2023年11月29日水曜日

11月26日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「ウソはやめた方が良い」

 

聖書箇所 ヨハネ18:33-40。425/386。

日時場所 2023年11月26日平安教会朝礼拝式・収穫感謝日合同礼拝


今日は収穫感謝日合同礼拝です。子どもの教会との合同礼拝です。ご家族でご出席の方々もおられるので、とてもうれしく思います。子どもの教会も、子どもたちもなかなか忙しく、集うことができないことも多くなってきました。それは平安教会だけのことでもありません。そうしたなかでも子どもの教会のスタッフの皆さんは祈りつつ、こころを込めて、子どもの教会に取り組んでくださっています。こころから感謝いたします。

今日は収穫感謝日ですので、収穫の恵みを神さまに感謝をしたいと思います。私たちに良きものを備えてくださり、私たちのこころも体も養ってくださっているのは、天の神さまです。収穫の恵みに感謝しつつ、神さまの愛を感じる歩みでありたいと思います。

イタリアのローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会には、「真実の口」という石の彫刻があります。真実の口に手を入れると、ウソをついている人はその手首が切り落とされてしまうという伝説があるそうです。映画『ローマの休日』に出てきます。

『ローマの休日』はオードリー・ヘップバーン扮するアン王女が、アン王女であることを隠して、グレゴリー・ペック扮する新聞記者のジョーと、ローマ観光をするという映画です。ヨーロッパ諸国を訪問中、ローマでアン王女は公務がいやになり、部屋を抜け出して、市中を歩いているときに、新聞記者のジョーと出会います。翌朝、新聞記者のジョーはアン王女であることを知り、スクープ記事を書こうとして、アン王女とローマ観光をするわけです。そのためジョーは自分が新聞記者であることを隠しています。どちらもウソをついているわけです。アン王女は「真実の口」に手を入れることをためらうのですが、ジョーはためらいつつ「真実の口」に手を入れます。

映画の最後は、アン王女は新聞記者のジョーが出席している記者会見の場面になるわけです。アン王女は公には、ローマで病気になり静養中となっていました。ある記者からの「どこの都市が一番お気に召しましたか」と尋ねられます。アン王女はあらかじめ公式に用意をされている「どこにもそれぞれよい所があり、どことは申せません・・・」という答えをしようとするわけですが、しかし思い直して、「ローマです。何といってもローマです。私はこの町の思い出をいつまでも懐かしむでしょう」と答えます。ここではアン王女はウソではなく、心からの真実を語るわけです。『ローマの休日』はウソと真実が交差する物語であるわけです。

『ローマの休日』の脚本の原案を書いたのは、ダルトン・トランボという脚本家です。映画が作られていた1953年の時期、アメリカでは共産党とその支持者に対するレッド・パージと言われる迫害が行われていました。トランボもレッド・パージにあい、映画界を追放されていました。トランボは偽名をつかって、いろいろな映画の脚本を書いています。『ローマの休日』の脚本の原案も、その一つです。トランボの友人のイラン・マクレラン・ハンターの名前で、脚本の原案は発表されています。自分の名前で書いていないわけですから、ウソと言えば、ウソであるわけです。

〈私たちが読んでいる聖書にも、偽名で書かれたのではないかと言われる手紙があります。使徒パウロが書いたと記されているけれども、でも書かれてある内容や時代からすると、使徒パウロが書いたのではないと言われる手紙があります。エフェソの信徒への手紙やテモテへの手紙1,2やテトスへの手紙などがそうです。こうした手紙をわたしが学生をしていたときは「偽パウロ書簡」と言ったような気がするのですが、いまはもう少し穏便な名前が付けられていて、「第二パウロ書簡」とか「パウロの名による書簡」、「擬似パウロ書簡」というように言われているようです。「パウロの名を語って書かれている」と言われると、なんか悪いことをしているような感じがするわけですが、しかし書かれた当時はそういうことではなく、「えらいパウロ先生の考えを受け継いで書いている」というような気持ちで、使徒パウロの名前で書いているということのようです〉。

「わたしはウソをついたことがない」と言う人は、「わたしはウソをついたことがない」というウソをついていると思えます。まあなんらかのことでウソをつくというようなことが、私たちの日常生活の中で起こってきます。家族に病気の告知をするかしないかというようなとき、ウソをつくというようなことが起こることがあります。人を傷つけないようにするために、ウソをつくというようなことも起こることがあります。

