2024年5月31日金曜日

5月26日平安教会礼拝説教要旨(山﨑道子牧師)「名を呼ぶ神」

2024年5月26日(日)平安教会礼拝メッセージ

「名を呼ぶ神」 山﨑道子(豊中教会)


キリスト教の教えの中で、一番大事で一番分かりにくいのが復活です。なんせ死んだ人間が生き返るなんて非現実的なことをそう簡単に信じられるはずもありません。イエスの時代にも、復活を否定していたサドカイ派というグループがありました。そのサドカイ派の人々が、聖書のある掟を逆手に取り、復活についてイエスに意地悪な質問をしてきました。 「7人兄弟の長男が妻を迎えたが跡継ぎを残さないで死んだので、次男が掟に従ってその女性を妻にしたが、その次男も亡くなった。そうやって7人兄弟が次々この女性を妻としたが、皆跡継ぎがないまま死に、最後はこの女性も死んでしまった。この場合、全員が復活したときにこの女性は誰の妻になるのか。」

 私にはこの箇所を読む度に思い出すおじさんがいます。彼はある日突然教会に来て、「若い頃から血の気が多く、アルコール中毒となった挙句に親兄弟から縁を切られ、一時はホームレスだった。今はお酒をきっぱりやめたが、最近病気が見つかった。礼拝に出るのは恐れ多いが、自分のような人間は死んだらどうなるのか気になってここに来た」と言い、当時牧師になりたてだった私を大変困惑させました。

その後、2か月に一度程のペースで彼と平日に話をしました。話題の半分くらいはタイガースでしたが、この不思議な面談が1年半程続いた後、彼は禁酒サポートで世話になっていた聖公会の教会で受洗することになったのです。その年のクリスマスの朝、駅前の喫茶店で一緒にモーニングを食べていた際、自分など救われるはずがないと頑なだったそのおじさんが、「洗礼を受けると決めた瞬間から、心がとても楽になり安心できるようになった」と何とも晴れ晴れしい笑顔で言ったのです。

 復活の命とは、死んだ後に頂くものではありません。私たちは神に名を呼ばれ、神と出会うことによって、すでにもう復活の命を生き始めているのです。神は今も生きて私たちと共におられ、たとえ私が死んでも神は私の名を記憶し続け、永遠に存在し続けてくださるのです。その意味で、わたしたちは限りあるいのちを持つ生き物であるにも関わらず、神と共に永遠に生きる命を与えられているのです。それは、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなたの父母の神であり、あなた自身の神であると自己紹介してくださっているようなものです。恐れ多いことではありますが、そう呼ばれるに少しでも値する人間でありたいと思います。


2024年5月23日木曜日

5月19日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「神さまと共に生きる幸い」

 「神さまと共に生きる幸い」

聖書箇所 ヨハネ14:15-27。346/343。

日時場所 2024年5月19日平安教会朝礼拝・ペンテコステ礼拝式

ペンテコステ、おめでとうございます。

ペンテコステは「教会の誕生日」と言われます。イエスさまのお弟子さんたちが集まっている家に聖霊が降り、そして聖霊の力によって、お弟子さんたちがいろいろな国の言葉で、神さまのこと、イエスさまのことを話しはじめ、そしてそのことによってキリスト教が広まっていき、そして教会が誕生していくことになるからです。

ペンテコステは赤いものを身に着けるというキリスト教の風習がありますから、赤いネクタイをしています。今日は南部地区の青年部の方がきておられるので、赤いクリアファイルに週報や教会案内を入れてお渡しいたしました。そしてほかにペンテコステのプレゼントとして、教会のペーパークラフトをお渡ししています。ガウディのサグラダファミリアです。

ペンテコステはキリスト教の三大祭りの一つであるわけですが、クリスマスやイースターに比べると、お祭りとしての位置づけが弱いような気がします。クリスマスはアドベントを経て、イースターはレント・受難節を経てやってきますが、ペンテコステは突然やってきます。そしてクリスマスにはクリスマスケーキやクリスマス・プレゼントがありますし、イースターにはイースターエッグがあります。しかしペンテコステはそうしたものがあまりありません。

