2025年10月25日土曜日

10月26日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「家に帰って家族を愛してあげてください」

「家に帰って家族を愛してあげてください」 

聖書箇所 マルコ10:2-12。211/475。

日時場所 2025年10月26日平安教会朝礼拝式

 

鈴木結生(すずき・ゆうい)さんは、2025年1月15日に「ゲーテはすべてを言った」で、第172回芥川賞を受賞しました。鈴木結生さんはクリスチャンでお父さんは牧師です。鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」は、引用ということについて、いろいろと考えさせられる小説です。「ゲーテはすべてを言った」というのは主人公の日本人が若いときにドイツ人の友人に教えてもらった冗談です。【「ドイツ人はね」とヨハンは言った。「名言を引用するとき、それが誰の言った言葉か分からなかったり、実は自分が思い付いたと分かっている時でも、とりあえず『ゲーテ曰く』と付け加えておくんだ。何故なら、『ゲーテはすべてを言った』から】。「何でもいいから試してみろ」と言われて、主人公は限られたドイツ語の語彙の中から、気の利いたこともいえず、「ゲーテ曰く、『ベンツよりホンダ』」と答えます。「ゲーテ曰く」と言えば、まあどんな言葉もまともな名言に聞こえるわけです。

マザー・テレサの名言と言われている言葉に「愛の反対は無関心である」という言葉があります。とても考えさせられる言葉であるわけですが、この言葉はマザー・テレサの言葉ではなく、アウシュヴィッツ強制収容所を体験者である小説家のエリ・ヴィーゼルの言葉だそうです。鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」に、そう書かれてありました。エリ・ヴィーゼルはノーベル平和賞を受賞しています。『愛の対義語は憎しみではなく無関心だ。人々の無関心は常に攻撃者の利益になることを忘れてはいけない』。でもマザー・テレサが「愛の反対は無関心である」と言ってもおかしくはないような気もします。

「家に帰って家族を愛してあげてください」という言葉は、マザー・テレサの言葉です。ノーベル平和賞をマザー・テレサが受賞をしたときにのインタビューのなかで、「世界平和のために私たちができることは何でしょうか」と問われたときに、マザー・テレサは「家に帰って家族を愛してあげてください」と言ったそうです。「家に帰って家族を愛してあげてください」。わたしも言えるような言葉でありますが、でもマザー・テレサが言っているから、なんかとても価値のある名言のように聞こえます。

家族を顧みないで働くということは、昔はまあ美徳のようなところがありました。世界平和のために家族を顧みないで働いたというりっぱな社会活動家もいました。「私たちの時代は家族を顧みないで必死で働いた」というのは、良いこととして話されたわけですが、いまはそういうことは一般的に、させてはいけないことになっています。キリスト教界でも、教区の活動などで一生懸命な方もおられ、あまりに一生懸命になりすぎているなあと思ったとき、わたしも「家に帰って家族を愛してあげてください」と声をかけたくなりました。

申命記24章5節にはこんな言葉が書かれてあります。旧約聖書の318頁です。【人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない】 。結婚した一年間は兵役が免除されるということです。一年間は自分の家のことをして、「彼は、めとった妻を喜ばせねばならない」のです。もうずっと昔に、「家に帰って家族を愛してあげてください」ということが制度化されているわけですね。

今日の聖書の箇所は「離縁について教える」という表題のついた聖書の箇所です。日本の現代の法律では「離縁」とは養子縁組の解消という用語ですが、今日の聖書の箇所では「離縁」というのは「離婚」ということであるわけです。

マルコによる福音書10章2ー4節にはこうあります。【ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。】

ファリサイ派の人々がイエスさまのところにやってきて、夫が妻を離縁することについて尋ねます。イエスさまは「預言者モーセがどのように言っているか」と、ファリサイ派の人々に問われます。そしてファリサイ派の人々は、申命記24章1節以下の言葉などから考えて、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。

申命記24章1ー4節にはこうあります。旧約聖書の318頁です。【人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない】。

ファリサイ派の人々はこの聖書の箇所をもとにして、離縁状を書いたら離縁することができるとモーセが言っているのだと言うわけです。法律は解釈というものがつきものですから、イエスさまの時代も離縁についていくつかの法律解釈が行われていました。「妻に何か恥ずべきことを見いだし」とありましたから、これはどういうことを意味するのかというようなことが話し合われるわけです。ある人は贅沢三昧をする妻の場合は離縁できるというようなことを言いますし、「いやいや、特に理由などなくても良いのだ」というふうに考える人もいました。

