2025年7月26日土曜日

7月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「落ち着いて考え、前に進む」

 「落ち着いて考え、前に進む」

 

聖書箇所 マタイ7:15-29。433/465。

日時場所 2025年7月27日平安教会朝礼拝式

  

女優の長澤まさみは、年齢関係なく敬語で話すようにしているそうです。女優さんですから、いろいろな年代の人と接することになります。【最近は、年齢関係なく敬語で話すようにしています。幅広い年代やキャリアの方とご一緒する仕事でもあるので、年齢によって話し方や態度を変えるよりも、自分が後輩の気持ちで接するほうがスムーズだし楽だとわかって。それから、例えば俳優業で、「この人と仲よくしてみたい」とか「もっと距離を縮めてみたい」と感じたら、その方の出演作や活動にまつわる話でコミュニケーションを取るように心掛けていますね。自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと。そのためには、相手を知ることも必要。知ること自体がひとつのリスペクトになり、心を開いてもらえるきっかけにもなる。そういう順序を間違えなければ、人とうまく付き合っていける気がしています】(magacol.5/4.16:00配信)(長澤まさみさん『最近は、年齢関係なく敬語で話すようにしています』|CLASSY.)。

わたしもどちらかと言うと、どの年代のかたに対しても同じように接するように、心がけています。先輩の牧師さんに対しても、後輩の牧師さんに対しても、同じように「さん」づけで呼ぶというような感じです。昔からのつきあいで、わたしが岡山教会時代に教会学校の生徒さんだった、いま、南大阪教会の牧師で大阪教区の議長をしておられる、尾島信之牧師などに対しては、ときどき、話をしていて、「尾島君」というふうに言ってしまったりしますが、それもなるべく「尾島さん」というふうに言うようにしています。

なかなか人間関係というのはむつかしいものだと思います。女優の長澤まさみにしても、いろいろなことに配慮をしているのだと記事を読みながら、感心させられました。「自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと」。ああ、たしかにそういうことはとても大切なことだと思わされました。

今日の聖書の箇所は、「実によって木を知る」「あなたたちのことは知らない」「家と土台」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書7章は、山上の説教という、イエスさまが山の上で話されたと言われる聖書の箇所の一部です。山上の説教は、マタイによる福音書5−7章です。山上の説教は、イエスさまが伝えたかった大切なことが語られている聖書の箇所だと言われています。今日の「実によって木を知る」「あなたたちのことは知らない」は、どちらかと言うと、処世術的な感じのする教えです。「このようなことに注意をして生きていきなさい」というような感じのことが書かれてあります。

マタイによる福音書7章15−20節にはこうあります。【「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」】。

「偽預言者を警戒しなさい」と、イエスさまは言われました。だれが偽預言者であるかを判断するのは、なかなかむつかしいものです。先週、参議院選挙がありましたが、いろいろな政治家が、わたしの言っていることこそすばらしいのだと言うわけです。自分の考えに近いなあと思ったりするわけですが、でも行なっていることはなんかいいかげんで、自分に対してはやさしく、人に対しては厳しかったりして、なんかゲンナリしてしまうというようなことがあります。「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」ということですから、選挙のときだけでなく、日常的に政治家の人たちの行動をしっかりと見ていないといけないわけです。

しかし「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」という言葉は、人に対してだけの言葉ではなく、私たちに対しても向けられている言葉であるわけです。私たちも口先だけで良いことを言っているのではなく、やはり実際に何をしているのかということが問われているということです。

マタイによる福音書7章21−23節にはこうあります。【「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」】。

ここでも口先だけで「主よ、主よ」と敬虔なふりをしているだけではだめだと、イエスさまは言われます。イエスさまに向かって、「イエスさま、イエスさま」と、イエスさまに従うふりをしていてもだめで、神さまの御心を行なうということが大切なのだと、イエスさまは言われます。

