2024年9月25日水曜日

9月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暴力の世界から離れて」

「暴力の世界から離れて」

 

聖書箇所 ヨハネ10:31-42。404/486。

日時場所 2024年9月22日平安教会朝礼拝式

アンナ・ラッセル著、カミラ・ピニェイロ絵、堀越英美訳『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』(フィルムアート社)という本は、とても勇気を与えてくれる本です。いろいろな女性たちのスピーチを集めた本です。有名なスピーチというのはいろいろあるわけですが、そのスピーチは男性であることが多いわけです。しかしこの本は女性のスピーチを集めた本です。

この本の中に、マリア・スチュワートという女性のスピーチが出てきます。「別れの挨拶」というスピーチで、1833年のスピーチです。1833年は日本は江戸時代の後期になります。天保の大飢饉があり、1837年には大塩平八郎の乱が起こっています。マリア・スチュワートはアフリカ系アメリカ人の奴隷解放運動家です。イギリスでは1833年に奴隷制度は廃止されました。しかしアメリカではまだ続いていて、1861年ー1865年に南北戦争が起こり、1863年1月にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を行います。

マリア・スチュワートは幼い頃に孤児になり、5歳から年季奉公の奴隷となります。正規の教育を受けることはありませんでした。しかし彼女は公民権運動や社会改良運動に熱心に取り組んでいきます。マリア・スチュワートはだんだんと頭角を現し、ボストンで4度に渡って奴隷制廃止の講演を行います。しかし強い非難を受ける中、1833年以降は人前で話すことを辞め、教育者としての生涯を送ります。

「別れの挨拶」というスピーチの最初の部分を紹介いたします。【私が女性だとして、何か問題があるのでしょうか。古代の神は現代の神ではないのでしょうか。神はデボラ〔旧約聖書のなかの人物〕をイスラエルの母として、人々を裁くようお育てになったのではないでしょうか。王妃エステル〔旧約聖書の歴史物語『エステル記』の主人公であるユダヤ人女性〕はユダヤ人の命を救ったのではないですか?。それにキリストの復活を最初に宣言したのはマグダラのマリアですよね?。〔・・・・・〕使徒パウロは、女性が公の場で話すことは恥であると宣言されました。ですが、私たちの偉大な大祭司であり仲裁者であられますお方は、これよりも悪名高い罪を犯した女性をとがめませんでした。それなら、私のような虫けらをとがめることもないでしょう。神は公義を勝利に導くまでは、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消すこともありません。もし使徒パウロが、不当な扱いを受け、権利を奪われている私たちの窮状をご存じだったなら、私たちが公の場で権利を求めることに反対なさったりしないと思います】(P.22)。

わたしはマリア・スチュワートのスピーチを読みながら、もう1833年にこうしたことが公の場で、女性によって発言されているということに、とても励まされる思いがいたしました。1970年代にフェミニズム神学というように言われたことの内容が、もうすでに1833年にふつうに発言をされていて、それも正規の教育を受けることがなかった女性のスピーチとして残っているわけです。とても凛としたスピーチであるわけです。

マリア・スチュワートはこう言っています。【人間を形成するのは肌の色ではなく、その人の魂で育まれた行動規範なのですから。どこで生まれた人であっても、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありません】。

肌の色や、性別などで、人はいろいろなことを決めつけます。あるいは生まれた場所とかもそうでしょう。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれました。人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。ヨハネによる福音書1層46節に書かれてある言葉です。ユダヤのエルサレムにいたユダヤ人たちは、ガリラヤのナザレから何か良いものがでるわけがないと思っていました。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれましたが、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありませんでした。神さまの御心を行ない、神さまに従い歩まれました。しかしユダヤ人たちはイエスさまを受け入れることはできませんでした。

今日の聖書の箇所は「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という表題のついた聖書の箇所の一部です。先週の聖書の箇所の続きです。

ヨハネによる福音書10章31−33節にはこうあります。【ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」】。

