日本基督教団平安教会は、京都市の岩倉にあるキリスト教会です。「自由で明るく思いやりのある教会」の歩みでありたいと思っています。教会のwebsiteは、http://heian-church.com/index.html。教会のTwitterは、https://twitter.com/heian2019。教会へのメールは、heiankyoukai@live.jp。郵便振替は、01010-7-22442。
2023年10月25日水曜日
10月22日平安教会礼拝説教要旨(同志社女子大学 小﨑眞牧師)
2023年10月18日水曜日
10月15日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「見えないけど、感じる神さまの愛」
「見えないけど、感じる神さまの愛」
聖書箇所 ルカ17:20-37。227/476。
日時場所 2023年10月15日平安教会朝礼拝式
『絶対音感』という本で有名な最相葉月(さいしょう・はずき)というノンフィクションライターは、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。5センチくらいある分厚い本で、大判の旧新約聖書くらいの大きさです。
【なぜ、神を信じるのか。全国の教会を訪ね、135人に聞いた信仰のかたち。「証し」とは、キリスト者が神からいただいた恵みを言葉や言動を通して人に伝えることである。本書は、北海道から沖縄、五島、奄美、小笠原まで全国の教会を訪ね、そこで暮らすキリスト者135人に、神と共に生きる彼らの半生を聞き書きしたものだ】。
最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【インタビューにあたって、キリスト者にたびたび回答を求めた質問があった。その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか、それでも信じるのはなぜかということ】。
大きな災害で家族が犠牲になることや、自分が大けがをしてしまうこと、また財産を失い、どのように生きていけばよいかわからなくなること。そうしたなかにあって、どのように神さまを信じて生きてきたのか。人間的なことを考えたら、どうしてそのようなことができるのか、私たちにもよくわかりません。しかし実際に、大きな災害を経験しても、神さまを信じて生きてきた人たちは、私たちの周りにもたくさんおられます。それはもう神さまのわざとしか言いようのないような気がわたしにはいたします。
今日の聖書の箇所は「神の国は来る」という表題のついた聖書の箇所です。世の終わり・終末や、神さまの国の到来ということは、イエスさまの時代にも、いろいろと議論がなされている事柄でした。イエスさまの時代は、世の終わり・終末ということが、いまにも起こるというふうに考えられていた時代です。ですからどのような形で、世の終わり・終末がやってくるのか。世の終わり・終末が起こる前に、なにかその兆候というものがあるのかというような事柄が議論されていました。だいたいは世の終わり・終末の前には、天変地異が起こって大変なことになると言われていたり、偽預言者が現れるというようなことが言われたりしていました。今日の聖書の箇所もそうした世の終わり・終末についての議論の中にある話であるわけです。
ルカによる福音書17章20−21節にはこうあります。【ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」】。
ファリサイ派の人々は、イエスさまに「神の国はいつ来るのか」と尋ねます。ファリサイ派の人々は、世の終わり・終末、そして神の国が来るというようなことを考えていました。そしてそれがいつ起こると考えているのかということを、イエスさまに質問をします。ファリサイ派の人たちは、神の国が来て、自分たちが神さまによって義とされると考えていました。私たちは一生懸命に、悪い罪人たちを罰してきたのだから、神の国の中で自分たちは義とされる。その神の国はいつ来るのかと、イエスさまに質問をしたわけです。
しかしイエスさまはその質問について、すこしはぐらかすような答えを語られました。イエスさまは「神の国は、見える形では来ない」と言われます。それはあなたたちが考えているような形では、神の国というのは来ないのだと、ファリサイ派の人たちに言われたということです。「ここにある」「あそこにある」「私たちが義とされる」というように、あなたたちに都合の良いようには神の国は来ない。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というのは、神の国ということが、世の終わり・終末に、私たちが神さまから義とされる、神さまから誉められるというようなことなのではなく、いまあなたたちがどのように生きているのかということの問題であるのだということです。
そしてそれはイエスさまを受け入れるのかどうかということと関係しているということです。ファリサイ派の人たちは、律法を守ることのできない人たちを裁き、自分たちが義の裁き人であるかのようにふるまっていました。しかしイエスさまはそうしたファリサイ派の人々を批判されました。批判をされただけでなく、イエスさまはファリサイ派の人々が罪人と非難した人々を愛され、罪人と共に食事をされます。神さまの御子であるイエスさまは、神さまの御心を行ない、そして罪人を悔い改めと新しい命への導かれました。そうしたイエスさまを受け入れるのか、どうかということが問われているということです。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というのは、あなたたちはさも自分たちが義とされる神の国がやってくることを望んでいるけれども、そのような神の国はやってこない。いまあなたたちに必要なことは、悔い改めるということなのだ。イエスさまが支配しておられる神の国はあなたがたの間にある。そしててあなたがたがイエスさまに従うかどうかの決断をするかどうかということ大切なことなのだと、イエスさまはファリサイ派の人々に問われたのです。