わたしはペンテコステにもふさわしいものがないのかと考えました。いちばんふさわしいのはもちろん「聖霊はthe Holy Spirit」ですから「お酒(アルコール分の強い蒸留酒、ブランデー・ウオツカなど)、spirits」ということなのでしょう。しかしまあそれもなあと思いますので、よくあるのは鳩サブレです。でもなかなか身近で手に入りにくいので、どこででも手に入るものいいと思い、わたしはみなさんにアイスクリームをお勧めしています。ペンテコステは聖霊によって熱くなった体を冷やすために、アイスクリームがふさわしいと思いました。わたしはペンテコステにアイスクリームを食べることにしています。わたしは今日も食べるつもりです。アイスクリームを食べるようになって、なんとなくペンテコステが待ち遠しくなりました。でも「アイスクリームはちょっと。お腹がひえちゃうわ」という人に、新たにペンテコステにふさわしい新しいものを見つけました。みなさん、知りたいですか?。と言っても、まあそんなに知りたくはないと思いますが。それはティラミスです。

ティラミスは、イタリア発祥のチーズケーキの一種です。ティラミスはイタリア語です。「tira」は「引っ張って」、「mi」は「わたしを」、「su」は「上へ」という意味です。「わたしを上に引っ張って」ということですから、「わたしを元気にして」という意味です。聖霊に満たされて、元気になった弟子たちが、イエスさまのこと、神さまのことを宣べ伝え始めたのが、ペンテコステの出来事であったわけですから、「わたしを元気にして」という意味のティラミスは、ペンテコステにふさわしいデザートだと思います。ただちょっと気をつけなくてはならないのは、ティラミスは「わたしを元気にして」という意味のほかに、「わたしを恋人にして」という意味があります。「わたしを一段、上へと引き上げて」ということで、「友だちから恋人にして」という意味になります。だからちょっと異性(もちろん同性の場合もあるかもしれませんが)と食べる場合は、ちょっと相手に誤解を与えないか気をつけたほうがいいでしょう。

今日、家族にティラミスを買って帰って、「今日はペンテコステだから、ティラミスを食べるの」と言って、みんなでティラミスを食べると、たぶんみなさんのご家族は「来年のペンテコステはいつ?」と尋ねてくださるだろうと思います。2025年、来年のペンテコステは6月8日(日)です。たぶん、来年、ご家族はペンテコステが来るのを楽しみにしてくれて、5月の下旬頃になると、「もうすぐペンテコステよね」と教えてくださるだろうと思います。ぜひご家族とペンテコステをお祝いしてください。こういうのを家族伝道と言います。

もしかしたらご家族の方が、「ペンテコステって、どんな出来事」と質問されるかも知れませんから、ペンテコステの聖書の箇所を読みましょう。ペンテコステの聖書の箇所は、使徒言行録2章1−13節です。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた】。

イエスさまの弟子たちはイエスさまのことを裏切り、そしてイエスさまを十字架につけました。イエスさまは三日目によみがえってくださり、弟子たちを赦し、そして弟子たちを世に遣わされました。そしてイエスさまは天に帰られます。そしてイエスさまはご自分の代わりに、聖霊をあなたたちのところに遣わすと、弟子たちにお約束になりました。そしてペンテコステに聖霊が弟子たちに降ったのです。

今日の聖書の箇所は「聖霊を与える約束」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書14章15ー18節にはこうあります。【「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る】。

イエスさまは「別の弁護者を遣わす」と言われました。イエスさまがおられないと弟子たちは不安です。その不安な弟子たちのところに、イエスさまは「別の弁護者」、すなわち聖霊を送ると言われました。それは「私たちはどんなときでも恐れることはない」ということです。私たちはいつも守られているということです。聖霊はいつも私たちと共にいてくださり、私たちの内にいる。神さまは私たちを一人にしたりはしない。神さまはいつも私たちと共にいてくださる。私たちは神さまの平安の中に生かされているのです。

ヨハネによる福音書14章19−21節にはこうあります。【しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」】。

イエスさまはご自分が天に帰っても、あなたたちは大丈夫だと、弟子たちに言われました。それは「わたしが神さまの内におり、あなたたちがわたしの内におり、わたしもあなたたちの内にいる」からだ。「わたしと神さまとあなたたちはひとつなのだ」と、イエスさまは言われました。あなたたちはわたしを愛している。だからかみさまはあなたたちのことを愛しておられる。あなたたちは何の恐れもない。あなたたちには何の不安もない。神さまがあなたたちと共にいてくださる。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書14章22−25節にはこうあります。【イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した】。

イエスさまは神さまのことを信じない世の人々と、イエスさまの弟子たちとの違いを明らかにしておられます。イエスさまを愛する人は、イエスさまの言われたこと、イエスさまの御教えを守って生きようとします。もちろんすべての御教えを守ることはできないかも知れません。私たちは弱さを抱えていますから、イエスさまのようには生きられません。しかし私たちはイエスさまを愛し、イエスさまの言葉を守っていきようと、イエスさまに希望を置いて生きていきます。自分の弱さを知っているからこそ、私たちはイエスさまに希望を置いて生きています。そしてそんな私たちにイエスさまは聖霊を送り、私たちを祝福し、導いてくださるのです。

