2024年4月25日木曜日

4月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「あなたならできる」

「あなたならできる」

聖書箇所 ヨハネ21章15-25節。17/470。

日時場所 2024年4月21日平安教会朝礼拝

水は摂氏0度で氷になりますから、なんとなく私たちは0度になるとすべてのものが凍ってしまってもうだめになってしまうというふうに思います。くだものを冷凍庫のなかにいれておくとかちかちに凍ってしまって食べられないというふうに思います。しかし0度以下でも食品が凍らない温度域があります。その温度域を「氷温」と言います。食品をこの氷温域に設定することによって、おいしく安全に貯蔵したり加工したりする技術を「氷温技術」(http://www.hyo-on.or.jp/)と言います。

この氷温技術は鳥取県で開発されました。山根昭美(やまね・あきよし)さんという農学博士が『氷温貯蔵の科学 食味・品質向上の革新技術』(農文協)という本のなかでこんなことを記しておられます。【私がこの氷温の研究にのめり込むようになったのは、じつは二十数年前のある大失敗がヒントになっている。鳥取県の食品加工研究所長だったわたしは、県から委託を受け、ナシの二十世紀の長期貯蔵の研究をしていた。ちょうど青森県がリンゴの炭酸ガス貯蔵に成功したころで、私はこの方法を二十世紀にも応用できないかと腐心していた。炭酸ガス貯蔵とは、炭酸ガスを増やすことによって、果実の呼吸を抑えながら果実の鮮度を保とうとする貯蔵方法である。当時は食べものを凍結させるとみんなダメになってしまうという固定観念があったから、私も貯蔵庫を炭酸ガスでいっぱいにする一方、温度は三度に保つように細心の注意を払っていた。ところがある日、若い研究員が真っ青になって私のところに飛び込んできた。「たいへんです、山根所長。二十世紀がみんな凍ってダメになってしまいました」。貯蔵庫に駆けつけてみると、四トンの二十世紀が全部、透きとおって凍ってしまっている。貯蔵庫の温度調節器が故障してしまい、温度計はマイナス四度を指して止まっていた。科学技術庁の補助金で購入した二十世紀で、暮れになればどこにもないから、私も慌てた。慌てたけれどもどうしようもなく、やけになって、捨てるつもりで貯蔵庫を開け放ち、炭酸ガスを出して空気を入れて放置してしまった。ところがである。三日後に捨てるつもりで貯蔵庫に行ってみると、凍って透明になっていた二十世紀が、再び自然の果皮色(かひしょく)に戻っていたのである。かじってみると味も申し分ない。というよりも、炭酸ガスで保存していた以前とは比較にならないほど「うまい」のである。】

氷温技術は山根昭美(やまね・あきよし)さんの失敗によって発見され研究が進んだ技術です。失敗することによって思わぬ幸いを得るということがあります。「失敗は成功のもと」ということわざがありますから、あたりまえのことなのでしょうけど、でもやっぱり私たちは何かに失敗するとふつうは落ち込んでしまいます。受験に失敗したりすると、もう人生の落伍者のように思ってしまう人もいます。また失敗をすると評価にひびいてくるということもあります。氷温を発見した山根昭美さんなど、4トンのなしを腐らせたと思ったわけですから、もう真っ青だったと思います。でもそれが氷温の発見につながったわけですから、まあ人生わからないものだと思います。

キリスト教の一番の特色は、失敗者・落伍者によって広められた宗教だということです。イエスさまのお弟子さんたちはみんなイエスさまを裏切った失敗者・落伍者でした。そしてその失敗者であり、落伍者である弟子たちがキリスト教を宣べ伝えました。

今日の聖書の箇所は「イエスとペトロ」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書21章15-17節にはこうあります。【食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。】。