ユダヤ人たちはイエスさまを石で殺そうとします。ユダヤ人たちは本気であるわけです。イエスさまはユダヤ人たちに、「わたしは神さまがわたしに託された善い業をたくさん行っているのに、どうしてわたしを石で打ち殺そうとするのか。わたしがしたどの善い業のために、わたしを撃ち殺そうとするのか」と言われます。。ユダ人たちは「あなたがした善い業のためにあなたを石で撃ち殺そうとしているのではない。あなたが神さまを冒涜しているからだ。あなたは人間なのに、自分のことを神としているからだ」と言いました。

ヨハネによる福音書は、イエス・キリストが神さまの御子であると記しています。ヨハネによる福音書1章1節以下に「言は肉となった」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。ヨハネによる福音書1章1−5節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】。ここで言われている「言」というのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは神さまと共にあり、そしてイエス・キリストは神であるということが言われています。そういう意味ではユダヤ人たちが言っている、「あなたは人間なのに、自分のことを神としている」というのは、おかしなことを言っているというわけではありません。しかしイエスさまが神さまを冒涜しているというのは、それはやはり間違ったことであるわけです。イエスさまは神さまの御心を行なっておられます。だからイエスさまは神さまを冒涜しているわけではないわけです。ですからイエスさまはつぎの箇所で、ユダヤ人たちに【どうして『神を冒涜している』と言うのか】と言われるわけです。

ヨハネによる福音書10章34−39節にはこうあります。【そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。】。

イエスさまが言われる「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」というのは、詩編82編6節に書かれてあることです。詩編82編6節にはこうあります。旧約聖書の920頁です。【わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。】。この聖書の箇所では、人間のことが神々と言われています。イエスさまは聖書で、神さまの言葉を受け入れた人が、神々と言われているのだから、わたしが「わたしは神の子である」と言っても、そんなに非難されることではないだろうと言われます。

一般的に人であっても、神さまの御心に従って歩んでいる人のことを、「神の子」というような感じで語ることというのはあるわけです。厳密に言えば、イエスさまのことを「神さまの御子」と言うのと、一般的に言われている「神の子」というのと違いがあるわけです。しかし自分のことを「神の子」と言ったということで、「神さまを冒涜している」と非難して、その人に石を投げて殺すというのは、それはやはりおかしなことだと、イエスさまは言われます。大切なのは、その人が神さまに従って歩んでいるかどうかだ。神さまの業を行なっているのであれば、それで良いだろうと、イエスさまは言われます。

そしてユダヤ人たちに対して、わたしのことが信じられないというのであれば、それはそれでよいから、わたしが行っている業をみてほしい。わたしは神さまの御心に従って歩んでいる。そして神さまがわたしに望んでいる善き業を行なって歩んでいる。わたしが行っている善き業をみてほしい。あなたたちが本当にそのことを理解するなら、神さまがわたしの内におられ、わたしが神さまの御心を行なっているということが、あなたたちにもわかるだろう。そのように、イエスさまは言われました。とは言うものの、ユダヤ人たちはイエスさまのことを信じることはできません。イエスさまを捕らえて、イエスさまを殺そうとします。

ヨハネによる福音書10章40−42節にはこうあります。【イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。】。

イエスさまは洗礼者ヨハネが活動をしていたヨルダン川に行きました。そこに行くと、多くの人々がイエスさまのところにやってきて、イエスさまのことを信じました。ヨハネによる福音書1章19節以下には「洗礼者ヨハネの証し」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。洗礼者ヨハネはイエスさまのことを、自分のあとからすばらしい人がやってくる。わたしはその人の履物のひもを解く資格もないと言いました。またヨハネによる福音書1章29節以下に「神の小羊」という表題のついた聖書の箇所があります。この箇所で洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。そして「この方こそ、神の子である」と証ししました。ユダヤ人たちはイエスさまのことを信じませんでした。しかし世の人々はイエスさまのことを「この方こそ、神の子である」と信じたのでした。