今日の説教題は「ウソはやめた方が良い」という説教題をつけました。わたしがここでいう「ウソ」というのは、真理と向き合わない姿勢というようなことです。いいかげんに生きている時につく、いいかげんな「ウソ」というのがあります。自分の立場を守るためにウソをついたり、自分の利益のためにウソをついたりする、そうしたウソのことです。政治家の人たちがよく、自分の立場を守るためにウソをつき、自分の利益のためにウソをつきます。そういた不誠実な態度は、世の中に拡がっていき、そして社会を貧しくします。「ああ、ウソをついてもいいのだ」という雰囲気が社会に拡がっていくことになり、不誠実な世の中になっていきます。イエスさまの時代も、支配者のなかで、そうした雰囲気が拡がっていました。

今日の聖書の箇所は「ピラトから尋問される」という表題のついた聖書の箇所の一部です。この聖書の箇所は、イエスさまが十字架につけられる前に、ローマ総督ピラトによって尋問を受けているという聖書の箇所です。ユダヤ人たちが「イエスさまはわるいやつだ」とピラトに訴えて、ピラトがイエスさまを尋問しているわけです。

ヨハネによる福音書18章33−34節にはこうあります。【そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」】。

ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」と、イエスさまを問いただすというのは、イエスさまが自分のことをユダヤ人の王だと言って、ユダヤを支配しているローマ帝国に反逆しようとしているのではないのかということです。イエスさまはその問いに対して、それはあなたがそのように考えているのか、それともだれか他の人がわたしのことをそのように言っていると言うことなのですかと、ピラトに尋ねます。

ヨハネによる福音書18章35−36節にはこうあります。【ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」】。

ピラトはイエスさまは「わたしはユダヤ人なのか」と言います。ピラトにしてみれば、ユダヤ人たちがユダヤ人であるイエスさまを訴え出たので、イエスさまのことを尋問しているのに、イエスさまがその問いに答えないで、逆にピラトに質問をしてきたりするので、うっとうしいのです。「わたしはユダヤ人なのか」というのは、「わたしはユダヤ人ではないのに、ユダヤ人であるおまえたちのいざござに巻き込まれて迷惑をしているのだ」ということを言っているわけです。

イエスさまはピラトに対して、自分はこの世に属しているわけではないので、ユダヤ人たちが言うように、ローマ帝国に対して反逆をしようとしているということはないと言います。わたしがこの世に属していて、この世でわたしがユダヤの国を治めるというようなことがもしあるのだとしたら、わたしがユダヤ人に引き渡されるときに、わたしの部下たちが必死に戦っただろう。しかしわたしの国はこの世に属していないので、そうした政治的な意味での戦いを行なうということはないのだと、イエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書18章37−38節にはこうあります。【そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。】。

イエスさまが「わたしの国」というようなことを言っているので、それならユダヤの王なのかとピラトは思うわけですが、しかし何かそんなことを言っているわけでなさそうだと、ピラトは思います。言っていることがいま一つピラトにはよくわからないので、ピラトは確認のため、イエスさまに「それでは、やはり王なのか」と問いました。しかしイエスさまはそれはあなたが言っていることで、わたしはあなたが考えているような意味での王ではないと、イエスさまは言われます。この世でどこかの国を治め、そしてローマ帝国に反逆をするというようなことではないのだと、イエスさまは言われるのです。

そしてイエスさまはピラトに自分がどうしてこの世に来たのかということを語ります。イエスさまにとってはこのことが重要であるわけです。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」。そのようにイエスさまは言われます。国を治め、人々を支配し、他の国を力でもって支配したりするようなことに、わたしは興味はない。ローマ帝国への反逆ということに、わたしは興味はない。わたしは真理について証をするためにこの世に来たのだ。

ピラトはイエスさまが、「真理」「真理」と言うので、ちょっとげんなりします。ピラトは政治家として、この世のことばかりに心が向けられています。ピラトにとってはもはや真理などというものは、どうでも良いことであるわけです。それでピラトは「真理とは何か」と言うのです。それは真理を求めている言葉ではなく、「真理などというものがあるのか」というようなつぶやきであるわけです。

ピラトはイエスさまが「真理」「真理」というようなことを言っているのを聞いて、「ああ、こいつはローマ帝国に反逆するというようなことはないだろう。どうせユダヤの社会のなかのちいさないざござに違いない。ユダヤ人たちはこの男に馬鹿にされたような気持ちになって、この男を殺そうとしているだけだろう。わたしには関係ない」というように思います。そしてユダヤ人の前に出て、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言いました。