イエスさまから三度「わたしを愛しているか」と言われて、ペトロが悲しくなるというのは、ペトロが三度イエスさまのことを知らないと言ったことを思いださせたからでした。ヨハネによる福音書18章15節以下には「ペトロ、イエスを知らないと言う」(204頁)、18章25節以下には「ペトロ、重ねてイエスを知らないと言う」(205頁)という表題のついた聖書の箇所があります。イエスさまはペトロがイエスさまを裏切ることを知っておられました。ヨハネによる福音書13章36-38節以下には「ペトロの離反を予告する」(196頁)という表題のついた聖書の箇所があります。ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」とまで言ったわけですが、しかしイエスさまのことを三度知らないと言ってしまいました。弟子としては大きな失敗でした。

ペトロはイエスさまから「ヨハネの子シモン」と三度呼びかけられています。わたしの先輩の牧師でいま愛知県の南山教会で牧師をしておられる村山盛芳牧師という方がおられます。お父さんも村山盛敦という牧師でした。昔、村山盛敦牧師がいたずらをした盛芳少年を「もりよし」と言って叱ったそうです。それを聞いていた教会員の方が「先生のとこの子どもは怒られる時だけ正式な名前で呼んでもらえるんやなあ」と何気なく村山盛敦牧師に言うと、村山盛敦牧師がえらく落ち込んでおられたそうです。イエスさまも「ヨハネの子シモン」と正式にペトロのことをよんでおられます。ペトロは三度イエスさまのことを知らないと言ったわけですから、ここはやっぱりしっかりとペトロにご自分の気持ちを伝えておこうと思われたのでしょう。ちなみに、いま「ちゅらさん」という沖縄を舞台にしたNHKの連続テレビ小説の再放送が行われていますが、登場人物の妻はいつもは夫のことを「ぶんちゃん」と呼びますが、怒っている時は正式に「恵文さん」と呼びます。こういうのも、よく考えてみると、怒っているのか怒っていないのかすぐにわかっていいですね。

イエスさまはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。わたしの羊を飼いなさいというのは、牧者としてわたしを信じる人々を導きなさいということです。これはなかなか大変な仕事です。ペトロを初めてとして、イエスさまが十字架につけられたとき、イエスさまのお弟子さんたちはみんな逃げ去ってしまったわけです。みんな心に重荷をもっています。一応、よみがえられたイエスさまにみんなで出会ったわけですが、しかしイエスさまは天に帰っていかれます。ペトロはこの心に重荷をもっている弟子たちを、そしてイエスさまのことを信じる人々をまとめる人にならなければならないわけです。それもイエスさまのことを三度知らないと言った者でありながらです。

ペトロがえらそうなことを言ったら、みんな言うでしょう。「そんなこと言ったって、お前はイエスさまのことを三度知らないと言ったじゃないか」。ペトロが模範的な弟子であったのであれば、「まあペトロさまが言うんだから、やっぱりみんなペトロさまの言うことは聞かなければならないだろう」と思うでしょう。でもペトロはそんな人ではなかったのです。ペトロがえらそうなことを言うと、みんな文句を言うでしょう。しかしだからこそ、ペトロは弟子たちのまとめ役を担うことになったのです。「わたしの羊を飼う」ことになったのです。それがイエスさまの選びなのです。イエスさまはあえてえらそうにできない人を選ばれたのです。

ヨハネによる福音書21章18-19節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた】。

ペトロは伝説によると、紀元64年のローマ皇帝ネロの迫害のときに殉教したと言われています。ペトロは【両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれ】、そして逆さ十字架の刑で殉教したと言われています。

ヨハネによる福音書21章20-23節にはこうあります。【ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである】。

ヨハネによる福音書には「イエスの愛しておられた弟子」というなんとも意味深な名前の弟子が出てきます。イエスさまが復活されたときにもペトロと一緒に墓にいった弟子として出てきています。イエスさまから特別に愛されていたと言われる弟子ですから、ペトロもこの人のことが気になったのでしょう。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」とイエスさまに尋ねました。するとイエスさまは「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」とペトロに言われました。だれしも人のことは気になるものです。でもやっぱり大切なことは「自分がどれほど神さまか愛されているのか」「自分がどのように神さまから憐れみを受けているか」ということです。それは人と比べるものではありません。愛は比べると卑しくなります。

