2025年5月28日水曜日

4月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すこやかな歩みを大切に」

「すこやかな歩みを大切に」

聖書箇所 マタイ28:11-15。333/323。

日時場所 2025年4月20日平安教会朝礼拝式・定期総会

  

社会から倫理というものが失われてくると、「まあ少々嘘をついてもまあええか」という人が出てくるようになります。一般的な人は「嘘をつく」ということに罪悪感を感じます。たとえば「6時に行くね」と約束をしたのに、6時にいけなくなってしまって、しかたなく7時に行った。すると約束した相手から「あなたは嘘をついたのか」と言われる。「いや嘘をついたわけではないけど、結果的には嘘になってしまった。ごめんなさい」と言うわけですが、「あなた嘘をついたのか」と言われると、とても傷つきます。「嘘をついてしまった」ということが、こころのなかでトゲとして残って、気になって気になってしょうがいないというようなことが起こったりします。

でも最近は積極的に嘘をついても、大丈夫な人たちも出てくるようになりました。アメリカのトランプ大統領は、日本の自動車の安全基準について「ボウリングの球を6メートルの高さから車のボンネットに落とし、少しでもへこんだら不合格になる。われわれはとんでもない扱いを受けている」というような嘘をつきます。2018年にそのようにトランプ大統領は言っていて、「それは間違いですよ」と指摘されています。嘘であることがわかっていて、嘘をつくわけです。現代は嘘活用社会です。嘘を活用して、うまくこの世を乗り切ろう。嘘を証明するのには、証明するのに時間がかかる。嘘をついて、その場をごまかし、ことを有利に運んでいけば、成功すること間違いなし。嘘かどうかというようなことは大したことではない。という「嘘活用社会」です。

日本でもやはり政治の世界で嘘が蔓延しています。最近は、偽名で不倫をしていた衆議院議員が謝罪をしていました。同志社大学出身の議員なので、なおのこと残念です。同志社大学の良心教育が足りなかったと思いました。わたしは政治家はやはり倫理を大切にしたほうが良いだろうと思っています。芸能人や一般人と政治家の不倫を、同じように考えるのは、やめたほうが良いだろうと思います。政治家は法律を作るという仕事があるわけですから、やはり道徳的でない法律を作られて、それを守らされるようになると困るわけです。もちろん政治家も人間ですから、ふさわしくないことをしてしまうこともあると思います。そういうときはやはり一度、辞職をしてけじめをつけて、時を経て、またやり直したら良いと思います。「不倫していても、政治家としての仕事をしてくれる政治家がいい」というように言って、倫理的なことをないがしろにしてくると、「偽名で不倫」というような感じの政治家が、やはり出てくるようになるわけです。そして嘘を言っても平気というような感じが蔓延し、嘘を活用してこの世を乗り切ろうというような感じの社会になってくると、もうそれは止めようがないのです。

今日の聖書の箇所は「嘘」が話題になっている聖書の箇所です。「番兵、報告する」という表題がついています。今日の聖書の箇所の一つ前は、マタイによる福音書28章1節以下で、「復活する」という表題のついた聖書の箇所です。マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエスさまの遺体を納めたお墓にいきます。しかしお墓のなかには、イエスさまの遺体はありませんでした。そして主の天使から、イエスさまが復活されたことを聞きます。そして女性たちはそのことをお弟子さんたちに伝えにいきます。その途中で復活されたイエスさまに出会いました。そして今日の聖書の箇所となります。

「復活する」という聖書の箇所の前の聖書の箇所は「番兵、墓を見張る」という表題のついた聖書の箇所です。イエスさまの墓を番兵が見張っているのには理由があるわけです。その理由というのは、イエスさまの弟子たちがイエスさまの遺体を盗みだして、そして「イエスさまが復活した」と言って回るかもしれないから、そんなことにならないように、イエスさまのお墓には番兵がおかれていました。そうしたことを踏まえて、今日の聖書の箇所となります。

