に対する態度はどうかと思いますが、でも一生懸命にイエスさまに付き従っているにも関わらず、サマリア人から冷たい態度をとられたヤコブとヨハネの悔しさもわかるような気がします。そうした中で、ヤコブとヨハネは強がりを言うわけです。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。でもヤコブとヨハネにはそんな力はないわけです。ヤコブとヨハネが天から火を降らせたというようなことは、聖書のどこにも書かれてありません。そういうことでは、ヤコブとヨハネはなかなかのお調子者であるわけです。
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人も、まあなかなか調子の良い人であるわけです。いろいろなことを考え始めると、なかなかイエスさまに付き従うという決断をすることはできません。いろいろなことが起こるかも知れないというのが、私たちの人生であるわけです。「イエスさまに付き従う」と言った後で、そのようにできない事情が出てくることもあるかも知れません。「すみません。従うことができませんでした」というようなこともあるかも知れません。
先のことはよくわからないのですが、私たちは調子よく「イエスさまに従います」という思いを大切にしたいと思います。「お調子者でごめんなさい」。「すみません。ちょっとできませんでした」ということがあるかも知れません。それでもイエスさまの「わたしに従いなさい」との招きに応えたいと思います。
私たちのことをすべて知ってくださり、そして私たちのことを愛してくださるイエスさまが、私たちを招いてくださっています。「わたしに従いなさい」との招きに応え、イエスさまにお委ねして歩んでいきたいと思います。
(2023年7月30日平安教会朝礼拝式)
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