ヨハネによる福音書21章24-25節にはこうあります。【これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう】。

ヨハネによる福音書はだれが書いたのだろうということですが、このイエスの愛しておられた弟子の証をもとに、イエスの愛しておられた弟子の弟子たちが書いたというわけです。【一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう】というのはちょっと大げさな気もしますが、それだけ多くの恵みをキリスト者は受けているということです。昔から一杯一杯、イエスさまから恵みを受けてキリスト者は生きてきたのです。

ペトロはイエスさまから「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまからペトロは大切な役割りを命じられたのでした。そのことはペトロにとって荷が重かったのではないかと思います。

ペトロはイエスさまから「わたしを愛しているか」と問われたとき、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロは「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」と答えませんでした。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。同じようなことではないかと思われるかもしれませんが、微妙に違うわけです。

たとえば恋人があなたに「わたしのこと愛してる?」と聞いたら、みなさんは何と答えますか。そんなこと聞かれたことないですか?。でも聞かれたどうですか?。「愛しているよ」と答えるでしょう。お家に帰ってからためしてみてください。もし恋人が「わたしがあなたを愛しているってことはあなたは知っているじゃないか」と答えると、たぶん「そうじゃなくて、わたしのこと愛してるって言って。わたしのこと愛してる?」と、また尋ねると思います。


映画「オペラ座の怪人」の中にはそんな感じの会話が出てきます。クリスティンが「Say you love me(愛してるって言って)」と言うと、ラウルが「You know I do(知ってるじゃないか)」と答えます。これはまあラウルが「I love you(愛している)」と言わずにじらしているってことですが、やっぱり「I love you(愛している)」と言うのと言わないのとでは、微妙に違うのです。

クリスティンとラウルの場合はそうですが、イエスさまとペトロの場合はちょっと意味が違うわけです。ペトロがイエスさまをじらしているということではありません。


ペトロがイエスさまに「主よ、わたしはあなたを愛しています」と言わないのはわけがあります。それはペトロはイエスさまに「愛している」とは言えないわけです。ペトロはイエスさまを裏切りました。ペトロはイエスさまに「あなたのためなら命を捨てます」と言ったのです。しかしペトロはイエスさまの十字架を前にして逃げ出してしまいました。ペトロの言葉はイエスさまの前に意味を持たないのです。「愛してる」と言ったって、また裏切ってしまうかも知れません。ペトロは確信をもって語ることができないのです。そしてペトロは自分が「愛している」というのではなく、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言いました。

それはまたペトロにとっては大きな意味をもつ言葉でした。ペトロは「わたしが愛している」とか「わたしがどうである」ということよりも、「イエスさまがどうである」「イエスさまがご存知じである」ということを自分の生きていく拠り所としたのです。自分がどうするこうするということから、イエスさまに自分をお委ねする生き方へと導かれていったのです。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。

そしてイエスさまはそういうペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまは自信を失っているペトロを励まされました。「ペトロ、あなたにはできる」という気持ちを込めて、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。

私たちは人生においていろいろな失敗をします。「こうしたらよかった」とか「ああしたらよかった」とか思います。「おれはだめなやつだ」「わたしはだめな人間だ」。そんなふうに思えるときがあります。どんなに計画をたててやったとしても、人間のすることですから、やっぱりいたらないことがあります。「こうしたらよかった」「ああしたらよかった」というのは、人間の常なのです。でもやっぱり失敗すると落ち込んだり、自信がなくなったりします。そして次の一歩が踏み出せないときがあります。

でもイエスさまは「だいじょうぶなんだ」と言われます。「あなたはだいじょうぶ。あなたならできる。わたしが共にいるから」。イエスさまはそう言って、私たちを導いてくださっています。使徒ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。あなたにはできる」と言ってくださったイエスさまは、私たちにも「あなたならできる」と言ってくださっています。イエスさまは私たちを導き、私たちを励まし、そして私たちを用いてくださいます。イエスさまの招きに応えて、安心して歩んでいきましょう。


