「暴力の世界から離れて」
聖書箇所 ヨハネ10:31-42。404/486。
日時場所 2024年9月22日平安教会朝礼拝式
アンナ・ラッセル著、カミラ・ピニェイロ絵、堀越英美訳『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』(フィルムアート社)という本は、とても勇気を与えてくれる本です。いろいろな女性たちのスピーチを集めた本です。有名なスピーチというのはいろいろあるわけですが、そのスピーチは男性であることが多いわけです。しかしこの本は女性のスピーチを集めた本です。
この本の中に、マリア・スチュワートという女性のスピーチが出てきます。「別れの挨拶」というスピーチで、1833年のスピーチです。1833年は日本は江戸時代の後期になります。天保の大飢饉があり、1837年には大塩平八郎の乱が起こっています。マリア・スチュワートはアフリカ系アメリカ人の奴隷解放運動家です。イギリスでは1833年に奴隷制度は廃止されました。しかしアメリカではまだ続いていて、1861年ー1865年に南北戦争が起こり、1863年1月にリンカーン大統領が奴隷解放宣言を行います。
マリア・スチュワートは幼い頃に孤児になり、5歳から年季奉公の奴隷となります。正規の教育を受けることはありませんでした。しかし彼女は公民権運動や社会改良運動に熱心に取り組んでいきます。マリア・スチュワートはだんだんと頭角を現し、ボストンで4度に渡って奴隷制廃止の講演を行います。しかし強い非難を受ける中、1833年以降は人前で話すことを辞め、教育者としての生涯を送ります。
「別れの挨拶」というスピーチの最初の部分を紹介いたします。【私が女性だとして、何か問題があるのでしょうか。古代の神は現代の神ではないのでしょうか。神はデボラ〔旧約聖書のなかの人物〕をイスラエルの母として、人々を裁くようお育てになったのではないでしょうか。王妃エステル〔旧約聖書の歴史物語『エステル記』の主人公であるユダヤ人女性〕はユダヤ人の命を救ったのではないですか?。それにキリストの復活を最初に宣言したのはマグダラのマリアですよね?。〔・・・・・〕使徒パウロは、女性が公の場で話すことは恥であると宣言されました。ですが、私たちの偉大な大祭司であり仲裁者であられますお方は、これよりも悪名高い罪を犯した女性をとがめませんでした。それなら、私のような虫けらをとがめることもないでしょう。神は公義を勝利に導くまでは、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消すこともありません。もし使徒パウロが、不当な扱いを受け、権利を奪われている私たちの窮状をご存じだったなら、私たちが公の場で権利を求めることに反対なさったりしないと思います】(P.22)。
わたしはマリア・スチュワートのスピーチを読みながら、もう1833年にこうしたことが公の場で、女性によって発言されているということに、とても励まされる思いがいたしました。1970年代にフェミニズム神学というように言われたことの内容が、もうすでに1833年にふつうに発言をされていて、それも正規の教育を受けることがなかった女性のスピーチとして残っているわけです。とても凛としたスピーチであるわけです。
マリア・スチュワートはこう言っています。【人間を形成するのは肌の色ではなく、その人の魂で育まれた行動規範なのですから。どこで生まれた人であっても、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありません】。
肌の色や、性別などで、人はいろいろなことを決めつけます。あるいは生まれた場所とかもそうでしょう。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれました。人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。ヨハネによる福音書1層46節に書かれてある言葉です。ユダヤのエルサレムにいたユダヤ人たちは、ガリラヤのナザレから何か良いものがでるわけがないと思っていました。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれましたが、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありませんでした。神さまの御心を行ない、神さまに従い歩まれました。しかしユダヤ人たちはイエスさまを受け入れることはできませんでした。
今日の聖書の箇所は「ユダヤ人、イエスを拒絶する」という表題のついた聖書の箇所の一部です。先週の聖書の箇所の続きです。
ヨハネによる福音書10章31−33節にはこうあります。【ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」】。
ユダヤ人たちはイエスさまを石で殺そうとします。ユダヤ人たちは本気であるわけです。イエスさまはユダヤ人たちに、「わたしは神さまがわたしに託された善い業をたくさん行っているのに、どうしてわたしを石で打ち殺そうとするのか。わたしがしたどの善い業のために、わたしを撃ち殺そうとするのか」と言われます。。ユダ人たちは「あなたがした善い業のためにあなたを石で撃ち殺そうとしているのではない。あなたが神さまを冒涜しているからだ。あなたは人間なのに、自分のことを神としているからだ」と言いました。
ヨハネによる福音書は、イエス・キリストが神さまの御子であると記しています。ヨハネによる福音書1章1節以下に「言は肉となった」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。ヨハネによる福音書1章1−5節にはこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】。ここで言われている「言」というのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは神さまと共にあり、そしてイエス・キリストは神であるということが言われています。そういう意味ではユダヤ人たちが言っている、「あなたは人間なのに、自分のことを神としている」というのは、おかしなことを言っているというわけではありません。しかしイエスさまが神さまを冒涜しているというのは、それはやはり間違ったことであるわけです。イエスさまは神さまの御心を行なっておられます。だからイエスさまは神さまを冒涜しているわけではないわけです。ですからイエスさまはつぎの箇所で、ユダヤ人たちに【どうして『神を冒涜している』と言うのか】と言われるわけです。
ヨハネによる福音書10章34−39節にはこうあります。【そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。】。
