2025年9月20日土曜日

9月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「小さな者と共なる神さま」

「小さな者と共なる神さま」

聖書箇所 マタイ18:10-20。57/474。

日時場所 2025年9月21日平安教会朝礼拝


新潟県の三条市にあります三条教会で牧師をしていたとき、住まいであった三条教会の近くに、三之町病院という病院がありました。わたしもよくその病院に行っていたのですが、病院の近くだったので、救急車のサイレンの音が毎日よくなっていました。ピーポー、ピーポー、ピーポー。ピーポー、ピーポー、ピーポー。教会の前の道を通って、三之町病院に救急車がやってくるわけです。初めはちょっと気になりました。救急車が通るごとにはっとするわけですが、しかし日に何度も救急車が通るわけですから、そのうちに慣れてしまいました。「あ、またピーポー、ピーポー、ピーポーいってる」というような感じです。

ある朝、教会員の方から「夫が交通事故で救急車で三之町病院に運ばれたので、すぐ来てください」と電話がありました。びっくりして飛んで行ったのですが、そのとき容体は必ずしもいいというわけでもありませんでした。まあ、その後、回復されて、ほぼ何の心配もないようになられました。でもそのときは「ああ、救急車が走っているわ」と当たり前のような気持ちになっている、その救急車の中に教会員のおつれあいが乗っていたわけですから、なんとも自分は薄情な人間なんだなあと思わされました。その後、救急車を見ると、だれがどんな状態で乗っているかはわからないわけですが、わたしは「がんばれよ。がんばれよ」と思うようにしています。

人間は絶えず緊張しているわけにもいきませんから、救急車が走っていても、「あ、また救急車か」くらいに思えます。でもその救急車のなかに、生死の境をさまよっている人がのっているかも知れません。救急車は走っているのを見るもので、自分が乗ることを私たちはふつう考えているわけではありません。しかし私たちが救急車に乗らないという保証があるわけではありません。それでもやはり私たちは、「あ、また救急車か」くらいに思えます。イエスさまはそんな私たちに、「大変な目にあっている人のことに思いをはせるということは大切なことだよ、小さな者たちのことを忘れてはいけないよ」と言っておられます。

今日の聖書の箇所は「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書18章10-14節にはこうあります。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」】。

イエスさまはこの世にあって小さな者が大切にされるということが、神さまの御心だと言われました。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである】というように、ほとんど脅しともとれるような言葉で、小さな者を大切にすることが、神さまの御心だと言われています。

「迷い出た羊のたとえ」はとても有名なたとえです。ある人というのは、神さまのことです。神さまはこういう方だというたとえです。どういうたとえなのかといいますと、羊を百匹もっている人がいた。その百匹の羊のうちの一匹が迷い出てしまった。するとその人は九十九匹を山に残して、迷い出た羊を探しに行った。そしてその一匹を見つけたら、迷わずにいた九九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう。神さまはそのように、小さな者が一人でも滅びることは望んでおられないというのです。神さまはそれほど小さな者一人にかかわってくださる方だということです。

ちょっといじわるなのは、イエスさまが「あなたがたはどう思うか」と弟子たちに問われているということです。神さまはそういう方だけど、あなたたちはどう思うと、イエスさまは弟子たちに問われたわけです。

「九九匹か一匹か」というふうに言われると、まあ状況によって変わってくるでしょう。自分たちが九九匹の中にいて、安全であるのであれば、ぜひ一匹を探しにいってほしいとふつうに思います。でも安全でないのであれば、ちょっと考えちゃうよねと思います。もちろん自分が迷い出た羊であれば、どんなことをしてでも助けに来てほしいと思います。

私たちの世の中はどうでしょうか。迷い出た一匹の羊よりも九九匹の羊を守ることを優先するような社会であるような気もします。一時期、日本では「自己責任」というようなことがよく言われました。しかしそういうことだけでも、私たちの社会はないわけです。

