2025年5月28日水曜日

4月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「やさしい声が聞える」

「やさしい声が聞える」

聖書箇所 ヨハネ20:1-18。326/328。

日時場所 2025年4月20日平安教会朝礼拝式・イースター

  

イースターおめでとうございます。

よみがえられたイエスさまと共に、こころ平安に歩んでいきたいと思います。

イエスさまがよみがえられた時の話は、マタイによる福音書にもルカによる福音書にもマルコによる福音書にも書かれてあります。それぞれに特徴がありますので、また読み比べてみられたら良いかと思います。

ヨハネによる福音書ではマグダラのマリアが、イエスさまの遺体が葬られている墓を訪ねます。イエスさまが十字架につけられて天に召されます。アリマタヤのヨセフが、イエスさまの遺体を預かり、そしてイエスさまを新しい墓に葬ります。そして安息日がおわった日曜日の朝に、マグダラのマリアがイエスさまのお墓にやってきます。墓の入口には大きなあったのですが、その石は取りのけられて、墓に入ることができました。しかし墓の中にはイエスさまの遺体がありませんでした。

それでマグダラのマリアはあわてて、イエスさまのお弟子さんのシモン・ペトロのところに行きます。そしてペトロとイエスさまが愛しておられたもう一人の弟子に、「イエスさまの遺体が墓から取り去られてしまいました。どこにあるのか、私たちにはわかりません」と報告します。

それを聞いたペトロともう一人の弟子が、イエスさまの墓に行ってみます。イエスさまの墓の中を、ペトロがのぞいてみるわけですが、しかしイエスさまの遺体はありません。イエスさまの遺体をくるんでいた亜麻布が残されていました。もう一人の弟子も入ってきて、そのことを確認します。しかしペトロももう一人の弟子も、イエスさまが復活をされたのだということがわかりませんでした。とまどいつつ、二人は家に帰ってきます。

そのあとマグダラのマリアが、よみがえられたイエスさまに出会います。こちらはすこし聖書を読みながら、みていきたいと思います。ヨハネによる福音書20章11ー14節にはこうあります。【マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。】。

マグダラのマリアは墓の外で泣いていました。墓の中に、二人の天使がいるのが見えました。天使は墓の中から、マグダラのマリアに、「どうして泣いているのか」と話しかけます。マグダラのマリアは、「この墓に納められていたイエスさまの遺体が無くなってしまい、どうしたらよいのか分からないからです」と答えます。そのとき、マグダラのマリアは人の気配を感じます。そして振り返ると、イエスさまが立っておられました。しかしマグダラのマリアにはその人がイエスさまであることがわかりません。

ヨハネによる福音書20章15−16節にはこうあります。【イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。】

イエスさまはマグダラのマリアに話しかけます。「どうして泣いているのか。だれを捜しているのか」。マグダラのマリアは墓の管理人に話しかけられていると思います。墓の管理人がイエスさまの遺体をどこかに移したのだと思い、「あなたがあの方を運んだのなら、どこに置いたのか教えてください」と言いました。

イエスさまは「マリア」と、マグダラのマリアの名前を呼ばれました。いつも呼ぶように、マグダラのマリアを呼んだのです。そのとき、マグダラのマリアは、その人がイエスさまであることに気がつきます。そして「先生」と、イエスさまに答えます。

ヨハネによる福音書20章17−18節にはこうあります。【イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。】

イエスさまは自分にすがりつこうとしているマグダラのマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。そしてマグダラのマリアは、弟子たちのところに行って、よみがえられたイエスさまに出会ったことを伝えました。また「イエスさまは『わたしは神さまのところに、わたしはいく』」と言っておられたと、弟子たちに伝えました。

イエスさまが十字架につけられる受難の物語は、とても激しく、叫び声が聞えてくるような物語です。それに比べて、イエスさまがよみがえられる復活の物語は、とても静かな物語のような気がします。

受難の物語は、群衆が「十字架につけろ。十字架につけろ」と激しく叫びます。「十字架から降りて自分を救ってみろ」「他人を救ったのに、自分は救えない」。十字架の上で苦しむイエスさまに対して、人々やユダヤの指導者たちはののしりの言葉をかけていきます。

