「大丈夫。わたしがいるから」
聖書箇所 ヨハネ16:25-33。57/459。
日時場所 2024年5月5日平安教会朝礼拝式
岩倉図書館にいくと、『死にたいけどトッポッキは食べたい』という本が、おすすめの本棚にあったので借りてきました。【韓国の大ベストセラーエッセイ『死にたいけどトッポッキは食べたい』。世界中で爆発的な人気を誇る、韓国のヒップホップアイドルグループ「BTS」(防弾少年団)のメンバーで、読書家としても知られる「RM(ナム)」の部屋の枕元にも置いてあったとファンの間で話題になっている作品】だそうです。
【なんとなく気持ちが沈み、自己嫌悪に陥る。ぼんやりと、もう死んでしまいたいと思いつつ、一方でお腹がすいてトッポッキが食べたいなと思う…。気分変調症(軽度のうつが長く続く状態)を抱える女性が、精神科医とのカウンセリングを通して、自分自身を見つめ直した12週間のエッセイ。韓国で200冊限定の自費出版から異例の大ヒット、若い世代を中心に40万部を超えるベストセラーに! 人間関係や自分自身に対する不安や不満を抱え、繊細な自分自身に苦しんだ経験のある、すべての人に寄り添う一冊です。】。
韓国は日本以上に競争の激しい社会です。少子化が日本以上に進み、若者がなかなかしんどい社会であると言われます。競争が激しいので、やる気のある元気な人は良いですけれども、そうした競争に付いていけない人たちにとっては、「なんとなく気持ちが沈み、自己嫌悪に陥る」ということがあるだろうなあと思います。気分変調性障害というのは、「軽度のうつが長く続く状態」ということだそうです。死にたいと思っていても、また一方で「トッポッキは食べたい」ということですから、周りの人から見れば、なんかわがままにも思え、そうした周りの人たちの視線が苦しいというようなこともあるのだろうと思います。
【特に問題があるわけでもないのに、どうしてこんなに虚しいのだろう】(P.8)。【今日という日が、完璧な一日とまではいかなくても、大丈夫といえる一日になると信じること。一日中憂鬱でも、小さなことで一度くらいは笑うことができるのが、生きることだと信じること】(P.11)。なかなか切ない状態だなあと思えます。
今日の聖書の箇所は、「イエスは既に勝っている」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまが十字架につけられる前に、弟子たちに大切なことを伝えるという設定の聖書の箇所の一部です。このあと、ヨハネによる福音書17章1節以下は「イエスの祈り」。そしてヨハネによる福音書18章1節以下は「裏切られ、逮捕される」という聖書の箇所となります。
ヨハネによる福音書16章25ー28節にはこうあります。【「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」】。
たとえというのは、よくわかる場合もありますが、なんか聞いていてわかったようなわからないようなときというのがあります。イエスさまはよくたとえ話をされました。イエスさまがたとえ話をされたときはよくわかったけれど、年月がたって状況とかが変化してくると、たとえが意味をなさないようなことになる場合があります。またイエスさまのお弟子さんの時代になると、イエスさまのはなされたたとえ話は、いろいろな場所で聞かれるようになってきます。そうするとこの場所ではよくわからないというようなことが出てきます。たとえば雪の降らないところの人に、「雪のように白い」とたとえても、よくわからないというようなことが出てくるわけです。
イエスさまは弟子たちにたとえではなく、直接はっきりと神さまのことについて弟子たちに知らせると言われます。まあ直接はっきりと知らせることができるのであれば、それが良いのです。それだけ神さまと弟子たちとの間が、密接な関係になるということです。イエスさまはわたしはあなたたちのところを去って、神さまのところに帰っていくから、わたしをとおしてではなく、直接あなたたちが神さまにお願いをすれば良いようにしてあげると、弟子たちに言われました。あなたたちがわたしの名によって、神さまに直接お願いをするのだと、イエスさまは言われました。あなたたちはわたしを愛し、わたしが神さまのところからやってきたことを信じている。だから神さまもあなたたちのことを愛しておられる。わたしがいなくなっても、大丈夫だと、イエスさまは言われました。
ヨハネによる福音書16章29−30節にはこうあります。【弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」】。
イエスさまが言われたことについて、弟子たちが応えるという形式になっています。イエスさまの言われたことをなぞっているような感じですから、読んでいて、ちょっとしらじらしいような感じを受けます。それはまあ、信仰告白ような形で弟子たちが応えているという形式があるので、そのように感じるわけです。イエスさまがすべてのことを知っておられること、そして神さまのところから来られた方であることを、弟子たちは信じると応えるのです。
ヨハネによる福音書16章31−3節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」】。
弟子たちがイエスさまに応えたのに対して、今度はイエスさまが弟子たちに応えます。イエスさまは弟子たちが「今、分かりました」と信仰を告白していることに対して、「今ようやく、信じるようになったのか」と応えられます。まあイエスさまからすれば、もうちょっと早くわかってほしかったよねということがあるのでしょうが、まあ私たちの側からすると、そんなに簡単に信じられるものでもないのです。いろいろと私たちには考えることがあるのです。
イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたあと、イエスさまを捨てて逃げてしまいます。そして自分の家に帰ってしまいます。イエスさまは一人でユダヤの指導者たちによって裁判を受け、そして十字架への道を歩まれます。それはとても孤独なことのように思えます。信頼していた弟子たちから裏切られ、周りの人々からは蔑まれ、ののしられながら、イエスさまは十字架につけられます。とても耐えられるようなことのように思えないわけですが、しかしイエスさまは「わたしはひとりではない」と言われます。どんなに孤独に思える時も、神さまが私たちと共にいてくださるのだと、イエスさまは言われます。そしてどうしてこんな話をするのかと言うと、弟子たちもまた迫害にあい、イエスさまと同じようなことを経験するからです。「あなたがたには世で苦難がある」とイエスさまはいわれます。「しかし、勇気を出しなさい」。そうした苦難はわたしがあなたたちの前に経験した苦難なのだ。人から見れば、それはとても孤独で絶望に思えることであるけれども、しかしそうではない。どんなときも、神さまが私たちと共にいてくださる。神さまは私たちの見方なのだ。わたしは既に世に勝っているのだ。そのようにイエスさまは言われました。
イエスさまと弟子との関係は、どちかと言えば、イエスさまが「わたしについてきなさい」と言われ、弟子が「はい、ついていきます」という感じでついていき、いろいろなことがあるけれども、いけいけどんどんで歩んでいくというような感じです。ですから「ちょっとメンタルやられて、もうちょっとだめです」というような話はあまり出てきません。
使徒パウロは体の調子が悪かったというようなことを、ガラテヤの信徒への手紙4章13−14節に書いています。新約聖書の347頁です。【知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。】。使徒パウロが体の調子が悪かったのを、ガラテヤの教会の人たちがパウロを大切にしてくれたことによって、ガラテヤの教会はできました。使徒パウロは「ちょっとメンタルやられて、もうちょっとだめです」というような経験をしているのですが、でも全体としては使徒パウロはいろいろなところに果敢に伝道旅行に出かける人ですから、まあ強い人なのだと思います。
エパフロディトという人は、使徒パウロが獄中生活を送っている時に、フィリピの教会の人たちから使徒パウロのお世話をするために送りだされたのですが、途中でちょっとしんどくなって、フィリピに帰りたいと思います。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で、エパフロディトのことを書いています。新約聖書の364頁です。フィリピの信徒への手紙2章25ー28節にはこうあります。【ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。】。
人生いろいろなことが起こります。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたとき、イエスさまを裏切り、逃げてしまいます。そのあとイエスさまはよみがえられて、弟子たちに会いに来てくださいます。そしてイエスさまはそのあと天に帰られます。そのあと弟子たちは聖霊を受けて、イエスさまのことを力強く宣べ伝えていきます。そしていろいろなところに、教会ができていきます。というのは、まあキリスト教の歴史の流れであるわけです。
そうした全体的な流れのなかでは、イエスさまの弟子たちがとても不安になってやる気もなくなったというようなことは感じられないわけです。しかし実際問題、やはりいろいろなことがあっただろうと思います。イエスさまが天に帰られ、弟子たちのところに聖霊が降るというよなところまでは、気が張っているので、元気そうにみえたかも知れないですが、しかしイエスさまがおられなくなくなったあとの喪失感というのは、あとからじわーっと弟子たちに重くのしかかってくるということがあったのではないかと思います。
大切な人を失ったあとの喪失感というのは、あとからじわーっときいてくるということがあるわけです。「ああ、イエスさま、もうおられないんだ」。イエスさまの弟子たちはユダヤ人、韓国人ではないですから、『死にたいけどトッポッキは食べたい』とは思わないでしょうけれども、『死にたいけどデーツは食べたい』というような気持ちになる弟子たちもあっただろうと思います。
不安になったり、さみしいと思えるときもあったことだと思います。しかし弟子たちはイエスさまが自分たちに示してくださった愛を思い起こしつつ、イエスさまの御言葉を信じて歩みました。だれしも一人に思える時があるだろう。わたしにも自分がひとりぼっちに思えるような時があった。あなたたちが去っていき、さみしい思いで一杯になった時もあった。【あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る】。そういうときがあっただろう。【しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ】。
弟子たちも去り、一人孤独でユダヤ人たちからの裁判を受け、人々からののしられていたときも、わたしは一人ではなかった。神さまが共にいてくださり、わたしを守ってくださっていた。そのようにイエスさまは言われました。
わたしと共にいてくださった神さまは、あなたと共にいてくださる。だから勇気を出しなさい。勇気をもって、歩み始めてみてほしい。イエスさまは少し疲れた私たちを招いておられます。無理せず、ゆっくりと歩み始めてみましょう。神さまは私たちを守り導いてくださり、私たちに必要なものを備えてくださいます。
(2024年5月5日平安教会朝礼拝式)