2025年9月20日土曜日

9月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「小さな者と共なる神さま」

「小さな者と共なる神さま」

聖書箇所 マタイ18:10-20。57/474。

日時場所 2025年9月21日平安教会朝礼拝


新潟県の三条市にあります三条教会で牧師をしていたとき、住まいであった三条教会の近くに、三之町病院という病院がありました。わたしもよくその病院に行っていたのですが、病院の近くだったので、救急車のサイレンの音が毎日よくなっていました。ピーポー、ピーポー、ピーポー。ピーポー、ピーポー、ピーポー。教会の前の道を通って、三之町病院に救急車がやってくるわけです。初めはちょっと気になりました。救急車が通るごとにはっとするわけですが、しかし日に何度も救急車が通るわけですから、そのうちに慣れてしまいました。「あ、またピーポー、ピーポー、ピーポーいってる」というような感じです。

ある朝、教会員の方から「夫が交通事故で救急車で三之町病院に運ばれたので、すぐ来てください」と電話がありました。びっくりして飛んで行ったのですが、そのとき容体は必ずしもいいというわけでもありませんでした。まあ、その後、回復されて、ほぼ何の心配もないようになられました。でもそのときは「ああ、救急車が走っているわ」と当たり前のような気持ちになっている、その救急車の中に教会員のおつれあいが乗っていたわけですから、なんとも自分は薄情な人間なんだなあと思わされました。その後、救急車を見ると、だれがどんな状態で乗っているかはわからないわけですが、わたしは「がんばれよ。がんばれよ」と思うようにしています。

人間は絶えず緊張しているわけにもいきませんから、救急車が走っていても、「あ、また救急車か」くらいに思えます。でもその救急車のなかに、生死の境をさまよっている人がのっているかも知れません。救急車は走っているのを見るもので、自分が乗ることを私たちはふつう考えているわけではありません。しかし私たちが救急車に乗らないという保証があるわけではありません。それでもやはり私たちは、「あ、また救急車か」くらいに思えます。イエスさまはそんな私たちに、「大変な目にあっている人のことに思いをはせるということは大切なことだよ、小さな者たちのことを忘れてはいけないよ」と言っておられます。

今日の聖書の箇所は「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書18章10-14節にはこうあります。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」】。

イエスさまはこの世にあって小さな者が大切にされるということが、神さまの御心だと言われました。【「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである】というように、ほとんど脅しともとれるような言葉で、小さな者を大切にすることが、神さまの御心だと言われています。

「迷い出た羊のたとえ」はとても有名なたとえです。ある人というのは、神さまのことです。神さまはこういう方だというたとえです。どういうたとえなのかといいますと、羊を百匹もっている人がいた。その百匹の羊のうちの一匹が迷い出てしまった。するとその人は九十九匹を山に残して、迷い出た羊を探しに行った。そしてその一匹を見つけたら、迷わずにいた九九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう。神さまはそのように、小さな者が一人でも滅びることは望んでおられないというのです。神さまはそれほど小さな者一人にかかわってくださる方だということです。

ちょっといじわるなのは、イエスさまが「あなたがたはどう思うか」と弟子たちに問われているということです。神さまはそういう方だけど、あなたたちはどう思うと、イエスさまは弟子たちに問われたわけです。

「九九匹か一匹か」というふうに言われると、まあ状況によって変わってくるでしょう。自分たちが九九匹の中にいて、安全であるのであれば、ぜひ一匹を探しにいってほしいとふつうに思います。でも安全でないのであれば、ちょっと考えちゃうよねと思います。もちろん自分が迷い出た羊であれば、どんなことをしてでも助けに来てほしいと思います。

私たちの世の中はどうでしょうか。迷い出た一匹の羊よりも九九匹の羊を守ることを優先するような社会であるような気もします。一時期、日本では「自己責任」というようなことがよく言われました。しかしそういうことだけでも、私たちの社会はないわけです。

緊急車両のシステムなどもそうです。私たちは車を運転していて、救急車が後ろから走って来たら、やはり車を留めて救急車に先に行ってもらいます。緊急車両は優先されるわけです。もちろんいつか自分がお世話になるかも知れないということがあります。やっぱり自分が道で倒れて救急車が必要な場合は、救急車が早く来てほしいわけです。消防車も早くきてほしいし、警察も早くきてほしいわけです。しかしそれだけではなく、やっぱり非常に困ったことや命に関わるようなことについては、自分たちのことはさておいて、優先してあげなくてはならないという、人としてのやさしさということがあるわけです。そうした社会システムというのが、まあ温かく生きやすい社会システムということでしょう。