しかし復活の物語は、とても静かです。天使たちやイエスさまはマグダラのマリアに静かに呼びかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と天使は、マグダラのマリアに呼びかけます。イエスさまもまたマグダラのマリアに呼びかけられます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」「マリア」「わたしにすがりつくのはよしなさい」。

人はどのようにして、困難な出来事の中から立ち上がっていくことができるのか。どのような支えがあることによって、人は立ち直っていくことができるのか。今福章二編『文化としての保護司制度 立ち直りに寄り添う「利他」のこころ』(ミネルヴァ書房)を読みました。保護司というのは、犯罪や非行をした人々の立ち直りを助け、その再犯を防ぎ、新たな被害者を産まない安全・安心な地域社会づくりに貢献をする民間のボランティアです。保護司は人が立ち直るのを助けるのが仕事です。この本の中で、東畑開人(とうはた かいと)という臨床心理学者が、「ケアとセラピー」ということを書いていました。(『こころのケアとは何かー寄り添いあいと世間知』)。

心の援助とか対人支援あるいは人間関係には、「ケア」という関わり方と「セラピー」という関わり方の二種類があると、東畑さんは言います。東畑さんは、「ケアとは傷つけないことである」と言います。雪だるまはとけてしまうので、どんどんと傷ついてしまう。雪だるまをケアするとき、雪だるまがとけないように、氷を運んできたり、冷風をかけてあげたりする。「セラピー」というのは、傷つきと向かい合うことです。どこまでもケアをするということはできないですから、雪だるまと話しあいます。「雪だるま君、ここにいると溶けてしまう、冷蔵庫のところに行ってみないか。冷蔵庫の中だったら、君は溶けないで済むはずだ」というように、現実に直面させるわけです。「ケア」が依存を引き受けることだとすると、「セラピー」は自立を促すということです。自立を促すけれども、寄り添っている人が周りにいるのです。寄り添っている人がいることによって、人は自立をしていくことができるのです。「ケア」と「セラピー」はどういう関係になっているのかと言いますと、「ケア」が先で、「セラピーが後になります。「ケア」のないところの「セラピー」は暴力になってしまいます。「ケア」が十分に足りていないのに、「セラピー」をすると失敗してしまう。失敗したので、また「ケア」に戻ってやり直す。「ケア」と「セラピー」はぐるぐる回るわけです。まあ人はそう簡単に立ち上がることができるようにはならないのです。

マグダラのマリアのところに現れるイエスさまは、マグダラのマリアに寄り添い、そして自立を促します。泣いているマグダラのマリアにやさしく語りかけ、そして「わたしにすがりつくのはやめなさい」と自立を促します。そしてマグダラのマリアは立ち上がるのです。復活の物語のなかに、「ケア」と「セラピー」が描かれていて、なかなか興味深い話だなあと思いました。

いつまでも依存をしていては、立ち直ることはできません。「わたしにすがりつくのはやめなさい」というイエスさまの言葉は、印象的な言葉です。立ち直るためには、自分で立ち上がるということが大切なのです。しかし立ち直るためには、やはりやさしい言葉が必要なのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」「マリア」というイエスさまの言葉は、マグダラのマリアにとってイエスさまのやさしい声だったのです。いつものやさしい声で「マリア」という名前を呼ばれたときに、マグダラのマリアはその声の主が、イエスさまであることに気がついたのでした。

私たちもまた、いろいろな悩みや迷いのなかにあるときがあります。「立ち直れそうにない」というような気持ちになるときもあります。しかしそんなときも、イエスさまは私たちにやさしい声で語りかけてくださいます。私たちの名前を呼び、私たちに生きていく力を与えてくださいます。

イースター。私たちの救い主である主イエス・キリストがよみがえってくださいました。私たちの希望をとってくださり、イエスさまは私たちに先立って歩んでくださいます。そして私たちをやさしい声で導いてくださいます。イエスさまのやさしい声に導かれながら、イエスさまにふさわしい歩みをしていきたいと思います。



  

(2025年4月27日平安教会朝礼拝式・イースター)



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