イエスさまの時代は夫より妻のほうが立場が弱いという時代でした。ですから夫のほうは簡単に離縁ができたら良いというふうに考える人が多く、「離縁状を書いたら、どんな理由であれ、離縁できる」と考えたい人がいたわけです。

それに対して、イエスさまは離縁をしたらいけないのだと言われます。マルコによる福音書10章5−9節にはこうあります。【イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」】。

イエスさまは旧約聖書の創世記の天地創造の物語から、人の婚姻は神さまの意志であるのだから、離縁をしてはいけないと言われます。【男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる】(創世記2章24節)なのだから、【神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない】のです。

マルコによる福音書10章10−12節にはこうあります。【家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」】。

イエスさまがファリサイ派に対して説明した離縁についてのことを、イエスさまの弟子たちはイエスさまにもう一度尋ねます。弟子たちはなんとなく納得がいかなかったわけです。「え、離縁状があったら離縁できるじゃないの?」と、まあ多くの弟子たちは思っていたのだろうと思います。

離縁について尋ねる弟子たちに対して、イエスさまは「離縁はしてはだめなのだ」と言われます。そして離縁をして再婚をすることもだめだ、それは姦淫の罪を犯すことになる。夫が妻を離縁するのもだめだし、妻が夫を離縁するのもだめなのだと言われました。

マタイによる福音書にも同じような内容の「離縁について教える」という表題のついた聖書の箇所があります。マタイによる福音書19章1−12節です。新約聖書の36頁です。ここでイエスさまは「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」と言われました。そしてそれに対して、弟子たちは「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と答えています。勝手に離縁することができるから結婚するけど、そうじゃないのであれば、結婚なんて窮屈だから結婚なんかしないということです。

イエスさまは一度結婚したら、絶対に離縁してはならないと言っておられるわけですが、現代では社会状況も結婚の事情も変わっていますから、そのままイエスさまの言われることが絶対正しいのだというふうに言うこともできません。結婚してみたけれど、相手はどうしようもない暴力的な人で、命の危険を感じるというようなこともあります。保険金目当ての結婚詐欺だったというようなこともあります。

イエスさまが言わんとしておられたことは、立場の弱い女性に対して、心ないことをすることは、神さまの前に許されないことだということです。あなたは自分勝手なことばかりを考えるのではなく、周りにいる人たちのことを考えて生きていきなさいということであるわけです。

人は夢をもって生きていきたいと思いますから、ときどき大きなことを言いたくなります。「この国のために」とか「世界平和のために」とか言いたくなるわけです。マザー・テレサもそうした質問を受けています。「世界平和のために私たちができることは何でしょうか」。そしてそれに対して、マザー・テレサは「家に帰って家族を愛してあげてください」と答えました。マザー・テレサは「まず、自分の周りのことから始めなさい」というふうに言ったわけです。気をひくような言葉を語って、さも自分が何かを考えていたり、行なっていたりするように見せるのではなく、実際の小さな愛の業を大切にしなさい。「家に帰って家族を愛してあげてください」と、マザー・テレサは言いました。

イエスさまが「離縁をしてはいけない」と言うことによって、立場の弱い人たちを守るということに心にとめて歩んでいきなさいと言われました。神さまの愛にみちた私たちの世界にしようじゃないか。神さまは私たちを愛してくださり、一人一人大切にしてくださっているのだから、私たちもまた互いに相手のことを大切にして、互いに尊敬しあって歩んでいこう。

イエスさまの招きに従って、愛に満ちた世界を、私たち自身の周りから作り出していきたいと思います。



  

(2025年10月26日平安教会朝礼拝式)