イエスさまのことを信じることができないユダヤ人たちは、はじめからイエスさまのことを拒否しています。イエスさまが神さまの御心を行なっているということについては関心がないのです。イエスさまは神さまの御心を行なっておられるので、神さまの御心にかなわない社会になっていることで、ユダヤの指導者たちを非難します。ユダヤの指導者たちはイエスさまが自分たちの意に添わないことをするので、イエスさまのことを敵とみなします。自分の意に添わない人はみな敵なのです。そして敵はやっつけるのです。ユダヤの指導者たちは敵を作り出すことに一生懸命になっていました。

レッテルをはって敵を作り出すということによって、世の中を治めていく方法は、とても簡単です。ですから世の支配者たちは、敵を作るという方法を取りがちです。敵をやっつけるためには何をしてもよいからです。残虐なことをしてもかまわないですし、嘘をついてもかまいません。倫理的な形式をとることもなく、何をしてもよいのです。自分たちに文句を言ってくる者たちには、「敵」というレッテルを貼って、やっつければいいのです。宗教が違うから敵だ。肌の色が違うから敵だ。生まれた国が違うから敵だ。敵をやっつければ良いのだ。しかしそうした世界に生きていると、どんどんと暴力的な人間になってしまいます。

そんなユダヤ人たちに対して、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われました。わたしが神さまから託された善き業を行なっているということに目を向けなさい。イエスさまは病の人々をいやされ、神さまの御言葉を伝えて、困難な人々を励ましておられました。神さまの御心にかなった善き業を行なっておられました。ユダヤ人たちに落ち着いて、そうしたことに目を向け、冷静になりなさいと、イエスさまは言われました。

「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と、ヨハネによる福音書10章31節にあります。「また石を取り上げた」ということですから、以前にもイエスさまに石を投げようとしたのでしょう。ヨハネによる福音書8章59節に、【すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた】とあります。

暴力的なことを繰り返していると、どんどんと暴力的なことをするようになってしまいます。ユダヤ人たちはどんどんと暴力的になり、イエスさまを捕らえて、イエスさまを十字架につけていくことになります。イエスさまの時代のユダヤ人たちが特別に暴力的であったということではなく、だれしも暴力的な方法を取っていくと、どんどんどんどんと暴力的になっていくのです。ですから暴力的な世界から離れて生きていくことを、心がけていかなければなりません。落ち着いて、話を聞くということが大切です。落ち着いて、相手のしている良いことを見るということが大切だということです。

石を投げようとしてくる人たちに、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われ、共に良い社会を作っていこうと呼びかけられました。お互いに良いところを見つけ出し、共に神さまのために働こうと、イエスさまは言われました。

日常生活の中で、私たちもいろいろなことに腹を立てたり、いじわるな気持ちになったりします。「あの人のことは大嫌い」という思いに囚われてしまうこともあります。しかし落ち着いて、考えてみなさいと、イエスさまは言われます。心を落ち着けて、意地悪な気持ちから離れて、やさしい気持ちになりなさい。そうするとまた新しい道が開かれてくる。共に神さまのために働こうという気持ちが与えられると、イエスさまは言われます。

イエスさまと共に、落ち着いて、やさしい気持ちを取戻して歩んでいきたいと思います。


  

(2024年9月22日平安教会朝礼拝式)


2024年9月19日木曜日

9月15日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまに守られている」

「イエスさまに守られている」

聖書箇所 ヨハネ10:22-30。289/460。

日時場所 2024年9月15日平安教会朝礼拝式・恵老祝福礼拝


今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。

年を取りますと、やはり体が痛いというようなことも多くなってきます。また病院にかかることも多くなってきます。わたしは61歳になりました。教会の中ではまだまだ若者という雰囲気がありますが、それでもいろいろなことで病院に通うことが急に多くなりました。わたし自身が「ああ大変だ」というように思うわけですから、わたし以上に年をとっておられる方は、もっと大変なのだろうと思います。若い時のように思うように体が動かないというようなこともありつつ、それでも神さまから命を与えられ、そして「生きよ」と言われていることに感謝をして、神さまが指し示す道を歩んでおられるみなさんはとてもえらいなあと思います。神さまに感謝していきおられる皆さんをみるときに、私たちはとても励まされる思いがいたします。そしてこうして共に神さまを讃美する礼拝を守ることができますことが、こころからの喜びであると感じることができます。

