2023年8月8日火曜日

8月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「隣人を自分のように愛しなさい」

 

聖書箇所 ルカ10:25-42。57/371。

日時場所 2023年8月6日平安教会朝礼拝式・平和聖日

 

今日は私たちの属する日本基督教団が定めた「平和聖日」です。金曜日、土曜日、平安教会では朝7時から早天祈祷会がもたれて、平和のために祈りを献げました。

ことしは平和聖日に、「戦争プロパガンダ展」を計画いたしました。ウクライナ戦争などを見ていると、ある地方への攻撃について、「この攻撃はウクライナの攻撃だ」「いやこれはロシアの攻撃だ」というようなことが言われます。情報戦が行われるわけです。アジア・太平洋戦争のときの満州事変も、日本軍が満州で南満州鉄道の線路を破壊したにもかかわらず、それを中国軍のしわざとして、中国軍に攻撃を始めます。日本軍は「自衛のための行動だ」と言います。自分たちで破壊活動をしておいて、相手の国の攻撃だといい、そして攻め込んでいくわけです。情報のない私たちは国家が出す情報によって、「自衛のための行動」だと思わされ、そして戦争へと駆り出されていくわけです。とても怖いのです。私たちは過去の戦争を振り返りながら、自分たちが戦争に駆り出されて行くことのないようにしたいと思います。

今日の聖書の箇所は「善いサマリア人」「マルタとマリア」という表題のついた聖書の箇所です。

ルカによる福音書10章25−28節にはこうあります。【すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」】。

イエスさまは律法の専門家から「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問われます。それに対して、イエスさまは「律法にどう書いてあるか」と律法の専門家に問いかけます。そして律法の専門家は、まず申命記6章4−5節の御言葉を引用します。申命記6章4−5節にはこうあります。旧約聖書の291頁です。【聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい】。またレビ記19章18節にはこうあります。旧約聖書の192頁です。【復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である】。

律法の専門家の言葉に対して、イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われました。永遠の命を受け継ぐための正しい答えをあなたは知っているのだから、それを実行しなさいと、イエスさまは律法の専門家に言われました。まあ「知ってるんだったら、それをしろよ」と、イエスさまは律法の専門家に言われたわけです。でもまあ私たちもそうですけれども、知っているからと言って、それを行えるわけでもありません。それで律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、イエスさまに質問をして、とぼけるわけです。

ルカによる福音書10章29−37節にはこうあります。【しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」】。

イエスさまはたとえ話をされました。あるユダヤ人が「追いはぎ」に襲われる。追いはぎというのは、まあ強盗のようなものです。半殺しの状態にあるユダヤ人のわきを、祭司は立ち去り、レビ人も立ち去っていく。しかしサマリア人がその人を憐れに思って、手当てをします。宿屋に連れていって介抱し、翌日、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、引き続き介抱してくれるように、そして費用がもっとかかったら、帰りがけに支払いますとお願いをします。そうしたたとえを話されたあと、イエスさま律法の専門家に尋ねます。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。すると律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えます。そしてイエスさまはまた「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。

「わたしの隣人とはだれですか」という質問は、なかなかきびしい問題です。それは人と人との間に線引きをすることであるからです。ユダヤ人は自分たちは神さまから選ばれた民族であると考えていましたから、どちらかと言えば、自分たちの民族と他民族との間の線引きをきっちりと付けたがる民族であるわけです。ユダヤ人か、異邦人かという、線引きであるわけです。基本的に律法における「隣人」というのは、ユダヤ人内の話であるわけです。異邦人の「隣人」というのはないのです。私たち日本人もどちらかと言えば、自分たちの民族と他国の人とを分ける傾向の強い民族です。日本人か、外国人かという分け方です。

でも実際問題、「隣人」というのは、隣にいる人であるわけですから、だれが隣にいるか分からないわけです。ユダヤ人とは限りません。隣にいる人がユダヤ人である場合が多いとは思いますが、でもそうでない場合もあります。