(2024年4月21日平安教会朝礼拝)


4月14日平安教会礼拝説教要旨(内山宏牧師)「未来を拓く」

「未来を拓く」 内山 宏牧師

ルカによる福音書24:36ー49節

 イースターの賛美歌を一つ選ぶなら、こどもさんびかの「イースターのあさはやく」を選びます。各節にある「じゅうじかでしんだ/あのイエスさまが」という言葉が、共に生き、神の愛を伝えたのに、十字架の死によってもう会えない、「あの」イエス様が本当によみがえられたという驚き、喜びを表します。

 2番では、十字架の出来事に絶望し、エマオへ向かう二人の弟子の物語が歌われます。共に歩み始めた復活の主に、二人は心を塞がれ気づきませんが、食事の席で「あのイエスさま」に気づきます。この物語に続くのが今日のみ言葉です。二人の弟子が、使徒たちにこの出来事を話していた時に、復活の主が現れます。「あなたがたに平和があるように」と挨拶され、御自身であることを示されますが、弟子たちはうろたえます。その弟子たちにイエス様がなさったことがおもしろい。「何か食べ物があるか」と言われ、差し出された魚を食べられました。おいしそうに魚をむしゃむしゃと食べるイエス様を想像します。

 イエス様のユーモアです。ユーモアは、人が行き詰まった時に、肩の力をぬき、本来の力を取り戻す力があります。昔読んだ話ですが、野球の試合が進み、一発逆転されそうなピンチを迎えます。コントロールを失ったピッチャーに、監督はタイムを要求して伝令を送り、一言伝えます。ピッチャーは落ち着きを取り戻し、危機を乗り越えます。みんなが不思議がって監督に聞くとこう言ったそうです。「たかが野球じゃないか」。叱咤激励ではなく、この一言がピッチャーの力を取り戻させます。これがユーモアです。イエス様のユーモアがこのように戸惑う弟子たちを回復させます。

 この物語は、10章の「七十二人を派遣する」という話を念頭に記されたと言われ、言わば復活の主がそれを再現したことになります。ここに二つの意味があります。一つは、十字架の出来事によって破れた関係を取り戻し、共同性を回復することです。第二は、回復された共同体がどこに向かうかを示すことです。弟子たちを宣教へと送り出す備えです。過去を修復し、未来を拓きます。

 もう一つ、復活の主と再会しながら、うろたえる弟子の姿に私は慰めを感じます。人生においても、戸惑い、恐れ、うろたえることがあります。いつも元気とはいきません。けれども、それで良いと思います。イエス様は私たちにも弟子たちと同じようにしてくださるからです。み言葉によって、あるいは他者の言葉や行動かも知れませんが、それぞれにふさわしいあり方で、私たちを回復し、未来も拓いてくださいます。弟子たちの物語は、私たちの物語です。


2024年4月11日木曜日

4月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「平安をもたらす神さまの聖霊」

 「平安をもたらす神さまの聖霊」

聖書箇所 ヨハネ20:19-31。326/323。

日時場所 2024年4月7日平安教会朝礼拝式

  

私たちはグループを作って、何かをするということがあります。趣味のグループもあるでしょうし、学会のような組織である場合もあります。わたしもいろいろな委員会に出席します。そうしたグループとかサークルに出席していると、人間の集まりですから、ときにぎくしゃくして、「なんかいやな感じ」という思いになる出来事に出くわすときがあります。自分自身もなんか嫌なことを言ってしまって、あとから「ああ、言わなければ良かった」と思って、しばらく落ち込んでしまうというようなこともあります。

荒木優太の『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)は、なんとも挑戦的なタイトルです。【一人ひとりは心優しい人間だとしても、全てのメンバーが互いをよく知っている小規模で親密な集いには、親密でよく通じ合っているが故に発生してしまう「毒」がある。その集いは人々の間のミクロな違い、その隙間に巣くうコミュニケションによって「有害な小集団」と化し、わたしたちを日々毒す】(表紙裏)とあります。人の集りというのは、なかなかむつかしいもので、良い人たちの集りであっても、なんかうまくいかず、疲れたり、傷ついたりする出来事に出会うということがあります。

