2025年7月19日土曜日

7月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「人の温かさに感じ入る」

「人の温かさに感じ入る」

聖書箇所 マタイ7:1-14。402/483。

日時場所 2025年7月20日平安教会朝礼拝式

   

数年前、妻と一緒に東京にいったときに、池袋にあります「自由学園明日館(みょうにちかん)」を見にいきました。自由学園明日館は、1921年に創立された自由学園の校舎です。フランク・ロイド・ライトの設計によって立てられました。なかなかすてきな建物です。

森まゆみの『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』(婦人之友社)は、自由学園をつくった羽仁もと子について書かれてあります。「じょっぱり」とは羽仁もと子の故郷の青森の言葉で、「信じたことをやり通す強さ」を意味する言葉です。羽仁もと子は、よいことは必ずできると信じて、周りの人々を巻き込みながら突き進んでいきました。

森まゆみは自由学園から依頼されて、この本を書いています。外部の人に書いてもらいたいということで、森まゆみが書いています。内部の人が書くと、客観的に書くことができなかったりするので、外部の人に書いてもらいたいということで、森まゆみが書いているということです。ですから森まゆみはこの『じょっぱりの人』のなかで、羽仁もと子がある部分では戦争に協力をしていったことなどについても書いています。創立者である羽仁もと子への批判もしっかりと受け入れるということですから、自由学園というのはほんとに自由なところなのだと思います。

わたしは羽仁もと子と言えば、自由学園と友の会の活動というくらいの知識しかありませんでした。わたしの母も昔、友の会に入っていて、わたしの家には「羽仁もと子案 家計簿 婦人之友社」がありました。わたしの前任地の高槻日吉台教会には、友の会のメンバーの人が数人いらしてくださっていて、教会のバザーのときなど、いろいろとお世話になりました。

羽仁もと子は、自由学園、友の会以外にも、いろいろな活動をしています。「あとがき」で森まゆみはこんなふうに書いています。【連載が進むにつれ、だんだん楽しくなってきた。『婦人之友』の経営者としても、彼女は家庭生活の合理化、家計簿の考案、洋服の提唱、使いやすい道具や家具の開発と販売、など先駆けの事業を次々実現していった。続いて自由学園を創り、『婦人之友』の読者を「友の会」として組織し、格段に行動は広がり、規模が大きくなった。関東大震災の救援に始まり、東北飢饉の際の農村生活合理化セツルメント事業、戦争中の北京生活学校、そして引揚女性と子供の援護活動。これら四つの大事業について、私はほとんど知らなかった。すべて世界史の激動の中で行われ、もっと知られてもよい。批判もあるだろう。よそものが東北の農村の実情も知らずに、都会の近代主義の論理を持ち込んだだけではないか。北京生活学校は戦争と植民地主義のうえに乗って行われた学校事業ではないか、引揚援護だって時の政府やGHQに利用されたに過ぎないではないか。それぞれ聞くべき意見だが、実際の当事者の悩みを解決し、助け、喜ばれたことも確かである】(P.423)。

羽仁もと子は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という人生をおくりました。いつも自分で考え、そして生活に根ざしたことを行ない、神さまに祈りつつ歩みました。そして困っている人がいると、なんとかして手を差し伸べるという姿勢で歩みました。『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』を読んでいますと、「人の温かさに感じ入る」という気持ちになりました。ああこんなに温かい人いて、人のためになんとなしようと思う人がいるんだと思うと、とてもうれしい気持ちになります。それと同時に、「まあ、なんて自分は冷たい人間なんだろう」という気持ちにもなります。でもやっぱり世の中には、とても心の温かい人たちがおられて、そうした人たちの温かさによって、世の中は支えられているんだと思えます。

今日の聖書の箇所は「人を裁くな」「求めなさい」「狭い門」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書7章1−6節にはこうあります。【「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」】。

イエスさまは「人を裁くな」と言われました。人を裁くと、自分も裁かれるようになる。「自分の量る秤で量り与えられる」。人は他人の欠点や失敗は気づきやすいけれども、自分の欠点や失敗には気づきにくいものなのだ。自分の目の中に丸太があることには気づかない。しかし他人の目の中のおが屑には気がつく。そして恥ずかしげもなく、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言う。それが人間というものなのだ。まず自分のことをしっかりと見て、自分の悪いところを謙虚に受けとめて生きていきなさい。そして裁きあいの世界に生きるのではなく、互いに支え合いながら生きていくという世界を、みんなでつくりだしていきなさい。イエスさまはそのように言われました。