9月6日の金曜日の朝、わたしは左側のお腹と左側の背中が痛くなりました。その日は朝、病院にいくことになっていましたので、すこしはやい時間でしたが、起きて我慢をしていました。食欲がなかったので、牛乳だけを飲んだのですが、いよいよ我慢することができなくなり、「いまから見ていただくことはできますか」ということで病院に電話をかけました。するとだんだと吐き気がして、電話をするのも大変というような感じなりました。「保険証と5千円をもってきてください」ということでしたので、妻に病院まで送ってもらいました。「大丈夫ですか。それではこれに記入してください」と言われたのですが、もう自分で記入できず、お医者さんに書いてもらいました。検尿をして、CT検査をしているうちに、だんだんと落ち着いてきて、結局は尿管結石ということでした。「尿管結石は40代、50代の大の大人が痛くて、痛くて苦しんでいる病気の1つです。『痛みの王様』と呼ばれる病気です!!」ということでした。「死ぬかと思った」というのは大げさですが、ひさしぶりに「病院駆け込まなければ、もうどうしようもない」という感じでした。「結石は大きくないので、自然に出てくるでしょう」ということでしたが、「こんな小さなものに苦しめられるとは、人間とはなんと無力なものなのでしょう」と思いました。

わたしはいまから23年ほど前の2001年に同じように、尿管結石になっています。そのときは妻に、「なんで、身体の中に、石があったりするんやろ。どうせなら、昔話に出てくるダチョウの金(きん)の卵みたいに、石やなくて、金(きん)が身体の中で、できたらいいのになあ」というようなことを言っていました。しかし今回は、そんな冗談を言うことができないほど、苦しかったです。

それでもその後、こうして普通に生活をしているので、「ああ、やっぱり神さまから守られているんだなあ」と思えます。日常生活の中で、大変なことに出会うことが、私たちにはあるわけですが、それでも神さまが御手をもって導いてくださることを信じて、私たちは歩んでいきます。

今日の聖書の箇所は「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書10章22−24節にはこうあります。【そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」】。

今年度はヨハネによる福音書で話をすることが多いですので、なんとなくユダヤ人の指導者たちがイエスさまのことを信じることができなかったということが書いてある聖書の箇所を読んでいます。今日の聖書の箇所もそんな感じの聖書の箇所です。

神殿奉献記念祭というのはユダヤの「ハヌカ」というお祭りのことです。紀元前2世紀にイスラエルはギリシャ人の支配下にありました。ユダヤ教のおきてを守ることが禁じられていました。ユダヤ人たちはそうした圧政に対してたちあがり、紀元前165年にエルサレム神殿を取戻します。そのことをお祝いするお祭りであるわけです。

イエスさまは神殿の境内のソロモンの回廊を歩いておられました。するとユダヤ人たちがイエスさまのところにやってきて、イエスさまを取り囲みました。そしてユダヤ人たちはイエスさまに「もし自分のことがメシアであるというのであれば、はっきりとそう言ったらよいではないか」と言いました。でもはっきりとそう言うと、ユダヤ人たちは「イエスは神さまを冒涜した」と言って、イエスさまを捕らえるわけです。ですからイエスさまはなかなかはっきりと宣言をされるというのではなく、なんとなくわかるというような発言をされていたということだと思います。

ヨハネによる福音書10章25ー27節にはこうあります。【イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。】。

ユダヤ人たちは「はっきり言え」というわけですが、イエスさまは「わたしははっきり言った」というわけです。はっきり言ったけれども、あなたたちは信じないと言うわけです。でもまあ、ユダヤ人たちはイエスさまを捕らえるために、「はっきり言え」と言っているわけです。イエスさまのことを信じたいというようなことを思っているわけではありません。イエスさまが神さまから託されたわざを行なっているけれども、ユダヤ人たちは信じない。まあそうしたことが重なってくるので、イエスさまも「あなたたちはわたしの羊ではないから信じないのだ」と言うわけです。そして神さまを求めている人たちは、わたしの声を聞き分けて、わたしのことを信じる。わたしは彼らのことを知っている。そして彼らはわたしに従うのだ。と、イエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書10章28−30節にはこうあります。【わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」】。