イエスさまは弟子たちに、「世の中っていうのはなかなかむつかしいところだけれど、でも神さまのまなざしは小さな一人に向いているよ」と言われました。「だから私たちのまなざしもどこに向けるのかを考えなくちゃいけないよ」と言われました。

マタイによる福音書18章15-17節にはこうあります。【「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。】。

この「兄弟の忠告」という聖書の箇所は、たぶんイエスさまが言われたことだけではない聖書の箇所でしょう。イエスさまが活動しておられたときに、「教会」はないわけですから、「教会に申し出なさい」ということを、イエスさまが言ったとはあまり考えられません。マタイによる福音書18章15節は、イエスさまの言葉だろうと言われています。【「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる】。まあ、あんまりことが大きくなるようなことにしないで、自分に対して何か不快なことがあったとしても、相手にそのことを忠告して、赦してあげなさいということです。

この「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」というのはいいなあと思います。「自分に何かされた」と言って相手を一方的に非難をしたり、相手に仕返しをしたりすると、「敵を作る」ことになるわけです。そんな敵を作って回るような生き方をするよりも、「兄弟を得たことにある」というような生き方をしたいものだと思います。なんかそのほうがとても楽しそうです。

マタイによる福音書の著者は、教会の運営ということを考え、教会の権威ということを強調しています。忠告してもなかなか聞いてもらえないときがあるから、そんなときは次はだれかと一緒に行きなさい。それでもだめなら教会に申し出なさいというわけです。しかし権威というのは、大きな責任も自覚しなければなりません。マタイによる福音書18章18節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる】。裁くということは、これくらい重いことなのだということです。

マタイによる福音書18章19-20節にはこうあります。【また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」】。

ユダヤ教では集まって共同の祈りを献げるときに、成人男子10人が必要とされたそうです。大人の男の人が10人いないと、共同の祈りを献げることができないわけです。しかしキリスト教はそうした制限を取ってしまいました。二人で心を一つにして願うなら、神さまはあなたたちの願い事をかなえてくださる。二人または三人、イエスさまの名によって集まるなら、そこにイエスさまも共にいてくださる。そのように言われています。

この「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所は、全体として、「一人とか、二人、三人」というのは、神さまの前に大切にされているんだよ。ということが言われているわけです。「一人とか、二人、三人」というのは、小さな数だからそんなのどうでもいいんだということではなく、神さまの前では一人ひとりが大切な人として愛されているんだということです。

私たちは「一匹か九九匹か」というような場合、自分がいつのまにか九九匹の側にいるように思ってしまい、「一匹は身勝手なのではないか」というような思いを持つことがあります。あるいは自分がいつも裁く側の人間になってしまい、「教会に申し出なさい」と自分が神さまの代わりに裁いているというふうに勘違いしてしまうようなときがあります。

初期のクリスチャンは小さな集まりでした。祈りを献げるときも、成人男子10人集まらないということもあったのでしょう。ユダヤ教の枠内であれば、それは共同の祈りとならず、正式な集まりとならないわけです。それでは一人、二人の神さまに向かう思いというのは無駄なのか。初期のクリスチャンたちはそのようには思いませんでした。初期のクリスチャンは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という思いを持っていたのです。

「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて生きるというのがクリスチャンの歩みであったのです。教会の頭と言われ、【わたしはあなたに天の国の鍵を授ける】(マタイによる福音書16章19節)と言われた使徒ペトロも、イエスさまを裏切った人でした。使徒ペトロだけでなく、ほかの弟子たちもイエスさまを裏切り、イエスさまが十字架につけられるときに、イエスさまを捨てて逃げていった人たちでした。しかし神さまのまなざしはイエスさまを裏切った弱いペトロや、イエスさまを捨てて逃げ去った弟子たちに向けられていたのです。「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて、イエスさまの弟子たちは歩み始めたのです。

私たちもまた「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いを、こころのなかにしっかりと持ちたいと思います。神さまのまなざしは、この小さなわたしに向いているのです。私たちはおそれることはありません。

イエスさまは小さな私たちを招いておられます。イエスさまはこう言われました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう】(マタイによる福音書11章28節)。私たちは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いをもって、イエスさまの招きに応えて歩みましょう。


(2025年9月21日平安教会朝礼拝)

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