ヨハネによる福音書14章26−27節にはこうあります。【しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな】。

「心を騒がせるな。おびえるな」と、イエスさまは言われました。私たちは弱さを抱えて生きていますから、心を騒がせたり、おびえたりすることが、よくあります。年中、なんかかんかの煩いのなかにあるのが、私たちだと言えるかも知れません。そうした弱さを抱える私たちに、イエスさまは別の弁護者、すなわち聖霊を送ってくださるのです。私たちに聖霊が送られるというのは、私たちが強いからではありません。私たちがイエスさまの御言葉、御教えを守って、イエスさまがおられなくなっても、未来永劫、しっかりと歩んでいくことができるというのであれば、私たちに聖霊が送られる必要はないのです。私たちが弱く、力のないものだからこそ、聖霊は私たちを包み込み、私たちを守り、私たちを励まし、元気にしてくださるのです。

私たちは神さまによって生きています。私たちはイエス・キリストによって生きています。【わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる】と、イエスさまは言われました。私たちは神さまと共に生きています。これが私たちにとっての大きな幸いです。イエス・キリストは「神、われらと共にいます」ということの徴として、私たちの世に来てくださいました。そして聖霊もまた「神、われらと共にいます」という徴として、私たちの上に注がれるのです。

神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださいます。ペンテコステ、聖霊を受けて、神さまに感謝して歩みましょう。神さまはいつも私たちと共にいてくださいます。


(2024年5月19日平安教会朝礼拝・ペンテコステ礼拝式)


2024年5月17日金曜日

5月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「広がりゆく神の国」

 「広がりゆく神の国」

聖書箇所 ヨハネ7章32-39節。155/412。

日時場所 2024年5月12日平安教会朝礼拝・母の日礼拝

わたしは岡山教会で伝道師・副牧師をしたあと、新潟県の三条教会という教会に赴任しました。三条教会は現住陪餐会員20名くらいの教会でした。礼拝出席15名くらいの教会でした。祈祷会や集会も参加者一人ということもめずらしいことではありませんでした。だれも来ないので、ヒムプレーヤーでよく一人で讃美歌の練習をしていました。

三条教会は1948年6月に創立され、今年創立76周年を迎えます。三条教会の信徒の方から聞いた話で、とても印象的な話があります。それは三条教会の創立期に、集会をもつ家が与えられた時の話です。創立期の信徒の方でとても熱心な方がおられました。集会をもつ家が与えられて、ものすごく喜ばれたそうです。その方はとてもうれしかったので、おつれあいに「礼拝や集会をもつ家が与えられたから、今度は専任の牧師さんが来てくれたらいいねえ」と言ったそうです。そのときそのおつれあいさんは「おとうさん、そんなばかなことあるわけないでしょ!。こんなところにだれが来ますか」と答えたそうです。

「あーんなこというんじゃなかった」と、その熱心な信徒さんのおつれあいが、わたしに話してくださいました。「あのときはぜったいそんなことになるわけないと思っていたけれど、おとうさんのいうとおり、牧師さんがきてくれる教会になったんだから、やっぱりおとうさんが正しかったんですね」。わたしはこの話を聞きながら、「ああ、こういう信徒の方々のあつい願いや祈りによって、教会が立っているんだなあ」と思いました。この熱心な信徒さんのおつれあいは、わたしが赴任した時にはとても熱心な信徒さんでした。でもそのときはおつれあいが言われた「礼拝や集会をもつ家が与えられたから、今度は専任の牧師さんが来てくれたらいいねえ」という言葉が、まったくばかばかしい言葉に聞こえたわけです。「ありえない!」と思ったのです。

教会の創立期であり、たぶん集っている人たちも数人であったのでしょう。たしかに「おとうさん、そんなばかなことあるわけないでしょ!」と言うのも無理のないことだったと思います。三条市はそんなに大きな街でもないですし、仏教の強いところです。そんなに簡単に教会に集う人々が増えていくとも思えない。冷静に考えれば「ありえない」と考える方がまともな考え方だと思います。しかしこの人の冷静な判断が誤りで、おつれあいの夢のような話が正しかったわけです。「そんなばかなことあるわけないでしょ!」と思えることが実現していくというのが信仰のなせる業です。