イエスさまのお弟子さんたちの集まりも、ときどきぎくしゃして、互いに対立したりしています。「おれが一番えらい」とか「あいつはイエスさまから贔屓されている」というようなことが起こっています。それでもイエスさまを慕って集まり、イエスさまについて歩んでいくわけです。しかし最終的に、イエスさまが十字架につけられたとき、みんなイエスさまを裏切って逃げ去ったわけです。ちりじりになって逃げてもよさそうなものであるわけですが、なぜかひとところに集まります。そして一つのところに集まりながらも、自分たちはイエスさまを裏切ったという暗い影に脅えていました。

今日の聖書の箇所は「イエス、弟子たちに現れる」「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書では、イエスさまは復活され、マグダラのマリアの前に姿を現されました。そしてそのあと、イエスさまは弟子たちに現れます。

ヨハネによる福音書20章19−21節にはこうあります。【その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」】。

イエスさまの弟子たちはユダヤ人たちが自分たちをも捕まえに来るのではないかと恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。そこにイエスさまが現れ、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われます。「あなたがたに平和があるように」というのは、シャロームという日常の挨拶です。しかしまさに弟子たちには平和がなかったのです。弟子たちはイエスさまを裏切って逃げていました。「この方についていこう」「この方を信じていこう」。そう思っていた人を裏切ったわけですから、弟子たちのこころはもうズタズタだっただろうと思います。弟子たちはイエスさまのことを裏切ったわけですから、今度は自分がだれかに裏切られるかも知れないのです。自分が助かりたいがために、ほかの弟子たちをユダヤの指導者たちに売り渡すということを行なうかも知れないわけです。だれも信じられないのです。弟子たちはおびえていました。

そうした弟子たちに、イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言われます。ほんとうに平和があったら、どんなにいいだろうと思います。そのようにおびえている弟子たちのところに、よみがえられたイエスさまが来てくださったということです。そしてイエスさまは十字架につけられたときの手の釘あとと、槍でつかれたわき腹を、弟子たちにお見せになりました。弟子たちはそれで、イエスさまだということがわかります。そしてイエスさまは重ねて、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そしてイエスさまは「あなたがたを遣わす」と弟子たちに言われました。イエスさまは「おまえたちはわたしを裏切っただめな人間なので、新しい弟子たちを集めることにした」とは言われませんでした。「裏切った人は弱い人間だから、もう二度と、わたしの弟子になることはできない」とは言われませんでした。「あなたがたを遣わす」と言われ、あなたたちはいまもなおわたしの弟子なのだと言われました。

ヨハネによる福音書20章22−23節にはこうあります。【そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」】。

イエスさまは弟子たちに「あなたがたを遣わす」と言われ、そして弟子たちに息を吹きかけられます。息を吹きかけるというのは、また奇妙なことをするなあと思いますが、イエスさまは弟子たちに命の息を吹きかけられたのです。創世記の2章に、人間が神さまによってつくられたときの話が出ています。旧約聖書の2頁です。創世記2章7節にはこうあります。【主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。】。神さまが命の息を吹き入れて、人をつくられたように、イエスさまもまた弟子たちに命の息を吹きかけられたのです。

そしてイエスさまは「聖霊を受けなさい」と言われました。聖霊というのは、神さまの霊ということです。あなたたちは自分の力で生きることができると思っていたけれども、でもやっぱりだめだっただろう。イエスさまを裏切ることなんか絶対にないと思っていただろうけど、やっぱりだめだっただろう。聖霊を受けて、神さまにより頼んで生きていきなさい。神さまはあなたたちを励まし導いてくださる。そしてそのとき、とっても大切なことがある。それは赦しあって生きることだ。あなたに人の罪を赦す力を与えてあげる。あなたがその人の罪を赦してあげたら、その罪は赦される。でもあなたがその人の罪を赦さなければ、その罪は赦されないまま残る。あなたはこの世界に罪が残られないように、その人を赦してあげなさい。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書20章24−25節にはこうあります。ここから「イエスとトマス」の話になります。【十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」】。

