2025年8月2日土曜日

8月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「許された者として生きている。」

「許された者として生きている」

聖書箇所 マタイ5:43-48。434/520。

日時場所 2025年8月3日平安教会朝礼拝式・平和聖日礼拝


8月に入りました。今年の夏も暑いですね。ご自愛ください。暑い夏に、私たちの国は8月6日に広島原爆記念日、8月9日に長崎原爆記念日、そして8月15日に敗戦記念日を迎えます。ことしの8月15日は、戦後80年の記念の敗戦記念日です。昔、日本はアジアの諸国や世界の国々と戦争をしていました。アジア太平洋戦争と言われます。日本が戦争に負けたのは、1945年のことです。

戦後80年ですから、若い人たちにとってはとても昔のことのように思えるだろうと思います。わたしは1963年に生まれていますから、戦後18年ぐらいで生まれています。中学生のときは戦後30年くらいですから、いまから考えると、戦後そんなにたっていなかったんだなあと思いますが、中学生のときのわたしは、戦争のことは昔々の話のような気がしていました。わたしの父は実際に兵隊となって、戦争に行っています。ナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーと自分の父が同じ戦争を戦っているわけです。

この5月にわたしはフィリピンのマニラを訪ねました。41年ぶりのことでした。41年前、わたしが大学4年生でした。41年前、「アジア国際夏期学校」というキリスト教のプログラムで、わたしはマニラに3ヶ月行っていました。インド、フィリピン、タイ、台湾、マレーシアなどなどのアジアの国に一人だけ派遣するというプログラムです。だれかと一緒に行くのではなくて、一人で行くわけです。もちろん滞在する国ではお世話をしてくれる人がいるわけですから、安心であるわけです。でもいまのようにスマートフォンがあるわけでもないですし、国際電話を簡単にかけられるというわけでもありません。インターネットがあるわけでもないですし、そんなに簡単に航空チケットを買うこともできません。行ったら行ったきりというような感じです。わたしは当時、たどたどしい英語しか話せませんでした。(いまは当時よりたどたどしい英語しか話せませんが・・・)、それでもなんとか3ヶ月間、フィリピンで暮らすことができました。当時は戦後39年でしたので、まだ日本に対するアジアの国々の感情は、あまりよいものではありませんでした。フィリピンも日本が侵略をした国の一つです。アジア太平洋戦争で約110万人以上のフィリピン人が犠牲になったと言われています。日本兵の犠牲も48万人を超え、アジア太平洋戦争のなかでの激戦地であったと言われています。

41年前のフィリピンの生活はとても貧しいものでした。当時日本は高度成長をしてバブルに入る前というような時代でしたので、食べるものはふつうにあるというような時代です。戦争をした日本はふつうに生活をしているわけですが、日本に戦争でひどいめにあわされたフィリピンの生活は貧しい生活であるわけです。

わたしはフィリピンで若い夫婦の家にお世話になっていました。夫婦には小さなこどもが二人いました。一緒に夕食をたべているとき、お母さんが「じゅん、もっと食べなさい」と言いました。お皿に煮たお魚とご飯があって、それをみんなで分けて食べていました。わたしはもうそこそこ食べたので、「もう大丈夫です」と言いました。でもお母さんは「じゅん、遠慮せずに、もっと食べなさい」と言いました。なんども「もっと食べなさい」と言われるので、そんなにお腹が空いているわけでもないけど、食べようかなと思って、お皿にある魚とご飯を、自分のお皿のうえにのせました。そのとき、一緒に食べていたこどもたちの顔が、とてもかなしそうな顔にかわりました。お腹がすいていたのでしょう。でもお客さんであるわたしに遠慮をしていたのだと思います。いつもお腹一杯、食べられるわけではないのです。なんともいえないそのかなしそうな顔をみて、「ああ、わるいことをしたなあ」と思いました。「わたしが食べなければ、この子たちが食べることができなのになあ」。そんな感じの貧しさが当時のフィリピンにはありました。わたしのフィリピンでのにがい思い出のひとつです。

そしてもう一つ、こんな思い出があります。カトリックのシスターの宿舎にお世話になっているときに、ちいさい女の子がえらくわたしのほうをいつもいつもにらんでいるので、シスターに尋ねました。「あの女の子はどうしてわたしのことをいつもにらんでいるのですか」。そうするとシスターはこう答えました。「あの子のおじいさんは日本兵によってひどい目にあわされました。だから日本人を嫌っていて、日本人のあなたをにらんでいるんだよ」。日本はアジア・太平洋戦争のときに、フィリピンに対してひどいことをしたので、まだそうした記憶が、人々の間にしっかりと残っていた時代でした。