〈ヨハネによる福音書18章39−40節にはこうあります。【ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。】

ユダヤのお祭りの過越祭には、犯罪人として捕らえられている人を一人釈放するというようなことが行われていました。そのためピラトは、ユダヤ人たちにもわたしに面倒をかけることなく、イエスを釈放してことをおさめるということを、やんわりと提案したわけです。「このピラトさまがそのような提案をしているのだから、もうわたしに迷惑をかけることなく、そのようにしろよ」ということです。しかしユダ人たちはピラトの提案を無視して、「その男ではない。バラバを」を大声で言い返したのでした。ピラトはとても安易に考えていたわけですが、ユダヤ人たちのイエスさまに対する怒りは、ピラトの想像をこえて、とてつもないいものであったのでした。このあと、ピラトはそのことを知ることになります〉。

ピラトは「真理とは何か」と言いました。ピラトの中では「真理」とか「正しさ」とかそういうものはあまり意味のないものになっていたのです。ですから「真理とは何か」というようなつぶやきが出てくるわけです。「真理とは何か。そんなものあるわけないだろう」。世の中は混とんとして、みんな好き勝手に生きている。世の中にはウソがいっぱいで、みんな気軽にウソを言う。良き社会をつくりたいとか、良い人として生きたいというような思いが、社会全体の中で失せてしまっている。

そうした社会の中にあって、しかしイエスさまは言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。イエスさまは真理について証をされます。神さまの御子として、神さまのみ旨を行われます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを良きものを備えてくださる。神さまがこの世を治めておられる。私たちが迷子になり、恥ずかしいことをしてしまうことがあったとしても、神さまは私たちを探し出してくださり、神さまのところに連れ戻してくださる。私たちの勝手な思いではなく、神さまの御心が実現していく。

わたしはそのことを伝えるために、この世に来た。そして「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」。あなたたちはわたしの告げる福音を信じて、わたしに従ってきなさい。あなたたちはほんとうは神さまを求め、神さまを信じて生きようとしているのだから、わたしの声を聞き、わたしのところにやってきなさい。イエスさまはそのように言われ、人々を招かれました。

実りの秋。私たちは私たちの神さまが多くの実りをもたらしてくださいました。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、そして私たちをよき人として祝福してくださいます。神さまを信じ、イエスさまに導かれて歩みたいと思います。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。真理に属する者として、御声を聞きつつ歩んでいきましょう。



  

(2023年11月26日平安教会朝礼拝式・収穫感謝日合同礼拝)


11月19日平安教会礼拝説教要旨(同志社中高教諭 川江友二牧師)

「おまえのものはおれのもの!」

出エジプト記3章7~14節


「おまえのものはおれのもの!」は、ドラえもんに出てくるジャイアンのセリフ。のび太が失くしたランドセルをジャイアンが必死になって取り戻してくれた理由として発したのが、この言葉でした。

今日の聖書箇所で神は、その名前をこう打ち明けています。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。また、この後の6章では「わたしは主(ヤハウェ)である」と言っています。この語源を考えると「わたしは命、生きる者、生かす者」と理解ができます。古代世界において、名前はその人の存在全体や生き方、つまりその人が何者であるかという本質を表すものだと考えられていました。

では、その本質は具体的にどのように示されるのでしょうか。神は7節でこう語っています。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と。ここに神が人と共にあろうとする在り方、人を生かす命の神である在り方が示されています。

イスラエルのガザへの攻撃は激化の一途をたどり、パレスチナの死者は12,000人を超え、その内子どもの死者は4,100人以上に上っています。現地の人々のうめき、叫びを私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。

このような理不尽な死や苦しみに直面するとき、思い出す本があります。それはアウシュビッツを生き抜いたエリ・ヴィーゼルが記した『夜』です。子どもが絞首刑にあって苦しみ続け、「神さまはどこだ」と叫ぶ問いに、神は共に絞首台にぶら下がっておられるという内なる声を聞いたと言います。

それは、今日モーセに語る神と同じです。7節の言葉とは、まさに人々の苦しみ、痛みを神ご自身が味わい尽くしたことを意味しているからです。そして苦しみの中で信じられない民に、神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と述べます。そうだとすれば、現在も神はパレスチナやイスラエルで、共に死の苦しみを何度も味わっておられるのではないでしょうか。