緊急車両のシステムなどもそうです。私たちは車を運転していて、救急車が後ろから走って来たら、やはり車を留めて救急車に先に行ってもらいます。緊急車両は優先されるわけです。もちろんいつか自分がお世話になるかも知れないということがあります。やっぱり自分が道で倒れて救急車が必要な場合は、救急車が早く来てほしいわけです。消防車も早くきてほしいし、警察も早くきてほしいわけです。しかしそれだけではなく、やっぱり非常に困ったことや命に関わるようなことについては、自分たちのことはさておいて、優先してあげなくてはならないという、人としてのやさしさということがあるわけです。そうした社会システムというのが、まあ温かく生きやすい社会システムということでしょう。

イエスさまは弟子たちに、「世の中っていうのはなかなかむつかしいところだけれど、でも神さまのまなざしは小さな一人に向いているよ」と言われました。「だから私たちのまなざしもどこに向けるのかを考えなくちゃいけないよ」と言われました。

マタイによる福音書18章15-17節にはこうあります。【「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】。

この「兄弟の忠告」という聖書の箇所は、たぶんイエスさまが言われたことだけではない聖書の箇所でしょう。イエスさまが活動しておられたときに、「教会」はないわけですから、「教会に申し出なさい」ということを、イエスさまが言ったとはあまり考えられません。マタイによる福音書18章15節は、イエスさまの言葉だろうと言われています。【「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる】。まあ、あんまりことが大きくなるようなことにしないで、自分に対して何か不快なことがあったとしても、相手にそのことを忠告して、赦してあげなさいということです。

この「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」というのはいいなあと思います。「自分に何かされた」と言って相手を一方的に非難をしたり、相手に仕返しをしたりすると、「敵を作る」ことになるわけです。そんな敵を作って回るような生き方をするよりも、「兄弟を得たことにある」というような生き方をしたいものだと思います。なんかそのほうがとても楽しそうです。

マタイによる福音書の著者は、教会の運営ということを考え、教会の権威ということを強調しています。忠告してもなかなか聞いてもらえないときがあるから、そんなときは次はだれかと一緒に行きなさい。それでもだめなら教会に申し出なさいというわけです。しかし権威というのは、大きな責任も自覚しなければなりません。マタイによる福音書18章18節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる】。裁くということは、これくらい重いことなのだということです。

マタイによる福音書18章19-20節にはこうあります。【また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」】。

ユダヤ教では集まって共同の祈りを献げるときに、成人男子10人が必要とされたそうです。大人の男の人が10人いないと、共同の祈りを献げることができないわけです。しかしキリスト教はそうした制限を取ってしまいました。二人で心を一つにして願うなら、神さまはあなたたちの願い事をかなえてくださる。二人または三人、イエスさまの名によって集まるなら、そこにイエスさまも共にいてくださる。そのように言われています。

この「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所は、全体として、「一人とか、二人、三人」というのは、神さまの前に大切にされているんだよ。ということが言われているわけです。「一人とか、二人、三人」というのは、小さな数だからそんなのどうでもいいんだということではなく、神さまの前では一人ひとりが大切な人として愛されているんだということです。

私たちは「一匹か九九匹か」というような場合、自分がいつのまにか九九匹の側にいるように思ってしまい、「一匹は身勝手なのではないか」というような思いを持つことがあります。あるいは自分がいつも裁く側の人間になってしまい、「教会に申し出なさい」と自分が神さまの代わりに裁いているというふうに勘違いしてしまうようなときがあります。

初期のクリスチャンは小さな集まりでした。祈りを献げるときも、成人男子10人集まらないということもあったのでしょう。ユダヤ教の枠内であれば、それは共同の祈りとならず、正式な集まりとならないわけです。それでは一人、二人の神さまに向かう思いというのは無駄なのか。初期のクリスチャンたちはそのようには思いませんでした。初期のクリスチャンは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という思いを持っていたのです。