10月19日平安教会礼拝説教要旨(野本千春牧師)「神の負ける場所」

「神の負ける場所」    野本千春牧師

創世記22,1~13節 


今から35年前、平安教会には何人かの精神に障害を持った人たちが土日に立ち寄ったり、教会員となって礼拝に出ていた。その中の30代の男性、Tさんはまだ若いときに統合失調症を発症したひとだった。高校卒業の前後よりずっと左京区内の精神科病院に入院し、週末に外泊と言って右京区の実家に帰っていた。Tさんは土曜日、外泊のときに教会に立ち寄って、日曜日の礼拝の準備をしている神学生であった私と会話をした。Tさんがあるときから「閉鎖病棟は神の負け」と何回も繰り返すようになった。Tさんは病院で「暮らして」20年近くがたっていた。その後、私は仕事でその病院の閉鎖病棟の中をのぞく機会を得たが、その病棟は落ち着いたクリーンな印象で、「神が負ける」地獄のような場所とは決して思えなかった。ではTさんが語った、「神の負け」とはどういう意味であったのか、そのことを彼のイエス・キリストへの信仰の証言として理解するまで私は長い年月を必要とした。Tさんは人生の半分を閉鎖病棟で送っていた。当時は統合失調症と言う名ではなく、精神分裂病と呼ばれていた時代。精神科の治療も現在以上に手探りの療法しかなく、現在の様に副作用の比較的軽い薬が開発されてはおらず、飲めば大きな負担が心身にかかった。病気が少し良くなってくると、今度は自分の置かれた状況を認識せざるを得ず、人生に絶望し自ら命を絶つ若者が多かった。病気になってしまえば神も仏もなかった。そのような状況で閉鎖病棟で人生を送っていたTさんにとって、そこが当時としてはいかに近代的な医療環境を維持できていたとしても、「神はそこでなになさっておられるのか」と心から嘆かざるを得ない場所であったと思う。しかしそのような場にもかかわらず、いやそのような場であるからこそ、イエス・キリストは彼と共に十字架につき、共に居られたのではないか。その体験をTさんは「閉鎖病棟は神の負け」という重い言葉で身をもって信仰告白をされたのではないか。イエス・キリストという私たちの神は、「閉鎖病棟は神が負ける場所」と言い切り、絶望を口にするTさんと共に十字架を担って居られた神なのではないのか。イエス・キリストは十字架の苦しみを苦しむものと共に苦しみ切り、復活の望みを望むものと共に望み切る神である。Tさんの言った「閉鎖病棟は神の負け」、すなわち「神の負ける場所」に在って、実にイエス・キリストは「インマヌエル」なる神、すなわち、「ともに居ます」神、であったのだ。今朝の聖書の箇所は、信仰の祖、と言われるようになったアブラハム、徹底して神とともに歩んだ人と、待ち望んで授かった最愛の息子イサクの物語である。アブラハムは神が命じるままに、最も大切なひとりご、イサクをほふり、神にささげようとした。その時のアブラハムの胸の内は描かれていないが、これ以上の苦しみはないというほどの苦しみを味わい、これ以上の痛みはないという痛みを味わったのではないか。新約聖書の、ヨハネによる福音書3、16は「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」、すなわち、神が最愛の独り子を人間の赦しと救い為にこの世にささげた、と証しするのである。そこに神御自身の痛切な苦しみと痛切な痛みがある。そして十字架の神、イエス・キリストは十字架というもっとも痛みと苦しみの、もっとも弱い姿を取られて、私たちに神の愛を顕してくださった。神は私たちの罪の赦しと和解と救いのために十字架の上で敗北してくださったのである。であるから、たとえ私たちが死の影の谷を歩んでいても、そこにはかならず私たちの神、イエス・キリストが共に歩んでくださっているのである。



10月12日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「あなたはわたしの友だちだ」

「あなたはわたしの友だちだ」

日時場所 2025年10月12日平安教会朝礼拝・きてみて合同礼拝

聖書箇所 ヨハネ15:14-17。544/419。


今日の礼拝は神学校日の礼拝です。週報にも書かれてあります。「神学校日礼拝 ・10月の第二週は、神学校日礼拝です。神学校・神学部の働きを覚えてお祈りいたします。神学校・神学部で学ぶ神学生、事務職の方々、教師の方々の上に、神さまの恵みが豊かにありますように。・私たちの教会には、村上みか牧師(同志社大学神学部教授)が教会員として奏楽のご奉仕をしてくださっています。韮塚俊太兄が派遣神学生としてお働きくださっています」。韮塚俊太さんは同志社大学院神学研究科の試験にも合格されて、2026年の4月からは大学院生として学びのときを過されます。おめでとうございます。礼拝後に、赤松信哉さんが同信伝道会からのお願いとして、神学校日を覚えての献金のお願いをしてくださいます。

また今日は「きてみてれいはい」です。きてみてれいはいを、9月から子どもの教会との合同礼拝としてもつことにいたしました。ですので式次第もすこしひらがなを多くしたり、子どもの教会の式次第に近い形でもっています。少しでもこどもと一緒にご家族で礼拝をまもりやすいようにしようと思いながら行なっています。きてみれれいはいは、なるべるわかりやすい言葉や内容で説教をしようというふうに、こころがけています。きてみてれいはいのとき以外の礼拝も、なるべくわかりやすい話をしようと思って説教をしています。

