「神さまの平和を求める」
聖書箇所 ヨハネ7:1-17。417/425。
日時場所 2024年8月4日平安教会朝礼拝式・平和聖日
今日は私たちの属する日本基督教団が定めた「平和聖日」です。金曜日、土曜日、平安教会では朝7時から早天祈祷会がもたれて、平和のために祈りを献げました。
私たちの国は8月15日に、79回目の敗戦記念日を迎えます。アジア・太平洋戦争において、私たちの国はアジアの諸国に対して侵略戦争を行ないました。8月はテレビなどでも、戦争や平和についての番組があります。しかし以前に比べて、私たちの国がアジアの諸国に対して侵略戦争を行なったということについての反省の番組というのは、少なくなったような気がします。戦争で大変な苦労をした、悲しい思いをしたという内容の番組のほうが多くなったような気がします。
私たちの教会が属しています日本基督教団は、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という信仰告白を行なっています。(https://uccj.org/confession)。私たちの教会の「交読文」の後ろに方にのっています。
【わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。1967年3月26日 復活主日 日本基督教団総会議長 鈴木正久】。
平和聖日に、日本基督教団の「戦争責任告白」を思い起こしつつ、平和を求める歩みでありたいと思います。
今日の聖書の箇所は「イエスの兄弟たちの不信仰」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書7章1−9節にはこうあります。【その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。】。
イエスさまはユダヤ人たちに、「わたしは命のパンである」と言われ、イエスさまを信じる人たちに永遠の命を与えられると言われました。しかしユダヤ人たちはイエスさまを信じようとはせず、イエスさまを殺そうとします。ユダヤのお祭りである仮庵祭が近づいていました。イエスさまの兄弟たちはお祭りのときに、エルサレムに行って、自分の考えを人々に広めたら良いだろうと、イエスさまに言います。しかしユダヤ人たちがいるエルサレムは、イエスさまにとってとても危険な場所です。イエスさまを殺そうとねらっているのです。
イエスさまは「わたしの時がまだ来ていない」と言われました。イエスさまの時というのは、イエスさまが十字架につけられる時ということです。イエスさまの十字架は、神さまが定められた出来事です。しかしまだその時はきていない。そのため、イエスさまはイエスさまの兄弟たちに、「わたしはこの祭りには上っていかない」と言われました。
ヨハネによる福音書7章10ー14節にはこうあります。【しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。】。
イエスさまは「祭りには行かない」と、兄弟たちに言われたのですが、しかし兄弟たちのあとから、隠れるようにして、祭りにいきました。案の定、ユダヤ人たちはイエスさまを探しています。「あの男はどこにいるのか」。祭りだから来ているに違いない。どこかで自分の考えを教え始めるのではないのか。群衆もまたイエスさまのことを噂します。「あの人はいい人だ」。「いやいや、群衆を惑わしている」。しかしイエスさまについてみんなの前で話をしていると、ユダヤ人たちがやってきて、「おまえはイエスの仲間か」と問いただされるので、ひっそりとイエスさまについてうわさ話をしていました。祭りも半ばにさしかかってきた頃、イエスさまは神殿の境内で、人々に教え始められました。
ヨハネによる福音書7章15−17節にはこうあります。【ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。】。
イエスさまが人びとに教えておられた話を聞いたユダヤ人たちは驚きます。私たちについて学問をしたわけでもないのに、どうしてイエスはこんなに聖書についてよく知っているのだろうか。まあイエスさまの時代は、私たちの時代と違って、本がたくさん出版されているというようなことがありません。なにか調べようとしても、独学で勉強するというようなことがむつかしい社会です。聖書のことについて知りたければ、やはりだれかユダヤ教の教師について教えてもらうというようなことが必要でした。しかし自分たちの仲間が教えたということがないのに、イエスは聖書のことをすごく知っている。まあそれでびっくりするわけです。しかしイエスさまは、わたしはわたしをお遣わしになった神さまの御心を伝えているのだから、驚くようなことではない。あなたたちも神さまの御心を行なっているのであれば、わたしが間違ったことを言っていないことがわかるだろう。わたしは自分勝手に話をしているのではなく、神さまの御心を伝えているに過ぎないのだ。そのようにイエスさまは言われました。