キリスト教の信仰は、基本的には「信仰によって義とされる」ということです。「行ないによって義とされる」というわけではありません。しかしそれでは行ないはどうでも良いのかと言いますと、そういうわけでもないのです。やはり神さまの御心を行なうということが大切なのです。しかしそれでは良い行ないをすれば良いのかと言うと、そういうわけでもありません。「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」としても、謙虚な思いを忘れてしまっていると、やはりだめであるわけです。なんかいろいろ言われてむつかしいなあというふうにも思うわけです。でも素直な気持ちで謙虚に、神さまの御心に従って、小さな良き業を行なっていくという姿勢を大切にしたいと思います。

マタイによる福音書7章24−29節にはこうあります。【「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。】。

この聖書の箇所は「家と土台」という表題がついています。ですから「土台」の話をしているのかというと、たんにそういうわけでもないのです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とありますから、「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう」ということの大切さも語られているわけです。イエスさまの言葉を聞いて行なう人は、岩を土台としているようなあり方で、その人生は祝福されたものとなる。イエスさまの言葉を聞くだけで行なわない人は、砂の上に家を建てたようなあり方で、その人生は大変なことになってします。雨が降り、川があふれ、風が吹いてくると、家は倒れてしまうのです。ですからイエスさまの言葉を聞いて行なう人になりたいよねということです。

イエスさまは「偽預言者に警戒しなさい」、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と言われました。なかなか人を見極めるということはむつかしいことであるわけです。あたかも神さまの言葉を預かっている預言者のように語る人であっても、偽預言者であるかも知れません。またとても敬虔そうに、「主よ、主よ」「神さま、神さま」と言っていても、その人が信仰深い人であるとは限りません。

ルカによる福音書18章9節以下には「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の144頁です。ルカによる福音書18章9ー14節です。【自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」】。

このファリサイ派の人は、週に二度断食をして、全収入の十分の一を献げている敬虔な人であるわけです。「主よ、主よ」「神さま、神さま」といつも言って祈りを献げているわけです。しかしこのファリサイ派の人は本当の意味で敬虔な人ではないのです。敬虔そうで、実際に律法にかなった敬虔な生活をしているのだけれども、しかし敬虔ではないのです。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下しているのです。

人にだまされないということも大切ですが、しかしもっと大切なことは自分がどのように生きるのかということです。ということで、何を土台にして生きていくのかということが問われるわけです。「家と土台」という聖書の箇所では、そもそもはイエスさまの言葉を聞いて行なうか、行なわないかということが問われているわけです。しかし読む私たちは、「何を土台にして生きていくのか」ということが気になるわけです。そしてそれは「何を土台として生きていくのか」ということは、とても大切なことであるからです。いいかげんなものを土台にしていては、人生をあやまってしまうのです。私たちは確かな土台として、イエス・キリストにより頼んで生きていきます。

何が本当か、何がうそなのかが判断がつきにくい社会になりました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」という電話が警察からかかってきます。この電話ははたして警察からかかってきた電話なのか。「クレタ人はいつもうそつき」と言っているクレタ人のような話です。「クレタ人はいつもうそつき」は、新約聖書のテトスのへの手紙1章12節の言葉です。新約聖書の396頁です。また参考にしてください。警察からの電話、平安教会にもかかってきました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」。教会にかかってきた電話は、下鴨警察署上高野交番の電話であると電話のナンバー・ディスプレイに出ていましたから、警察からの電話のようでした。

「偽預言者を警戒しなさい」「偽警察を警戒しなさい」。詐欺事件やフェイクニュースにあふれた私たちの社会です。なかなか大変な世の中ですが、私たちは落ち着いて考え、前に進んでいきます。そしてイエスさまの言葉を土台として歩んでいきたいと思います。

今日の聖書の箇所は、イエスさまの大切な教えが書いてあると言われる、山上の説教の最後のところにあたります。山上の説教は、マタイによる福音書5章からはじまり、7章で終わります。

イエスさまは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。イエスさまは「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。イエスさまは「富は、天に積みなさい」と言われました。イエスさまは「人を裁くな」と言われました。イエスさまは「狭き門から入りなさい」と言われました。

イエスさまの教えを土台として、イエスさまから離れることなく、歩んでいきたいと思います。



  

(2025年7月27日平安教会朝礼拝式) 



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