紀元前720年頃に、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ばされ、アッシリアの移住制作によって、サマリアに異邦人が定住するようになります。その結果、ユダヤ人と異邦人の間に生まれた人々がサマリア人であるということが、一般的には言われます。ですからイエスさまの時代のサマリア人に対する感覚というのは、異邦人ではないけれども、純粋なユダヤ人でもないというような感じです。そのためユダヤ人とサマリア人は仲が良くないわけです。

「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対して、イエスさまは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家にたずねています。隣人の定義だどうだこうだということではなく、「人は隣人になる」のだと、イエスさまは言われます。「隣人はだれか」ではなく、「隣人になる」のだと、イエスさまは言われるのです。隣人とはそういうものだ。困っている隣にいる人が隣人で、それをあなたが助けて、その人の隣人になるのだと、イエスさまは言われました。

「隣人」の話が、間にはいっているので、ちょっと混乱しますが、よくよく考えてみると、そもそも「永遠の命を受け継ぐための話」をしていたわけです。永遠の命を受け継ぐためには、困っている隣にいる人を助けるということが大切なのだということです。ですから「それを実行しなさい」「行って、あなたも同じようにしなさい。」というように、とにかく困っている人を助けに行きなさいと、イエスさまは言われるわけです。

ルカによる福音書10章38−42節にはこうあります。【一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」】。

私たちは「永遠の命を受け継ぐためには」「隣人とは」「困っている人たちを助けたい」「世界の平和のために」というようなことを話しながら、実際は家族のなかで、「あいつ、どうよ」というようなことを繰り返します。マルタはマリアの態度がいやでした。イエスさまがお家にやってきたので、マルタはイエスさまをもてなすために一生懸命に働いています。しかしマリアはイエスさまの足もとに座って、イエスさまの話を聞いています。それでマルタは「あいつ、どうよ」と思います。そしてイエスさまに「なんとか言ってください」と頼みます。しかしイエスさまはなんともマルタに対して冷たい言葉がけを行ないました。

いいことをしていると思っているときには、人は人のことを裁きがちです。「あいつ、どうよ」と思います。「わたしが一生懸命に、イエスさまのおもてなしをするために働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしがこんなに世界平和のために一生懸命に働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしが一生懸命にイエスさまの話を聞いているのに、『あいつ、どうよ』」。

イエスさまから「それを実行しなさい」と言われて、それを実行しているうちに、周りの人が実行していないことが気になるということが出てくるときがあります。自分が良いことをしているがゆえに、腹が立って、人を裁いてしまうというようなことが出てきます。マルタもそうでした。イエスさまにお仕えしたいとの良き思いを強く持っていました。そしてマリアのしていることが腹立(はらだ)たしく思いました。そんなとき、イエスさまはマルタに、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と声をかけられました。一生懸命になると、平和でなくなることがあります。こころに余裕がなくなって、人を裁いてしまうことがあります。多くのことで悩んで、心を乱してしまうことがあります。

イエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。マルタがそうであったように、身の回りのことでも、私たちはついつい腹を立てて、自分の心の中を憎しみまみれにしてしまうことが多いです。「あいつ、どうよ」「どうして、あいつ、あんなことしているの」。心の中がついつい憎しみや怒りに支配されてしまうということがあります。しかしイエスさまは「愛しなさい」と言われました。あなたは憎しみに支配されてしまっているけれど、でも大丈夫。わたしの愛をあげるから、あなたも愛するようになりなさい。

わたしが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」、神さまを愛したように、あなたも愛に満たされていきなさい。わたしが隣人を愛したように、あなたも隣人を愛しなさい。そのようにイエスさまは私たちを招いておられます。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。マタイによる福音書5章9節の聖書の御言葉です。神さまの愛に満たされて、平和を実現する人として、隣人を愛し、神の子として歩んでいきましょう。




(2023年8月6日平安教会朝礼拝式・平和聖日)



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