ルカによる福音書17章22−25節にはこうあります。【それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。】
ここで言われている「人の子」というのは、いわゆる世の終わり・終末にやってくるとされている救い主・メシアということです。その方がどのような方であるのかということは、世の終わり・終末の出来事がどのような出来事であるかはっきりとしないので、まあいろいろなことを言う人たちがいるわけです。まあでもみんなやっぱりその方に会ってみたいと思うわけです。でもイエスさまは「見ることができない」と言われます。ここでも「見ることができない」というのは、あなたたちが頭のなかで想像しているような感じのこととしては「見ることができない」ということです。みんないろいろというわけです。「見よ、あそこにいるぞ」「見よ、ここにいるぞ」というふうに言うわけですが、そうしたことはあてにならないと、イエスさまは言われます。
イエスさまはあなたたちが考えているような感じで「人の子を見ることはできない」と言われます。そして「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排除されることになっている」と言われます。ここで言われていることは、イエスさまご自身が経験されることであるわけです。イエスさまは多くの苦しみを受け、人々から排除され、十字架につけられます。ですからここで言われている「人の子」というのは、イエスさまのことであるわけです。
弟子たちは自分の頭の中で勝手に、「世の終わり・終末には救い主・メシアと呼ばれる「人の子」がやってきて、私たちに敵対している悪いやつらをやっつけてくれる。そして私たちは神さまによって、良き者として特別に祝福を受けるのだ」というようなことを考えているわけです。しかし実際に起こることは、弟子たちは救い主であるイエスさまを裏切り、イエスさまは人々から蔑まれ、そして十字架につけられるのです。そしてそのことは神さまの御心であり、避けることのできないことであるのです。イエスさまの十字架によって、私たちの罪は赦されるのです。
ルカによる福音書17章26−29節にはこうあります。【ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった】。
ノアの時代のことは、創世記6章ー10章に書かれてある、ノアの洪水物語の話です。旧約聖書の8頁以下に書かれてあります。ロトの時代のことは、創世記の19章「ソドムの滅亡」に書かれてある物語です。旧約聖書の25頁に書かれてあります。物語として興味深い話ですから、あとでじっくりと読んでくだされば良いかと思います。ノアの時代のことも、ロトの時代のことも、要するに神さまが人々に罰を与えられ、洪水が起こったり、町が滅ぼされたりする大災害の話であるわけです。しかしそうした災害は突然やってくるのです。同じように世の終わり・終末も、明日来るとか明後日来るとか、3ヶ月後にとか、1年後にとか、その日について言うことはできないということです。ただいつ来るかわからないけれども、必ずやってきて、そして飛んでもないことになってしまうと、イエスさまは言われるのです。
ルカによる福音書17章30−37節にはこうあります。【人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」*畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」】。
人の子が現れる日、いわゆる世の終わり・終末ということです。そのときもやはりノアの時代やロトの時代と同じようなことが起こる。同じことをしていても、一人は被害にあい、一人は生き延びることができる。そうしたことは避けがたいことであり、「どうしてわたしが生き延びることができたのだろう」というような思いになることもあるかもしれない。「どうして、どうして」というような問いかけの中に生きていくことがあるかもしれない。しかしそれはただそのようなことが起こるとしか言いようがない。そのようにイエスさまは言われました。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが語られたつらい出来事をこころに留めながら、それならそうした災害にあうことがないように、そのことが起こる場所を教えてほしいと、イエスさまに言うのです。「主よ、それはどこで起こるのですか」と、イエスさまに弟子たちは尋ねたのです。するとイエスさまは「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」と言われました。それはどこで起こるというようなことではなく、人のいるところではどこでも起こることであるということです。人がいるところではどこでも災害が起こり、そして人が死んでしまうということが起こる。そしてその死体をみて、はげ鷹も集ってくるということです。
イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。イエスさまも、世の終わり・終末がどのような形で来るのかということを語っています。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけですから、私たちの人生という尺度からすると、結局は世の終わり・終末ということについてはよくわからないというのが、私たちの感覚だと思います。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。
世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。信仰とはゆらぎのあるものです。
しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。それは「ここにある」とか「あそこにある」というふうに言えるものでもありません。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、いろいろなことで私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。