イエスさまはイエスさまを信じる人たちに、「永遠の命を与える」と言われます。イエスさまを信じる人たちは、イエスさまの手から奪うことはできない。父である神さまが、イエスさまに力を与えてくださっている。神さまが与えてくださったものであるので、それらは偉大なものであり、そしてだれもそれを奪うことはできない。そのようにイエスさまは言われました。

私たちはイエスさまの羊です。イエスさまの言葉を信じ、イエスさまが神さまの御子であることを知っています。神さまがイエスさまに力を与えてくださり、イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心を行ないます。そして私たちに永遠の命を与えてくださいます。私たちはそうした力強いイエスさまに守られて生かされています。

イエスさまは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言っておられます。思えば、私たちはとても大きな安らぎのうちを歩んでいるのです。「わたしは永遠の命を約束されている」「わたしは決して滅びることはない」「わたしはいつもイエスさまの御手のうちに生きている」。イエスさまの御言葉を聞くときに、わたしはとても安心いたします。尿管結石で不安になっていたのが、うそのような気がします。

私たちはだれからも奪われることのない幸いを手にしています。この世の多くのものは私たちの手から失われていきます。もっと若いときは元気だったのに。もっと若いときは転んでもケガをするというようなことはなかったのに。年をとってくると、体の衰えを感じるということが確かにあります。

しかしどんなに年をとったとしても、私たちはイエスさまのお守りのうちに生きています。イエスさまは「だれもわたしからあなたを奪うことはできない」と、私たちに言ってくださっています。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。イエスさまの御声を聞きつつ、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。イエスさまは私たちをしっかりと受けとめてくださり、私たちに安らぎを与えてくださいます。




  

(2024年9月15日平安教会朝礼拝式・恵老祝福礼拝)





2024年9月13日金曜日

9月8日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「ただ、神さまの愛がある」

「ただ、神さまの愛がある」

聖書箇所 マタイによる福音書5章43ー48節

日時場所 2024年9月8日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい


童話作家の新美南吉の「ごんぎつね」は、よく国語の教科書でとりあげられる作品です。道徳の教材などにも使われたりするので、何となくうまく使われてしまっているような気がするわけですが、しかし新美南吉自身は、愛国主義的な教育が嫌いでした。

こんなことを書いています。(P235.236)(堀越英美『不道徳お母さん講座 私たちはなぜ母性と自己犠牲に感動するのか』、河出書房新社)

【昨日午後われわれの講堂で講演会が行はれた。この頃はやりのなんでもかんでも日本は有難いくに、よい国、なんでもかんでも西洋は個人主義の嫌らしい国といふ千ぺん一律の話をするのはくそ面白くない会の一つだ】(昭和一五年二月一五日の日記)

【教育界。こんな嘘だらけの世界はもういやだ。沢山だ。げろ。子供は美しい、純真です。ハアさうですか】(友人・河合弘に宛てた手紙、昭和一五年九月二二日)

「ごんぎつね」とか「てぶくろをかいに」といった、児童文学を書いている新美南吉からは想像できないような言葉遣いです。「くそ面白くない」とか「教育界。こんな嘘だらけの世界はもういやだ。沢山だ。げろ。子供は美しい、純真です。ハアさうですか」。