「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて生きるというのがクリスチャンの歩みであったのです。教会の頭と言われ、【わたしはあなたに天の国の鍵を授ける】(マタイによる福音書16章19節)と言われた使徒ペトロも、イエスさまを裏切った人でした。使徒ペトロだけでなく、ほかの弟子たちもイエスさまを裏切り、イエスさまが十字架につけられるときに、イエスさまを捨てて逃げていった人たちでした。しかし神さまのまなざしはイエスさまを裏切った弱いペトロや、イエスさまを捨てて逃げ去った弟子たちに向けられていたのです。「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて、イエスさまの弟子たちは歩み始めたのです。

私たちもまた「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いを、こころのなかにしっかりと持ちたいと思います。神さまのまなざしは、この小さなわたしに向いているのです。私たちはおそれることはありません。

イエスさまは小さな私たちを招いておられます。イエスさまはこう言われました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう】(マタイによる福音書11章28節)。私たちは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いをもって、イエスさまの招きに応えて歩みましょう。


(2025年9月21日平安教会朝礼拝)

2025年9月13日土曜日

9月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「いいものみーつけた!」

「いいものみーつけた!」

聖書箇所 マタイ13:44-52。509/470。(列王上3章4-15節)

日時場所 2025年9月14日(日)平安教会朝礼拝


今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。

今日は第二週の礼拝ですので、「きてみてれいはい」です。今月から「きてみてれいはい」は、子どもの教会と合同礼拝として行なうことにいたしました。そのため子どもの教会でよく使う讃美歌を用いたり、式次第を少し代えてみました。なるべくひらがなで書いてみることにいたしました。全体として礼拝時間が短くなっています。ぜひお子さまと一緒に礼拝にきていただけたらと思っています。子どものための席もつくりましたので、よかったらご利用下さい。来てくださった子どもさんにできれば、何かしてもらうことができればと思って、「かねをならす」ということを式次第にいれてみました。今日は司会者の方にならしていただきました。「1955年1月平安教会教会学校」と記されています。恵老祝福のしおりは、この鐘の写真を用いてつくっています。

みなさんは最近、いいものを見つけられたでしょうか。お気に入りのものがあるでしょうか。わたしは3年ほど前に、銀座の伊東屋で買った伊東屋特製のボールペンが、お気に入りです。このボールペンのどこが良いのかと言いますと、胸のポケットにいれいても、インクがもれるということがありません。ふたがついているので、安心です。銀座に来ることもそんなにないだろうと思って、替えのシンも買いました。なんと言っても銀座の伊東屋特製のボールペンだと思い、長い間大切に使おうと思いました。その後、大阪のグランフロントのなかに、伊東屋があるをみつけて、「ああ、ここにもあるじゃないか」とびっくりしました。替え芯が切れかけていたので、替え芯をまた買いました。「いいものみーつけた!」と思えると、とてもうれしい気持ちになります。そして人に自慢したくなります。

わたしは平安教会に赴任して、この9月で6年と二ヶ月になります。6年と言うと、まあそんなに年月がたったということでもないような気もしますが、でもいろいろなことがあったなあと思います。この6年間でいろいろな人に出会ったなあと思います。とても幸せなことだと思います。わたしがいま親しくしている人たちは、6年前にはほとんど知らない人であったわけですから、そうした人たちと親しく楽しく過ごしているというのは、とても幸せなことだと思います。良き友、良き教会、良き仕事との出会いであったと思います。たぶん「いいものみーつけた!」というのは、伊東屋特製のボールペンではなく、平安教会での交わりということなのでしょう。

今日の聖書の箇所は「『天の国』のたとえ」「天の国のことを学んだ学者」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書13章44-46節にはこうあります。【「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う】。