それから41年ぶりに、この5月にフィリピンの首都のマニラにいきました。戦後80年になりますから、フィリピンを侵略した日本人というような目で見られていると感じるようなことはありませんでした。それでもフィリピンの国立博物館に行きますと、フィリピンの歴史のなかで、日本がフィリピンに対して行なったひどいことなどの展示はなされています。そのような絵画を見ながら、私たちの国がアジアの国々に対して行なった戦争のことを忘れてはいけないと思いました。

今日の聖書の箇所は「敵を愛しなさい」という表題のついている聖書の箇所です。マタイによる福音書5章43ー45節にはこうあります。【「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。】。

旧約聖書のレビ記19章17−18節にはこうあります。【心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。】とあります。旧約聖書の192頁です。「兄弟」とか「同胞」とか「民の人々」とありますように、自分たちの民族の人々を愛しなさいということが言われています。憎むのは敵であって、自分たちの民族の人々ではないということが言われているわけです。ユダヤ民族は「自分たちは特別だ」という選民思想というのが強かったので、このようなことが書かれてあります。「ユダヤ人ファースト」ということです。「日本人ファースト」の親戚のような感じです。

それに対して、イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。神さまは悪人にも善人にも同じように太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせておられるのだから、あなたたちも敵であろうと味方であろうと、分け隔てなく愛しなさいと言われました。

旧約聖書に書かれてあることが、すべて「ユダヤ人ファースト」であるのかと言いますと、そういうことでもありません。申命記24章5節以下には「人道上の規定」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の318頁です。申命記24章17ー22節にはこうあります。【寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。】。

この聖書の箇所では、あなたたちもエジプトで寄留者として生きていたことがあっただろう。だからあなたたちはそのことを思い起こして、寄留者に対してはやさしく接するということをしなければならないと言われているわけです。「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない」のです。まあ当り前ですけれども、神さまの民が自分ファーストであったら、やはりおかしいわけです。神さまの民なわけですから、倫理的でなければならないのです。だからイエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われたのです。

マタイによる福音書5章46−48節にはこうあります。【自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」】。

あなたたちは自分たちは神さまから選ばれた民で、特別な人間であると思っている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われて、戸惑っているけれども、でも自分を愛してくれる人を愛するというようなことは、あなたたちが罪人だと思っている徴税人だってやっていることだろう。自分の仲間内にだけ挨拶するのだったら、異邦人だって同じことをしているだろう。あなたたちは自分は神さまの民で、自分たちは特別だと思っているのだったら、徴税人や罪人、異邦人たちよりもはるかに高い倫理観がなければ、おかしいだろう。神さまが完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい。そのようにイエスさまは言われました。

しかし「あなたたちも完全な者となりなさい」と言われても、そんなことできるのかなあと思えます。「敵を愛しなさい」と言われても、「敵を愛することなんてできるのかなあ」という気がします。しかしイエスさまは「敵を愛しなさい」と言われました。神さまはあなたたちの敵にも、あなたたちと同じように雨を降らせておられる。まあそう言われれば、そうだなあと思います。それでも「敵を愛することなんてできるのかなあ」と思います。

私たちは、「悪い人がいて、その悪い人が自分に対してひどいことをしてくるのに、その悪い人を赦すことができるのかなあ」という思いになります。悪いのは相手で、自分ではないというふうに思って、「敵を愛することなんてできるのかなあ」というふうに思います。

でも私たちは「敵であるのに、赦された」という経験をもっています。私たちの国はアジアの国々に対して侵略を行ない、ひどいことをしました。それでも戦争がおわったあと、アジアの国々は敵である日本を赦し、日本を徹底的に憎み続けるということはしませんでした。日本と戦争をしていたアメリカも、戦後の日本の復興のために、いろいろなことをしてくれました。私たちは「敵であるのに、愛された」という経験をしています。

はじめにお話しましたように、ことしは戦後80年の記念の年です。私たちの世界ではいまウクライナとロシアが戦争をしていたり、パレスチナのハマスとイスラエルが戦争をしていたりします。またアメリカがイランを攻撃したりと、タイとカンボジアが攻撃をしあったりしています。

争いの多い世の中です。しかしイエスさまは私たちに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。そして私たちは敵であったのに、許されたという経験をもっています。私たちの世界が平和な世界になりますようにとお祈りをしたいと思います。あきらめることなく、互いに尊敬しあい、互いに思いやることのできる私たちの世界になりますようにと祈っていきたいと思います。



(2025年8月3日平安教会朝礼拝式・平和聖日礼拝) 


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