今日の聖書の箇所は「下役たち、イエスの逮捕に向かう」という表題のついた聖書の箇所です。今日は教会暦で「キリストの昇天」、イエスさまが十字架につかれよみがえられたあと、天に帰っていかれたということを記念する日です。マルコによる福音書16章19-20節にはこうあります。新約聖書の98頁です。「天に上げられる」という表題がついています。【主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕】。イエスさまは天に帰られ、そして来週はペンテコステを迎えて、イエスさまの代わりに聖霊が私たちのところに来てくださるということになります。

ヨハネによる福音書7章32-34節にはこうあります。【ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」】。

イエスさまは祭司長たちとファリサイ派の人々の企てによって捕えられ、十字架につけられ、そして殺されます。イエスさまはそのことを知っておられました。祭司長たちの側からみれば、イエスさまの十字架の出来事は、自分たちに歯向かった犯罪人であるイエスが裁きを受けるということでした。「犯罪人イエスが十字架につけられる。ざまあみろ」という出来事でした。しかしイエスさまは神さまの側からみたイエスさまの十字架の出来事について淡々と語っておられます。【「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」】。イエスさまにとっては十字架につけられるということは、ご自分をお遣わしになった神さまのところに帰っていくということでした。

ヨハネによる福音書7章35-36節にはこうあります。【すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」】。

祭司長たちやファリサイ派の人々がイエスさまを捕えようとしています。それでイエスさまはどこかに行ってしまおうとしているのではないかと、ユダヤ人たちは考えました。どこかに逃げていくのではないか。このガリラヤ湖畔から逃げ出して、遠く遠く離散しているユダヤ人のところまで、イエスは逃げていくのではないか。そのようにユダヤ人たちは考えました。

ヨハネによる福音書7章37-39節にはこうあります。【祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである】。

イエスさまは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と人々を招かれました。そして「わたしを信じる者は、聖霊を受ける」と言われました。イエスさまが十字架につけられ、よみがえられ、天に帰って行かれたあとに、イエスさまを信じる者たちは聖霊を受けて、そしてイエスさまのことを宣べ伝えることになります。

ユダヤ人たちは【「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」】と言いました。これは嘲りの言葉です。「イエスはいなくなると言うけれども、どこか遠くに逃げて行くのか」。そのような嘲りの言葉です。そして「イエスはいなくなると言うけれども、ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところにでも行って、ユダヤ人ではなくギリシャ人に教えるのか。アーハハハハハ」という言葉です。

このときユダヤ人たちは「そんなばかなことあるわけないでしょ!」「ありえない!」と言って笑っているわけです。しかし奇妙なことにキリスト教の歴史というのはこのユダヤ人たちの嘲りが実現したという歴史であるわけです。のちにこのユダヤ人たちは「『そんなばかなことあるわけないでしょ!』『ありえない!』と自分たちは言ってたけど、あのとき自分たちが言っていたことが正しかったんだなあ」と思うことになるわけです。

イエスさまが十字架につけられ、よみがえられ、天に召されたあと、聖霊が弟子たちにくだり、弟子たちはイエスさまのことを宣べ伝えます。使徒パウロは【ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教える】のです。テサロニケの教会、フィリピの教会、コリントの教会などなど、使徒パウロは手紙を書いて、その手紙が私たちの聖書の中に記されています。ギリシャからローマへそして世界中に教会が建っていくことになります。

イエスさまは弟子たちに「『種を蒔く人』のたとえ」という話をしておられます。マルコによる福音書4章1−9節に記されてあります。新約聖書の66頁です。【イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた】。

このたとえは、マルコによる福音書4章13節以下に「『種を蒔く人』のたとえの説明」というところで説明がされていて、ちょっとややこしいのですが、もともとは「神さまの御言葉は御言葉自体に力があるから、どんどんどんどん広がって行くんだ」という意味のたとえです。【ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった】というところが大切なのです。

讃美歌21の412番には「昔主イェスの」という讃美歌があります。【昔主イェスの蒔きたまいし、いとも小さきいのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、樹とはなりぬ】。この「『種を蒔く人』のたとえ」からつくられた讃美歌です。

【種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった】】。私たちにとって大切なのは、この御言葉の力を信じるということです。神さまの御言葉には力があり、そして神さまの国は広がって行くんだということを信じるということです。そして広がり行く神さまの国を信じて、私たちは御言葉の種を蒔き続けるのです。御言葉を隣人に、友人に届けて行くのです。

