2024年8月30日金曜日

8月25日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「光指す方へと歩む」

「光指す方へと歩む」 

聖書箇所 ヨハネ8:12-20。494/509。

日時場所 2024年8月25日平安教会朝礼拝式


長野県の諏訪湖は冬になると氷がはって、ところどころに「釜穴」と呼ばれる大きな穴ができます。湖の底からメタンガスがわき出で、そのため湖に凍らない部分ができるので、それが「釜穴」という穴になるようです。諏訪湖ではこどもがスケートを行なっているのですが、この釜穴に落ちるというようなことがあります。ちょっとおそろしい話ですが、釜穴に落ちたとき、どうしたらいいのかということが、科学実験データベースにのっています。

【私の子どもの頃、諏訪湖は年内に結氷しスケートが盛んでした。「釜穴」は諏訪湖が全面結氷したときに現れる円形の穴の呼び名でした。上諏訪側の湖中に温泉が間欠的(かんけつてき)に吹き出す穴が幾つもあり、そこは冬でも氷が張ることはありませんでした。子どもたちは下駄にスケートの刃をつけた下駄スケートで遊びましたが、滑りが良く、勢い余って「釜穴」に落ちる事が度々ありました。厚い氷の下に滑り込むのですから、それはとんでもない事故になりかねません。当地では子どもたちは「水中から見ると釜穴の出口は暗く見える。開口部は明るい方ではなく暗いほうだ」と口を酸っぱくして教えられました。そのときは「開口部は暗い方」と覚えていただけに過ぎませんが、大人になった今は、この理由を説明することができます。つまり、開口部の水面は水鏡と言われるように光が反射されますが、氷の部分はガラスと同じで光が水面に透過します。ですから、水中から見ると水面の方が暗く見えるのです】(https://proto-ex.com/column/615.html)。

みなさんももし諏訪湖で釜穴に落ちたら、水中から見ると水面の方が暗く見えるので、湖の底から暗く見えるほうに泳いで上ってください。まあ凍っている湖の中に落ちるというようなことは、ジェームズ・ボンドではないので、ないとは思います。ジェームズ・ボンドは、『スカイフォール』という映画のなかで、凍った湖に落ちています。でも出口が明るいほうではなく、暗いほうだというのは、なかなか精神的にきついものがあるなあと思いました。

今日の聖書の箇所は「イエスは世の光」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書8章12−13節にはこうあります。【イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」】。

イエスさまはご自分のことを、いろいろな象徴的なもので言い表されます。「わたしは命のパンである」、ヨハネによる福音書6章22節以下、新約聖書の175頁では、そのように記されてあります。「わたしは良い羊飼いである」、ヨハネによる福音書10章7節以下、新約聖書の186頁では、そのように記されてあります。今日の聖書の箇所では、「わたしは世の光である」と言われ、イエスさまに従って生きる人は、暗闇の中を歩むことがなく、誤った道を歩むことがないと言われました。それに対して、ファリサイ派の人々は、自分のことを「わたしは世の光である」というように、すばらしい人のようにいうのは、おかしなことだ。自分のことを誇っている。傲慢になっていると、イエスさまのことを批判しました。

ヨハネによる福音書8章14−18節にはこうあります。【イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」】。

あなたたちが指摘するように、たしかにわたしは自分のことについて語っている。しかしそれは誇っているとか、高慢になっているということではなく、真実なことである。わたしは自分がどこから来て、どこに行くのか知っている。わたしは神さまのところから来て、神さまのところに帰っていくのだ。しかしあなたたちはそのことを知らない。あなたたちはわたしを裁けるような人間ではないのだ。あなたたちはやたらと人を裁くけれども、わたしは裁かない。わたしはあなたたちのようにやたらと人を裁くことはしないけれども、わたしの裁きは真実なものである。あなたたちはわたしの証しが正しくないというけれども、わたしについてはわたしだけでなく、わたしの父である天の神さまがわたしを証ししてくださる。神さまがわたしをこの世にお遣わしになられ、そしてわたしは神さまの御心を証ししているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書8章19−20節にはこうあります。【彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。】。