今日の聖書の箇所は「天の国のたとえ」として語られています。イエスさまの時代、宝物を壺にいれて土の中に隠すということが行なわれていました。持ち主が生きていて、そのことを知っているうちはいいわけですが、突然、死んだりして、だれも土の中の隠し場所を知らないというようなことが起こってくる場合があります。あるいは他国による侵略などで、持ち主が他国へ奴隷となって売られてしまうような場合があります。そうなると畑に宝が隠された状態になります。それをたまたま畑を耕している人が見つけます。そしてその宝物を隠しておいて、持ち物をすっかり売り払って、宝物が埋まっている畑を買うというわけです。

真珠の場合も、良い、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をすっかり売り払い、その良い、高価な真珠を買います。畑の場合も、真珠の場合も、「持ち物をすっかり売り払って」、「それを買う」わけです。このたとえでは「持ち物をすっかり売り払って」「それを買う」というところが、みそであるわけです。天の国はかけがえのないものであるということです。単なる持っていたらちょっと良い物ということではなくて、それは「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」というものであるということです。それに人生をかけるというか、信じるというのは、そういうものだということです。あれも、これも、もって、その上で、信じるということではなくて、信仰のみということです。信仰とはそういうきびしさを持っているということです。

マタイによる福音書13章47-50節にはこうあります。【また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。】。

マタイによる福音書の著者は、(マタイによる福音書13章36節以下の「毒麦のたとえの説明」などからも分かりますが)、「良い」「悪い」の二つに分けるということが好きです。「良い」「悪い」の二つに分けるということは、なかなかむつかしいことです。まあ物なら、そうかなあとも思えますが、人の場合、「良い人」「悪い人」、「正しい人々」「悪いものども」などと分けられますと、「そんなに簡単に正しい人々、悪いものどもなんてわけてしまっていいのだろうか」との思いももちます。

しかしここで全体的に語られることは、「悪い人たちは燃え盛る炉に投げ込まれて、ざまあみろ!」というようなことではありません。そうではなくて、まさにイエス・キリストに出会った私たちの生き方が問われているということとです。マタイによる福音書13章51-52節にはこうあります。【「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」】。

まさに弟子たちはイエスさまから問われたのです。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。そして弟子たちは「分かりました」と答えました。イエスさまに出会った弟子たちは、イエスさまの教えに導かれて、自分の倉から新しいものと古いものを取り出して、そして古いものを捨てなければならないということです。それは畑や真珠を、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」ように、とてもきびしい選択であるわけです。

昔、ロフトに買い物に行くと、「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」と「ロフトでゲット」という曲が流れていました。(「お金がないときは、彼に甘えておねだりしちゃおう」、正確ではないけどこんな内容)。まあ確かに梅田などのロフトにいって、「あれもこれも、それもどれも」と自分の気に入ったものを買って行くと、とてもうれしいような気がします。わたしはまあしないですけど、でもまあティファニーで買い物とかそういうわけでもないですから、ロフトで買い物している分には、そんなにびっくりすることもないでしょう。ただ私たちは「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というように、「なんでもかんでも」というわけにはいかないということがあります。やはり慎重に選ばなければならないということがあります。

昔、昔のイスラエルの王様にソロモンという人がいました。ソロモンは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。旧約聖書の列王上3章に書かれてある話です。旧約聖書の531頁です。皆さんは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた何を望みますか。慎重に考えてくださいよ。何がいいですか?。ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えたのでした。そしてそれに対して神さまは、「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」と言われました。

「長寿も富も敵の命も」というように、ほしいものはいろいろあるわけです。しかし「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というわけにはいきません。ソロモンは「自分のために」ではなく「あなたの民を正しく裁き」とあるように、「神さまのために」ということを謙虚に望みました。ソロモンは「わたしのために」「わたしがわたしが」ということを望まず、「神さまのために」「神さまのみ栄えを現すために」ということを望みました。そしてそれゆえに、ソロモンは神さまから大いなる祝福を受けたのでした。

