2023年9月27日水曜日

9月24日平安教会礼拝説教要旨(堀江有里牧師)

 「〈怒り〉を力に」 堀江有里(京都教区巡回教師)

マルコによる福音書 11:15〜19

 いまでは治療方法や薬が開発されましたが、ほんの数十年前まで「死に至る病」であったエイズ。性感染も経路であったため、多くの偏見と差別をもたらしました。米国の市民運動に「アクトアップ」(力を解放するエイズ連合)の記録映画『怒りを力に』に収められた「教会を止めろ」と名付けられた抗議行動(1989年12月)は、ニューヨークの聖パトリック大聖堂での印象深いコントラストを描き出しています。一方では礼拝堂の通路になだれこみ、無言のうちに死体を模したダイ・インで抗議する人びと。これは仲間たちの命が奪われてゆく現実を示す行為でした。他方で粛々と進むミサ。気にもかけず聖書が朗読され、会衆は聖歌をうたう。そして唐突に繰り返される「わたしたちを殺すのをやめろ!」という抗議行動参加者の叫びは、死にゆく人びとを放置し、無関心のなかで儀式を守りつづける会衆への怒りと嘆きでした。この行動は、HIV感染予防の性教育を敵視する教会への、そして「エイズは同性愛者への天罰だ」と主張してやまない人びとの思想を支えるキリスト教への抗議でした。

 本日の聖書箇所は「宮潔め」として解釈されてきました。神殿に到着したイエスは両替人や鳩を売る人たちの場をひっくり返します。周囲は騒然としたはずです。イエスは平穏な神殿を取り戻したかったのでしょうか。しかし、この人たちが追い出されてしまったら神殿は機能しません。供物も献金もできないからです。だとしたら、イエスがおこなったのは神殿のあり方そのものの否定、腐敗した価値観への根源的な問いであったはずです。だからこそ、イエス殺害の計画がもちあがったわけです。

 引用されているイザヤ書は「すべての国民の祈りの家」と翻訳されています。もとのイザヤ書では単数で書かれていて、「イスラエルの民」が意識されているわけですが、イエスはこの聖書の箇所を複数形で引用したことになっています。つまり、さまざまに境界線によって分断されている人びとを分け隔てなく一緒にいられる場として、神殿をとらえているわけです。

 まさにイエスが起こしたことは古代ユダヤ世界のなかでのノイズであり、秩序を乱す行為です。宗教の権威によってもたらされる人びとの分断への問いかけであったのではないでしょうか。イエスの起こしたノイズを、そしてその根底にある〈怒り〉の出来事をわたしたちはどのように受け止めることができるのか、考えつつ、歩み続けたいと思います。



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