2025年1月18日土曜日

12月22日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「よかったね。ヨセフさん」

「よかったね。ヨセフさん」

聖書箇所 マタイ1:18-23。261/26。 聖霊によって守られている

日時場所 2024年12月22日平安教会朝礼拝式・クリスマス礼拝


クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

わたしの娘たちは、キリスト教主義の幼稚園、保育園に入園していましたので、クリスマスには、クリスマスページェントという、イエスさまの誕生物語の劇の役割をしていました。わたし自身も今治教会の付属幼稚園のめぐみ幼稚園という幼稚園でしたので、クリスマスページェントをしました。マリアさんやヨセフさん、ヘロデ王や占星術の学者さん、天使や羊飼い、羊さんなどの役がありました。わたしは年中のときは、羊でした。年長のときは物語をすすめていくナレーターという役割でした。わたしはぼんやりとして幼稚園児でしたので、羊さんというのはぴったりだと思います。ぼんやりとした幼稚園児だったのに、よく「ナレーターになーれたー」と思います。

松田明三郎(まつだ・あけみろう)という旧約学者・詩人に「星を動かす少女」というクリスマスの詩があります。

「星を動かす少女  松田明三郎」

クリスマスのページェントで、

日曜学校の上級生たちは

三人の博士や

牧草者の群や

マリヤなど

それぞれの眼につく役を

ふりあてられたが、

一人の少女は

誰も見ていない舞台の背後にかくれて

星を動かす役があたった。

「お母さん、

私は今夜星を動かすの。

見ていて頂戴ねーーー」

その夜、堂に満ちた会衆は

ベツレヘムの星を動かしたものが

誰であるか気づかなかったけれど、

彼女の母だけは知っていた。

そこに少女のよろこびがあった。


星をうごかす役はページェントを観ている人たちからは見えません。でも少女はあらかじめお母さんに「お母さん、私は今夜星を動かすの。見ていて頂戴ね」と言っているので、見にきているお母さんにはわかるのです。

「その夜、堂に満ちた会衆は

ベツレヘムの星を動かしたものが

誰であるか気づかなかったけれど、

彼女の母だけは知っていた。

そこに少女のよろこびがあった。」

母と少女にはしっかりとした絆があり、少女はそのことに喜びを感じています。「わたしがいて、あなたがいる」。そのことをただ喜ぶことができるというのは、とても幸せなことだと思います。世の中、いろいろなことがあります。「・・・だったらなあ」と思うこともあります。「マリヤだったらなあ」「博士だったらなあ」、「もっと才能があったらなあ」「もっと人からほめられたいなあ」「もっとお金持ちだったらなあ」。たしかにそうしたことはあるわけです。才能や名誉やお金があればなあと、私たちはよく思います。しかしそういたものがあれば幸せかというと、そういうことでもないわけです。やはり「わたしがいて、あなたがいる」ということや「わたしのことを知っていてくださる」ということは、とてもかけがえのないことであるのです。それはとても大きな喜びなのです。

クリスマス、イエス・キリストは私たちのところにきてくださいます。私たちのかけがえのない友として、私たちのところにきてくださいます。イエスさまは私たちのことを知っていてくださり、私たちを愛してくださっています。私たちはイエスさまの愛のうちに生きています。

今日の聖書の箇所は「イエス・キリストの誕生」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書1章18−19節にはこうあります。【イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。】。

イエスさまはマリアとヨセフの子どもとして生まれます。マリアは聖霊によってみごもります。マリアは聖霊によってみごもるわけですが、ヨセフは自分との間の子どもではないと思い、マリアのことを離縁しようと思います。表ざたになると、マリアが姦淫をしているということで、石打ちの刑になるので、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと」決心をします。ヨセフが正しい人であるというのは、ユダヤ教の法律である律法に対して、正しい人であるということです。律法に従うと、マリアを石打ちの刑にするのが、正しいのです。ただヨセフはやさしい人でしたので、マリアがそのようなことになるのは嫌なので、表ざたにしないで、ひそかにことを進めていこうと考えたのでした。