私たちはときに、「あなたの大切なものは何ですか?」という問いの前に立たされます。「あなたが心から望んでいるものは何ですか?」という問いの前に立たされます。元気に飛び回っているときは、そうしたことを考えることがあまりないかも知れません。「あれもこれも、それもどれも」と思いながら、多くのことを手に入れることができるかも知れません。しかし思わぬつまずきに出会ったり、あるいは年を感じ以前と同じように動き回ることができなくなってきたりするときに、私たちは心静かにして、「あなたの大切なものは何ですか?」「あなたが心から望んでいるものは何ですか?」という問いに答えなければならないときがあります。

そんなとき、私たちには「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」という大切なものがあるということを思い起こしたいと思います。神さまは弱い私たちをしっかりと守り導いてくださる方である。神さまは私たちをいつも愛してくださっている。神さまは私たちと共にいてくださり、私たちに良き道を備えてくださる。私たちはそうした神さまに出会い、信仰生活を送っています。それは私たちにとってかけがえのないものです。

わたしはわたしが銀座の伊東屋でみつけたボールペンを皆さんにお勧めすることありません。しかしキリスト教信仰については、自信をもってお勧めします。キリスト教の神さまを信じて生きることを、わたしは自信をもってお勧めします。神さまに導かれて歩む人生は、本当に大きな安らぎです。

本当に大切なものは、「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。本当に大切なものは、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」に値するものです。心の底から「これに出会うことによって、わたしは救われた」と思うことのできるものです。それは「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。「あれもこれも、それもどれも」は、消え去ってゆきます。それは確かなものではありません。私たちの魂にかかわるもの、永遠なるものが、わたしたちにとっては確かなものであり、私たちにとって本当に必要なものなのです。

神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守り導いてくださっています。確かな方により頼んで歩みましょう。


(2025年9月14日、平安教会朝礼拝、きてみてれいはい、子どもの教会との合同礼拝、恵老祝福礼拝)



2025年9月6日土曜日

9月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「大切なのは愛だよ」

「大切なのは愛だよ」

聖書箇所 マタイ13:24-43。412/482。

日時場所 2025年9月7日平安教会朝礼拝


みなさんは「あなたは生涯でもっとも感動したことはなんですか」と問われたら、なんと答えるでしょうか。クリスチャンである私たちの模範解答としては、「洗礼を受けたこと」というようなものかも知れません。でもまあ模範解答は少し横に置いておいて、「あなたは生涯でもっとも感動したことはなんですか」と問われたら、なんと答えるでしょうか。まあひとそれぞれ、いろいろなことがあると思います。思い出にふけってくださって結構です。良い思い出があるのはとても良いことです。

小説家の高橋源一郎は、生涯でもっとも感動したこととして、こんなふうに答えています。【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】(P.187)(高橋源一郎『ラジオの、光と闇ー高橋源一郎の飛ぶ教室2』、岩波新書)。【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】。

高橋源一郎の『ラジオの、光と闇』という本の中に、ちょこっと書かれてあった一節なのですが、こころに留まりました。宝ヶ池や修学院駅などがロケ地として撮られた、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(2016年12月17日劇場公開日)という映画を、先週、わたしは見ていました。その映画のなかでも、恋人同士が初めて手をつなぐというシーンが出てきます。そういう意味では、【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】というのは、わりあいあることなのかなあとも思います。

しかし誰かと手をつなぐということで、生涯その人のこころのなか、一番感動したこととして残るというのであれば、それは特別な人にだけできることではなく、だれでもできることであるのだと思いました。相手が手を握ってきたら、こちらも握り返すということですから、なにか特別な費用がかかるということでもありません。食事をしてもお金がかかりますし、プレゼントをしてもお金がかかるわけですが、でも手を握るということはお金がかかるわけではありません。だれにでもできることでありながら、それがその人の生涯にとってかけがえのない意味のあることとして残るというのは、とてもすてきなことだと思います。