信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしはそれはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。
ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。
(2023年10月15日平安教会朝礼拝式)
2023年10月11日水曜日
10月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し」
聖書箇所 ルカ17:1-10。211/445。
日時場所 2023年10月8日平安教会朝礼拝式・神学校日礼拝
今日は神学校日です。神学校・神学部の働きを覚えてお祈りいたします。神学校・神学部で学ぶ神学生、事務職の方々、教師の方々の上に、神さまの恵みが豊かにありますように。私たちの教会には、村上みか牧師(同志社大学神学部教授)が教会員としてお働きくださっています。奏楽のご奉仕をしてくださっています。
わたしも同志社大学の神学部で学びました。同志社大学の神学部はとても良いところでした。ぜひ志のある方は、同志社大学の神学部に入って、神学を学んでいただきたいなあと思います。もちろん同志社大学の神学部に入って、牧師になる人たちがたくさん出てきてほしいと思います。しかしそれだけでなく神学を学ぶことによって、いろいろな事柄について洞察力が深まることが、その人の人生にとって、わたしはとても良いことだと思います。
テレビで最近、謝罪会見が行われます。いま話題の謝罪意見はジャニーズ事務所です。創業者であるジャニー喜多川が未成年に対する性的虐待を行なっていたことがわかりました。そのためにジャニーズ事務所は廃業することになります。先日の謝罪会見では、謝罪会見を取り仕切っている企業が、「この記者には当てないようにしよう」というリストを作っていたということが報じられていました。あんまりまじめに謝罪をしようという気持ちがないのだろうなあという印象を振りまくことになり、企業体としても不安のつきまとう謝罪会見となりました。
ジャニーズ事務所は未成年の育成を行なう部門のある会社でありながら、創業者が未成年に対する性的虐待を多くの人たちに対して、長年行なっていたということですから、まあそれはほかのことと比較にならないくらい罪深い犯罪です。しかしジャニーズ事務所のほうが、あまりそうした意識がなかったのだろうと思います。いいかげんな対応をし続けてきました。たぶんジャニーズ事務所は、政治の世界などでいろいろな不祥事が起こっているけれども、いいかげんな対応でお茶を濁すようなことで乗り切ることができているから、私たちもそうした対応で良いのではないかと思っていたのだと思います。たしかに旧統一協会との関係についても、うやむやなことですませているような政治家もたくさんおられます。私たち日本の社会が、あまりにもいいかげんなことを赦してきたので、ジャニーズ事務所のような対応が生まれてきてしまうのだと思います。それはあまり良いことではないと思います。
「うまく立ち回ってごまかすことができればそれで良いのではないか」というような雰囲気がどんどんと拡がっていくというのは、社会にとって良いことではありません。謝罪会見が混乱することのないように、「この記者には当てないようにしよう」リストをつくって、その場しのぎの会見を行えばよいというのは、やはり良いことではありません。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。
今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕ということですので、書かれてあることは、そうしたことであります。ですから個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。
ルカによる福音書17章1−4節にはこうあります。【イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」】。
つまずきというのは、元来、獣などを捕らえるときに罠のことをです。ですから、つまずきというのは人を罠に陥れることを意味します。「つまずきは避けられない」というのは、それが良いことであるというのではなく、そういうことは悲しいけれども起こってしまうということです。でもそれを行なうことはしてはいけないことなのです。ですからつまずきをもたらす者は不幸であるのです。そうした人は必ず神さまによって罰せられ、首にひき臼をかけられて、海の中に投げ込まれるよりもひどい目にあうことになる。弱い立場の人を陥れるというようなことは、絶対にしてはならないことなのだと、イエスさまは言われます。
罪を犯すというようなことをしてしまうことが、人にはあるわけです。もし仲間が罪を犯したなら、「それはしてはいけないことなのだ」と戒めなさい。それでその人が悔い改めるのであれば、赦してあげなさい。一日に七回、あなたに対して罪を犯しても、七回、悔い改めると言って、あなたに赦しを乞うのであれば、赦してあげなさい。七という数字は、ユダヤ教の中では特別な数字です。ですから単なる七回という数字ということではなくて、「必ず」とか「何があろうと」というようなことを意味しています。あなたのところに赦しを乞いに来たならば、どんなことがあろうと、必ず赦してあげなさいということです。
「赦し」ということのあとは、「信仰」ということについて、イエスさまは言われます。ルカによる福音書17章5−6節にはこうあります。【使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう】。
