2023年9月27日水曜日

9月17日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「抱きしめられたい夜もある」

 

聖書箇所 ルカ15:11-32。449/475

日時場所 2023年9月17日平安教会朝礼拝式


今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。ご高齢になり、若いときのように体が動かないということもあると思います。もっと昔はしっかりとしていたような気がするのだけれども、昔に比べると、ちょっとおぼつかない時と思えるときもあると思います。そのように感じておられるご高齢の方々も多いと思います。しかしそうした中にあっても、しっかりと神さまを見上げて歩んでいきたい。イエスさまの声を聞いて歩んでいく。そうしたご高齢の方々の真摯な歩みをみるときに、私たちはとても励まされます。どんなときも、神さまが恵みを与えてくださり、そして私たちを守ってくださると、ご高齢の方々の歩みから確信することができます。とてもうれしいことだと思います。 

ジェーン・スーは、日本の作家、コラムニストです。同世代である、30、40代の女性に人気のある女性です。ラジオのパーソナリティなどもしています。ちょうどわたしの娘の世代に人気があるようなので、ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』(幻冬舎文庫)という本を読みました。

「パパ、アイラブユー」というエッセイの中に、こんな話がありました。ジェーン・スーはFacebookに友だちや知人が、自分の子供の写真を載せているのをみて、自分がいらいらするのに気がつきます。そしてどうしてそのような感情が出てくるのかということを考えます。自分が未婚で子供がいないからか。でも毎日楽しく過ごしているので、そういうことでもない気がします。それでもっと自分のそのいやな気持ちを観察するために、どういう写真に自分がいらっとするのかということを、丁寧にみていくことにします。そして兄弟姉妹や母親との写真に自分の心が乱されることはなく、子供が一人で写っている写真を父親が投稿している場合か、子供が父親と一緒に写っている写真の投稿ばかりに気を取られることに気づきます。

【私の持っていない「婚姻関係」や「親子関係」を持つ同年代の友人知人に、嫉妬していたのではなかった。むしろ立ち位置は逆でした。私は、父親に世話をされている女児(つまり数十年前の私と同じ存在)に嫉妬していました。なぜなら、子供時代にそんな風に父親に可愛がられた覚えが、私にはなかったから】(P.252)。

ジェーン・スーのお父さんが特別、ジェーン・スーに対して冷たかったとか、ひどい父親だったというわけではありません。典型的な昭和の自営業者で、とくに子育てに積極的に関わるということの無かった時代のお父さんでした。ですからジェーン・スーが子供だったときは、自分の周りの子どもたちのお父さんもそういう感じですから、当時は何も思わなかったわけです。でも自分が大人になって自分の友人や知人が娘を可愛がっている写真を見ると、「私もこうやって可愛がって欲しかった」という思いが出てきたのです。そして可愛がってもらっている女の子に嫉妬しているのです。そして積極的に育児に参加している男性に「子供の世話なんかしないで働けよ」という意地悪な気持ちが沸き起こったりするわけです。その気持ちはどう考えても、悪意に満ちた社会的に許されることのない気持ちです。まあそれで、ジェーン・スーは自分のことながら、「こまったなあ」と思うのです。

ジェーン・スーは、「小さな女の子救済作戦」というコラムのなかで、女性はみな自分のなかに「小さな女の子」をもっているのだと言います。【さみしくて傷ついた気持ちや、嬉しくて飛び上がりたい気持ちを素直に感じている存在を、便宜上「小さな女の子」と名付けましょう。・・・・・。「小さな女の子」は、いくつになっても自分の中に存在する、時に大人にはみっともないとされる類の感情を抱く存在です。強い女にも五分の小さな女の子と言いますか、私にもパブリックイメージ(しかも自分で作り上げたもの)と反する、小さな女の子=さみしさや傷ついた気持ちをダイレクトに感じる存在がいます。見た目には不釣り合いな、砂糖菓子の世界にあこがれるフワフワした気持ちだって、ちょっとはもっているのです。・・・。小さな女の子の気持ちを外に出すと、副産物としてコミュニケーションがうまくいくようにもなりました。「これは怒りではなく、傷心なのだ」と人に伝えるのはなかなか恥ずかしくハードルの高い行為。私もまだまだ完璧にこなせるとは言えません。気が付くと嫌みを言って、本心を伝えぬまま事態をややこしくしてしまう】(P.284)。