そしてそれは、私たちは知らず知らずのうちに、相手の人生にとってとてもかけがえのない思い出をつくっているのかも知れないということです。手を握りあうという愛に満ちた小さな出来事が、私たちの世の中を愛に満ちたものへと導いていくのです。大げさなことではなく、わたしにできることがあると思えて、とても励まされる思いがしました。

今日の聖書の箇所は、「毒麦のたとえ」「からし種とパン種のたとえ」「たとえを用いて語る」「毒麦のたとえの説明」という表題のついた聖書の箇所です。

「毒麦のたとえ」というのは、イエスさまがされた「天の国」についてのたとえ話です。ある人が畑に良い種をまきます。すると人々が眠っている間に、敵がやってきて、畑に毒麦を蒔いていきます。だんだんと麦が実ってくると、蒔いていないはずの毒麦が現れます。僕立ちは主人のところに行って、畑に良い麦に交ざって、毒麦が生えてきていることを報告します。僕たちは「毒麦を抜いてしまいましょうか」というのですが、主人は「毒麦を抜いてしまうときに、根が絡まっていて良い麦も抜いてしまうかも知れないから、いまはそのままにして、刈り入れのときに毒麦をはじめに集めて燃やしてしまいなさい。良い麦を集めて倉に入れてしまうことにしよう」と言いました。

私たちはすぐに浮き足立って、悪い人を探して、それを取り除いてしまったらいいというふうに考える。でも何が良いのか悪いのかということは、そう簡単にわかることではないので、人を裁くのは遅くしたほうが良いというようなたとえ話です。世の終わり・終末のときに、神さまが裁いてくださるから、あなたたちが裁く必要はないのだ。天の国は裁きあいの世界ではなく、神さまの愛によるゆるしあいの世界なのだと、イエスさまは言われるのです。

「からし種とパン種のたとえ」もまた、「天の国」についてのたとえ話です。からし種はちいさいけれど、畑に蒔くと、そこそこ成長する。からし種は0.5ミリメートルほどの大きさです。とても小さいものですが、大きなやさいくらいには成長します。大木になるわけではないですが、鳥がとまることができるくらいの大きさにはなります。パン種というのは、いわゆるパンを膨らませるイーストのことです。イーストを入れることによって、パンはふっくらと焼き上がります。天の国は私たちがどうこうすることによってできあがるということではなく、神さまの御手によってうまい具合に大きくなっていくのだ。あなたたちは心配性だから、「これはどうなるのだろう」「あれはどうなるのだろう」「大丈夫かなあ。大丈夫かなあ」となにかにつけて心配するけれども、「まあ、あんまり心配するな」と、イエスさまは言われたということです。

「たとえを用いて語る」ということでは、イエスさまが話をされるときに、たとえ話をよくされたということが書かれてあります。たとえ話で話すというのは、みんなにわかりやすく話すために、まあたとえ話で話すわけです。しかし時代によって変化することもありますし、地域によっていない動物というのもあります。その時代のその場所ではよくわかるたとえ話であっても、時代が変わったり、場所が変わったりすると、たとえ話はその意味するところがよくわからなくなるということがあります。イエスさまの地域、イエスさまの時代であれば、「わたしは良い羊飼いである」と言うと、よくわかったわけです。でも私たちの時代では生活の場所で羊がいるというようなことはあまりないですから、説明が必要になってくるわけです。

「毒麦のたとえの説明」というようなことが起こります。イエスさまは「毒麦のたとえ」をはなされたわけですが、そのたとえの説明を弟子たちが求めます。この聖書の箇所は、イエスさまがたとえの説明をされたということではなく、イエスさまのあとの初代教会の人たちがあとから説明を考えたということだと思います。はじめの「毒麦のたとえ」と、「毒麦のたとえの説明」では、話が違い過ぎるからです。

