2025年8月9日土曜日

8月10日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「罪人として招かれている」

「罪人として招かれている」

聖書箇所 マタイ9:9-13。461/493。

日時場所 2025年8月10日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい

 

今週の金曜日に、8月15日の敗戦記念日を迎えます。80回目の敗戦記念日です。

『原爆詩集』(合同出版)という詩集の中に、遠藤春子さんの「いのり」という詩がのっています。

遠藤春子さんのおつれあいは、広島で被爆しました。ひん死の重傷をおったのですが、奇跡的に生き残ることができました。そして遠藤春子さんと結婚をして、遠藤春子さんは二人のお子さんに恵まれました。二人は「ひろしまは原爆を受けて草も木も育たない」と言われたことを思い出して、自分たちの子供は育つようにと、樹という文字を入れて名前を付けました。そしてこどもたちは大きくなり、樹のように地に足をしっかりとつけて歩んでいくようになりました。


原爆詩『いのり』    遠藤春子


 夏が来ると

 あなたとわたしは

 またなんとなくあの日のことを思い出してしまう。

 あの日、あなたは

 ・・・・・

 ひどい閃光を受けて

 ひん死の重傷をおい

 ・・・・・

 あなたのいのちは

 ローソクの淡い光がいくら揺れても消えないように

 長く長く燃え続け

 その光がやがて強い力となって

 あなたは生きた

 あなたは生きたーーー

 

 あなたが生きて私の幸せは訪れた

 白い冷たい雪の降る朝

 わたしはあなたの子供を生んだ

 五月の若葉が燃えるような日

 わたしは次の子を産んだ

 ひろしまは原爆を受けて草も木も育たないといわれたことを思い出して

 私たちの子供は育つように

 どうしても育ってくれるように

 どちらも樹という文字を入れて名まえをつけた


 また、今年も青葉の季節が過ぎて

 夏がやって来た

 子供たちはもうすっかり大きくなって

 自分の力で

 自分の樹の根をはり始めたーーー

                    『世界』1959.8


「いのり」という詩を読むと、いのちの力強さをいうことを思わされます。私たちは神さまから、ひとりにひとつずつ命を与えられています。「わたしは神さまから二ついのちを与えられている」という人はひとりもいません。みんなひとりにひとつずつ命が与えられています。ですから私たちは自分の命も大切ですし、人の命も大切にしなければなりません。そしてせっかく神さまから与えられた命であり、人生であるわけですから、人を傷付けたり、殺したりすることのない平和な人生を歩みたいと思います。私たちの世界はいろいろなことが複雑にからみあった世界です。なかなか世界から戦争がなくなりません。しかしだからこそ、戦争のない平和な世界になりますようにという祈りを大切にしたいと思います。

今日の聖書の箇所は「マタイを弟子にする」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書9章9節にはこうあります。【イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った】。

マタイはイエスさまの十二弟子の一人として、その名前が記されています(マタイによる福音書10章3節)。【フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ】とあります。イエスさまの時代、イスラエルはローマ帝国の属州でした。ローマ帝国はイスラエルから税金を集めるわけですが、そのとき徴税人が用いられました。徴税人はローマ帝国から税金を集める権利を買い、税金を集めます。いくら税金を集めるのかというのは、徴税人の裁量に任されていました。だいたい徴税人は多く集めて、私腹を肥やしていたわけです。ですから徴税人は人々から憎まれていました。それに徴税人は異教の神々を拝んでいる異教徒であるローマの手先であるわけです。当時のユダヤの人々は、異教徒と仲良くする者は汚れた者であると見なしていました。

イエスさまは徴税人であるマタイに、「わたしに従いなさい」と呼びかけられ、御自分の弟子とされました。徴税人であるマタイは汚れた者と見なされていましたから、そうした汚れた者であるマタイと付き合う、そして自分の弟子にするということは、イエスさま御自身もまた汚れた者であると見なされるということでした。しかしイエスさまはそうしたことを気になさいませんでした。そしてあえて徴税人であるマタイを選ばれ、御自分の弟子にされたのです。

マタイによる福音書9章10-11節にはこうあります。【イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。】。

イエスさまはマタイに招かれて、マタイの家で食事をされました。マタイの友人である徴税人や罪人、そしてイエスさまの弟子たちも一緒に、食事をすることになります。それを見たファリサイ派の人々が、イエスさまを非難しました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」とファリサイ派の人々は言いました。彼らからすればイエスさまがしておられることは理解できないわけです。「なんでイエスは汚れた者たち、神さまから棄てられている人々と一緒に食事をしたりするのか」。