ファリサイ派の人々は、イエスさまに「あなたの父はどこにいるのか」と言います。ファリサイ派の人々は、「あなたはヨセフだろう、ヨセフはいまどこにいるのか。もうヨセフは死んでしまっただろう」というわけです。イエスさまは神さまがわたしの父であると言われるのですが、ファリサイ派の人々はそのことを信じようとはしません。ですからイエスさまはファリサイ派の人々に対して、あなたたちはわたしもわたしの父も知らないと言われます。イエスさまは神さまの御心を行なっておられる。そのためイエスさまはファリサイ派の人々を批判なさる。ファリサイ派の人々は、イエスさまが言っておられることを理解することはできない。ファリサイ派の人々は、イエスさまを捕らえて殺そうとします。しかしイエスさまが十字架につけられるときはまだ来ていません。そのためファリサイ派の人々は、イエスさまを捕らえることはできませんでした。

キリスト教はユダヤ教からの一つの派であったわけですが、ユダヤ教から独立をすることによって、イエスさまを慕っているユダヤ教から、キリスト教という一つの宗派になるわけです。ヨハネによる福音書9章22節には、【ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。】と記されています。新約聖書の185頁です。ヨハネによる福音書はそうした時代を背景にして書かれています。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教でしたので、そこから追い出されるということは、異端宗教になるということを意味しました。そのためキリスト教のなかに留まるのではなく、ユダヤ教に帰っていくという人たちも出てきました。そうしたことが背景にありますから、ヨハネによる福音書はイエスさまにつくのか、ファリサイ派の人々につくのかということが、ほかの福音書よりも、激しく問われているわけです。

公認宗教ではなく異端宗教になるわけですから、初期のクリスチャンたちは迫害を受けることになります。クリスチャンであるのか、ユダヤ教に戻っていくのか。ユダヤ教に戻っていくことのほうが、平穏無事な感じがしますと、その方(ほう)が光が指している道であるような気がします。しかし初期のクリスチャンたちは、イエスさまの「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という言葉を信じて、イエスさまに従いました。イエスさまが神さまの御心を行ない、イエスさまが人々の悲しみや苦しみに寄り添ってくださる、神さまの御子であり、救い主であることに、初期のクリスチャンは気づいていたからです。イエスさまの言葉を信じ、こちらが光さす方(ほう)であると信じて、初期のクリスチャンは歩みました。

フォトジャーナリストのユージン・スミスは、水俣病患者に寄り添い活動をしました。写真集『MINAMATA』に収録されている「入浴する智子と母」が代表作だと言われています。ユージン・スミスの写真でもう一つ、有名な写真は「楽園への道」といわれる作品です。庭で遊んでいる男の子と女の子が、光が差すほうへと歩み始めるという写真です。ユージン・スミスはアジア・太平洋戦争の時に従軍記者として沖縄に行きます。そして沖縄で砲弾にあい、全身を負傷し、左腕に重症を負います。そしてもう写真をとることはできないと思っていました。

【沖縄戦での負傷により入院後も自宅での療養生活を余儀なくなくされ、スミスは肉体的に写真家として復帰できないかもしれないという絶望の中にいた。しかい、それを救ったのが1940年に結婚した当時の妻カルメンとの間に生まれた子どもたちだった。裏庭で遊んでいた二人の子ども、ケヴィンとワニータが明るい場所へ歩みだそうとする瞬間をとらえたこの作品を、スミスは戦後はじめてシャッターを押した写真だと語っている。スミスが戦争での精神的ダメージから立ち直る第一歩、そして写真家としての復帰を記念する一枚となった】(「フォトジャーナリスト W.ユージン・スミスの見たものー写真は真実を語る」 2021年11月5日〜25日、フジフィルムスクエア)ということです。

【この「楽園へのあゆみ」は、そのころ世界最大の自動車会社だったフォード社の広告に使われて、アメリカじゅうの人びとの目にふれることになりました。暗いところから明るいところへ、まさにあゆみだそうとしている子どもたちの写真は、ユージンとおなじように、戦争へのいやな思い出をわすれることができずにいた人たちに、明るい未来を感じさせました】(土方正志『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』、偕成社)(P.32)。

私たちもまたいろいろな困難に出会うときがあります。気が滅入ってしまい、もうどうでもいいわと思う時もあります。光が差すとは思えないような気になる時もあります。しかしイエスさまは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言ってくださり、私たちを招いてくださっています。世の光であるイエスさまは、私たちの歩む道を照らしてくださり、私たちに良き道を備えてくださいます。世の光であるイエスさまを信じて、イエスさまが導いてくださる道を歩んでいきましょう。



  

(2024年8月25日平安教会朝礼拝式)


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