イエスさまが弟子たちのところに現れた時に、トマスはいませんでした。ほかの弟子たちはうれしくてうれしくて、「わたしたちはイエスさまに会った」というわけですから、トマスの気分が良いわけはありません。それでトマスは「わたしは自分がイエスさまに会って、イエスさまの手の釘のあとをみて、わたしの指を釘跡に入れてみなければ信じない」「わたしはわたしの手を、イエスさまのわき腹に入れてみなければ信じない」と言いました。弟子たちに対して、イエスさまは「手とわき腹とをお見せになった」わけですから、それ以上のことをしないと信じないというわけです。まあ意固地になっているというような感じなのでしょう。

ヨハネによる福音書20章26−29節にはこうあります。【さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。

八日ののちに、イエスさまはトマスが一緒にいるときに、弟子たちを尋ねられました。イエスさまはまた「あなたがたに平和があるように」と言われました。トマスは意固地になっていますから、弟子たちの間には平和がないのです。イエスさまはトマスに、「「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われました。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。トマスはいままでの頑なな態度がウソのように、素直に「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。イエスさまはトマスに、「わたしをみたから信じることができたのか。見ないで信じることのできる素直な人は幸いだと思う」と言われました。

ヨハネによる福音書20章29−31節にはこうあります。【このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。】。

この聖書の箇所は「本書の目的」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書の締めくくりの言葉です。私たちの持っている聖書はそのあと、ヨハネによる福音書21章があるので、ここで終わっているわけではないわけです。しかし一般的な聖書学の考えでは、ヨハネによる福音書21章はあとから付け加えられた聖書の箇所であるようです。まあイエスさまは多くのしるしをなさったわけですから、一応書き終えたあと、「ああ、このことも書き加えておいたらよかった」というようなものも出てくるのも当然であるかも知れません。そしてまあ書き加えられたということなのでしょう。私たちはヨハネによる福音書を読むことを通して、イエスさまが私たちの救い主であり、私たちはイエスさまを通して、永遠の命を受け継ぐことができるということを知ることができるのです。

挨拶だからということもありますが、イエスさまは今日の聖書の箇所で、3度、「あなたがたに平和があるように」と言われます。弟子たちは不安であるからです。弟子たちは不安で、不安でたまらないのです。弟子たちはイエスさまを裏切った人たちの集りであるのです。イエスさまを裏切ったわけですから、今度は自分が裏切られるかも知れない。自分が裏切られる前に、自分が裏切って、自分だけが助かるという方法もあるのではないかという思いが、心の中にあるのです。それは自分がそのように考えているわけですから、他の人もそのように考えているかも知れないということは容易に想像できます。

そうした不安を抱える弟子たちのところに、イエスさまはきてくださり、弟子たちの歩むべき道を示してくださいました。それは聖霊を受けて、神さまを信じて生きるということです。イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました。そして互いに赦しあって生きることの大切さを示されました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。もしかしたら誰かが自分を裏切るかも知れない。そのような疑心暗鬼な気持ちに包まれている弟子たちに、イエスさまは赦しあって生きることが大切だと言われました。だれかから赦すことができないという思いになるようなことを受けたとしても、赦しあって生きていきなさい。確かな気持ちをもって、自分が人生の主人公として生きていきなさい。あなたが罪を赦したら、その罪は赦されるのだ。いつまでも罪に囚われるのではなく、あなたが罪を赦し、あなたが人生の主人公として生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。

イエスさまを裏切る弱さを抱えて生きている弟子たち。その弟子たちが生きていくためには、神さまを信じて、互いに赦しあいながら生きていくということが大切だったのです。弱さを抱えている私たちは、互いに赦しあいながら生きていくのです。そしてイエスさまが疑うトマスに、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われたように、疑うことに重きを置くのではなく、信頼しあって生きていくということが大切なのです。「あの人はわたしを裏切るのではないか」という気持ちに支配されるのではなく、「あの人とわたしは同じイエスさまの弟子なのだ、友だちなのだ」という気持ちをもって、信頼しあって生きていくことが大切であるのです。