私たちの周りにはまだイエスさまの言葉を知らない人たちがたくさんいます。イエスさまの言葉は、私たちを励まし、私たちを支えてくださいます。私たちは御言葉によって支えられ、そして生かされています。この言葉を待っている人たちがいます。私たちはイエス・キリストの命の言葉に支えられ、そして命の言葉を伝えていきましょう。



(2024年5月12日平安教会朝礼拝・母の日礼拝)


2024年5月9日木曜日

5月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「大丈夫。わたしがいるから」

「大丈夫。わたしがいるから」

聖書箇所 ヨハネ16:25-33。57/459。

日時場所 2024年5月5日平安教会朝礼拝式

岩倉図書館にいくと、『死にたいけどトッポッキは食べたい』という本が、おすすめの本棚にあったので借りてきました。【韓国の大ベストセラーエッセイ『死にたいけどトッポッキは食べたい』。世界中で爆発的な人気を誇る、韓国のヒップホップアイドルグループ「BTS」(防弾少年団)のメンバーで、読書家としても知られる「RM(ナム)」の部屋の枕元にも置いてあったとファンの間で話題になっている作品】だそうです。

【なんとなく気持ちが沈み、自己嫌悪に陥る。ぼんやりと、もう死んでしまいたいと思いつつ、一方でお腹がすいてトッポッキが食べたいなと思う…。気分変調症(軽度のうつが長く続く状態)を抱える女性が、精神科医とのカウンセリングを通して、自分自身を見つめ直した12週間のエッセイ。韓国で200冊限定の自費出版から異例の大ヒット、若い世代を中心に40万部を超えるベストセラーに! 人間関係や自分自身に対する不安や不満を抱え、繊細な自分自身に苦しんだ経験のある、すべての人に寄り添う一冊です。】。

韓国は日本以上に競争の激しい社会です。少子化が日本以上に進み、若者がなかなかしんどい社会であると言われます。競争が激しいので、やる気のある元気な人は良いですけれども、そうした競争に付いていけない人たちにとっては、「なんとなく気持ちが沈み、自己嫌悪に陥る」ということがあるだろうなあと思います。気分変調性障害というのは、「軽度のうつが長く続く状態」ということだそうです。死にたいと思っていても、また一方で「トッポッキは食べたい」ということですから、周りの人から見れば、なんかわがままにも思え、そうした周りの人たちの視線が苦しいというようなこともあるのだろうと思います。

【特に問題があるわけでもないのに、どうしてこんなに虚しいのだろう】(P.8)。【今日という日が、完璧な一日とまではいかなくても、大丈夫といえる一日になると信じること。一日中憂鬱でも、小さなことで一度くらいは笑うことができるのが、生きることだと信じること】(P.11)。なかなか切ない状態だなあと思えます。

今日の聖書の箇所は、「イエスは既に勝っている」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまが十字架につけられる前に、弟子たちに大切なことを伝えるという設定の聖書の箇所の一部です。このあと、ヨハネによる福音書17章1節以下は「イエスの祈り」。そしてヨハネによる福音書18章1節以下は「裏切られ、逮捕される」という聖書の箇所となります。

ヨハネによる福音書16章25ー28節にはこうあります。【「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」】。

たとえというのは、よくわかる場合もありますが、なんか聞いていてわかったようなわからないようなときというのがあります。イエスさまはよくたとえ話をされました。イエスさまがたとえ話をされたときはよくわかったけれど、年月がたって状況とかが変化してくると、たとえが意味をなさないようなことになる場合があります。またイエスさまのお弟子さんの時代になると、イエスさまのはなされたたとえ話は、いろいろな場所で聞かれるようになってきます。そうするとこの場所ではよくわからないというようなことが出てきます。たとえば雪の降らないところの人に、「雪のように白い」とたとえても、よくわからないというようなことが出てくるわけです。

イエスさまは弟子たちにたとえではなく、直接はっきりと神さまのことについて弟子たちに知らせると言われます。まあ直接はっきりと知らせることができるのであれば、それが良いのです。それだけ神さまと弟子たちとの間が、密接な関係になるということです。イエスさまはわたしはあなたたちのところを去って、神さまのところに帰っていくから、わたしをとおしてではなく、直接あなたたちが神さまにお願いをすれば良いようにしてあげると、弟子たちに言われました。あなたたちがわたしの名によって、神さまに直接お願いをするのだと、イエスさまは言われました。あなたたちはわたしを愛し、わたしが神さまのところからやってきたことを信じている。だから神さまもあなたたちのことを愛しておられる。わたしがいなくなっても、大丈夫だと、イエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書16章29−30節にはこうあります。【弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」】。