マタイによる福音書1章20−21節にはこうあります。【このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」】。

いろいろと考え、迷いの中にあるヨセフの夢に、主の天使が現れます。そして天使はヨセフに、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と言いました。マリアは聖霊によってみごもり、マリアから生まれる子は特別な男の子である。名前をイエスと名付けなさい。この子は世の人々を、罪から救う救い主なのだから。そのように主の天使は夢のなかで、ヨセフに語ります。

マタイによる福音書1章22−23節にはこうあります。【このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】。

主の天使は、このような形でイエスさまがお生まれになられるのは、神さまのご計画なのだと言います。それは聖書に記され、預言されたことなのだと言います。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この言葉は、イザヤ書7章14節からの引用です。イザヤ書7章14節にはこうあります。旧約聖書の1071頁です。【見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ】。イエスさまは、神さまが共におられるということを表わす出来事として、私たちのところに来てくださるのだと、主の天使はヨセフに言いました。

マリアとのことを悩んでいたヨセフのところに、主の天使が現れます。世の中、すべてのことが白黒はっきりつくということでもありません。一般的に正しいことをしたからと言って、それで悩まないということでもありません。「正しいことをしたから、それでいいじゃないか」「自分のできるだけのことをしたのだから、それでいいじゃないか」と思っても、でも「もっと、なにかできたのではないか」「自分にはやさしさがたりないのではないか」。そんな気持ちになり、悩むことが、私たちにはあります。ヨセフもそうだったと思います。「どうしたらいいのだろう」というゆれる思いを抱えているヨセフのところに、主の天使が現れ、そしてヨセフに良き道を備えてくださいました。

「どうしたら良いのだろう」と悩むヨセフのことを、神さまは知っていてくださいました。神さまがヨセフと共にいてくださり、ヨセフに良き道を備えてくださり、ヨセフはイエスさまのお父さんになるという、大きな祝福を得ることができました。

「よかったね。ヨセフさん」。ヨセフはイエスさまのおとうさんであるわけですが、ヨセフはそんなに聖書の中に出てくるわけではありません。イエスさまをヘロデ王から守り、エジプトへと、イエスさまとマリアとともに逃げていくということを、ヨセフはしています。しかしイエスさまの誕生の物語に出てきたあとは、名前が数回出てくる程度です。マリアのように「聖母マリア」というような感じで、ほめたたえられるというわけでもありません。

困難な世の中にあって、「正しい人」としてヨセフは生きようとしていました。ヨセフは良き人として生きようとしていました。ヨセフはマリアのように、ほめたたえられる人にはなりませんでした。しかし神さまはヨセフのことを見ていてくださり、ヨセフを豊かに祝福してくださいました。「神さまがわたしを見ていてくださる」「神さまがわたしと共にいてくださる」。ヨセフはそのことに感謝をして、その生涯を歩みました。

ヨセフは「星を動かす少女」のようです。

【その夜、堂に満ちた会衆は

 ベツレヘムの星を動かしたものが

 誰であるか気づかなかったけれど、

 彼女の母だけは知っていた。

 そこに少女のよろこびがあった】。

神さまはヨセフを知っていてくださり、そしてヨセフはそのことに喜び、感謝して、神さまに対して良き人でありたいという思いをもちつつ、その生涯を歩みました。

ヨセフのことを知っていてくださった神さまは、私たちのことも知っていてくださいます。私たちの悩みや悲しみ、苦しみ、私たちの喜びを、神さまは知っていてくださっています。神さまは私たちと共にいてくださいます。

【「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。】。私たちと共にいてくださる神さまがおられます。クリスマス、新しい年も、私たちを守り導いてくださる神さまと共に歩んでいきましょう。



  

(2024年12月22日平安教会朝礼拝式・クリスマス礼拝)


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