イエスさまは「平安をもたらす神さまの聖霊」があるのだと言われます。そしてその「聖霊を受けなさい」と言われます。神さまを信じて、健やかに生きる。それがあなたたちの生きる道なのだ。神さまから祝福された道なのだと、イエスさまは言われます。

赦しあい、助け合い、神さまの聖霊を信じて、健やかに生きていく。復活されたイエスさまは、私たちにそのように呼びかけ、「あなたがたに平和があるように」と、私たちを祝福してくださっています。




(2024年4月7日平安教会朝礼拝式)


2024年4月6日土曜日

3月31日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イースター、穏やかな日常へ」

 「イースター、穏やかな日常へ」

聖書箇所 マタイ28:1-10。327/333。

日時場所 2024年3月31日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝式


イースター、おめでとうございます。私たちのために、イエスさまがよみがえってくださいました。よみがえられたイエスさまと共に、神さまに祝福された歩みをしていきたいと思います。

ことしのイースターは愛餐会を行ないます。野の花会のみなさんが用意をしてくださいました。こころから感謝いたします。新型コロナウイルス感染症のために、教会の交わりも制限を受けてきました。今年度から少しずつもいろいろなことができるようになりました。コロナ禍においては、いろいろなことで日常生活が制限を受けました。私たちの日常生活が、どんなに尊いものであり、多くの人々がそうした私たちの日常生活のために働いてくださっているのかを知ることができました。私たちの世界にあっては、戦争によって日常生活が奪われ、辛い思いや悲しい思いのなかにある多くの方々がおられることを、私たちは知っています。どうか神さまの義と平和に満ちあふれた世界になりますようにと、祈りをあわせたいと思います。

またことしのイースターは洗礼を受けてクリスチャンとしての歩みを始められる方が、2名。そして転入会をしてくださる方が1名、おられます。私たちの教会にとりましては、とても大きな喜びです。神さまにこころから感謝いたします。

今日の聖書の箇所は「復活する」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書28章1−4節にはこうあります。【さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。】。

イエスさまが十字架につけられ、天にめされたあと、アリマタヤのヨセフがイエスさまの遺体を引き取って、新しいお墓に入れました。そのあと安息日になりました。ユダヤ教では安息日は何もしてはいけない期間でしたので、イエスさまの葬りの準備をすることができませんでした。ですから安息日が終わったあと、マグダラのマリアともう一人のマリアが、お墓にいって、葬りの準備をしようとしました。そのときに大きな地震が起こります。そして天使が天から降ってきて、お墓の入り口にあった大きな石をころがし、その上に座ります。イエスさまのお墓で見張りをしていた番兵たちは驚き、恐れました。

マタイによる福音書28章5−7節にはこうあります。【天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」】。

天使は女性たちに「恐れることはない」と言いました。大きな地震が起こり、番兵たちも震え上がり死人のようになったわけですから、女性たちも怖かっただろうと思います。しかし天使は女性たちに「恐れることはない」と言い、彼女たちが驚くことを言いました。イエスさまが復活された。遺体の置いてあったところを見てみなさい。そこにはイエスさまの遺体はもうない。さあ、急いで弟子たちのところに行き、そしてこう伝えなさい。「イエスさまは死者の中から復活された。そしてあなたたちより先にガリラヤへ行かれる。そしてそこでお会いすることができる」。確かにあなたたちに伝えましたよ。

マタイによる福音書28章8−10節にはこうあります。【婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」】

女性たちは少しびっくりしましたが、イエスさまが復活されたことを知り、とても喜び、そして弟子たちに知らせるために墓をあとにしました。すると、女性たちの行く先に、イエスさまが立っておられました。イエスさまは女性たちに「おはよう」と言われました。そして女性たちはイエスさまに近寄り、イエスさまの足を抱き、そしてイエスさまの前にひれ伏しました。イエスさまは言われました。「恐れることはない」「わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように行ってください。そこでわたしに会うことができると」。

