「イエスさまのツイッター禁止令」
聖書箇所 ヨハネ6:41-59。433/504。
日時場所 2024年7月28日平安教会朝礼拝式
教会もいろいろな情報発信をしていかなけばならないということで、平安教会もいろいろと努力をしています。ホームページがあったり、Facebookがあったり、Instagramがあったり、Twitterがあったり、YouTubeがあったりと、なかなか充実をしています。こうしたものを、ソーシャル・ネットワーキング・サービスと言って、略した言葉で、SNSと言います。みなさんがよく使われる、LINEというのも、SNSの一つです。
わたしはいろいろなSNSをするのですが、SNSの中で一番わたしが使っているのは、Twitterです。Twitterは買収をされて、名前が「X(エックス)」に変更されているのですが、やっぱりわたしはTwitterと呼び続けています。Twitterは「さえずる」とか「つぶやく」という意味の言葉です。
アメリカの政治家は、Twitterを効果的に使います。【米国のジョー・バイデン大統領は7月21日、11月の大統領選挙から撤退する意向を表明した。自身のX(旧Twitter)外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますに、大統領候補者としての指名を受けず、残りの任期を大統領としての職務に全力を注ぐと投稿し、カマラ・ハリス副大統領を自身に代わる大統領候補者として支持すると述べた】。【トランプ前米大統領は24日、南部ジョージア州の拘置所に出頭した後、拘置所で撮影された自身の写真をX(旧ツイッター)に投稿した。トランプ氏が旧ツイッターに投稿するのは約2年半ぶりで、昨年11月にアカウントが再開されてから初めて。来年の大統領選に向けた候補者選びが本格化するなか、8600万人超のフォロワーを持つアカウントを再始動させた。】。
Twitterは情報が早いので、災害の時などには役に立ちます。先日も、山形県の大雨の様子なども、Twitterに上がっていました。おかしな話やおもしろい投稿、可愛い小猫の動画なども流れてきます。「太宰府名物、マイケル・ジャクソンのBeat itで踊る盆踊り」は、なかなか愉快でした。
Twitterは、自分が投稿した言葉に対して、その感想のようなものを他人が下に付け加えることができるような形がとられています。ですから自分の投稿に対して、激しく反対の意見を述べてくるようなことがあります。Twitter上で激しいやり取りがなされたりして、読んでいて「ちょっとどうなんだろうねえ」という気持ちになる時もあります。Twitterは、ほかのSNSと比べて、激しいSNSです。ときどき、Twitterをしている自分がいやになって、「やっぱりしばらくTwitterをやるのはやめにする」という人が出てきます。FacebookやInstagramというようなSNSに比べて、Twitterは悪意の投稿が多い気がします。悪意のある投稿を読んでいると、自分自身の心の中にも激しい怒りが起こってきたりするわけです。わたしもときどき「やめたほうがいいかなあ」と思う時があります。
今日の説教題は「イエスさまのTwitter禁止令」にしました。今日の聖書の箇所に「つぶやき合うのはやめなさい」とあるからです。今日の聖書の箇所は、「イエスは命のパン」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまはヨハネによる福音書6章35節で、【「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない】と言われ、また6章40節では【わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである】と言われました。それを受けての今日の聖書の箇所となります。
ヨハネによる福音書6章41−46節にはこうあります。【ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。】。
ユダヤ人たちは、イエスさまの話を聞いて、つぶやき始めます。つぶやくというのは、「小さい声でひとりごとを言う」ということです。ですからすべてが悪いことというわけではありません。たとえば好きな女の子がいる男の子もつぶやくのです。「きのうケメ子に会いました。星のきれいな夜でした。ケメ子と別れたそのあとで、小さい声でいいました。好き好き。僕はケメ子が好きなんだ」(「ケメ子の歌」)。好きな子の名前をつぶやくわけです。
好きな男の子がいる女の子もつぶやくのです。「あなたに逢いたくて、逢いたくて、眠れぬ夜は、あなたのぬくもりを、そのぬくもりを思い出し、そっと瞳(ひとみ)閉じてみる。愛していると、つぶやいて」(「あなたに逢いたくて」)。「愛している」と、松田聖子はつぶやくのです。「Happy Merry Xmas。あつい想い届けて。一番好きな人に、そっとつぶやく」(「遠い街のどこかで」)。「Happy Merry Xmas」と、中山美穂はつぶやくのです。「じっと手を見る」は石川啄木で、「そっとつぶやく」のは中山美穂だったのかと思いました。
しかしここでユダヤ人たちがつぶやいているというのは、こそこそと相手のいないところで非難をしているというようなことであるわけです。イエスは天からきたとか言うけど、私たちが知っているヨセフの息子じゃないか。親戚だってみんな知っている。何を言っているんだ。というふうに、こそこそと仲間内でイエスさまの非難をしているということです。
それに対して、イエスさまは「つぶやき合うのはやめなさい」と言われます。そしてご自身が、神さまから遣わされた者であること、そして自分が神さまの御心を行なっていること、イエスさまを信じる者に永遠の命を与えられることを告げるのです。
ヨハネによる福音書6章47−52節にはこうあります。【はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。】。