新美南吉は四歳で母と死に別れます。あまりに深い孤独を感じたため、安易に感動をもとめるような世の中のあり方には、新美南吉はなじむことができなかったのだと思います。

わたしの好きな新美南吉の詩に、「天国」という詩があります。

【天国 

おかあさんたちは

みんな一つの、天国をもっています。

どのおかあさんも

どのおかあさんももっています。

それはやさしい背中です。

どのおかあさんの背中でも

赤ちゃんが眠ったことがありました。

背中はあっちこっちにゆれました。

子どもたちは

おかあさんの背中を

ほんとの天国だとおもっていました。

おかあさんたちは

みんな一つの、天国をもっています。】(新美南吉『新美南吉詩集』、ハルキ文庫)。

新美南吉が小さな頃、お母さんは天に召されました。新美南吉が4才のときです。ですから新美南吉のお母さんに対する思い入れは、とても大きいものだったと思います。

【おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています。どのおかあさんも どのおかあさんももっています】。そのように言われると、「おかあさんはうれしい」という面と、「どうしてお母さんだけに子育てを押し付けるのか」という批判も出るのではないかと思います。「最近はこどもを背負っているお母さんをあまり見たことがない」ということもあるかと思います。しかしそれでも【子どもたちは おかあさんの背中を ほんとの天国だとおもっていました。おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています。】と言われると、なんとなく体験的にそんな感じがします。

「おとうさんの背中は天国ではないのか」という疑問もないわけではないです。もちろんお父さんの背中が天国である場合もあると思います。わたしはそうしたことよりも、だれしも天国を持っているということが大切なのだと思います。お母さんであろうとお父さんであろうとおじいさんであろうとおばあさんであろうと、なんらかの天国をもっている。ただそのことに気づかないということが人間にはあります。【子どもたちは おかあさんの背中を ほんとの天国だとおもっていました。おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています】。

人は自分のもっているものに気がつかないということがあります。大切なものを神さまから与えられているにも関わらず、そのことに気がつかないということがあります。それはおかあさんの背中ばかりではなく、お父さんの肩であるかもしれません。いろいろな賜物を与えられているにもかかわらず、そのことに気がつかないということがあります。また人は自分がだれかからとても愛されているということに気がつかないということがあります。たとえば父親や母親からどんなに愛されていたのかわからないということがあります。自分が母親や父親になって、「ああ、母は、自分のことをこんなふうに愛してくれていたのだろう」と気がつくというようなことがあります。だけれども中学生・高校生の時は親はとてもうっとうしく感じるということがあったりします。なかなか人は愛を理解することができなかったりします。

父や母、あるいは家族や友人だけでなく、私たちは神さまからどんなに愛されていても、気がつかないということがあります。神さまのことなど忘れて、勝手に遊びに行ってしまうこともありますし、まあちょっと仕事をしなければと思ったりもします。私たちは神さまからどんなに愛されているのか知らずに、自分勝手なことをします。そして時に神さまに反抗したり、神さまに不平を言ったりします。しかしそれでも神さまは辛抱強く私たちを導き、私たちを愛して下さっています。

今日の聖書の箇所は「敵を愛しなさい」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまは神さまの愛ということについては、極端なことも言われます。マタイによる福音書5章44節には【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】とあります。【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】といわれると、「いや、そんなできないだろう」というふうに思えます。自分にいじわるをする人を愛することはできないし、わたしに暴力を振るうような人を愛することはできないと思えます。

しかし愛するということの前に、何か理由があるというのも、さみしいわけです。イエスさまは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあるだろうか」と言っておられます。自分に何かいいことをしてくれるから、この人のことを愛してあげるというのも、ちょっと違うだろうと、イエスさまは言われます。何かいいものをくれるとか、この人はできがいいから愛してあげるというのは、それはちょっと違うだろうと、イエスさまは言われます。

マタイによる福音書5章45節にはこうあります。【あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである】。神さまの愛は悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも注がれる。それは神さまが愛について資格を問うておられるわけではないからです。ふさわしいとか、ふさわしくないとかということが、神さまの愛が注がれることの前提ではないからです。

私たちは愛ということの前に、権利とか資格ということを問題にしがちですが、しかしイエスさまは言われるのです。私たちに権利があるとか資格があるということが大切なのではない。神さまの愛があるということが大切なのだ。神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。それは私たちにそれを受ける権利があるとか、私たちにそれを受ける資格があるとか、そういうことではない。ただ神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。そのことが大切なのだ。

愛ということを考える時に、イエスさまはまず「あなたが神さまからただ愛されている」ことが大切なのだと言われました。あなたが優秀だから、神さまはあなたを愛しておられるのではない。あなたが良いことをするから、神さまはあなたを愛しておられるのではない。神さまは、ただ、あなたを愛しておられる。神さまは、ただ、あなたのことが大好きなのだ。

