「すてきなわたしにもどる」
聖書箇所 マタイによる福音書7章1−5節
日時場所 2024年10月13日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい、神学校日礼拝
平安教会では毎月第二日曜日を「きてみて・れいはい」として、はじめて教会にきてくださった人にもわかりやすい話をすることを、心がけるということにしています。毎月第二日曜日ということなのですが、教会にもいろいろな行事がありますので、若干、日が別の日になることがあります。11月は第三週の11月17日、12月は第三週の12月15日を予定しています。
イエスさまが私たちに教えてくださったことの中で、わたしがとても大切だと思っていることに、「人を裁くな」ということがあります。いまはそうでもないですが、わかいのとき、自分が正しいという思いがとても強かったので、人を裁くことが多かったような気がします。
昔、何かの打ち上げの親睦会があり、宴会芸で、わたしの友人がわたしのまねをしました。それでは小笠原くんのまねをしますと、友人は言って、「そうじゃあ、ないんよ」と言いました。みんな大笑いをしていました。どうやらわたしの口癖は「そうじゃあ、ないんよ」だったようです。「そうじゃない」ということですから、わたしはたぶん多くのことに反対をしていたのだと思います。そして「わたしが正しく、あなたはまちがっている」と主張して、「そうじゃあ、ないんよ」と言っていたのだと思います。わたし自身はそんなことに気がついていませんでしたが、「そうだったんだなあ」と思います。まあ若い頃というのは、何かにつけて腹が立つというようなこともあるわけです。知らず知らずのうちに、人を裁いているというようなこともあります。
わたしは同志社大学の神学部で学ぶ前に、四国の高松市にある大学で学生生活を送っていました。高松市、なかなか良い街で、いまでもとてもなつかしい街なので、ときどき訪れたりします。さぬきうどんで有名ですが、香川の人はほんとによくうどんを食べます。わたしも学生時代、朝、起きて、ほとんど毎日、うどんを食べるというような生活をしていました。朝昼兼用でうどんを食べます。そして夜には、食堂に行って、夕食を食べるというようなことをしていました。
いくつか行きつけの食堂があったわけですが、その一つの食堂に夫婦で切り盛りをしておられる食堂がありました。その食堂のおばちゃんというのが、ちょっと太った威圧感のある、なかなか豪傑な人でした。まあ、なんとも言えない迫力のある人でした。
よく語り草になっていたことに、こんな話がありました。ある学生がラーメンを注文しました。するとしばらくしておばちゃんが、カウンタに座っている学生に、「ハイヨ」とラーメンの鉢を渡そうとしました。見ると、おばちゃんの指がラーメンの中に入っていました。それを見た、学生が言いました。「おお、おばちゃん、おばちゃんの親指がラーメンの中に入ってる」。すると、おばちゃんは「ああ、だいじょうぶ、あつくないよ。慣れてるから」と言ったそうです。
みなさんはこの話、どう思われますか?。まあよくある学生食堂の民話のような話です。学生は「おばちゃんの指がラーメンの中に入って汚い」と思って、そのことを指摘したわけです。「わたしのラーメンにおばちゃんの指が入って、きたないじゃないか」と、学生はいったわけです。でもおばちゃんは学生が自分の指があつくないかと心配してくれたと思ったわけです。学生は「おばちゃん、汚い」とおばちゃんを裁いたわけです。しかし逆におばちゃんの言葉によって、学生は自分が、おばちゃんのことを心配することのできない、思いやりのない人間であることに気づかされるのです。おばちゃんの指がやけどするかもしれないと気づくことのできない、やさしさのない、自分勝手な人間であることに学生は気づかされるのです。
イエスさまは「人を裁くな」と言われました。【「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる】。
イエスさまは人を裁くと自分も裁かれることになると言われました。あなたが人を裁いたように、あなたもまた人から裁かれることになる。そして互いに裁きあう世界に生きることになる。人を傷つけ、自分も傷つけられる世界に生きることになると、イエスさまは言われました。
イエスさまは「あなたの目の中に丸太がある」と言われました。【あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか】。
あなたは人の目の中にあるおが屑が見えるのに、どうして自分の目の中にある丸太は見えないのか。人が良くないことをしていることは、どんなにちいさなことでも気がつくのに、どうして自分がしている大きな良くないことに気がつかないのか。あなたはいつも自分勝手なことをしているのに、どうして人が自分勝手なことをしていると、人のことを裁いているのか。そのように、イエスさまは言われました。
自分のことを棚に上げて、人を裁くということを、私たちはよくしてしまいます。でも同じようなことを、自分もよくしていることがあったりします。でもたしかに意外に、自分がしていることは気がつかなかったりするのです「あいつ、どうして人の悪口ばっかり言っているのかなあ。ねえ、大澤くん。そう思わない」と小笠原くんが大澤くんに尋ねると、大澤くんが小笠原くんに応えます。「小笠原くんも、そうやって、よく人の悪口言ってるよ」。まあそういうことがあるわけです。人はなかなか自分のしていることに気がつかないものです。
イエスさまは「まず自分の目から丸太を取り除け」と言われました。【偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる】。
あなたの目の中には丸太がある。あなたは自分がしていることに気がつかずに、人のことばかりを裁いている。まず自分がどんなことをしているのかを顧みて、その上で、人を裁くということをしたほうが良いと、イエスさまは言われました。
「人を裁くな」というイエスさまの戒めは、よくわかる戒めです。「そうだねよ」というふうに思えます。しかし、「じゃあやめるね」と言って、やめることができるかと言えば、なかなかそういうわけにもいきません。わたしは先日もやはり、「人を裁いて、嫌みなことをいってしまったのかなあ」と反省することがありました。まあ人間のすることですから、どんなに気をつけていても、メッキがはがれると言いますか、なんか腹立たしい思いにかられて、人を裁いてしまうというようなことがあるわけです。そんなときいろいろと考えて自分の気持ちを整理してみます。そして思うことは、わたし自身がほんとうの意味で、癒やされていないのだなあと思いました。いろいろな出来事の中で自分自身が傷ついていて、その傷が癒えていなくて、ふとした拍子に、人を裁くという形で出てくるのです。あるいは人を傷つけるという形で出てくるわけです。
ですから、自分の口から悪口とか、人を裁く言葉が出てくるとき、私たちは気をつけなければなりません。たぶんそのとき、私たちはこころの調子や体の調子が悪いのです。人のことが悪く思える時、そのときはまずみなさんは自分のことを心配してあげてほしいと、わたしは思います。そして本来のやさしい自分に戻ってほしいと思います。やさしく、人のことを思いやることができる、すてきなあなたに戻って、そして人を裁くのではなく、人にやさしい言葉をかけてあげていただきたいと思います。
日常生活のなかで、いやな自分に出会うということがあります。人を裁いたり、いじわるな気持ちをもつ自分に出会い、「なんかいやなやつだなあ」と思うことがあります。でもそれだけでなく、自分のいいところも見付けてあげてほしいと、わたしは思います。「あっ、いがいに心のやさしいところが自分にはあるんだな」ということにも気がついてほしいと思います。
私たちはみな、ひとりひとり、神さまに愛されている尊い人間です。神さまが「あなたはわたしにとってもとても大切な人だよ」と、わたしのことを愛してくださっていることに気がつきたいと思います。「わたしがあなたのことを愛しているから、あなたは大丈夫だよ」と、神さまは私たちに語りかけてくださっています。
神さまの愛に気づいて、本来の「すてきなあなたに戻って」、人にやさしい言葉をかける、人を励ますことのできる、私たちの歩みでありたいと思います。
(2024年10月13日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい、神学校日礼拝)
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