2024年9月5日木曜日

9月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「良き志をもって歩め」

「良き志をもって歩め」

聖書箇所 ヨハネ8:37-47。495/520。

日時場所 2024年9月1日平安教会朝礼拝式・振起日礼拝

     

9月に入りました。暑い夏が終わり、暑い秋になりました。

日本に住んでいる私たちは、8月15日が敗戦記念日・終戦記念日というふうに思います。わたし自身もそうした感じがします。しかし国際法上で正式に戦争が終わったのは、9月2日と考えられています。1945年9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号の上で、日本が連合国側に無条件降伏文書に調印をするということが行われました。

社会学者の佐藤卓己は、終戦の日を二つに分けて、8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にすべきだと訴えています。8月15日はこれまで通り死者に祈りを捧げ、9月2日は戦争責任や加害の事実に冷静に目を向け、諸外国と歴史的対話をする日にしてはどうだろうという提案です。(佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』、ちくま学芸文庫)

戦没者のことを追悼している時に、戦争責任のことなどを話していると、なかなか冷静に話し合うことができないということがあります。戦後79年を経て、直接、兵隊として戦争に駆り出されていった人々も、だんだんといなくなり、生々しい加害者の体験を聞くこともできなくなりました。そうしたこともあり、メディアでは、平和についての番組は作られても、加害者としての戦争責任についての番組は作られなくなってきているような気がします。8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にわけて、冷静な議論をしていくというのも、よいアイデアなのかも知れません。日本の中だけで「従軍慰安婦はなかった」とか「南京大虐殺はなかった」とか言っていても、世界では通用しないですから、諸外国も交えて対話をしていくのは、よいことなのかなあと思います。

今日の聖書の箇所は、「反対者たちの父」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書8章37−41節にはこうあります。【あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」】。

ユダヤ人たちは自分たちは神さまから選ばれた特別の民族であると考えていました。神さまが自分たちの先祖であるアブラハムを特別に愛してくださって、そして自分たちの民族を特別な民族としてくださったと考えていました。ですから彼らは「わたしたちの父はアブラハムです」というわけです。そうしたユダヤ人たちに対して、イエスさまはあなたたちはアブラハムの子孫であり、自分たちが神さまに選ばれた特別な民族であるというのであれば、その神さまにふさわしいことをすべきだろうと言われます。神さまは困っている人やつらい思いをしている人々に心を向けておられるのに、どうしてあなたたちはそうした人たちに救いの手を差し伸べるというようなことをしないのかと言うのです。あなたたちはわたしたちの父はアブラハムだというけれども、アブラハムは弱い立場の人を苦しめたりするようなことはしなかった。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書8章41−50節にはこうあります。【そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。】。

イエスさまが「あなたたちはアブラハムの子ではない」と言われるので、ユダヤ人たちは「わたしたちは姦淫によって生まれたのではない」と言います。自分たちは由緒正しい者なのだと言うのです。そして「わたしたちにはただひとりの父がいる。私たちの父は神さまなのだ」と言うのです。「イエス、お前は自分のことを、神の御子だと言うけれども、お前がそういうのであれば、私たちだって神さまの御子だ」と、ユダヤ人たちは言うわけです。

イエスさまはユダヤ人たちに、あなたたちは神さまの御子だというのであれば、わたしのことも愛するだろう。わたしは神さまの御心を行っているだけなのだから。わたしはずっとそのように言っているけれども、あなたたちはいっこうに悔い改めることはしない。だから言わしてもらう。あなたたちの父は悪魔だ。アブラハムでも、神さまでもない。悪魔は人殺しであり、真理をよりどころにしていない。ウソをついても平気だ。あなたたちの父は悪魔であり、あなたたちもまた悪魔に属しているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書8章45−47節にはこうあります。【しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」】。

イエスさまはユダヤ人たちに、「わたしが真理を語るから、あなたたちは信じない」と言われました。イエスさまは神さまが示しておられる真理を語っておられます。。しかしユダヤ人たちはイエスさまのことを信じようとはしませんでした。ユダヤ人たちにとってイエスさまは、自分たちに対してものを言ってくるやっかいな人間であるわけです。ユダヤ人たちは神さまの御心から離れてしまい、自分たちの名誉やメンツといったものを大切にするようになっていました。イエスさまは神さまの真理を語るわけですが、ユダヤ人たちは神さまに属するのではなく、自分自身のために生きているので、イエスさまが語る神さまの御言葉を聞くことはありませんでした。

ユダヤ人たちは自分たちは特別な民族であると思っていました。ユダヤの指導者たちは自分たちは特別な人間であると思っていました。自分たちは特別であると思うようになると、往々にして、人の意見に耳を傾けることがなくなってきます。自分たちに都合の悪いことを、認めるのがいやになってきます。

9月1日は関東大震災が起こった日です。今年で101年を迎えます。関東大震災のときに、自警団による朝鮮人に対する虐殺が起こりました。歴史的な文書や証言として残っているわけですが、一方で「そうしたことはなかった」と言い張る人たちも出てくるようになりました。政治家の中でもそうしたことを言い出す人たちがいて、とても困ったことだと思います。

小説家の芥川龍之介は、「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章のなかで、こんなことを書いています。芥川龍之介と菊池寛の会話です。芥川龍之介は自警団に参加しています。【僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草(まきたばこ)を咥(くわ)えたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云うものの、地震以外の話の出た訳ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○(不逞鮮人の放火だ)さうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云う。しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○(不逞鮮人)はボルリエヴィッキの手先ださうだと云った。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。○○○は伏字。】(P.157)(加藤直樹『九月、東京の路上で』、ころから)。

芥川龍之介はデマを信じて、「関東大震災の大火事は朝鮮人のしわざだそうだ」と、菊池寛に言うのです。しかし菊池寛は「嘘だよ、君」と芥川龍之介を諭します。芥川龍之介は自分の愚かさと、菊池寛のすばらしさを、この文章で記しています。人はデマを信じやすいものだと思わされます。芥川龍之介がデマを簡単に信じるのであれば、わたしもデマを信じてしまうだろうなあと思わされ、とてもおそろしい気がいたします。

イエスさまはユダヤ人たちに対して、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」と言われました。「いくらなんでも、イエスさま、それは言いすぎではありませんか」と思いますが、しかし芥川龍之介が簡単にデマを信じてしまったことなどを思うとき、悪魔から出てきたとしか思えないような人間のそら恐ろしさを、自分のなかにも感じます。

だからこそ、イエスさまから離れずに歩みたいと思います。イエスさまにつながって歩みたいと思います。イエスさまにつながっていなければ、自分がどこかにいってしまいそうな思いがするからです。イエスさまは「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われました。イエスさまにつながって、神さまの言葉を聞く者でありたいと思います。「イエスさまにしっかりとつながって生きていく」という、よき志をもって歩みたいと思います。





  

(2024年9月1日平安教会朝礼拝式・振起日礼拝)


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