この一見すると無力な神を信頼し、絶望を分かち合うことから、希望は見出されていくことを聖書は示してくれています。そして、そこに神を見つけたらならば、私たちは黙っていてはならないのでしょう。わたしたちの信じる神は、私たちの痛みを知る神であり、泊まる場所なく生まれ、力なく十字架にかけられたイエスさまであるからです。

 「あなたの痛みはわたしの痛みだ。だからこそ、わたしはあなたの命であり、神なのだ。」その声に耳を傾け、私たち自身も命に寄り添い、命のために声を挙げていくものでありたいと心から願うのです。



11月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「確かな方につながって生きる」

 

聖書箇所 ヨハネ8:51-59。419/437。

日時場所 2023年11月12日平安教会朝礼拝式

  

宮沢賢治の「雨にも負けず」という詩は、次のような言葉ではじまります。

「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち

 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」

そのあといろいろと続いて、最後に、「そういう者に 私はなりたい」で終わります。

「雨にも負けず」には、宮沢賢治がなりたい理想像、「これがあれば良いのに」ということが記されているということでしょう。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」と、一番初めにありましたから、やはり大切なのは、「丈夫な体」と「健やかなこころ」というふうになるでしょうか。宮沢賢治は1930年9月に東京で高熱で倒れ、家族に遺書を書きました。そして花巻に戻り、病床生活となります。そして11月に手帳に、「雨にも負けず」を書いたと言われます。ですから「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち」というのは、とても深刻な願いであったのだろうと思います。「ああ、丈夫な体であれば・・・」。

「これがあれば良いのに」と思えるものは、人によってそれぞれであるわけです。お金などはまあ比較的、万人に愛されるものであるわけです。しかしお金も天国にもっていけるわけではありませんから、「お金はほどほどで、やっぱり健康であることの方が大切ではないか」というような思いをもつ人もいます。年齢が変わると、とても大切にしていたものも色あせてしまうというようなこともあります。わたしは以前は本というものに大きな価値を置いていましたが、しかしだんだんと小さい字を読むのも、なんだかおっくうになってきて、字の小さな文庫本は、どんなすばらしい内容のものでも、「もうブックオフに引き取ってもらっても良いかなあ」というような思いになるときがあります。

自分にとって確かなものであったものが、いろいろと状況が変わるなかで、意味を持たなくなっていくということがあります。自分が心の支えにしていたものが、空虚なものに思えてくるという体験をすることが、私たちにはあります。会社のために、働いて・働いて・働いて・働いたけども、どうやら会社はわたしのことをそんなに愛してくれているのではないようだというような事実を突きつけられたりします。その体験は空しさを伴うことでありますが、しかし悪いことだけでもありません。また新たな出会いによって、「これこそがわたしにとって大切なことだ」ということが見つかるかも知れません。

私たちの救い主であるイエスさまは、私たちを永遠のいのちを受け継ぐ者としてくださいました。イエスさまにつながって生きる時、私たちは神さまの恵みを受けて、永遠のいのちを受け継ぐ者としての祝福に預かることができるのです。わたしはこのことは、私たちクリスチャンがこの世で生きる上で、とても大切な祝福であると思っています。「わたしは永遠の命を受け継ぐ者として、神さまからの祝福を受けている」と思うとき、私たちは何事にも恐れることなく、神さまに向かって歩んでいくことができる気がいたします。

今日の聖書の箇所は「アブラハムが生まれる前から「わたしはある」」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書8章51−53節にはこうあります。【はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」】。

ユダヤ人たちはイエスさまが悪霊に取りつかれていると考えていました。悪霊の力でいやしのわざを行ない、悪霊の力で人々の心をとらえて、イエスさまのことを信じさせるのだというわけです。それに対して、イエスさまはわたしはわたしの天の父である神さまのみ旨に従って生きているのだと言われました。

イエスさまは「わたしの教えを信じて守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。それに対して、ユダヤ人たちは「そんなことを言うのは、あなたが悪霊に取りつかれているからだ」と言いました。あなたは「自分を信じるなら、死ぬことはない」と言うけれども、人はだれしも死ぬのだ。だって私たちの祖先であり、神さまからあんなに愛されたアブラハムも死んだじゃないか。神さまの言葉を預かって人々を導いて多くの預言者たちも死んだじゃないか。それなのにあなたは「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言うのか。あなたはそんなに偉大なのか。アブラハムよりも偉いというのか。預言者たちよりも偉いというのか。そんなことを言うのは、あなたは高慢になっているのではないのか。そのようにユダヤ人たちはイエスさまに言ったわけです。