マタイによる福音書28章11節にはこうあります。【婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。】。番兵たちがイエスさまの墓を見張っていた時に、大きな地震にあいます。主の天使が天から降ってきて、イエスさまのお墓の石をわきに転がし、その上に座るのをみます。番兵たちは恐ろしくなります。そしてマグダラのマリアたちがやってきます。そして主の天使がマグダラのマリアたちに、イエスさまが復活されたことを話すのを、番兵たちは見ます。そしてそのことを、祭司長たちに報告しました。

マタイによる福音書28章12−14節にはこうあります。【そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」】。

祭司長たちはイエスさまが復活されたということについて、弟子たちがイエスさまの遺体を盗んでいったということにします。兵士たちが寝ているうちに、弟子たちが来て、イエスさまの遺体を盗んでいったということを、兵士たちに広めてもらおうとします。兵士たちが寝ているうちにということですから、「おまえたち、寝ていたのか」と叱られないために、総督ピラトには話をつけておくから安心しろというわけです。まあそういう面倒なことをしてもらうわけですから、兵士たちには大金が支払われるということです。

マタイによる福音書28章15節にはこうあります。【兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。】。兵士たちは自分たちにとって悪い話ではないので、祭司長たちの言うことを聞いて、そのような噂を広めます。そしてそのうわさは広がっていって、ユダヤの人々はそれを信じるようになるわけです。祭司長たちは嘘を作り出します。そして兵士たちはその嘘を容認し、そして嘘をつくる手助けをします。そしてユダヤの人々は嘘を信じるようになります。

気軽に嘘が広がっていく社会は、その社会に住んでいる人々にとって、あまり良い社会にはなりえません。嘘は簡単につくことができます。しかしその嘘が嘘であることを証明するためには、いろいろな労力が必要になります。どんどん嘘をついていけば、嘘を嘘であると証明する労力はもっともっと大変になってきます。そういう意味では嘘には勝てないのです。しかし嘘がなければ、その嘘を証明する必要はないわけですから、ほかのもっと良いことのためにその労力をつかうことができるので、社会にとっては良いことです。嘘は社会を疲弊させ、社会を貧しくさせていきます。

やはり私たちはすこやかに生きていかなければならないのです。みんながずるいことをする社会は、すみにくい社会です。賄賂が横行し、嘘が蔓延しするような社会はすみにくいのです。ずるいことをしている人がうまいことをやっていると思える社会は、やはりすみにくい社会です。だんだんとみんながまあ少々ずるいことをしても、まあうまいことやったほうが得だよね、みんなそうやっているんだから、ばれなければいいんじゃないというようになってしまうと、だんだんと良くない社会になってしまいます。やはりみんなが健やかな思いを大切にして生きていくような社会でありたいと思います。

エフェソの信徒への手紙には、「クリスチャンはこんな感じで生きたいよね」ということが書かれた聖書の箇所があります。エフェソの信徒への手紙4章25−32節には、「新しい生き方」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の357頁です。

【だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。】。

まあ倫理的な教えですから、あんまりいろいろ言われると、「ちょっとしんどいかなあ」という思いになるかも知れません。「悪い言葉を一切口にしてはなりません」などと言われると、「まあ、そりゃそうだと思うけど、ちょっとまあそういうわけにもいかないときもあるよね」というような思いも出てきます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言われると、「まあ、その方がよいと思うけど、やっぱり『すべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい』とか言われると、ちょっと自信がなくなっちゃうよね」という思いもでてくるかも知れません。

「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」ということもあります。まあですから、エフェソの信徒への手紙4章25節と4章32節くらいにして、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。・・・互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」くらいにすれば、良いのではないかと思います。まあ、なるべく、嘘はつかず、互いに親切にして、憐れみの心を大切にして、互いに赦しあいながら生きていく。そうした健やかな歩みでありたいと思います。

私たちは一人一人、神さまから愛されている大切な人間です。私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。そして復活されて私たちの希望となってくださいました。神さまは私たちをとても大切な人として愛してくださっています。神さまに愛されていることを受けとめて、すこやかな歩みでありたいと思います。




(2025年4月27日平安教会朝礼拝式・定期総会)




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