イエスさまの弟子たちは、イエスさまに「私たちの信仰を増やしてほしい」と願いました。イエスさまから「信仰の薄い者たちよ」と叱られることが、弟子たちはときどきありました。弟子たちも自分たちは信仰が薄いということを自覚していたのだと思います。それで「私たちの信仰を増やしてほしい」と願うのです。わたしも信仰の薄い者ですから、弟子たちの気持ちはよくわかりません。もう少し自分に信仰があったら、イエスさまを悲しませるようなことはないのではないかと思います。しかしイエスさまは「私たちの信仰を増やしてほしい」と言う弟子たちに対して、「あなたたちの信仰はからし種一粒ほどの小さいもので大丈夫だ」と言われます。からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても言うことを聞くと、イエスさまは言われます。
これはいったいどういうことなのだろうと思います。桑の木が言うことを聞くということはないでしょうから、弟子たちにはからし種一粒ほどの信仰もないのかということですが、そもそもイエスさまは弟子たちが信仰があるかどうかということを、あまり問題にしておられないのだと思います。私たち人間の側に、信仰があるとかないとか、信仰が深いとか信仰が薄いとか、そういうことはある意味、あまり重要なことではないと、イエスさまは言われます。「あなたたちにはからし種一粒ほどの信仰がないのか」と、イエスさまが弟子たちを叱っておられるということではなく、そんな薄い信仰しかない、だめな弟子たち、そして私たちを愛してくださる神さまがおられるということがたいせつなのです。
ルカによる福音書17章7−10節にはこうあります。【あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」】。
この箇所は「奉仕」について書いてあります。僕が畑から帰ってきた時に、主人が「すぐに来て食事の席に着きなさい」とは言わない。「わたしの食事を用意してくれ。そしてわたしの食事の間は給仕をし、その後でおまえは夕食を食べなさい」と言うだろう。主人が命令したことを僕が行なったからと言って、主人が僕に感謝することはない。あなたたちも同じように、神さまから命じられていることを行なうことができたら、「私たちは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。私たちがこんなすばらしいことをしたというように、自分のことを誇るのではなく、謙虚に神さまから任されている業を行なう者でありなさい。自分は神さまに仕える僕であるということを、しっかりとこころに留めて、謙虚に生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。
私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。自分の力で生きている気持ちになるので、人に対しても厳しくなります。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。それで自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われるのです。
また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。
そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。
イエスさまは私たちに「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」と言われました。「赦してやりなさい」。赦すということはなかなかむつかしいことです。私たちはそんなに心が広くないですが、そんな「赦してやりなさい」と言われても、そう簡単に赦すことはできないと思います。まあじっさいにできないわけです。私たちが赦すことのできない者であることは、イエスさまもご存知です。イエスさまは頑なな私たちの気持ちをご存知です。もっと言えば、「あなたのその気持ちもわかる」と、イエスさまは思っておられるだろうと思います。それでも「赦してやりなさい」と、イエスさまは言われます。ですから「7度、赦してやりなさい」といわれるのです。
「あの人のことを赦すことはできない」という思いに、私たちはなることが多いですけれども、しかし私たちもまた「神さまの前に立つ一人の罪人である」ということを、私たちは知っています。神さまの前に立つとき、私たちは自分がだめな人間であることを、罪深い人間であることに気づかされます。
昔、保育園で園長をしていたときに、ときどきこどものけんかの仲裁をするということがありました。砂場で砂をかけられたとか、つきとばされて転んだとか、いろいろな理由でけんかになります。あまりひどいけんかにならないように、仲裁に入るわけです。そして「太郎君がこうした。次郎君がこうした」という説明を受けて、そして謝罪と赦しの儀式を行なうのです。「ごめんね」「いいよ」という儀式です。「ごめんね」「いいよ」。こどものけんかですから、私たち大人のようなどろどろとしたどうしようもないけんかというわけでもありません。ですからまあ和解しやすいということもあります。それでもこどもたちもそんなに簡単に「ごめんね」「いいよ」というふうになるわけでもありません。大人にとっても謝罪と赦しはむつかしいように、こどもにとってもやはりそれなりに「ごめんね」「いいよ」はむつかしいことであるわけです。
それでもはやり私たちは謝罪と赦しを、「ごめんね」「いいよ」を繰り返しながら、私たちの世界で生きていきます。
神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。
神さまの導きのもと、互いに支え合い、互いに赦しあい歩んでいきたいと思います。
(2023年10月8日平安教会朝礼拝式・神学校日礼拝)
2023年10月5日木曜日
10月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)
「やっぱり世のため人のため」
聖書箇所 ルカ16章19-31節。197・411。