ユダヤ人はイエスさまを殺そうとねらっています。人々もイエスさまについて公然と語ることはできません。自由にものを言うことができない雰囲気が社会に漂っているわけです。そうした雰囲気のあるなかで、声をあげて自由に話をするということは、とてもむつかしいことであると同時に、とても大切なことであるわけです。
戦争へ向かっていく途中、「戦争反対」の声をあげることができるときがあったわけですが、しかしだんだんとそういた声をあげることはむつかしくなっていくわけです。それはどこの国でもそうでしょう。いざ戦争状態になってしまうと、「戦争反対」と声をあげることはとてもむつかしいことになるわけです。
『島森路子インタビュー集2 ことばに出会う』(天野祐吉作業室)という本の中で、評論家の鶴見俊輔が、京都の進々堂のパン屋の専務だった續満那(つづき・まな)の戦争中の体験について書いています。(続木満那ではないのか?)。
【海老坂武(えびさかたけし)が、南京大虐殺のときに日本人の中にも虐殺や暴行、凌辱(りょうじょく)を加えなかった兵隊がいただろう、その人が重大なんだ、と言っていたことがあるけれど、それはその通りで、われわれのこれからの模範とすべきは、小林多喜二よりもむしろ、そういう状態でもじっと立っていられる、それだけの制御ができる普通の人間なんです。実際にもそういう人はいて、京都に進々堂というパン屋があって、そこに續満那(つづき・まな)という専務が社内報に書いた話があるんです。彼は招集後すぐに中国に連れていかれて、そこで現地訓練を受けた。その訓練というのが、林の中につないであるスパイを銃剣で突き殺せ、というものだった。その夜、彼は一晩寝ないで考えた、訓練に出ることを拒否するかどうかって。で、現場までは行く、しかし殺さない、という結論に達した。裁判もなにもないままスパイだと決めつけられている人間を、自分はとても殺せない。「續!」と中隊長に名前を呼ばれても、彼は動かなかったそうです。中隊長がつかつかっと寄ってきて、銃の台尻(だいじり)でダンっと尻を殴っても動かなかった。帰ったら兵営で、「おまえは犬にも劣るやつだ。軍靴(ぐんか)をくわえて四つん這いで一周しろ」と命令された。その通りにやってんだけど、同じ中隊にもう一人同じことをやった人間がいて、それは丹波篠山の禅宗の坊さんだったんです】(P.61-62)。
(『パン造りを通じて神と人とに奉仕する 進々堂百年史』、「二等兵物語」P110-111)
続木満那は【自由学園の男子部第一回生として創立者羽仁もと子・羽仁吉一(はに・よしかず)夫妻の薫陶を受けたキリスト者です。満那は1952年、食パンをスライスした状態で包装して販売し始めました。商品名は「デーリーブレッド」。もちろん、これは主の祈り「私たちに日々の糧(our daily bread)を今日もお与えください」から取られています。当時の社内報によると、満那はその名に「私どもの造るパンが神に祝福され、人類の健康と幸福に役立ちますように」との祈りを込めたとのことです】(続木創「パン造りと真摯に向き合う」、信徒の友2020年9月号、P.26)。
「私どもの造るパンが神に祝福され、人類の健康と幸福に役立ちますように」との祈りを込めて、「デーリーブレッド」を造った続木満那は、戦争中、裁判もないままスパイだと決めつけられた人を殺せというおかしな命令に従うことのないまっとうな人でした。ぜひ今日、平和聖日に、教会の帰りに、進々堂によって「デーリーブレッド」を買って食べてあげてください。
私たちは主の祈りで「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ります。そして私たちは主の祈りで「御国を来させたまえ」と祈ります。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
神さまの国がきますように。神さまが求めておられる平和な社会に、私たちの社会がなりますように。そうした祈りを大切にして、神さまの御心に従って歩んでいきたいと思います。
(2024年8月4日平安教会朝礼拝式・平和聖日)
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