イエスさまは「わたしは命のパンである」と言われ、自分を信じる者は永遠の命を得ることができると言われました。イエスさまは出エジプトの出来事の話をされます。旧約聖書に出エジプト記というところがあります。「マナ」という表題のついた聖書の箇所が、出エジプト記16章、旧約聖書の119頁にあります。昔、昔、エジプトで苦しんでいた民が、モーセに導かれてエジプトから脱出することができたことがあった。あなたたちの先祖の話だ。そのときは神さまは荒れ野で食べ物を欲しがる人々に、天からマナをふらせて、人々に食べるものを与えられた。しかしマナを食べた人々も寿命があるので死んでしまった。しかしわたしはわたしを信じる人たちに、永遠の命を与える。わたしを信じる者は、神さまからの祝福を受けて、永遠の命につながるものとされる。イエスさまはそういう意味で、ご自分のことを、「わたしは命のパンである」と言われました。しかしユダヤ人たちはそうしたイエスさまの話を聞こうとせず、言葉尻をとらえて、「イエスは自分の体を私たちに食べさせるというのか」というような話をするわけです。
ヨハネによる福音書6章53ー59節にはこうあります。【イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。】。
たしかにイエスさまは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言っておられます。また「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と言っておられます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」とイエスさまが言っておられるわけですから、まあユダヤ人たちが「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」というふうに言うのも、それも無理はないという気もいたします。しかしここで言われている、「わたしの肉」「わたしの血」というのは、やはり比喩であるわけです。のちに初代のクリスチャンは、この「わたしの肉」「わたしの血」というものを、聖餐という形に整えていくわけです。私たちも聖餐式を行います。私たちはパンとぶどうジュースを用いて、聖餐式を行ないます。【これは、わたしたちのために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主がいのちを捨てられたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心の中にキリストを味わうべきであります】【これは、わたしたちのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が地を流されたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心のうちにキリストを味わうべきであります】。
神さまは私たちのために、御子であるイエスさまを私たちの世に送ってくださいました。イエスさまは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。神さまはイエスさまの十字架と復活によって、私たちを神さまの民としてくださり、私たちを永遠の命に連なる者としてくださいました。私たちはそのことを信じて、感謝をもって、イエスさまの肉と血である聖餐に預かります。
ユダヤ人たちは、イエスさまのことを理解することができませんでした。そして「イエスのことでつぶやき始め」ます。イエスさまは「つぶやき合うのはやめなさい」と言われます。しかしユダヤ人たちは「互いに激しく議論し始め」ます。【互いに激しく議論を始めた】というのは、なかなか印象的な言葉です。この様子はまさに、Twitterの世界だなあと思わされます。インターネットのなかのTwitterという小さな世界のなかに閉じこもり、激しく議論をすると、だんだんと暴力的になったきます。小さな世界のなかで議論をしているにも関わらず、そのことに気がつかず、自分が世界の中心にいるかのように錯覚してしまうのです。
ユダヤ人たちも自分たちの世界のなかで、激しい議論をしていくうちに、自分たちのメンツや名誉というようなことが大切なものになってしまい、神さまのことが忘れ去られていくのです。神さまのことについて議論をしていながら、神さまのことは忘れ去られていくのです。神さまの律法でもって人を支配し、神さまの言葉でもって人を傷つけていくのです。そうした暴力的な激しい議論をしているユダヤ人たちに対して、「つぶやき合うのはやめさない」と、イエスさまはTwitter禁止令を出されたのでした。
私たちは自分の考えが正しいと思いがちです。そして自分の考えの正しさを、周りの人々に認めさせようとして、互いに激しく議論を始めます。こうしたことは、わたし自身にも思いあたることです。わたしも若い人たちのしていることを見ると、「ああ、それはやめたほうがいいのではないのか」というふうに思って、ついつい「やめたほうがいいよ」とアドバイスをしようとしてしまうときがあります。でもまあ、一方で自分が正しいと思っていることも、それもまあわからないことだなあとも思います。失敗して大切なことがわかるということもあるし、あんまり若い人にいろいろと言うのはよくないことだなあと思い直します。
プロテスタントのキリスト教は、そもそもその起こりが、「プロテスト」、「抗議する」ということから始まっているわけですから、なんとなく「議論好き」です。それが良いところもあるわけですが、しかしあまりに議論をし過ぎると、周りの人たちは萎縮してしまい、教会全体としてはあまり良い雰囲気にならないというようなこともあります。
イエスさまは議論好きなユダヤ人たちに対して、もっと大切なことがあるだろうと、「Twitter禁止令」を出したのです。そんな議論ばかりして、自分の正しさばかりを主張するのではなく、もっと大切なことにこころを向けなさいと、イエスさまは言われました。いイエスさまは「わたしは命のパンである」と言われました。私たちが神さまの憐れみによって、永遠の命に連なる者であるということが大切なのだと、イエスさまは言われます。そうした神さまの愛のなかに、私たちが生かされているということが大切なのだと、イエスさまは言われます。
神さまの愛の中に生きている。神さまが私たちを愛して、愛して、愛してくださっている。だから私たちは愛された者として、神さまの御心を受けとめて、感謝をもって、隣人と共に生きていく。そのことが大切なのだと、イエスさまは言われました。
神さまが私たちを愛してくださっています。安心して、神さまの御心に従って歩んでいきましょう。
(2024年7月28日平安教会朝礼拝式)
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