だれしも「小さな女の子」を持っているというのは、そういう感じのことはあるなあと、わたし自身も思います。「小さな男の子」と「小さな女の子」は同じなのか、違うのかというようなこともあるかと思いますが、ただただ切なかったり、悔しかったり、いやだったりする気持ちを、大人であるわたしは表面上は隠すわけですが、でもわたしの中の「小さな男の子」は、「いやだ。悲しい。くやしい」と泣き声をあげるのです。皆さんはどうでしょうか。「小さな女の子」「小さな男の子」が、自分のなかにいるでしょうか。

わたしはジェーン・スーの「パパ、アイラブユー」「小さな女の子救済作戦」というコラムを読みながら、今日の聖書の箇所の放蕩息子のお兄さんを思い浮かべました。お兄さんはお父さんに言うのです。【『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』】。放蕩息子のお兄さんの「小さな男の子」は、お父さんに「愛していると言ってくれ」と叫んでいるような気がします。

今日の聖書の箇所は「放蕩息子のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書15章11ー16節にはこうあります。【また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。】。

ある人に息子が二人いて、弟の方がお父さんに財産の分け前をくださいと言います。そして分けともらうと、それを全部お金に替えて、家を出ていきます。そして放蕩生活を送ります。すべてを使い果たした時に、ひどい飢饉がおこって、食べるにも困るようになります。どうにか知り合いのところに住み込んだけれども、ひどい扱いを受けます。「豚の世話をさせた」とありますけれども、ユダヤ人にとって豚というのは汚れた動物であるわけです。でもその豚の餌となっているいなご豆を食べたいと思うくらいお腹をすかせているわけですが、しかし彼のことを助ける人はいませんでした。

ルカによる福音書15章17−24節にはこうあります。【そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた】。

放蕩息子は「お父さんのところに帰ろう」と思います。お父さんのところにはたくさんの雇い人がいる。その一人にしてもらえば良いのではないか。自分勝手なことをして家を出てきたけれども、息子として扱われることはないだろうけれど、でも雇い人の一人くらいにはしてもらえるのではないだろうか。そうすれば少なくともいまの生活よりは良い生活ができるだろう。いまはもう飢え死にしそうな状態なのだから。そう思って、お父さんのところに帰ります。

放蕩息子のお父さんは、放蕩息子を見つけると、遠くのほうにいるのに気づいてくれて、そして走り寄って、首を抱いて、接吻してくれました。放蕩息子は「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」といいます。しかしお父さんは帰ってきた放蕩息子を、雇い人の一人ではなく、自分の息子として扱います。「手に指輪をはめてやり」というのは、そういうことです。良い服を着せ、指輪をはめてやり、履物をはかせ、そして放蕩息子が帰ってきたことをみんなでお祝いします。

ルカによる福音書15章25−31節には行あります。【ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」】。

放蕩息子がお父さんによって暖かく迎えられたことに、放蕩息子のお兄さんは腹を立てるわけです。怒って家に入ろうとしない兄を、お父さんがなだめにきます。しかしお兄さんはお父さんに言い放ちます。弟は自分勝手に家を出ていったけれども、わたしは何年もお父さんに仕えてきた。お父さんの言いつけに背くこともなかった。でもわたしが友人と宴会をするときに、お父さんは子山羊一匹くれたことはなかった。でも弟がやりたい放題して家に帰ってくると、弟を暖かく迎え、大宴会を催している。どうしてそんなことをするのか。