マタイによる福音書7章7−12節にはこうあります。【「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」】。

イエスさまは「求めなさい」と言われました。あなたがこれをしたいと思ったら、一生懸命に、それを求めて生きていきなさい。神さまがあなたの望みをかなえてくださるから、一生懸命に求めて生きていきなさい。神さまを信じて求めていきなさい。「どうせだめだよ。かないっこないよ」と思うのではなく、神さまが救いの御手を差し伸べてくださることを信じて、求めていきなさい。パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えたりしないだろう。魚を欲しがる子どもに、蛇を与えたりしないだろう。あなたたちは自分の子どもに良い物をあたえるだろう。神さまもまたあなたたちに良い物を与えてくださる。だから神さまに求めて歩んでいきなさい。そして神さまがあなたに良いものを備えてくださるのだから、あなたたちは困っている人に対してやさしくしなさい。あなたたちがしてもらいたいと思うことを、あなたちも人にしてあげなさい。私たちが大切にしている律法や預言者の言葉は、そういうことを私たちに教えてくれているのだ。そのように、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書7章13ー14節にはこうあります。【「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」】。

イエスさまは「狭い門から入りなさい」と言われました。滅びに通じる門は広々としていて、なんとなく入りやすく見える。その道も大きいので、なんとなく誘われてそっちに向かってしまう。しかし永遠の命に通じる門は狭い門である。その道も細い。だから狭い門を通ろうとする者は少ない。

良いと分かっていても、なかなか理想を貫くということはむつかしいものです。「理想ではなく、現実をみなさい」と言われると、自分が現実を見ていない愚か者であるかのような気がしてきたりします。しかし現実を見ていたら、現実しかみえないですから、だんだんと理想はしぼんでいってしまいます。それではあまりに悲しいのです。イエスさまは理想を掲げて生きていくことの大切さを、私たちに教えてくださっています。永遠の命に通じる門は、たしかに狭い門である。しかしあなたたちはクリスチャンとして、その狭い門から入ることを大切にしなさい。その狭い門は永遠の命に通じる門であるのだから。そのようにイエスさまは言われました。

私たちは「御国がきますように」と祈ります。神さまの御心が、神さまの愛が、この世界に行き渡りますように。神さまの御心にかなった世界になりますように。そのような思いをもっています。しかし現実はなかなかそういうわけにもいかず、私たちの世界では戦争が行われています。自由のない国で生きることを強いられている人々がいます。差別や抑圧が社会のなかにあり、悲しい思いをしている人たちがたくさんおられます。そうしたことは現実です。それが現実なのだからしかたがないじゃないか、どうしようもないことなんだと、「現実を見ろよ」と言われます。しかしそれでも「御国がきますように」と祈ります。狭い門かもしれないけれども、しかし理想を手放すことなく、神さまのみ旨にかなった社会になることを祈りつつ歩んでいきます。

はじめに紹介いたしました、羽仁もと子はクリスチャンとして、「神さまの思し召し(おぼしめし)」という召命感を大切にして歩みました。神さまが羽仁もと子に託されたわざを、一生懸命に行なったわけです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。神さまが導いてくださっているのだから、神さまを信じて、神さまから託されたわざを一生懸命に行なっていくのです。羽仁もと子は、人を裁くのではなく、共に助け合いながら、良きことのために協力して働いていくのです。人を信じて、自分の協力者として一緒に歩んでもらうのです。狭き門に見えるけれども、神さまが示してくださる道を、まっすぐに歩んでいくのです。困っている人、助けを求めている人がいたら、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいくのです。

羽仁もと子もそうでしたが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というような、温かみのある人たちが、私たちの世界を支えています。先月、梅花女子大学の礼拝に行きました。梅花女子大学は私たちの教会員であります、小﨑眞さんが学園長をしておられる大学です。梅花女子大学の創設者である、沢山保羅の愛唱聖句も、マタイによる福音書7章12節の言葉です。「何事でも人からしてほしいと望むことは人々にもそのとおりにせよ」(マタイによる福音書7章12節)と、礼拝堂の聖書に挟まれた「しおり」に書かれてありました。沢山保羅もまたそういう人でありました。

よき社会のために、あきらめることなく、祈りつつ、歩んでいった信仰の先達が、私たちにおられます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいった、温かい信仰にふれることができ、とてもうれしい気がいたします。私たちもまたキリスト教のよき伝統を受けついて、小さな良き業に励む、こころの温かい人でありたいと思います。




 

(2025年7月20日平安教会朝礼拝式) 

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