ヨハネによる福音書8章54−56節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」】。

イエスさまは自分は自分の栄光を求めるということはありえないと言われます。わたしの父である神さまが、わたしに栄光を与えてくださる。わたしは神さまをよく知っている。わたしをこの世に送ってくださり、父である神さまは世の罪をあがなうためにわたしを十字架につけられる。わたしのその神さまの御心に従って生きている。だからわたしが世の栄光を求めるということはありえないことだ。あなたたちの先祖であるアブラハムも、そのことを知っている。アブラハムも、わたしが世の人々のために十字架につけられる、その神さまのご計画の日を楽しみにし、そして、それを見て、喜んだのだ。

というような話になってくると、聖書を読んでいる私たちは「なんだかわからない」という気持ちになってきます。ユダヤ人たちのように、「イエスさまは悪霊に取りつかれている」とまでは言わないですが、「なんか言っていることがよくわからない」という気持ちにはなってきます。「わたしは神さまのことを知っている」というようなことであれば、「まあ、そうかなあ」と思います。しかし「アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」というようなことになってくると、「いや、アブラハムはイエスさまが生まれるずっと前に死んでいるから、ここで『わたしの日』と言われている、イエスさまが十字架につけられる日を見るということではできないだろう」と思うわけです。

マタイによる福音書やルカによる福音書、マルコによる福音書では、イエスさまが自分のことをいろいろと言うことというのはあまりないのですが、ヨハネによる福音書ではイエスさまが自分のことについて「わたしは世の光である」とか「わたしはぶどう木」とか、「わたしは神さまの御子である」というようなことを匂わせたりします。ヨハネによる福音書をよむとき、そのことが私たちを混乱させるというようなときがあります。これはヨハネによる福音書を書いた人たちの思いや信仰を、イエスさまご自身が語っているという形がとられているということがあるからです。それはヨハネによる福音書の著者の、イエスさまについての書き方ということなので、ちょっと「なんかよくわからない」と思っても、あまり気にすることなく、イエスさまが言っているということに強く関心をよせることなく、「イエスさまは世の光なんだよね」という内容のように、こころを向けて読むのが良いのだと思います。これはヨハネによる福音書のお約束事なんだから、あまり深く考えずに、そういうものだのだと思って読めば良いわけです。ミュージカルを見ていて、「どうして突然歌い出すのかわからない」というふうに思う人がいますが、「まあそれはミュージカルなのだから仕方がない」としか言いようがないわけです。

ヨハネによる福音書8章57−59節にはこうあります。【ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。】。

イエスさまが「アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた」というようなことを言われるので、ユダヤ人たちは「あなたはまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見た」と言うのかと、起こり出します。まあイエスさまが50歳だろうと、100歳だろうと、アブラハムを見ることなど、ふつうはないわけです。これもまたヨハネによる福音書の著者の信仰が現れています。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」というのは、イエスさまは神さまの御子として、天地創造の前から存在している。だからアブラハムの生まれる前から、「わたしはある」ということです。神さまと、神さまの御子イエス・キリストはすべてのことの始まりの前から、存在しているということです。キリスト教の用語では、このことを「キリストの先在」と言い表します。「先在」とは、「なによりも先に在る」ということです。これを聞いて、ユダヤ人は怒ります。石を取り上げて、イエスさまに投げようとしました。イエスさまはそれをすっとかわして、神殿から出ていかれました。

「キリストの先在」というのは、ヨハネによる福音書の著者が信じている信仰で、「このことを伝えたい」という中心的な信仰です。ヨハネによる福音書1章以下に「言が肉となった」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。ヨハネによる福音書1章1−5節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。】

この聖書の箇所はクリスマスによく読まれる聖書の箇所です。「初めに言があった」というところの「言」というのが、イエスさまのことであります。「初めに言があった」ということですから、天地創造の前に、イエスさまがおられたということを言い表しています。そして「言は神と共にあった」ということですから、「イエスさまは神さまと共にあった」ということです。「言は神であった」ということですから、「イエスさまと神さまは一つである」ということです。そのようなヨハネによる福音書の著者の信仰が、この聖書の箇所に表されています。それにのっとって、ヨハネによる福音書では、イエスさまがご自身のことを語るということになっています。

今日の聖書の箇所には、「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」とありました。イエスさまは天地創造の前から、神さまと共にあり、アブラハムが生まれる前から、神さまと共にあるのです。