その問いに対してイエスさまは答えられました。マタイによる福音書9章12-13節にはこうあります。【イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」】。

イエスさまが言われた【『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』】という言葉は、ホセア書に出てくる聖書の箇所です。今日の旧約聖書の聖書の箇所に出てきます。ホセア書6章1−6節です。「偽りの悔い改め」という表題のついた聖書の箇所です。旧約聖書の409頁です。【「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。】。

ホセアは紀元前8世紀の北イスラエルの預言者です。ホセアは北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるという時代に、北イスラエルの民に対して、神さまの言葉を語っています。ホセアは堕落して滅んでいく北イスラエルの民に、「あなたたちは神さまから離れさって、どうしようもない民だけれども、神さまは赦してくださるから、神さまのところに帰りなさい」と、北イスラエルの民に慰めの言葉を語りました。

ホセア書6章1−3節の聖書の箇所も「偽りの悔い改め」という表題がついているように、イスラエルの民が「神さまはやさしい方だから、わたしたちを許してくださるにちがいない」という安易な思いをもっていることが語られています。そしてホセア書6章4節以下で書かれているように、神さまはいい加減なイスラエルの民を「わたしはお前をどうしたらよいのか」と戸惑っている姿が語られています。そして「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではない」というように、形ばかりの祭儀や祈りを行なうイスラエルの民に対して、神さまにしっかりと向き合うことを教えるのです。しかしどうしようもないイスラエルの民であるわけですが、神さまはイスラエルの民を憐れむのです。すこし複雑な聖書の箇所ですが、たぶんイエスさまはそういた細かいことを考えながら、聖書の引用をしておられるのではないと思います。

イエスさまは【『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』】というホセアの言葉を引用しながら、神さまが求めておられるのは裁きではなく赦しであると言われました。徴税人や罪人を裁き、彼らを蔑むことを神さまは望んでおられるのではない。神さまが望んでおられることは、彼らを赦すことであり、彼らが神さまのところに帰るということだ。そのことのために、わたしは彼らと共に食事をし、神さまのところに彼らを招いているのだ。イエスさまはそのように言われました。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、徴税人や罪人と食事をしませんでした。彼らはいつも自分たちが神さまの側に立っていて、人々を裁くのが自分たちの仕事だと思っていました。自分たちはいつも正しいのです。そして徴税人や罪人を裁けば裁くほど、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちの正しさを、神さまに示すことになると思っていました。彼らにとって徴税人や罪人は、神さまにささげるいけにえであったわけです。

しかしイエスさまは『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』と言われ、神さまが望んでおられるのはいけにえではなくて憐れみであると言われました。神さまは罪人を憐れんでおられる。正しくあろうと思いながらも、正しく生きることができず、罪を犯しながら、神さまに憐れみを求めて生きている人々を、神さまはそのままにしておかれない。罪を犯し、自分に絶望し、涙を流しながら、心の中で神さまを求めて生きている人々を、神さまは憐れんでくださっている。だから「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と、イエスさまは言われました。

私たちは罪人として神さまの前に招かれています。私たちは悔い改める罪人として、神さまの前に招かれています。ときに私たちはこのことを忘れてしまって、自分たちが正しい者であるかのように勘違いをしてしまうときがあります。そしてファリサイ派の人々や律法学者たちのように、自分が神さまの代わりに裁き人となってしまうときがあります。しかしそうではないのです。私たちは正しい者として、神さまの前に招かれているのではなく、罪人として神さまの前に招かれています。

私たちは罪人として裁かれるために、神さまの前に招かれているのではありません。私たちは赦されるために、神さまの前に招かれています。私たちは神さまの憐れみを、神さまの愛を受けるために、神さまの前に招かれています。

だからこそ、私たちは自分たちの罪ということについて、謙虚でありたいと思います。人がどうであるとか、他の国がどうであるというようなことではなく、私たちキリスト者は神さまの前にどうであるのかということを、心に留める者でありたいと思います。こころを静かにして、自分の歩みを振り返りながら、私たちは神さまの御前に立つ者であることを、心に留めたいと思います。

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』。神さまは私たちを悔い改めに導いてくださり、私たちを祝福してくださいます。神さまの深い愛に、私たちの歩みをお委ねいたしましょう。


(2025年8月10日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい)


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