神さまの愛に私たちがふさわしいのかと言えば、そういうわけでもありません。私たちの心の中には、良くない思いもあります。また人を傷つけてしまいようなことを行ってしまったり、じっさいに行ってしまったりすることもあります。神さまの愛にふさわしいとは思えない私たちがいます。

でも神さまはただ、私たちを愛してくださっています。私たちはそうした慈しみ深い神さまの愛の中に生かされています。どんなときも、神さまは私たちを愛してくださり、私たちを見守ってくださっています。

神さまがわたしを愛してくださっているということを、こころにしっかりと受けとめて、安心して歩んでいきましょう。


(2024年9月8日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい)

2024年9月5日木曜日

9月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「良き志をもって歩め」

「良き志をもって歩め」

聖書箇所 ヨハネ8:37-47。495/520。

日時場所 2024年9月1日平安教会朝礼拝式・振起日礼拝

     

9月に入りました。暑い夏が終わり、暑い秋になりました。

日本に住んでいる私たちは、8月15日が敗戦記念日・終戦記念日というふうに思います。わたし自身もそうした感じがします。しかし国際法上で正式に戦争が終わったのは、9月2日と考えられています。1945年9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号の上で、日本が連合国側に無条件降伏文書に調印をするということが行われました。

社会学者の佐藤卓己は、終戦の日を二つに分けて、8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にすべきだと訴えています。8月15日はこれまで通り死者に祈りを捧げ、9月2日は戦争責任や加害の事実に冷静に目を向け、諸外国と歴史的対話をする日にしてはどうだろうという提案です。(佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』、ちくま学芸文庫)

戦没者のことを追悼している時に、戦争責任のことなどを話していると、なかなか冷静に話し合うことができないということがあります。戦後79年を経て、直接、兵隊として戦争に駆り出されていった人々も、だんだんといなくなり、生々しい加害者の体験を聞くこともできなくなりました。そうしたこともあり、メディアでは、平和についての番組は作られても、加害者としての戦争責任についての番組は作られなくなってきているような気がします。8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にわけて、冷静な議論をしていくというのも、よいアイデアなのかも知れません。日本の中だけで「従軍慰安婦はなかった」とか「南京大虐殺はなかった」とか言っていても、世界では通用しないですから、諸外国も交えて対話をしていくのは、よいことなのかなあと思います。

今日の聖書の箇所は、「反対者たちの父」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書8章37−41節にはこうあります。【あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」】。

ユダヤ人たちは自分たちは神さまから選ばれた特別の民族であると考えていました。神さまが自分たちの先祖であるアブラハムを特別に愛してくださって、そして自分たちの民族を特別な民族としてくださったと考えていました。ですから彼らは「わたしたちの父はアブラハムです」というわけです。そうしたユダヤ人たちに対して、イエスさまはあなたたちはアブラハムの子孫であり、自分たちが神さまに選ばれた特別な民族であるというのであれば、その神さまにふさわしいことをすべきだろうと言われます。神さまは困っている人やつらい思いをしている人々に心を向けておられるのに、どうしてあなたたちはそうした人たちに救いの手を差し伸べるというようなことをしないのかと言うのです。あなたたちはわたしたちの父はアブラハムだというけれども、アブラハムは弱い立場の人を苦しめたりするようなことはしなかった。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書8章41−50節にはこうあります。【そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。】。

イエスさまが「あなたたちはアブラハムの子ではない」と言われるので、ユダヤ人たちは「わたしたちは姦淫によって生まれたのではない」と言います。自分たちは由緒正しい者なのだと言うのです。そして「わたしたちにはただひとりの父がいる。私たちの父は神さまなのだ」と言うのです。「イエス、お前は自分のことを、神の御子だと言うけれども、お前がそういうのであれば、私たちだって神さまの御子だ」と、ユダヤ人たちは言うわけです。