イエスさまが言われる「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」というのは、詩編82編6節に書かれてあることです。詩編82編6節にはこうあります。旧約聖書の920頁です。【わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。】。この聖書の箇所では、人間のことが神々と言われています。イエスさまは聖書で、神さまの言葉を受け入れた人が、神々と言われているのだから、わたしが「わたしは神の子である」と言っても、そんなに非難されることではないだろうと言われます。
一般的に人であっても、神さまの御心に従って歩んでいる人のことを、「神の子」というような感じで語ることというのはあるわけです。厳密に言えば、イエスさまのことを「神さまの御子」と言うのと、一般的に言われている「神の子」というのと違いがあるわけです。しかし自分のことを「神の子」と言ったということで、「神さまを冒涜している」と非難して、その人に石を投げて殺すというのは、それはやはりおかしなことだと、イエスさまは言われます。大切なのは、その人が神さまに従って歩んでいるかどうかだ。神さまの業を行なっているのであれば、それで良いだろうと、イエスさまは言われます。
そしてユダヤ人たちに対して、わたしのことが信じられないというのであれば、それはそれでよいから、わたしが行っている業をみてほしい。わたしは神さまの御心に従って歩んでいる。そして神さまがわたしに望んでいる善き業を行なって歩んでいる。わたしが行っている善き業をみてほしい。あなたたちが本当にそのことを理解するなら、神さまがわたしの内におられ、わたしが神さまの御心を行なっているということが、あなたたちにもわかるだろう。そのように、イエスさまは言われました。とは言うものの、ユダヤ人たちはイエスさまのことを信じることはできません。イエスさまを捕らえて、イエスさまを殺そうとします。
ヨハネによる福音書10章40−42節にはこうあります。【イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。】。
イエスさまは洗礼者ヨハネが活動をしていたヨルダン川に行きました。そこに行くと、多くの人々がイエスさまのところにやってきて、イエスさまのことを信じました。ヨハネによる福音書1章19節以下には「洗礼者ヨハネの証し」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の163頁です。洗礼者ヨハネはイエスさまのことを、自分のあとからすばらしい人がやってくる。わたしはその人の履物のひもを解く資格もないと言いました。またヨハネによる福音書1章29節以下に「神の小羊」という表題のついた聖書の箇所があります。この箇所で洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。そして「この方こそ、神の子である」と証ししました。ユダヤ人たちはイエスさまのことを信じませんでした。しかし世の人々はイエスさまのことを「この方こそ、神の子である」と信じたのでした。
イエスさまのことを信じることができないユダヤ人たちは、はじめからイエスさまのことを拒否しています。イエスさまが神さまの御心を行なっているということについては関心がないのです。イエスさまは神さまの御心を行なっておられるので、神さまの御心にかなわない社会になっていることで、ユダヤの指導者たちを非難します。ユダヤの指導者たちはイエスさまが自分たちの意に添わないことをするので、イエスさまのことを敵とみなします。自分の意に添わない人はみな敵なのです。そして敵はやっつけるのです。ユダヤの指導者たちは敵を作り出すことに一生懸命になっていました。
レッテルをはって敵を作り出すということによって、世の中を治めていく方法は、とても簡単です。ですから世の支配者たちは、敵を作るという方法を取りがちです。敵をやっつけるためには何をしてもよいからです。残虐なことをしてもかまわないですし、嘘をついてもかまいません。倫理的な形式をとることもなく、何をしてもよいのです。自分たちに文句を言ってくる者たちには、「敵」というレッテルを貼って、やっつければいいのです。宗教が違うから敵だ。肌の色が違うから敵だ。生まれた国が違うから敵だ。敵をやっつければ良いのだ。しかしそうした世界に生きていると、どんどんと暴力的な人間になってしまいます。
そんなユダヤ人たちに対して、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われました。わたしが神さまから託された善き業を行なっているということに目を向けなさい。イエスさまは病の人々をいやされ、神さまの御言葉を伝えて、困難な人々を励ましておられました。神さまの御心にかなった善き業を行なっておられました。ユダヤ人たちに落ち着いて、そうしたことに目を向け、冷静になりなさいと、イエスさまは言われました。
「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」と、ヨハネによる福音書10章31節にあります。「また石を取り上げた」ということですから、以前にもイエスさまに石を投げようとしたのでしょう。ヨハネによる福音書8章59節に、【すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた】とあります。
暴力的なことを繰り返していると、どんどんと暴力的なことをするようになってしまいます。ユダヤ人たちはどんどんと暴力的になり、イエスさまを捕らえて、イエスさまを十字架につけていくことになります。イエスさまの時代のユダヤ人たちが特別に暴力的であったということではなく、だれしも暴力的な方法を取っていくと、どんどんどんどんと暴力的になっていくのです。ですから暴力的な世界から離れて生きていくことを、心がけていかなければなりません。落ち着いて、話を聞くということが大切です。落ち着いて、相手のしている良いことを見るということが大切だということです。
石を投げようとしてくる人たちに、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われ、共に良い社会を作っていこうと呼びかけられました。お互いに良いところを見つけ出し、共に神さまのために働こうと、イエスさまは言われました。
日常生活の中で、私たちもいろいろなことに腹を立てたり、いじわるな気持ちになったりします。「あの人のことは大嫌い」という思いに囚われてしまうこともあります。しかし落ち着いて、考えてみなさいと、イエスさまは言われます。心を落ち着けて、意地悪な気持ちから離れて、やさしい気持ちになりなさい。そうするとまた新しい道が開かれてくる。共に神さまのために働こうという気持ちが与えられると、イエスさまは言われます。
イエスさまと共に、落ち着いて、やさしい気持ちを取戻して歩んでいきたいと思います。
(2024年9月22日平安教会朝礼拝式)