イエスさまが言われたことについて、弟子たちが応えるという形式になっています。イエスさまの言われたことをなぞっているような感じですから、読んでいて、ちょっとしらじらしいような感じを受けます。それはまあ、信仰告白ような形で弟子たちが応えているという形式があるので、そのように感じるわけです。イエスさまがすべてのことを知っておられること、そして神さまのところから来られた方であることを、弟子たちは信じると応えるのです。

ヨハネによる福音書16章31−3節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」】。

弟子たちがイエスさまに応えたのに対して、今度はイエスさまが弟子たちに応えます。イエスさまは弟子たちが「今、分かりました」と信仰を告白していることに対して、「今ようやく、信じるようになったのか」と応えられます。まあイエスさまからすれば、もうちょっと早くわかってほしかったよねということがあるのでしょうが、まあ私たちの側からすると、そんなに簡単に信じられるものでもないのです。いろいろと私たちには考えることがあるのです。

イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたあと、イエスさまを捨てて逃げてしまいます。そして自分の家に帰ってしまいます。イエスさまは一人でユダヤの指導者たちによって裁判を受け、そして十字架への道を歩まれます。それはとても孤独なことのように思えます。信頼していた弟子たちから裏切られ、周りの人々からは蔑まれ、ののしられながら、イエスさまは十字架につけられます。とても耐えられるようなことのように思えないわけですが、しかしイエスさまは「わたしはひとりではない」と言われます。どんなに孤独に思える時も、神さまが私たちと共にいてくださるのだと、イエスさまは言われます。そしてどうしてこんな話をするのかと言うと、弟子たちもまた迫害にあい、イエスさまと同じようなことを経験するからです。「あなたがたには世で苦難がある」とイエスさまはいわれます。「しかし、勇気を出しなさい」。そうした苦難はわたしがあなたたちの前に経験した苦難なのだ。人から見れば、それはとても孤独で絶望に思えることであるけれども、しかしそうではない。どんなときも、神さまが私たちと共にいてくださる。神さまは私たちの見方なのだ。わたしは既に世に勝っているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

イエスさまと弟子との関係は、どちかと言えば、イエスさまが「わたしについてきなさい」と言われ、弟子が「はい、ついていきます」という感じでついていき、いろいろなことがあるけれども、いけいけどんどんで歩んでいくというような感じです。ですから「ちょっとメンタルやられて、もうちょっとだめです」というような話はあまり出てきません。

使徒パウロは体の調子が悪かったというようなことを、ガラテヤの信徒への手紙4章13−14節に書いています。新約聖書の347頁です。【知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。】。使徒パウロが体の調子が悪かったのを、ガラテヤの教会の人たちがパウロを大切にしてくれたことによって、ガラテヤの教会はできました。使徒パウロは「ちょっとメンタルやられて、もうちょっとだめです」というような経験をしているのですが、でも全体としては使徒パウロはいろいろなところに果敢に伝道旅行に出かける人ですから、まあ強い人なのだと思います。

エパフロディトという人は、使徒パウロが獄中生活を送っている時に、フィリピの教会の人たちから使徒パウロのお世話をするために送りだされたのですが、途中でちょっとしんどくなって、フィリピに帰りたいと思います。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で、エパフロディトのことを書いています。新約聖書の364頁です。フィリピの信徒への手紙2章25ー28節にはこうあります。【ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。】。

人生いろいろなことが起こります。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたとき、イエスさまを裏切り、逃げてしまいます。そのあとイエスさまはよみがえられて、弟子たちに会いに来てくださいます。そしてイエスさまはそのあと天に帰られます。そのあと弟子たちは聖霊を受けて、イエスさまのことを力強く宣べ伝えていきます。そしていろいろなところに、教会ができていきます。というのは、まあキリスト教の歴史の流れであるわけです。

そうした全体的な流れのなかでは、イエスさまの弟子たちがとても不安になってやる気もなくなったというようなことは感じられないわけです。しかし実際問題、やはりいろいろなことがあっただろうと思います。イエスさまが天に帰られ、弟子たちのところに聖霊が降るというよなところまでは、気が張っているので、元気そうにみえたかも知れないですが、しかしイエスさまがおられなくなくなったあとの喪失感というのは、あとからじわーっと弟子たちに重くのしかかってくるということがあったのではないかと思います。

大切な人を失ったあとの喪失感というのは、あとからじわーっときいてくるということがあるわけです。「ああ、イエスさま、もうおられないんだ」。イエスさまの弟子たちはユダヤ人、韓国人ではないですから、『死にたいけどトッポッキは食べたい』とは思わないでしょうけれども、『死にたいけどデーツは食べたい』というような気持ちになる弟子たちもあっただろうと思います。