マタイによる福音書のイエスさまの復活の物語は、番兵たちが出てくるということです。イエスさまの死体を弟子たちが盗み出して、イエスは復活したと言い広めるということが起こってはいけないから、イエスさまの墓に番兵たちがおかれています。しかしイエスさまは復活されます。マタイによる福音書28章11節以下には「番兵、報告する」という表題のついた聖書の個所があります。番兵はすなおにイエスさまが復活したことを報告するわけです。しかし祭司長たちはそれでは困るので、番兵にウソの噂を広めるように支持します。「イエスさまの遺体は、弟子たちが盗み出して、そしてイエスさまは復活したと弟子たちが言い広めている」というウソの噂を、番兵たちが言い広めるのです。

この番兵たちの話以外は、マタイによる福音書ではイエスさまの復活について、とても淡々と信じられた出来事として記されています。マグダラのマリアやもう一人のマリアたちも、実際によみがえられたイエスさまに、イエスさまの墓から帰る途中で出会っています。イエスさまのお墓がからっぽだったということだけで終わったのであれば、まあちょっと心配になるわけですが、マグダラのマリアたちはそのあと実際によみがえられたイエスさまに会っているので、「ああ、イエスさまがよみがえられた」と素直に思えます。

よみがえられたイエスさまは女性たちを通して弟子たちに「ガリラヤ出会う」ということを伝えます。弟子たちがイエスさまがよみがえられたあとに会う場所は、ガリラヤです。ガリラヤというところは、イエスさまや弟子たちの多くの出身の町です。弟子たちはイエスさまにガリラヤで出会い、そしてイエスさまと共に歩みます。イエスさまが十字架につけられるときに、弟子たちは逃げ出してしまいます。しかしイエスさまがよみがえられたあと、弟子たちはまたガリラヤから新しく歩み始めるのです。

ガリラヤは弟子たちがイエスさまと出会った場所というだけでなく、「異邦人のガリラヤ」と言われる地域でした。エルサレムと違って、ユダヤの中心ではないわけです。ユダヤ人は自分たちの民族はすばらしく、他の民族はだめであるという考え方が強かったですから、「異邦人のガリラヤ」という言い方は、その地域に住んでいる人たちに対する蔑みの言葉であるわけです。「ガリラヤからすばらしい人が出るはずがない」というような言われ方をするのが、ガリラヤでありました。そうしたエルサレムという中心から離れた地域がガリラヤであるわけです。ガリラヤはまた貧しさを抱え、蔑みを受けるところでありました。イエスさまはそのガリラヤで、復活のあと、弟子たちに会われたのでした。

ガリラヤの地もいろいろな問題や課題を抱えるところでありました。それは私たちの生きている世の中や、私たちの生活でもあることです。私たちも生活の中で、いろいろな悩みや困難に出会います。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。すべてのことがうまくいっているわけでもないですし、私たちにとって不都合なことも起こります。ひとから誤解を受けるようなこともありますし、ひとから傷つけられることもあります。さみしい思いをすることもありますし、また自分が人を傷つけてしまい、そのことでまた自分自身が傷つくというようようなこともあります。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。

イエスさまはいろいろな問題や課題があるガリラヤで、よみがえられたあと、弟子たちに会われます。いろいろなことがあるけれども、しかしその場所からまた新しい思いになって歩み始めることを、イエスさまは望んでおられます。

私たちの毎日の生活の中で、イエスさまは私たちに伴ってくださり、私たちの歩みを支えてくださっています。

イースター、弟子たちがガリラヤに帰ったように、私たちもまた穏やかな日常に帰っていきたいと思います。イエスさまが私たちの歩みを導いてくださいます。よみがえられたイエスさまと共に、健やかな歩みをしていきたいと思います。


  

(2024年3月31日平安教会朝礼拝式・イースター礼拝式)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》