そんなふうにお兄さんは怒るわけです。しかしお父さんは答えます。お前はいつもわたしと一緒にいるし、わたしのものは全部お前のものだ。でもお前の弟はもう死んでしまったのではないかと思っていたのに、生きて帰ってきた。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前だろう。

この「放蕩息子のたとえ」の前の聖書の箇所は、「見失った羊のたとえ」とか「無くした銀貨のたとえ」です。ルカによる福音書15章7節にはこうあります。【言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」】とあります。またルカによる福音書15章10節にはこうあります。【言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」】とあります。

この「放蕩息子のたとえ」もまた、「悔い改めて帰ってくる」ということに重きが置かれているわけです。罪を犯した人が悔い改めて、神さまのところに帰ってくる。これほどうれしいことはないだろう。ということが言われているわけです。まあそう言われると、私たちも罪深い者ですから、悔い改めて、神さまのところに帰ってきたら、赦されて、そのうえ、神さまが大喜びしてくださるということであれば、「まあ言うことないよね」というふうにも思えます。

しかしまあそれは大枠のことであって、個別のこととなるとまた違ってくるわけです。どうしてあんなに弟の方が特別扱いされなければならないのか。わたしのことをお父さんは愛してくれていないのではないのか。お兄さんのなかの「小さな男の子」は叫ぶのです。「愛してくれと言ってくれ」「わたしのことを愛しているといってほしい」。

ルカによる福音書15章20節にはこうあります。【父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した】。いま京都市京セラ美術館で、「ルーヴル美術館展 愛を描く」の美術展が行われています。展示している絵画の中に、「放蕩息子の帰宅」という絵があります。リオネッロ・スパーダという画家の作品です。「放蕩息子の帰宅」は、このルカによる福音書15章20節のところが描かれています。レンブラント(レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン)の絵に、「放蕩息子の帰還」という絵がありますが、その絵もやはり、この聖書の箇所が描かれています。ひざを折って悔い改めている放蕩息子の肩に、お父さんが手を置いて、憐れみ深く抱きしめている絵です。

放蕩息子はお父さんに抱きしめられて、とってもうれしかったと思います。傷つき、疲れ果てて、倒れそうなとき、だれしも「抱きしめられたい」と思います。放蕩息子はお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。そしてまた放蕩息子のお兄さんも、お父さんに抱きしめてもらいたかったのです。父のもとを離れず、父のそばにいて、一生懸命に父のもとで働いていた。父の言いつけをすべて守るような人だったので、父もあまり気にしていなかったわけですが、放蕩息子のお兄さんはお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。しかし放蕩息子のお兄さんは、そのことをお父さんに言うことができず、逆にお父さんに対して、「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と叫ぶのです。

人はだれしも「抱きしめられたい夜がある」のです。放蕩息子もそうですし、また放蕩息子のお兄さんもそうなのです。父の下にいて、父の言うことも良く聞いて、何の問題もないように思うわれる放蕩息子のお兄さんにも、抱きしめられたい夜があるのです。

そして私たちにも抱きしめられたい夜があるのです。人に傷つけられたり、また人を傷つけてしまったり。人に辛くあたったり、人から辛くあたられたり。仕事で大きな失敗をしてしまったり、失恋をしてしまったり。親しい友が天に召されたり、最愛の人を天に送ったり。どうしようもなくさみしくて、どうしようもなく悲しくて、だれかに抱きしめられたいと思う夜があるのです。

そして私たちには、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられるのです。身勝手な放蕩息子を許して、抱きしめたように、私たちの悲しみや辛さに寄り添ってくださり、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられます。【まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した】。そのように愛に満ちた神さまが、私たちにはおられます。悲しみの中にある私たち、さみしさの中にある私たちの傍らにいてくださり、私たちを慰め、支えてくださる神さまがおられます。

神さまが私たちを守ってくださいます。安心して、神さまの祝福のなか歩んでいきましょう。


  

(2023年9月17日平安教会朝礼拝式)

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