日時場所 2023年10月1日平安教会朝礼拝
今日は世界聖餐日です。世界中の教会の人たちと、共に聖餐に預かる日は、私たちにとってとても大きな喜びの日です。
世界聖餐日・世界宣教の日に、在日大韓基督教会関西地方会京都地区と、日本基督教団京都教区京都南部地区は、合同礼拝をもちます。今年は京都丸太町教会でもたれます。
スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の冒頭の言葉は有名な言葉で、こころにとまる言葉です。【僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」】(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。
こどもの頃は、自分が義務教育を終え、高校で受験勉強をして、そして大学に行くということ、わたしはあたりまえのことと思っていました。父もそのことを望んでいましたし、また兄も大学に行ったので、わたしも受験勉強をして大学にいくのだと思っていました。しかし実際、大学にいくというようなことは、とてつもなく恵まれているということです。
【世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではない】というのは、そのとおりです。世界を見回せば、貧困や暴力が満ちています。そうしたなかで、勉強をしたくてもできない人々はたくさんいます。ペンをもって勉強したいにも関わらず、銃をもって闘わざるを得ない人々が、この世の中にはたくさんいます。あるいは家族を食べさせるために、道ばたでタバコやキャンディーを売らなければならないというこどもたちがたくさんいます。そうしたことを思うときに、せっかく大学まで出たのだから、やはり自分のできる形で、少しずつであるにしても、世の中に返していかなければいけないと思うようになりました。「やっぱり世のため人のため」ということは、私たちが忘れてはならない大切なことだと思います。そして自分が学問をすることができたということについて、やはり誠実でなければならないと思います。
今日の聖書の箇所は「金持ちとラザロ」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書16章19-21節にはこうあります。【「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた】。
このたとえ話はなかなか衝撃的なたとえ話です。あるお金持ちがいつもいい服を着て、毎日ぜいたくな暮らしをしていました。このお金持ちの門の前にラザロという名前の人がいました。ラザロという名前は、「神は助ける」(エリエゼル、エルアザル)をいう意味の名前です。ラザロはできものだらけで、そして貧しい人でした。お金持ちの【食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた】というわけですから、とくにこのラザロという人はりっぱな人であったということでもありません。とくにラザロが信心深いということでもないでしょう。ラザロはできものだらけで、そして【犬もやって来ては、そのできものをなめた】ということですから、たぶん多くの人々はラザロを見るのをいやがったことでしょう。
ルカによる福音書16章22-23節にはこうあります。【やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。】。
死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることにあります。お金持ちが目をあげると、天上で宴会が行われているのが見えます。そしてアブラハムのすぐそばに、自分の家の門の前にいたあのラザロがいるのが見えました。
ルカによる福音書16章24-26節にはこうあります。【そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』】。
お金持ちは「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください」と、アブラハムに呼びかけています。またアブラハムも「子よ、思いだしてみるがよい」と答えています。「父よ」「子よ」という具合に答え合っています。ですからお金持ちはアブラハムの子孫です。しかしアブラハムの子孫であるということは、ほとんど意味を持たないことだということです。ユダヤ教において「アブラハムの子孫である」ということは、神さまから特別に愛され、選ばれているということを意味します。しかしそうしたことは、何の意味もないことだと、イエスさまはこのたとえ話をとおして言っておられるのです。
このお金持ちは【ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください】と言っています。陰府にあっても、このお金持ちはラザロを自分の僕のように考えているわけです。このお金持ちは、この世にあってラザロが苦しんでいるときに、直接手を差し伸べることもなかったでしょう。しかし自分が苦しんでいる時には、【ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください】と言うのです。その姿は憐れです。
ラザロは行ないが立派であったから、アブラハムのそばにあげられたわけではありません。ラザロがアブラハムのそばにいる理由は、「この世で貧しかったから」です。アブラハムはこう言っています。【子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ】。
「生きている間に良いものをもらっていたから、今はお前はもだえ苦しむのだ」と言われると、「えーっ、それはちょっと」というような気が、私たちはします。しかしお金持ちがお金持ちであるのは、たぶんお金持ちの父親とか母親がお金持ちであったからです。彼の兄弟もお金持ちです。たまたま、お金持ちの家に生まれたから、お金持ちであるのです。ラザロがお金持ちの家に生まれたとしたら、ラザロはお金持ちです。お金持ちであることは、たまたまのことであり、それはあたえられたものです。ですからこのお金持ちは、自分のようなことにならなように、自分の兄弟たちにこのことを告げたいと言うのです。この世で配慮のない生き方をしていたらとんでもないことになるということを、自分の兄弟であるお金持ちに告げたいというのです。
