「おまゆう。そういうとこやぞ」
聖書箇所 マタイ18:21-35。120/445。
日時場所 2025年9月28日平安教会朝礼拝式
「おまゆう。そういうとこやぞ」というのは、ネットの世界でときどき見る言葉です。日常生活で使っているというのは、わたしも聞いたことがありません。ですから「どこの言葉だ」というふうに思われるのは、そうだろうと思います。「おまゆう」というのは、「お前が言うか」という言葉です。ですから「おまえが言うな」という意味です。自分もいいかげんなことをしているのに、人を批判したりする人に対して、「おまえが言うな」「おまゆう」というふうに使われます。「そういうとこやぞ」というのは、「おまえのそういうところがだめなんだ」というような意味で使われます。
以前に不倫をしていたことが明らかになった政治家がいて、まあ役職をやめる出もなく、自分の処遇についていいかげんな対応をしていたりします。そしてほとぼりが冷めると、またおもてに出てきます。しばらくすると他の党の人が不倫をして、いい加減な対応をします。すると前にいい加減な対応をしていた政治家が、その対応を批判したりするわけです。そうした政治家に対して、「おまゆう。そういうとこやぞ」というように使われるわけです。「お前が言うな。そういういい加減なところが政治家として支持されない理由なんだ」というわけです。
まあ自分のことは棚にあげてというようなことを、政治家の人たちだけでなく、私たちもしてしまいます。政治家の人たちにとって気の毒なのは、昔はその人が言ったことを探してくるのは、なかなかむつかしいわけです。新聞で調べたり、本に出ているのを探したりするのはなかなか手間がかかります。でもいまはすこしネットで検索をすると、以前の発言などが簡単に出てきたりするので、「不倫をする人は信用できない」という以前していた発言が見つかったりします。いい加減な人間性が明らかになり、「おまゆう。そういうとこやぞ」というような感じになります。
細かいことを見つけ出して、なにからなにまで批判するというのも、まあどうかとも思いますが、あんまりいい加減なことをしていても、それもまた困るわけです。やっぱり良識をもって生きていくということを心がけたいと思います。
今日の聖書の箇所は「仲間を赦さない家来のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書18章21−22節にはこうあります。【そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい】。
イエスさまのところにペトロがやってきて、「わたしに対して悪いことをした人を何回赦すべきでしょうか」と尋ねます。マタイによる福音書では「兄弟」というのは、同じ信仰をもっている人たちということです。まったくの他人ということではありません。でもたぶんイエスさまはそうしたことにあまりこだわることなく、「だれでも赦してあげなさい」というふうに言われるだろうと思います。ペトロは「何回赦すべきでしょうか」と言っていますから、まあ「あいつのことは赦せない」というような思いがあったのだと思います。ユダヤ教では一般的に、「3度までなら赦してあげなさい」というような感じであったと言われています。私たちの世界は世知辛い世の中になっていますから、「二度目はないぞ」などと脅されることがありますが、まあ昔の人はできが良いので、「3度までなら赦してあげなさい」ということです。でもペトロはそれを「七回まで赦したらいいですか」というわけですから、まあずいぶん赦しているわけです。まあ7という数はユダヤ教では特別な数ですから、「7回赦す」というのは、「わたしができるぎりぎりまで赦します」というような勢いでペトロは言っているわけです。「これ以上赦しようがない」というような思いです。しかしそれに対して、イエスさまは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。「七の七十倍は、490回ですね」というようなことではなくて、「回数を数えたりするのではなく、とことん赦してあげなさい」というようなことです。「477回赦してやったから、あと13回だな」というようなことではなく、「数など数えるのではなく、赦して赦して赦してあげるのだ」ということです。
マタイによる福音書18章23ー27節にはこうあります。【そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。】。
イエスさまはペトロにたとえを話されます。天の国のたとえです。ある王さまが家来に貸したお金の決済をし始めます。1万タラントンを借金している家来が王さまの前に連れてこられます。聖書の後ろのところに、「度量衡および通貨」というところがあります。そこで調べると1タラントンというは、6000ドラクメに相当ということです。1ドラクメというのは1デナリオンということのようです。1デナリオンというのは1日の賃金ということです。1デナリオンを1万円とすると、1タラントンというのは6000万円です。1万タラントンというは6000,0000,0000円(6千億円)です。イエスさまの当時、ヘロデ大王の年収が、900タラントンであったということですから、1万タラントンというのはヘロデ大王の年収の11年分ということです。ですからまあ国家規模の借金という感じです。まあ個人ではどうしようもないような借金です。