不安になったり、さみしいと思えるときもあったことだと思います。しかし弟子たちはイエスさまが自分たちに示してくださった愛を思い起こしつつ、イエスさまの御言葉を信じて歩みました。だれしも一人に思える時があるだろう。わたしにも自分がひとりぼっちに思えるような時があった。あなたたちが去っていき、さみしい思いで一杯になった時もあった。【あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る】。そういうときがあっただろう。【しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ】。

弟子たちも去り、一人孤独でユダヤ人たちからの裁判を受け、人々からののしられていたときも、わたしは一人ではなかった。神さまが共にいてくださり、わたしを守ってくださっていた。そのようにイエスさまは言われました。

わたしと共にいてくださった神さまは、あなたと共にいてくださる。だから勇気を出しなさい。勇気をもって、歩み始めてみてほしい。イエスさまは少し疲れた私たちを招いておられます。無理せず、ゆっくりと歩み始めてみましょう。神さまは私たちを守り導いてくださり、私たちに必要なものを備えてくださいます。





(2024年5月5日平安教会朝礼拝式)


4月28日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「愛、憎しみの世界での約束」

「愛、憎しみの世界での約束」

聖書箇所 ヨハネ15:15-27。18/483。

日時場所 2024年4月28日平安教会朝礼拝式 

ロシアとウクライナの戦争、イスラエルとパレスチナのハマスの戦争など、私たちの世界はここ数年、とても重苦しくつらい戦争の出来事に覆われています。またイスラエルとイランが行なったミサイル攻撃など、私たちを不安にさせます。

アメリカはイスラエルに次ぐユダヤ人居住国家ですから、国家としてユダヤ人の影響が強いので、親イスラエル国家であるとされます。国連安全保障理事会が4月18日にとりあげられた、パレスチナの国連正式加盟を勧告する決議案は、アメリカが拒否権を行使することによって、否決されました。ガザ即時停戦を求める決議案も、アメリカが拒否権を行使することによって否決されています。ヨーロッパの国々は、アメリカほどではないですが、第2次世界大戦のときのナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の歴史があるので、ドイツなどでもイスラエルに対する特別な配慮がなされます。イスラエルとパレスチナのハマスの戦争に対して、ドイツのシュルツ首相は、「イスラエルの国家の存立と安全のために立ち上がることがわれわれの使命だ」と言いました。しかしやみくもに一方の国のしていることに賛成するというのは、やはりおかしなことであるわけです。

ドイツは戦後の戦争責任ということでも、日本にとって学ぶべきことが多かった国です。お手本となるような国であったわけです。しかし国というはいつもいつも正しいわけではありません。戦後のドイツは見習うべきことが多くありましたが、ナチスの時代のドイツはひどい国でした。日本も戦後、民主主義の国として歩んでいるわけですので、一般的に良い国であるわけですが、戦争中はアジアの国々に対してひどいことをした歴史があります。よいときと悪い時があるので、国家が起こした出来事を、丁寧にみる必要があります。ロシアがひどいことをすれば、それはよくないことですし、ウクライナがひどいことをすれば、それはよくないことです。イスラエルが良くないことをすれば、イスラエルが良くないことをしていると言わなければならないですし、ハマスがひどいことをすれば、ハマスがひどいことをしたと言わなければなりません。イスラエルでも、自分たちの国の指導者がパレスチナのガザに対してひどいことをしているという人たちがいて、そうした人たちのことも少しずつ報道されるようになっています。

争いの多い世界にあって、イエスさまが逮捕された時に言われた言葉を思い起こしたいと思います。マタイによる福音書26章52節の言葉です。新約聖書の54頁です。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」。イエスさまは力に頼るのではない道を歩まれた方でした。

今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「迫害の予告」という表題のついた聖書の箇所の一部です。この聖書の箇所は、イエスさまが十字架につかれるのを前に、弟子たちに大切な話をしているという設定になっています。イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木」といわれ、弟子たちを「わたしにつながって生きなさい」と招かれました。

ヨハネによる福音書15章15−17節にはこうあります。【もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」】。