「わたしはある」というのは、「わたしの存在は絶対である」ということです。天地創造の前から、アブラハムが生まれる前から「ある」わけですから、「わたしの存在は絶対である」のです。天地創造の前から、神さまと共にあるわけですから、「わたしの存在は絶対である」わけです。ヨハネによる福音書は、「確かな方がおられる」ということを、私たちに告げています。

イエスさまは今日の聖書の箇所で、「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われました。それに対して、「ユダヤ人たちはアブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。あなたはアブラハムより偉大なのか」と言いました。ユダヤ人たちにとって、アブラハムはこれ以上ないくらい偉大な人であるわけです。自分たちの祖先であるわけです。しかしヨハネによる福音書の著者は、はっきりと、イエスさまはアブラハムより偉大な方であると言っているのです。イエスさまは私たちに命を与えてくださる方である。イエスさまは私たちに永遠の命を与えてくださる方である。そのように聖書は私たちに告げています。

「それなら、小笠原牧師、イエスさまにつながっているので、あなたは死なないのか」と問われると、私たちは人間ですので、それはアブラハムと同じように、預言者たちと同じように、みな天に召されます。そういう意味では、わたしは死ぬのです。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」とイエスさまが言われるのは、「死なない」ということではなくて、「あなたは神さまからの祝福を受けて、永遠の命につながる者とされている」ということです。

私たちは人生のなかで、思わぬ出来事を経験することがあります。病気になることもありますし、神さまのところに愛する人が帰っていかれたというようなことを経験することもあります。職場で大きな失敗をして、非難をされるような出来事を経験することもあります。自分ではどうしようもない出来事を前にして、こころが折れてしまうような時もあります。このことを頼りに生きていこうと思っていたものが、意外にもろく崩れ去ることを経験することもあります。確かなものであると思っていたのに、確かなものではないことを知り、大きな戸惑いのなかに投げ込まれてしまう時もあります。

しかしそうしたなかにあって、私たちには救い主イエス・キリストがおられます。イエスさまは私たちに「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われ、私たちがイエスさまにつながることによって、神さまから永遠の命を受け継ぐ者とされることを教えてくださいました。

イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。マルコによる福音書13章31節の御言葉です。新約聖書の90頁です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

私たちは確かな方につながって生きようと思います。神さまの御子イエス・キリストにつながり、イエスさまを頼りにして歩んでいきたいと思います。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなときも、私たちを守り、導き、祝福してくださる確かな方がおられます。イエスさまを信じて歩んでいきましょう。



  

(2023年11月12日平安教会朝礼拝式)

 

2023年11月6日月曜日

11月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「私たちの道を照らす光」

聖書箇所 ヨハネ3:13-21。461/465

日時場所 2023年11月5日平安教会朝礼拝式


今日は召天者記念礼拝です。毎年、召天者記念礼拝は多くのご親族の方々と共に礼拝を守っています。平安教会に連なる人々が共に集い、神さまを賛美する礼拝です。ここ数年、新型感染症のために、大勢で集うことができません。ことしは以前と同じように案内をして、ご親族の方々も共に集うということにしています。

キリスト教は天上と地上の両方で礼拝がもたれていると考えています。クリスチャンは地上での生活を終えて天に帰ります。そして地上で礼拝を守っていたように、今度は天上で礼拝を守ります。今日もまた天に帰られた私たちの信仰の先達は、天上の礼拝で神さまを賛美しています。ご家族を天に送られて、とてもさみしい思いをしておられる方々もおられると思います。そのさみしさはなかなか癒えることない深いものだと思います。今日、私たちは地上で礼拝を守り、天に帰られた方々は天上で礼拝を守っておられます。そしてご家族の皆さんが、地上の礼拝で共に、神さまを賛美しておられるのをとても喜んでおられると思います。

私たちの教会のメンバーの方々は、ご家族の方々が思っておられる以上に、教会の礼拝に出席してくださることをとてもうれしいことと思っておられると思います。みなさんの教会だと思って、またぜひ教会の礼拝にいらしてください。お母さま、お父さまの信仰を受け継いで、神さまにより頼んで歩んでくださればと思います。 

今日の聖書の箇所は「イエスとニコデモ」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ユダヤ人でファリサイ派のニコデモという議員が、イエスさまのところを尋ねてきます。ファリサイ派の人たちの多くは、イエスさまと考えが違って、論争をしかけてくるということがありました。しかしニコデモはイエスさまの教えが気になって、イエスさまのところに尋ねてきました。「ある夜、イエスのもとに来た」ということですので、周りのファリサイ派の人々の目を気にしながら、夜に尋ねてきたということです。そして、イエスさまにいろいろと質問をするのです。今日のところは、その一部分であります。