わたしは同志社女子中高や同志社女子大学、同志社チャペルアワーなどで説教をすることがあります。同志社女子中高は、年間をとおしてお話にいったりしましたので、よく通いました。今週は同志社女子大学の田辺校地で説教をいたします。学校の朝の礼拝ということが多いので、わたしが話すことができる時間は、7分か8分くらいです。10分くらいになると長いですし、あんまり気を使い過ぎて5分くらいになると、ちょっと短過ぎるので、調整がむつかしいです。なるべくわかりやすい話で、「ああ、聞いてよかったなあ」と思えるような話をしてこようと思っています。

「はじめまして。日本基督教団平安教会の牧師をしています、小笠原純と言います。一学期、同志社女子中学校、高等学校の礼拝でお話をすることになっています。わたしが牧師をしています、平安教会は京都市の北の方の、岩倉という地域にあります。地下鉄烏丸線のの国際会館という駅の近くです。みなさんの関連校であります同志社小学校、中学校、高等学校があるところです。平安教会は新島襄の関連の教会です。京都に初めに教会が三つ出来ました。二番目の教会がいまの同志社教会になり、一番目と二番目の教会がが一つになって平安教会になったと言われています。平安教会にも同志社女子中高を卒業されたという方々がたくさんおられます。そしてときどき同志社女子中高で過ごした楽しかった中学校、高校生活について話してくださいます」。「同志社女子中学校にこの春に入学した方は、ちょっと大変な思いをしておられるだろうと思います。でも若いみなさんにはすてきな出会いが備えられていると信じています。良い友だちが備えられて、とてもすてきな学校生活が送られますようにとお祈りしています」。というような感じです。

今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまは弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われました。そしてイエスさまにつながって歩むことの幸いを、弟子たちに話されました。

そして今日の聖書の箇所となります。ヨハネによる福音書15章11ー17節にはこうあります。【これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」】。

今日の礼拝で読みました聖書の箇所は、イエスさまが自分の弟子たちのことを、「友と呼ぶ」と言われたという話です。イエスさまのお弟子さんはイエスさまのことを、「先生」というような感じで考えていました。イエスさまはいろいろなことを知っておられて、お弟子さんたちはイエスさまから神さまのこととかを教えてもらっていたからです。でもイエスさまは自分のお弟子さんたちのことを、「あなたたちはわたしの大切な友だちだ」と言われました。そしてみんなわたしの友だちなんだから、喧嘩したりするのではなく、「互いに愛し合いなさい」と言われました。

わたしの好きな絵本に「くまのコールテンくん」というのがあります。読まれたことがあるでしょうか。くまのコールテンくんは、デパートのおもちゃ売り場で売られていたくまのぬいぐるみでした。でも来ていたオーバーオールのズボンのぼたんがひとつとれていて、新品でないように見えるので、なかなか買ってもらえませんでした。ある日、リサという名前の女の子がくまのコールテンくんのことが気に入って買おうとするのですが、おかあさんから「ボタンの取れかかっているような人形やめなさい」と言われて、買うことができませんでした。くまのコールテンくんは、ボタンが取れていることに気づいて、夜中、デパート中、ボタンを探しに行きます。デパートのエスカレーターに乗って、「これ、やまかなあ」と思ってみたり、家具売り場にいって、「これ、王様の御殿だ」と思ってみたり。ベッドのマットレスについているボタンを、「ぼくのボタン、こんなところにあった!」と取ろうとしたり。そうやってしばらくおバカなことをしているのですが、結局、ガードマンさんに連れられて、またもとの売り場に帰ってきます。そしてあくる日に、リサが自分の貯金箱に入っていたお金をもって、くまのコールテンくんを買って、家に連れて帰ります。

【コールテンくんは めを パチクリしました。そこには、いすと、たんすと、おんなのこようのベッドが、ひとつ ありました。そして、その ベッドの わきに コールテンくんに ぴったりの おおきさの、もうひとつのベッドがありました。へやは ちいさくて、デパートに あった あの ひろい ごてんとは おおちがいです。「これが きっと うちって いうもんだなあ。」と、コールテンくんは おもいました。「ぼく、ずっとまえから うちで、くらしたいなあって、おもってたんだ」。

リサは、いすに すわって、こーるてんくんを ひざにのせると、とれた ボタンを つけてくれました。「あたし、あなたのこと このままでも すきだけど、でも、ひもが ずりおちてくるのは、きもちわるいでしょ」と、リサは いいました。「ともだちって、きっと きみのような ひとのことだね」と、コールテンくんは いいました。「ぼく、ずっとまえから、ともだちが ほしいなあって、おもってたんだ。」