王は家来に「自分も妻も子どもも奴隷となって、持ち物を全部売って、借金を返せ」というわけですが、まあ返しようがないわけです。まあ返しようがない借金であるわけですが、家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言います。まあいいかげんなことを言っているわけですが、でもいいかげんなことを言うほかないのです。家来が何度も何度も、「きっと全額お返しします」という様子をみて、王はかわいそうに思って、家来を赦し、その借金を帳消しにします。まあとてもやさしい王さまであるわけです。
マタイによる福音書18章28−35節にはこうあります。【ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」】。
王さまから1万タラントンという国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に100デナリオン借金をしている仲間に出会います。100デナリオンというのは、1デナリオンを1万円としますと、100万円です。まあ私たちにとっては大金と言えば大金ですが、国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来からすると、まあ大した金額ではないわけです。しかし彼は仲間を捕まえて首を絞めて、「借金を返せ」と言います。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」と一生懸命に頼みます。しかし彼はその仲間を引っ張っていき、牢屋にいれてしまいます。それをみて、その仲間たちはこころを痛めます。そして王さまに話しに行きます。
王さまはその話を聞いて怒ります。わたしがおまえの借金をどれだけ帳消しにしてやったと思っているんだ。それに比べて、お前の仲間の借金は、とるにたらないものだろう。どうしてわたしがお前を憐れんでやったように、お前の仲間を憐れんでやらなかったのだ。憐れんでやるべきだろう。王さまはそのように怒って、そして家来を借金を返すまで、牢屋に入れることにしました。
イエスさまがペトロに対して語られた天の国のたとえですから、【あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」】と、最後に記されてあるわけです。天の国のたとえですから、この王さまは神さまです。そして神さまから大いなる赦しを得ているのに、人を赦そうとしないのは、どうしたことかと、私たちに対して問われている話であるわけです。神さまは御子イエス・キリストを私たちのところに送り、そして私たちの罪を赦してくださいました。私たちは神さまの前に罪赦された者として生きているわけです。それはとても幸いなことであるわけですが、そのわりにはそのことを忘れてしまって、人を赦そうとしない私たちがいるわけです。小さなことにも腹を立てて、人を裁いたり、人に対して仕返しをしたりします。神さまによって赦されて生かされているのだから、互いに赦しあい、助け合って生きていくことを忘れないようにしなさいと、イエスさまは言われます。
わたしは王から借金を帳消しにしてもらった家来が、外に出て、自分に借金をしている人と出会うところが、とても人間らしいなあと思います。【ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。】。「首を絞めたらだめだろう」と思うわけですが、でも人間はそういう愚かなところがあって、好き勝手なことをするわけです。わたしはこの聖書の箇所を読みながら、思わず笑ってしまいます。「ああ、なんて私たちは愚かなんだろう」と思います。神さまのことを忘れてしまって、自分勝手な人間の姿をさらしてしまうのです。「ああ、この人、わたしだ」と思えます。
しかしイエスさまが言われるように、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」ということを、私たちは忘れてはならないのだと思います。
私たちクリスチャンは、神さまが見ておられるという視野をもって生きています。それは「神さまが見ておられるから、悪いことをしてはいけないぞ」というようなことだけではありません。マタイによる福音書では「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と何度も記しています。マタイによる福音書6章4節です。あるいはマタイによる福音書6章18節です。神さまが私たちを見つめてくださり、私たちを守ってくださっている。人に知られることのない私たちの小さな良き行ないも、神さまは知っていてくださり、私たちを祝福してくださいます。
赦しあい、支え合い、神さまの愛のうちを歩んでいく。人間ですから、「赦せない」という思いにかられたり、捕まえて首を絞め「借金返せ」というようなふさわしくないことをしてしまうこともあるかも知れません。それでも、神さまの愛のうちに自分が生きていることを思い起こして、悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。
(2025年9月28日平安教会朝礼拝式)
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