ヨハネによる福音書3章13−15節にはこうあります。【天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである】。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」というのは、旧約聖書の民数記21章4−9節の「青銅の蛇」という表題のついた聖書の箇所に書かれてあることです。旧約聖書の249頁です。イスラエルの民が蛇にかまれて死者がたくさんでたときに、モーセが神さまに祈り、青銅の蛇を作り、それを旗竿の先にかかげました。人々がその青銅の蛇を見上げると、蛇にかまれて死ぬことはなくなったという話です。

「人の子」というのは、世の終わり・終末のときに来られる救い主・メシアのことです。ここではこの「人の子」というのが、イエスさまのことであるわけです。イエスさまは神さまの御子として、「天から降って来た者」であり、神さまのところから来た者であるということです。そしてイエスさまも神さまの御心によって、十字架につけられ、天に帰られます。天に上るのです。そして人々は、モーセの青銅の蛇のように、イエスさまを見上げることにより、救いを得ることができる。イエスさまを信じる者が皆、「人の子」、救い主イエスさまによって、永遠の命を得ることができるのです。

ヨハネによる福音書3章16−17節にはこうあります。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである】。

神さまは、神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。それほど私たちのことを愛してくださっています。イエスさまを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる。私たちは神さまの前に、いろいろな邪な思いをもったり、悪いことをしてしまったりする弱い者です。神さまの前に立つと、私たちは罪深い者であります。しかし神さまは私たちを裁くのではなく、私たちを救うために、御子イエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。

ヨハネによる福音書3章18−21節にはこうあります。【御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」】。

神さまの御子であるイエスさまのことを信じないということが、もうすでに裁きになっている。なにかイエスさまのことを信じないということで、神さまからの罰がくだされるということでありません。イエスさまを信じないから、よくないことが起こるとか、そういうことではないということです。イエスさまが世を照らす光となって、私たちの世にきてくださった。イエスさまを信じて健やかに歩むことができるのに、イエスさまを信じないでよくないことに心を騒がせて、暗闇へと導かれていく。そのこと自体がもう裁きになっているということです。神さまに導かれて、イエスさまに導かれて、良き生き方をする。光の中を歩んでいく。それはとても幸いなことであり、とても健やかなことであるということです。

もう少し説明をしますと、悪いことをすると裁きにあうということではなくて、悪いことをしているということ自体が、裁きにあっているということなのだと、聖書は私たちに告げています。私たちもそうしたことを考えさせられるときというのがあります。たとえば世のため人のために働くために政治の世界でリーダーになっているにも関わらず、そのリーダーの振る舞いが身勝手で、自分のことしか考えていないように思える時に、私たちは「この人、ほんとにかわいそうな人だ」と思います。大切な自分の人生を台無しにしている。神さまから能力も与えられ、環境も与えられているのに、せっかく政治の世界でリーダーになりながら、世のため人のために働こうとしないなんて、なんてかわいそうな人だと思います。まあ当の本人は、自分のことをかわいそうな人間だと思っていないわけです。でもリーダーでありながら、あわれな振る舞いしかできないリーダーをみる時に、もうそのこと自体が裁きになっているというような気がするわけです。

もちろん政治の世界のリーダーだけでなく、自分自身の振る舞いを考えてみるときに、反省をさせられるときがあるわけです。自分のことだけを考えて、身勝手な振る舞いをしているうちに、いつのまにかだれも自分の周りに人がいなくなってしまっていたりするようなことになっていないか。だれからも馬鹿にされたくないと思い、力で人をやっつけているうちに、周りの人が自分から離れていっているということになっていないか。しかしもうすでにそうした生き方しかできなくなってしまっていて、そのこと自体が裁きになっているようなことになっていないか。

わたしは合理的な考え方が好きで、自分勝手なところがありますから、すぐに愛のない方へと生き方が向かっていくのではないかということが心配になることがあります。自分だけがよければそれでいいというさもしい考え方に支配をされてしまい、高慢になり、恥ずかしい人生を歩んでいながら、そのことに自分で気がつかないというようなことになってしまっているとしたら、まさにそれは、神さまの裁きということなのだろうと思います。