「あたしもよ!」リサは そういって、コールテンくんを ぎゅっと だきしめました」。】

とってもいい話ですよね。くまコールテンくんには、リサという友だちができました。くまのコールテンくんはちょっとおバカなところがあるけれども、でもリサはコールテンくんのことをそのままで大好きと言ってくれます。ちょっと汚れていても、ズボンのぼたんが取れていても、でもくまのコールテンくんの大好き。

イエスさまはこんな感じで、お弟子さんたちのことを、「あなたたちはわたしの友だちだ」と言われたんだろうなあと思います。イエスさまのお弟子さんたちはいろいろな失敗もしますし、まただめなところもありますが、でもイエスさまはお弟子さんたちのことが大好きでした。お弟子さんたちは何かできるから、イエスさまに愛されたのではありませんでした。そのままのお弟子さんをイエスさまは愛されました。そして、お弟子さんのことを愛されたように、イエスさまは私たちのことも愛してくださっています。

暑かった夏も去り、だんだんと秋らしくなってきました。良い季節になります。私たちの教会では、教会の建物改修が始まりました。とても楽しみですね。この秋、そしてクリスマスへ、いろいろな行事や礼拝が守られます。良き出会いがあり、みなさんにもコールテンくんとリサのようないい友だちができたらいいですね。神さまはみなさんに、良きものを備えてくださいます。神さまの平安のうちを歩んでいきましょう。



(2025年10月12日平安教会朝礼拝・きてみて合同礼拝)

2025年10月3日金曜日

10月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「天国に入りたい人、手をあげて」

「天国に入りたい人、手をあげて」

聖書箇所 マタイ19:13-30。197/509。

日時場所 2025年10月5日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日礼拝

 

今日は世界聖餐日礼拝です。世界のクリスチャンと共に、聖餐に預かる日です。私たちの世界は神さまの前に、いろいろな問題を抱えています。戦争がありますし、テロ事件もあります。内戦が行われていたり、人権侵害が行われていたりします。私たちは共に聖餐に預かりながら、神さまの義と平和がきますようにと祈ります。

京都教区京都南部地区は、京都の在日大韓基督教会との合同礼拝を、この日に行なっています。週報にも書かれてあります。〈京都韓日教会合同礼拝。10月5日(日)15:00-16:00。京都復興教会。京都南部地区と在日大韓基督教会関西地方会京都教区との合同礼拝〉。ことしわたしは京都南部地区の地区長をしていますので、この礼拝の準備のために、在日大韓基督教会の方々と打ち合わせをしたり、プログラムの準備をしたりしていました。合同礼拝のなかで合同聖歌隊の合唱が行われ、平安教会の聖歌隊の方々も参加をしてくださいます。とてもうれしく思っています。

今日の聖書の箇所は「子供を祝福する」「金持ちの青年」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書19章13−15節にはこうあります。【そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。】。

小さな子どもは大人の思うとおりに動いてくれるとは限りません。突然、大きな声で話し出したりすることもあります。また走り回ったりすることもあります。お利口に座っていてくれるとは限らないですから、大人の側からすれば、困ったことが起きているというようなことが起こることがあります。ですからイエスさまのお弟子さんたちも、イエスさまがお話をしているときなど、なるべくイエスさまから子どもたちを遠ざけておくということにしていたわけです。しかしイエスさまは人気がありましたから、イエスさまに祝福していただこうと、子どもたちを連れてくるお母さんやお父さんがいました。それで弟子たちはそうした人々を叱りました。しかしイエスさまは弟子たちの考えに反して、「子供たちを来させなさい。妨げてはならない」と言われました。そして「天の国は子供たちにふさわしいものなのだ」と言われました。そして子供たちを招いて、子供たちに手を置いて祝福されました。

マタイによる福音書19章16−22節にはこうあります。【さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。】。

お金持ちの青年がイエスさまのところにやってきて、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねます。イエスさまは「「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」とすこしつれない返事をしています。あんまり大歓迎という感じでもないようです。イエスさまは「永遠の命を得たいのであれば、掟を守りなさい」と言われます。青年が「どの掟のことですか」と問うと、イエスさまは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われました。まあいわゆるモーセの十戒のことを言っているわけです。「まあモーセの十戒を守ったらいいよ」と、イエスさまは言われました。するとこの青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言います。とてもまじめな青年であるわけです。モーセの十戒を守り、そしてその上でどうしたら永遠の命を得ることができるでしょうかと真剣に考えているわけです。青年が真剣に永遠の命を求めて、イエスさまに質問をしているので、イエスさまも真剣に答えられます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。イエスさまは青年に「わたしに従いなさい」と言われました。しかし青年はこの言葉を聞いて、悲しみながら去っていきました。青年はたくさんの財産をもっていたので、それを売り払って、イエスさまに従っていくということは、青年にとってとてもむつかしいことだったからでした。