イエスさまは弟子たちのことを、「友」と呼ぶと言われました。僕は主人が何をしているのかよくわかっていないけれども、しかしあなたたちはわたしのことをよく知っているので、わたしはあなたたちのことを「友」と呼ぶと言われました。わたしがあなたたちを選び、あなたたちに神さまのことを伝えた。そしてこののちあなたたちがわたしのかわりに出かけて行って、わたしに代わって神さまのことを伝え、人々を癒やしていくことになる。そのために必要なものをあなたたちが望めば、神さまが用意してくださる。わたしがあなたたちをそのように任命したからだと言われました。そして最後に大切なことをあなたたちに伝えると、イエスさまは言われ、「互いに愛し合いなさい」と言われました。「互いに愛し合いなさい」というのが、イエスさまが最後に弟子たちに伝えた教えであるのです。

ヨハネによる福音書15章18−21節にはこうあります。【「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである】。

イエスさまは弟子たちに、迫害が起こることを告げられました。イエスさまはわたしは神さまに属していて、この世に属していない。あなたたちもこの世に属していない。わたしがあなたたちを、この世から選び出したからだ。だから世はあなたたちを憎むだろう。世の人々がわたしのことを迫害するように、あなたたちのことも迫害するだろう。人々は私たちが神さまに属しているということを知らず、私たちは彼らにとって厄介な言葉をかけてくる気にくわない者なのだから。

ヨハネによる福音書15章22−25節にはこうあります。【わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。】。

イエスさまはユダヤの指導者たちに、神さまの御心について話されました。しかし彼らはそのことを理解しませんでした。自分たちが高慢になっていることに気がつきませんでした。わたしがそのことを指摘したのだから、彼らには罪があると、イエスさまは言われます。イエスさまが悲しんでいる人々、苦しんでいる人々、病の中にある人たちに手を差し伸べていたのに、ユダヤの指導者たちは、イエスさまの話に耳を傾けようとはしませんでした。彼らはイエスさまから非難をされることに腹を立て、逆にイエスさまを憎み、イエスさまを十字架につけようとします。

ヨハネによる福音書15章26−27節にはこうあります。【わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。】。

イエスさまはユダヤの指導者たちによって、十字架につけられます。そして三日目によみがえられ、弟子たちの前に現れます。そしてそののち、イエスさまは天に帰られます。イエスさまはご自分が天に帰られたあと、弟子たちのところに自分の代わりに、「弁護者」を遣わすと言われます。自分がいないと心細いだろうけれども、神さまからの弁護者である聖霊を送るから安心しなさいと、イエスさまは弟子たちに言われます。あなたたちを迫害する人たちもいるし、いろいろな困難なこと、不安なことがあるかも知れないけれども、神さまはあなたたちのことをご存知で、聖霊を送ってくださり、あなたたちに必要なものを備えてくださる。だから安心して歩みなさい。そのようにイエスさまは言われました。

イエスさまが十字架につけられる前に、最後に弟子たちに伝えた「命令」は、「互いに愛し合いなさい」ということでした。あなたたちが生きていくためには、互いに愛し合うことが必要なのだと、イエスさまは言われました。そのあと、イエスさまは弟子たちに、世の人々はあたなたちを憎み、あなたたちは迫害されることになるだろうと言われました。

迫害をされるということですから、弟子たちは人々から憎まれるということです。弟子たちは憎しみの多い世界で生きることを強いられます。争いや憎しみの多い世界では、力で持って押さえつけるようなことが良いことのように言われます。しかしイエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました。憎しみや争いの多い世界だからこそ、互いに愛し合うということが大切なのだと、イエスさまは言われました。イエスさまは憎しみや争いの多い世界だからこそ、互いに愛し合うことが最後の砦なのだと、イエスさまは言われました。互いに愛し合うこと、互いに尊敬しあうこと、それが私たちの世の中で大切なことなのだと、イエスさまは言われました。

そしてイエスさまは十字架への歩みへと進まれます。マルコによる福音書15章25−32節にはこうあります。新約聖書の96頁です。【イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。*こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。】。

十字架につけられ、人々からののしられるイエスさまが、「互いに愛し合いなさい」と言われるのです。イエスさまは多くの人々を救いました。しかし自分を救うことはできませんでした。そのイエスさまが、私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われます。憎しみや悲しみにが満ちている世界にあって、互いに愛し合うことが最後の砦であるのです。

憎しみや怒りに支配されることなく、イエスさまの愛を拠り所にして生きていく。それがイエスさまが私たちに対してくださった約束です。

イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちに永遠の命を約束してくださいました。憎しみや怒りに支配されそうになることが私たちには多いですけれども、イエスさまが私たちのところに送ってくださる弁護者である聖霊の働きを信じて、寛容なこころを取戻したいと思います。

イエスさまの愛に包まれて、こころ平安に歩んでいきましょう。


    

  

(2024年4月28日平安教会朝礼拝式)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》