「ここにソロモンにまさるものがある」
聖書箇所 マタイ12章38-42節。325/463。
日時場所 2025年5月4日平安教会朝礼拝
人は何か確かに見えるものを求めようとします。まあ何か形があれば、安心できます。「これが証拠の写真です」と言われて、出されると、なんとなくそのことが起こったような気がします。しかしいまはほんとうに簡単に映像もあったかのようにつくることができるようになりました。そういう意味では写真や映像をみても、ほんとうにあったことかどうかなどということは、わからなくなってきました。
また写真や映像というのは、全体の一部分を表していたりして、本来はそのまま信じることなどできないものです。1945年8月16日の毎日新聞の一面は、「皇居二重橋前広場で土下座する人々」という写真が載っています。「“忠誠足らざる”を詫(わ)び奉る(宮城前)」という写真説明がついています。人々が皇居で、戦争に負けたことを天皇に詫びるために、整然と並び土下座をしている写真です。こんな写真を見たら、みんな戦争に負けたことを天皇に詫びているというふうに思います。人々が整然と並び土下座をしているわけですが、この写真は合成写真だそうです。【「戦争中は、紙面に掲載される写真のほとんどが切り貼りだった習慣から、なんの抵抗感もなく合成してしまった」】(新藤健一『映像のトリック』、講談社現代新書)そうです。8月15日に敗戦を迎えても、新聞は相変わらず戦争中の新聞でありました。人間の営みというのは、まあ、そういうものなのだろうなあと思います。
イエスさまの復活という出来事は、証拠がない出来事でした。あったのは「空の墓」ということです。イエスさまの遺体がないというという出来事があったわけです。遺体がないわけですから、復活したと言えば復活したわけですが、しかし盗まれたと言えば盗まれたというふうになってします。信仰に関する出来事は、信じるしかないということがあります。
イエスさまがよみがえられたことを信じられなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。まあそれでイエスさまはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われてしまいます。「見ないで信じる人は、幸いである」というのは、「ただ」信じるということです。
私たちは「たら」の信仰ではなくて、「ただ」の信仰でありたいと思います。しるしを求めるというのは、「たら」の信仰ということです。「・・・してくれたら」信じよう。「しるしを見せてくれたら」信じよう。しかし信仰というのは、本来、「見ないで信じる人は、幸いである」ということですから、「ただ」信じるということです。
基本的に、信仰というのは、二つの「ただ」でなりたっています。使徒パウロは信仰義認ということを言いました。信仰義認というのは、何かをしたから救われるというのではなく、「ただ」信じることによって、救われるということです。神さまも私たちに「・・・してくれたら」とは言われないのです。「律法を守ってくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、神さまは言われませんでした。「りっぱなことをしてくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、言われませんでした。私たちが救われるのは、神さまの憐れみによって救われるのです。いわば、私たちが救われるのは、「ただ」で救われるのです。こんなふうに、信仰の世界というのは、基本的に、「たら」の世界ではなくて、「ただ」の世界であるのです。「ただ」で救われたのだから、「ただ」信じるのです。「・・・してくれたら」の「たら」の世界ではなく、「ただ」信じるという世界に、私たちは生きているということです。
「しるし」というのは、「しるし」であって、それは本体ではありません。結婚するときに、わたしが妻に送った10カラットのダイヤモンドの指輪、そんなものはないですが・・・。みなさんがおつれあいに贈られたダイヤモンドの指輪は、それは愛のしるしです。それはしるしであって、ほんとうに大切なのは、愛のほうです。ダイヤモンドの指輪だけを見つめ続けられると、贈った方も動揺してしまいます。しかし愛は、なにか特別なことでも起こらない限り、なかなか見えません。船が沈没したときに、たった一つの浮き輪を渡してくれたとか、暴漢にさされそうになったときに、身代わりにさされてくれたとか。そんなことが日常に頻繁に起こってくれたら、「この人、わたしのことを愛してくれている」ということがわかりますが、だいたいそんことは普通は起こらないわけです。愛は確かめようもないですから、どうしても愛のしるしに頼ってしまいます。人はなんとなく、しるしを求めてしまうものです。しかし本当に大切なのは、しるしではなくて、そのしるしの実体が大切なのです。
今日の聖書の箇所でも、イエスさまにしるしを求める人たちが出てきています。今日は「人々はしるしを欲しがる」という表題のついた聖書の箇所です。
マタイによる福音書12章38節にはこうあります。【すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った】。律法学者とファリサイ派の人々は一応、イエスさまに「先生」と言っていますから、ある意味で友好的なもののいい方をしているのでしょう。しるしというのは、まあ奇跡のようなものでしょう。イエスさまはいやしのわざや奇跡を行なっておられました。「なにかすごいことをして、私たちにお前が神の子、メシア、救い主であることを証明して見ろ」ということでしょう。