マタイによる福音書19章23ー26節にはこうあります。【イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。】。

お金持ちの青年が去っていったことを見て、イエスさまは弟子たちに、「お金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われました。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われます。らくだが針の穴を通ることはないですから、ほとんど無理なことだと言われたということです。これを聞いて、弟子たちはとても驚きます。どうして驚いているのかと言いますと、当時はお金持ちのほうが天の国に入りやすいというふうにみんなが思っていたからです。お金持ちの人たちは律法を守って生活することもできやすいですし、いろいろな人に施しをすることもできました。しかし貧乏な人たちはそういうわけにもいきません。ですから律法を守ることができやすいお金持ちのほうが、天の国に入りやすいと思われていたのです。

それで弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。それに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。イエスさまはそもそも天の国に入るとか、永遠の命を得るというようなことは、それは人間の側がどうにかしてかなうというようなことではないのだと言われるのです。お金持ちが天の国に入るのも難しいですし、また貧しい人が天の国に入るのもむつかしい。人間が人間の力でもって天の国に入るのは難しいのです。それは人間がどうにかするのではなく、神さまから恵みとして与えられるものであるのです。ですから「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」ということであるのです。

マタイによる福音書19章27−30節にはこうあります。【すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」】。

使徒ペトロはイエスさまがお金持ちの青年に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われたので、「では私たちは永遠の命を得ることができますよね」と確認をしたわけです。【このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」】。ペトロはなかなかあざといのです。ここぞとばかりに、イエスさまにアピールをしているわけです。

ペトロのあざといアピールに対して、イエスさまは「そうだ。あなたが言うとおり、あなたたちはわたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と答えます。「どうだすごいだろう。もうあなたたちの思うままだ。そして弟子であるあなたたちだけでなく、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。

そして最後にペトロに言われます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。あなたたちは自分がわたしに付き従っているから永遠の命を、いの一番に得ることができると思っているだろう。しかし先のことはわからないし、あなたはわたしを裏切って、わたしのことを三度知らないというかも知れないよ。「イエスさまから永遠の命の確証を得た」とあざといことを考えているかも知れないけれども、それはこの先、どうなるかはわからない。人間は弱さを抱えているし、先のことなどわからないのだ。あなたは自分が一番だと思っているけれども、あとから来た人たちがあなたを追い抜いてしまうかも知れない。祝福は神さまから与えられるもので、人間が自分の力だ獲得するものではないのだから。そのように、イエスさまはペトロを諭しました。でも自分のことを過信していたペトロには、イエスさまの言葉がこのとき理解できなかっただろうと思います。

今日の聖書の箇所では、3人の人がイエスさまのところにやってきます。はじめにこどもたち。そして二番目にお金持ちの青年。そして三番目にペトロです。こどもたちは自分たちがどうこうすることなく、イエスさまから祝福を受けます。そしてお金持ちの青年は、自分の力によって律法を守り、永遠の命を受けるべく努力をします。しかしお金持ちの青年は永遠の命の約束を得ることはできません。祝福は人間の努力によって得られるものではないからです。そしてペトロですが、すべてを捨ててイエスさまに従うということで、祝福を受けようとします。しかしこれもまた人間の力によるものですから、イエスさまから「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われてしまいます。

「それでは、だれが救われるのだろうか」という問いかけに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と答えられます。救いは人間によって得られることではなく、神さまからの賜物として与えられるのです。

「わたしはこれこれをしたから、神さま、祝福してくださいますよね。そうですよね。こんなに善いことをたくさんしたんだから、神さま、わたしを祝福してくださいますよね」。もちろん、善いことをたくさんするということはりっぱなことだと思いますし、善いことをあまりできないわたしからすれば、そのようにアピールできるというのは、人間的にみれば、なかなか立派なことだと思えます。

しかし祝福をうけるとか、救われるというのは、そういうことではないのです。それは人間がどうしたからということではなく、ただ恵みとして備えられるものであるわけです。神さまが祝福してくださり、そして私たちはその祝福をただ受けるのです。「人間にできることではないが、神は何でもできる」ということですので、私たちは神さまにお委ねして生きていくのです。