聖書は、そうした生き方になることがないようにと、光となって私たちを照らしてくださる方がおられると、私たちに告げています。暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩みなさいと、私たちを照らしてくださる方がおられると、聖書は私たちに告げています。

ヨハネによる福音書は、イエスさまのことを「世の光」であると告げています。ヨハネによる福音書8章12節にはこうあります。新約聖書の181頁です。【イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」】。【イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」】。

私たちの信仰の先達は、世の光であるイエスさまに導かれて、その生涯を歩まれました。人生の中で、いろいろな出来事にあうとき、私たちは不安になることがあります。これで良いのだろうかと迷うときもあります。またこの道はあやうい道ではないかと思いながらも、その道に入っていってしまいそうになるときがあります。そんなとき、私たちの信仰の先達は、聖書の御言葉によって支えられ、イエスさまが照らしてくださる良き道へと導かれてきました。イエス・キリストがいつも守ってくださり、永遠の命につながる、真実な生き方をすることができました。

そうした信仰の先達の歩みを思い出すときに、私たちもまたその生き方のように、イエスさまにより頼んで生きていこうと思います。私たちも信仰の先達の生き方を受けついで、イエスさまに従って歩んでいこうと思います。

どうかご家族のみなさまも、先に天に召されたご家族の信仰を受け継いで、イエスさまを信じて歩んでくださればと思います。イエスさまはいつも私たちと共にいてくださり、私たちの歩みを照らしてくださり、私たちが良き人生を歩むことができるようにと整えてくださいます。イエスさまに導かれて、幸いな歩みをいたしましょう。



  

(2023年11月5日平安教会朝礼拝式)

2023年11月1日水曜日

10月29日平安教会礼拝説教要旨(山本有紀牧師)

「創造のときの円舞」 山本有紀牧師

礼拝の暦はこの主日から新しい季節に入る。全部で9週ある「降誕前」節の後半4週は「待降節」。救い主が幼子の姿で地上に降る、クリスマスまでを指折り数える。そして前半の5週は、救い主の到来という「約束」の成就に至る、神様と人間との間に紡がれた「契約の物語」を、世のはじめから順に辿る。今年の場合は、「天地創造の祝福」>「アダムとエヴァへの約束」>「アブラハムとサラへの約束」>「モーセと出エジプトのイスラエルへの約束」、そして、最後の5週目は(毎年必ず)、救いの約束の最終目的である「神の国の到来」を覚えて「再臨の、栄光に輝くキリスト」に関わる箇所を読む(再臨の希望の内に、「最初の到来」を待つ季節へ)。

農耕のサイクルでは、収穫の祭りの季節に、私たちは礼拝生活のサイクルにおいても、神が耕し、蒔き、守り育ててその収穫を心待ちにされる、この「被造世界」とこれを保全する務めを委ねられた私たちの人生と、社会全体の歴史がもたらす「実り」の在り様について、信仰の先達が辿った道を記念しつつ、深く吟味するように導かれている。

イスラエルの民がこの「天地創造物語」を生み出したのは、民族にとって最も暗い時代=バビロニア捕囚の時代だった。国も王家も滅び、礼拝を捧げる神殿もなく、モーセが授かったという十戒の石の板も奪われた。彼らが「神の民」であることの印が消失した時代、かつて祭司であった人たちが、この創造物語を生み出した。そこには、イスラエルの神がこの世を「良いもの」として祝福し、美しく整え、その秩序の保全者として自分たちを選んだという信仰が示される。だから捕囚の民はこの物語に生かされて、天地創造の秩序、即ち安息日を命にかえて守り、被造世界のサイクル、蒔き、育て刈り入れる祝福のサイクル、この世の被造物すべてが参与する円舞(ロンド)を、自らの「神の民」としての再生の希望を胸に、躍り続けたのだった。

今も、この円舞は続く。私たちの人生も、社会の歴史も、自然のリズムもすべてがこの円舞の内にある、と天地創造神話は物語る。成功だけでなく、失敗も裏切りも罪も背徳もこのサイクル内で繰り返される。飢饉も不作も洪水も疫病も地震も、あらゆる自然災害も、そして差別や不正義、戦争も。秋を収穫の感謝として迎えることのできない場所も人も毎年存在する。それでも私たちには、この被造世界を「良い」ものとして保全する務めが課せられている。世のはじめの救い=祝福の約束を、この年も私たちはそのままに守り、いのちのサイクルの円舞を続けていかねばならない。その務めを共に担う仲間でありたい。


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》