イエスさまが話された「毒麦のたとえ」では、早急に人を裁くというようなことはやめて、神さまにお任せしなさいというような感じでした。しかし「毒麦のたとえの説明」では、やたら人を裁くようになっています。毒麦は悪い者の子らであり、そうした人々はみんな集められて、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。そこで泣きわめいて歯切りしする。悪いやつらは徹底して、世の終わりの時に裁かれるのだというような感じです。もともと「毒麦のたとえ」は天の国のたとえ話であったはずなのに、なんか地獄の話になっているような感じがするわけです。

わたしはこの「毒麦のたとえの説明」という聖書の箇所を読みながら、「イエスさまのたとえ話をどうして曲解するのだろうか」と思いました。やはり人は、人を裁くというのが好きなのだろうなあと思います。人はやたらと人を裁きたがるわけです。「もともと人を裁くのには慎重にしたほうがいいよね」という内容のたとえ話の説明が、「悪い人たちは裁かれるぞ」という話になっていくわけです。そして自分たちは正しく裁くことができるので、自分たちの言うことを聞きなさいというような感じになって、組織化されていくというのは、なかなか人のすることというのは、恐ろしいものだなあと思えます。

現代の社会を表わす言葉として、「アメリカはロシアに勝った。だがロシアになった」と言っている人がいました。アメリカは個人を大切にする国でありました。ロシアは個人よりも国家を大切にする国です。でもだんだんとアメリカもまた個人よりも国家を大切にする国になってきています。人は敵をつくり、その敵をやっつけようとすると、その敵に似てくるのです。ですからイエスさまはやたらと人を裁くのではなく、裁くのは遅くしたほうが良いと言いました。そして裁くのではなく、神さまの愛を伝えていくことが大切なのだと言われました。

「大切なのは愛なのです」。人を裁いたり、自分を裁いたりすることではなく、神さまの愛を知ることなのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙(1)の13章13節でこう言いました。新約聖書の317頁です。【それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である】。愛は神さまから出たものなので、それがもっとも大切なのだと、使徒パウロは言いました。いろいろなものは消え去っていくけれども、信仰と希望と愛はいつまでも残る。そして一番大切なのは愛なのだと、使徒パウロは言いました。

人を裁いたり、人を支配しようとしたりする弱さが、私たちにはあります。世の中には悪いやつらがいて、そういう人たちがいなくなれば、世の中がうまく回っていくのではないかというような気持ちになります。わたしなどはニュース番組を見てると、すぐそういう気持ちになります。ウクライナとロシアの戦争が終わらないのは、「・・・のせいだ」。パレスチナのハマスとイスラエルのとの戦争が終わらないのは、「・・・のせいだ」。独裁国家が続いているのは、「・・・のせいだ」。アメリカで対立が深まっているのは、「・・・のせいだ」。批判をすることも大切なことですが、しかしそれだけではだめなのだと思います。やはり愛が大切なのです。神さまの愛を大切にすることが、この社会を神さまの御心にかなった世界へと変えていくのです。

小説家の高橋源一郎の【ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない】と言う話はとても良い話です。私たちの世界に小さな愛の出来事を作り出していくことが、私たちにできる良きわざであるのです。私たちがおこなった小さなわざが、もしかしたらその人にとって生涯忘れることのできない出来事になるかも知れないのです。

讃美歌21−482番は「わが主イエスいとうるわし」という讃美歌です。イエスさまは病の人々をいやされ、神さまの愛を宣べ伝えました。そんなイエスさまをほめたたえずにはいられないという、とても愛に満ちた讃美歌です。澁谷昭彦さんの愛唱讃美歌です。この世にあっては、いろいろと悲しい出来事も起こりますし、怒り心頭に達するような出来事も起こります。それでも私たちはイエスさまの愛に満ちた世界に生きています。イエスさまの愛をしっかりと受けとめて、そしてイエスさまをほめたたえつつ、小さな良き業に励む歩みでありたいと思います。



  

(2025年9月7日平安教会朝礼拝式) 

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》