「この人のするままに」
聖書箇所 ヨハネによる福音書12章1ー8節
日時場所 2024年7月14日平安教会朝礼拝
今日は「きてみて・れいはい」にいらしてくださり、ありがとうございます。
毎月第二日曜日を「きてみて・れいはい」として、わかりやすい説教をこころがけることいました。そして初めての人が「来て良かったよね」と思えるような話をしたいなあと思っています。
わたしの好きな中国の笑い話に、「氷がにげた」という話があります。
【氷がにげた
南の国の、しょうしょう頭のたりない男が、北の国のおよめさんをもらった。あるとき、およめさんを自分の家において、ひとりで、およめさんの家に行って、はじめて、氷というものをくった。こいつはうまい、ひとつおよめさんにおみやげにしようと、そっと紙につつんで、ふところに入れて家に持って帰った。「おまえの里に、とてもおいしいものがあったので、おまえに食べさせたいと思って持ってきたよ」。ふところをさがして、氷をつつんでおいた紙ぶくろをとりだしたが、「おや、これは・・・・・・・。あいつめ、小便をしてにげてしまった」】(P90)(黒須重彦(文)、水沢研(画)『中国の笑いばなし』、学燈社)。
わたしはこの「氷がにげた」という話をよみながら、いい話だなあと思いました。ほっとさせられます。たしかに男はしょうしょう頭がたりなくて、氷というものを知りません。氷ですから紙に包んでもって帰ることはできません。そして氷がとけてしまうと、「あいつめ、小便をしてにげてしまった」ということを言う男です。でも男は自分がおいしいものを食べたら、妻に食べさせてあげたいというやさしさをもっています。「おまえの里に、とてもおいしいものがあったので、おまえに食べさせたいと思ってもって帰ってきたよ」。いい夫だと思います。この男の人は、愚かだけれども、愛があります。わたしもできれば、「愚かだけれども、愛がある」世界に生きていたいと思います。
「合理的ではないけれども、そこには愛がある」という話は、ほかにもあります。わたしがこの「氷がにげた」という話を読んで思い出した話は、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」という話です。ジムとデラは仲の良い夫婦でした。互いにクリスマスのプレゼントを贈りたいと思っています。でも貧しいのでお金が十分にありません。ジムとデラのお家には誇るべきものが二つありました。一つはジムのもっている金時計です。そしてもう一つはデラの美しい髪の毛でした。デラは美しい髪の毛を売って、クリスマスプレゼントとして、ジムのために金時計の鎖を買います。ジムは金時計を売って、クリスマスプレゼントとして、デラのために櫛を買います。「なんでこうなっちゃったの」と思える出来事であるわけです。
しかしオー・ヘンリーは小説の最後を次のような言葉で終わります。【二人は愚かなことに、家の最もすばらしい宝物を互いのために台無しにしてしまったのです。 しかしながら、今日の賢者たちへの最後の言葉として、こう言わせていただきましょう。 贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。 贈り物をやりとりするすべての人の中で、 この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。 世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。 彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです。】(原作:オー・ヘンリー、翻訳:結城浩、青空文庫)。このオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」も、「愚かだけれども、愛がある」世界の物語です。
私たちの住んでいる世の中は、どちらかと言えば、理路整然としてすきがない人が、すばらしい人として用いられる世界です。賢くて、きっちりとしていて、抜け目のない人が用いられる世界です。しかしそうした世界は多くの場合、「正しさや法はあっても、愛はない」という世界です。それに対して、イエスさまは「愚かだけれども愛がある」世界を好まれた方でした。
さきほどお読みしました聖書の箇所に出てきた女性の話も、「愚かだけれども愛がある」ということを思わされる聖書の箇所です。
イエスさまがラザロという人の家で、食事をしにやってこられたときの話です。ラザロの妹のマリアが、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってやってきました。そしてその香油を、イエスさまの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。ふつう女の人にとって髪というのは大切なものです。そして足というのは、とても汚(よご)れているところです。当時は自動車のようなものに乗っているわけではないですから、足は一番汚(よご)れる場所です。足を洗うというのは、奴隷の仕事であるとされていました。マリアはイエスさまの一番汚(よご)れている場所を、自分が大切にしている髪でふいたのでした。家は香油の香りでいっぱいになった】というふうに、いい香油の香りがして、一瞬ふわーとしたような気に、みんながなった、つぎの瞬間、イスカリオテのユダのきびしい叱責の声が聞こえてきました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。
マリアは心からの献げものをしたにもかかわらず、イスカリオテのユダによって怒られたのでした。しかしマリアにはイエスさまがおられました。マリアはイエスさまの言葉によって救われます。イエスさまはマリアに「この人のするままにさせておきなさい」というふうに言われました。
イエスさまはマリアに対して、「何かもっとふさわしいものを」とか、「常識的な役に立つことを」というふうに言われませんでした。そうではなく、イエスさまは「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。イエスさまは人と人とのかけがえのない関係を大切にされました。それによって、なにか効率よく、うまくいくということを大切にされたのではありませんでした。この人がなにか自分にとって役に立つから大切にしよう。あるいはこの社会にとって役に立つりっぱな人であるから、大切であるというふうには考えませんでした。そうでなくてイエスさまは、マリアをそのままで受け入れられたのでした。マリアがとても機転がきいて、信仰的にもりっぱで、貧しい人々に対しても配慮もばっちりであるから、マリアを受け入れられたのではありませんでした。またイエスさまはマリアに対して、「貧しい人々に対する配慮が大切であり、おまえにはそのことが欠けていたから、そのことを身につけなさい。そうすればわたしはあなたを受け入れよう」というふうに言われたのではありませんでした。マリアがあと何かこのことができたら、マリアを評価しようというふうには、イエスさまは言われませんでした。そうでなく、「この人のするままにさせておきなさい」というふうに言われたのでした。
イエス・キリストは私たちに「この人のするままにさせておきなさい」と言ってくださっています。イエス・キリストは私たちが、「りこうであるから、役にたつから、配慮があってすばらしい人であるから」、私たちを受け入れてくださるのではありません。また「もう少しりこうになったら、もう少し役に立つことができるようになったら、もう少し配慮を身につけなさい」と言っておられるのでもありません。「この人のするままに」、「あなたをそのままで受け入れているんだよ」というふうに言っておられます。
私たちは「この人のするままに」というイエスさまの温かい言葉に支えられながら生かされています。イエスさまはいつも私たちをやさしく招いてくださっています。
(2024年7月14日平安教会朝礼拝)
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