これに対して、イエスさまはこう言われました。マタイによる福音書12章39-40節にはこうあります。【イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる】。
イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々に対して、【よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが】というように、ちょっと挑発的な口調で、彼らを非難しておられます。ヨナというのは、旧約聖書のヨナ書の主人公です。旧約聖書の1445頁です。ヨナは神さまから命令されて、ニネベの町に人々に悔い改めるように告げにいくようにと言われます。しかしヨナはそのことが嫌で船にのって逃げ出すのですが、船が嵐に遭い、嵐がヨナのせいだとされて、船から海に投げ込まれます。溺れそうになったヨナを、神さまは大きな魚に飲み込ませることによって、助けます。ヨナはその魚の腹の中で、悔い改めるのです。そしてニネベに行き、ニネベの人々を悔い改めにに導きました。
預言者ヨナのしるしというのは、ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)の腹の中にいたということのようです。そして【人の子も三日三晩、大地の中にいることになる】というのは、イエスさまが十字架につけられて殺され、そして埋葬されて、三日目に甦られるということです。大切なことは、イエスさまの十字架と復活の出来事だと、マタイによる福音書の著者は言っています。
マタイによる福音書12章41-42節にはこうあります。【ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」】。
南の国の女王というのは、シェバの女王のことです。列王記上10章に「シェバの女王の来訪」という聖書の箇所があります。旧約聖書の546頁です。シェバの女王は、イスラエルの王であるソロモンがとても知恵のある王であることを聞いて、イスラエルに訪ねてきました。そしてソロモンが本当に知恵ある王であるとわかったときに、シェバの女王はイスラエルの神さまをほめたたえました。
ニネベの人はヨナの説教を聞いて悔い改めたし、シェバの女王はソロモンの知恵を聞いて、神さまをほめたたえた。しかしあなたたちは、ヨナにまさるものであり、ソロモンにまさるものであるわたしの話を聞かないし、悔い改めもしない。わたしを信じるのではなくて、しるしを求めて、信じる真似事をしようとしている。「しるしを見せてくれたら」と、「たら」の世界に生きようとしている。そんなふうに、イエスさまは律法学者たちやファリサイ派の人々を非難されました。
イエスさまは私たちに与えられるしるしは、ヨナのしるしだけであると言われました。ヨナのしるしというのは、イエスさまの十字架と復活の出来事です。三日三晩、大魚のお腹の中にいたヨナのように、イエスさまも十字架につけられて葬られ、三日目に甦られるということです。そしてイエスさまのことを信じて、神さまの前に悔い改めて生きていく。このことが大切だということです。
イエスさまの十字架と復活の出来事は、人間の罪の出来事であり、神さまの救いの出来事です。イエスさまの十字架と復活の出来事によって、神さまが私たちを救ってくださった。このことを信じるということが大切なこことであり、ヨナにまさるものであり、ソロモンにまさる、イエスさまが私たちと共にいてくださることを信じることが大切だということです。
私たちはなんとなく不信仰な者ですから、信仰生活のなかで、迷路のようなところに入り込んでしまうということがあります。困難なことや、自分に不都合なことが起こると、「なんで、わたしがこんな目にあうだろう」と思います。自分だけが神さまから愛されていないような気がしてくるときもあります。そんなとき、ただ信じるのではなく、・・・してくれたら信じるというような気持ちになってしまうこともあります。自分のこころが弱くなっているとき、私たちは神さまに対して、しるしを求めようとします。イエスさまも十字架の前に、ゲッセマネで、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(MT2636)と祈られたのです。もちろん、イエスさまはそのあと、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(MT2639)と祈られました。でもイエスさまも苦難の中で、「父よ、できたら」と祈られたのです。人はそういう弱さを持ちながら生きています。しかしそれでも人は、クリスチャンとして、「御心のままに」と祈りに導かれていくのです。
それは、私たちには、イエスさまが共にいてくださるからです。どんなときにも、私たちと共にいてくださる方がおられる。十字架を経験され、私たちのみじめさや弱さを知ってくださっている方が、私たちと共にいてくださる。だから私たちはしるしを求めて生きていくのではなく、ただ信じて生きていくのです。
イエスさまは言われました。「ここに、ヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」。ヨナにまさる方が、ソロモンにまさる方が、私たちと共にいてくださるのです。
イエスさまと共に歩みましょう。ただ信じて歩んでいきましょう。
(2025年5月4日平安教会朝礼拝)
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