ルカによる福音書16章27-31節にはこうあります。【金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」 】。
お金持ちはまだ「ラザロを遣わしてください」と言います。まだラザロのことを自分の僕のように考えています。なかなか身に付いたものは抜けないのです。アブラハムはお金持ちに、【『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』】と言います。彼らが耳を傾けるべきモーセと預言者の言葉というのは、小さき者への配慮ということです。出エジプト記22章20節以下には「人道的律法」という表題のついた聖書の箇所があります。【寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない】(出エジプト22章20-21節)とあります。モーセの律法には小さき者への配慮ということがしっかりと記されてあります。また多くの預言者たちも小さき者への配慮ということを語りました(アモス書8章4-7節)。
お金持ちは【死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう】と言います。しかしアブラハムは【『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』】と言います。もうすでに語られるべきことは語られている。しかしそれを行おうとしないだけだと、アブラハムは言うのです。
ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には【慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る】という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。
イエスさまもまた【『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』】(マタイ22章37-39節)と言われました。神さまを愛し、隣人を自分のように愛することが、イエスさまが言われた大切な教えです。
ハロルド・S・クシュナーという人が書いた『天国に行くための8つの知恵』(聖公会出版)という本があります。『天国に行くための8つの知恵』。「みなさん、天国に行きたいですか!」。クシュナーは『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波書店)という本を書いています。この『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(岩波書店)も、なかなか考えさせられる本です。
『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。【恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」】(P3)。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」。わたしはヘッシェル先生(1907年-1972年)ほど年を重ねてはいませんが、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。
クシュナーはこんなことも書いています。【最近、たまたま、あるアメリカ先住民の部族指導者が自らの内なる葛藤について記述した話を読みました。「私の中に二匹の犬がいる。一匹は意地悪で悪だ。もう一匹はいい犬だ。意地悪な犬はいつも「いい犬」(注:『悪い犬』と日本語で訳されているけれど、文脈からすると『いい犬』という気がする。確かめることはできなかったけど・・・。『いい犬』だということで話をすすめる)と喧嘩している」と、彼は言いました。「どちらの犬が勝つんですか」と聞かれたとき、少し考えて、「餌をたくさんやった方だ」と答えました】(P64)。
私たちはいつもいつもいい人間ではありません。善人であるときもありますし、悪人であるときもあります。心の中で善と悪が闘っているということがあります。で、どちらが勝つのかというと、「餌をたくさんやった方だ」というわけです。ですから生き方として、「小さな良き業に励む」ということは、わたしはとても大切なことだと思います。私たちは完全な善き人ではないかもしれません。しかし小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。箴言14章22節にも同じような言葉があります。【罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る】。【罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る】。
たしかに私たちの世の中は「正直者が馬鹿を見る」ような世界です。「お金をたくさんもうけて、何が悪いんですか」と言われたりする世の中です。わたしは「お金はたくさんもうけていい」と思います。ただもうけたお金を自分のためだけに使うのは良いことではないと思います。なぜかというと、今日のたとえ話のお金持ちのようになってしまうからです。
世の人から笑われるかも知れませんが、私たちキリスト者は「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きて行きましょう。
(2023年10月1日平安教会朝礼拝)
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