イエスさまはユダヤ人たちに、あなたたちは神さまの御子だというのであれば、わたしのことも愛するだろう。わたしは神さまの御心を行っているだけなのだから。わたしはずっとそのように言っているけれども、あなたたちはいっこうに悔い改めることはしない。だから言わしてもらう。あなたたちの父は悪魔だ。アブラハムでも、神さまでもない。悪魔は人殺しであり、真理をよりどころにしていない。ウソをついても平気だ。あなたたちの父は悪魔であり、あなたたちもまた悪魔に属しているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書8章45−47節にはこうあります。【しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」】。

イエスさまはユダヤ人たちに、「わたしが真理を語るから、あなたたちは信じない」と言われました。イエスさまは神さまが示しておられる真理を語っておられます。。しかしユダヤ人たちはイエスさまのことを信じようとはしませんでした。ユダヤ人たちにとってイエスさまは、自分たちに対してものを言ってくるやっかいな人間であるわけです。ユダヤ人たちは神さまの御心から離れてしまい、自分たちの名誉やメンツといったものを大切にするようになっていました。イエスさまは神さまの真理を語るわけですが、ユダヤ人たちは神さまに属するのではなく、自分自身のために生きているので、イエスさまが語る神さまの御言葉を聞くことはありませんでした。

ユダヤ人たちは自分たちは特別な民族であると思っていました。ユダヤの指導者たちは自分たちは特別な人間であると思っていました。自分たちは特別であると思うようになると、往々にして、人の意見に耳を傾けることがなくなってきます。自分たちに都合の悪いことを、認めるのがいやになってきます。

9月1日は関東大震災が起こった日です。今年で101年を迎えます。関東大震災のときに、自警団による朝鮮人に対する虐殺が起こりました。歴史的な文書や証言として残っているわけですが、一方で「そうしたことはなかった」と言い張る人たちも出てくるようになりました。政治家の中でもそうしたことを言い出す人たちがいて、とても困ったことだと思います。

小説家の芥川龍之介は、「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章のなかで、こんなことを書いています。芥川龍之介と菊池寛の会話です。芥川龍之介は自警団に参加しています。【僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。戒厳令の布かれた後、僕は巻煙草(まきたばこ)を咥(くわ)えたまま、菊池と雑談を交換してゐた。尤(もっと)も雑談とは云うものの、地震以外の話の出た訳ではない。その内に僕は大火の原因は○○○○○○○○(不逞鮮人の放火だ)さうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論(もちろん)さう云はれて見れば、「ぢや嘘だらう」と云う。しかし次手(ついで)にもう一度、何でも○○○○(不逞鮮人)はボルリエヴィッキの手先ださうだと云った。菊池は今度は眉を挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽(たちま)ち自説(?)を撤回した。○○○は伏字。】(P.157)(加藤直樹『九月、東京の路上で』、ころから)。

芥川龍之介はデマを信じて、「関東大震災の大火事は朝鮮人のしわざだそうだ」と、菊池寛に言うのです。しかし菊池寛は「嘘だよ、君」と芥川龍之介を諭します。芥川龍之介は自分の愚かさと、菊池寛のすばらしさを、この文章で記しています。人はデマを信じやすいものだと思わされます。芥川龍之介がデマを簡単に信じるのであれば、わたしもデマを信じてしまうだろうなあと思わされ、とてもおそろしい気がいたします。

イエスさまはユダヤ人たちに対して、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」と言われました。「いくらなんでも、イエスさま、それは言いすぎではありませんか」と思いますが、しかし芥川龍之介が簡単にデマを信じてしまったことなどを思うとき、悪魔から出てきたとしか思えないような人間のそら恐ろしさを、自分のなかにも感じます。

だからこそ、イエスさまから離れずに歩みたいと思います。イエスさまにつながって歩みたいと思います。イエスさまにつながっていなければ、自分がどこかにいってしまいそうな思いがするからです。イエスさまは「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われました。イエスさまにつながって、神さまの言葉を聞く者でありたいと思います。「イエスさまにしっかりとつながって生きていく」という、よき志をもって歩みたいと思います。





  

(2024年9月1日平安教会朝礼拝式・振起日礼拝)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》