とはいうものの、「天の国に入りたい」という素朴な願いをもつことは、とても大切なことだと思います。イエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたというようなことは、聖書には書かれてはいません。でもたぶんイエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたとしたら、こどもたちは「はい、はい、はーい」と素直に答えるだろうと思います。

私たちもまた「天の国に入りたい」とこころから望むものでありたいと思います。自分が天の国に入るにふさわしいとか、天の国に入るのにふさわしくないということではないのです。ただ「天の国に入りたい」。ただ神さまの祝福を受けて生きていきたいと、こころから願う者でありたいと思います。

神さまは私たちを祝福し、神さまの愛を私たちに注いでくださっています。すなおに神さまを求めつつ、歩んでいきましょう。


 

(2025年10月5日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日礼拝) 

9月28日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「おまゆう。そういうとこやぞ」

「おまゆう。そういうとこやぞ」

聖書箇所 マタイ18:21-35。120/445。

日時場所 2025年9月28日平安教会朝礼拝式

 

「おまゆう。そういうとこやぞ」というのは、ネットの世界でときどき見る言葉です。日常生活で使っているというのは、わたしも聞いたことがありません。ですから「どこの言葉だ」というふうに思われるのは、そうだろうと思います。「おまゆう」というのは、「お前が言うか」という言葉です。ですから「おまえが言うな」という意味です。自分もいいかげんなことをしているのに、人を批判したりする人に対して、「おまえが言うな」「おまゆう」というふうに使われます。「そういうとこやぞ」というのは、「おまえのそういうところがだめなんだ」というような意味で使われます。

以前に不倫をしていたことが明らかになった政治家がいて、まあ役職をやめる出もなく、自分の処遇についていいかげんな対応をしていたりします。そしてほとぼりが冷めると、またおもてに出てきます。しばらくすると他の党の人が不倫をして、いい加減な対応をします。すると前にいい加減な対応をしていた政治家が、その対応を批判したりするわけです。そうした政治家に対して、「おまゆう。そういうとこやぞ」というように使われるわけです。「お前が言うな。そういういい加減なところが政治家として支持されない理由なんだ」というわけです。

まあ自分のことは棚にあげてというようなことを、政治家の人たちだけでなく、私たちもしてしまいます。政治家の人たちにとって気の毒なのは、昔はその人が言ったことを探してくるのは、なかなかむつかしいわけです。新聞で調べたり、本に出ているのを探したりするのはなかなか手間がかかります。でもいまはすこしネットで検索をすると、以前の発言などが簡単に出てきたりするので、「不倫をする人は信用できない」という以前していた発言が見つかったりします。いい加減な人間性が明らかになり、「おまゆう。そういうとこやぞ」というような感じになります。

細かいことを見つけ出して、なにからなにまで批判するというのも、まあどうかとも思いますが、あんまりいい加減なことをしていても、それもまた困るわけです。やっぱり良識をもって生きていくということを心がけたいと思います。

今日の聖書の箇所は「仲間を赦さない家来のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書18章21−22節にはこうあります。【そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい】。

イエスさまのところにペトロがやってきて、「わたしに対して悪いことをした人を何回赦すべきでしょうか」と尋ねます。マタイによる福音書では「兄弟」というのは、同じ信仰をもっている人たちということです。まったくの他人ということではありません。でもたぶんイエスさまはそうしたことにあまりこだわることなく、「だれでも赦してあげなさい」というふうに言われるだろうと思います。ペトロは「何回赦すべきでしょうか」と言っていますから、まあ「あいつのことは赦せない」というような思いがあったのだと思います。ユダヤ教では一般的に、「3度までなら赦してあげなさい」というような感じであったと言われています。私たちの世界は世知辛い世の中になっていますから、「二度目はないぞ」などと脅されることがありますが、まあ昔の人はできが良いので、「3度までなら赦してあげなさい」ということです。でもペトロはそれを「七回まで赦したらいいですか」というわけですから、まあずいぶん赦しているわけです。まあ7という数はユダヤ教では特別な数ですから、「7回赦す」というのは、「わたしができるぎりぎりまで赦します」というような勢いでペトロは言っているわけです。「これ以上赦しようがない」というような思いです。しかしそれに対して、イエスさまは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。「七の七十倍は、490回ですね」というようなことではなくて、「回数を数えたりするのではなく、とことん赦してあげなさい」というようなことです。「477回赦してやったから、あと13回だな」というようなことではなく、「数など数えるのではなく、赦して赦して赦してあげるのだ」ということです。

マタイによる福音書18章23ー27節にはこうあります。【そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。】。

イエスさまはペトロにたとえを話されます。天の国のたとえです。ある王さまが家来に貸したお金の決済をし始めます。1万タラントンを借金している家来が王さまの前に連れてこられます。聖書の後ろのところに、「度量衡および通貨」というところがあります。そこで調べると1タラントンというは、6000ドラクメに相当ということです。1ドラクメというのは1デナリオンということのようです。1デナリオンというのは1日の賃金ということです。1デナリオンを1万円とすると、1タラントンというのは6000万円です。1万タラントンというは6000,0000,0000円(6千億円)です。イエスさまの当時、ヘロデ大王の年収が、900タラントンであったということですから、1万タラントンというのはヘロデ大王の年収の11年分ということです。ですからまあ国家規模の借金という感じです。まあ個人ではどうしようもないような借金です。

王は家来に「自分も妻も子どもも奴隷となって、持ち物を全部売って、借金を返せ」というわけですが、まあ返しようがないわけです。まあ返しようがない借金であるわけですが、家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言います。まあいいかげんなことを言っているわけですが、でもいいかげんなことを言うほかないのです。家来が何度も何度も、「きっと全額お返しします」という様子をみて、王はかわいそうに思って、家来を赦し、その借金を帳消しにします。まあとてもやさしい王さまであるわけです。

マタイによる福音書18章28−35節にはこうあります。【ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」】。

王さまから1万タラントンという国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に100デナリオン借金をしている仲間に出会います。100デナリオンというのは、1デナリオンを1万円としますと、100万円です。まあ私たちにとっては大金と言えば大金ですが、国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来からすると、まあ大した金額ではないわけです。しかし彼は仲間を捕まえて首を絞めて、「借金を返せ」と言います。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」と一生懸命に頼みます。しかし彼はその仲間を引っ張っていき、牢屋にいれてしまいます。それをみて、その仲間たちはこころを痛めます。そして王さまに話しに行きます。

王さまはその話を聞いて怒ります。わたしがおまえの借金をどれだけ帳消しにしてやったと思っているんだ。それに比べて、お前の仲間の借金は、とるにたらないものだろう。どうしてわたしがお前を憐れんでやったように、お前の仲間を憐れんでやらなかったのだ。憐れんでやるべきだろう。王さまはそのように怒って、そして家来を借金を返すまで、牢屋に入れることにしました。

イエスさまがペトロに対して語られた天の国のたとえですから、【あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」】と、最後に記されてあるわけです。天の国のたとえですから、この王さまは神さまです。そして神さまから大いなる赦しを得ているのに、人を赦そうとしないのは、どうしたことかと、私たちに対して問われている話であるわけです。神さまは御子イエス・キリストを私たちのところに送り、そして私たちの罪を赦してくださいました。私たちは神さまの前に罪赦された者として生きているわけです。それはとても幸いなことであるわけですが、そのわりにはそのことを忘れてしまって、人を赦そうとしない私たちがいるわけです。小さなことにも腹を立てて、人を裁いたり、人に対して仕返しをしたりします。神さまによって赦されて生かされているのだから、互いに赦しあい、助け合って生きていくことを忘れないようにしなさいと、イエスさまは言われます。

わたしは王から借金を帳消しにしてもらった家来が、外に出て、自分に借金をしている人と出会うところが、とても人間らしいなあと思います。【ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。】。「首を絞めたらだめだろう」と思うわけですが、でも人間はそういう愚かなところがあって、好き勝手なことをするわけです。わたしはこの聖書の箇所を読みながら、思わず笑ってしまいます。「ああ、なんて私たちは愚かなんだろう」と思います。神さまのことを忘れてしまって、自分勝手な人間の姿をさらしてしまうのです。「ああ、この人、わたしだ」と思えます。

しかしイエスさまが言われるように、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」ということを、私たちは忘れてはならないのだと思います。

私たちクリスチャンは、神さまが見ておられるという視野をもって生きています。それは「神さまが見ておられるから、悪いことをしてはいけないぞ」というようなことだけではありません。マタイによる福音書では「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」と何度も記しています。マタイによる福音書6章4節です。あるいはマタイによる福音書6章18節です。神さまが私たちを見つめてくださり、私たちを守ってくださっている。人に知られることのない私たちの小さな良き行ないも、神さまは知っていてくださり、私たちを祝福してくださいます。

赦しあい、支え合い、神さまの愛のうちを歩んでいく。人間ですから、「赦せない」という思いにかられたり、捕まえて首を絞め「借金返せ」というようなふさわしくないことをしてしまうこともあるかも知れません。それでも、神さまの愛のうちに自分が生きていることを思い起こして、悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。



  

(2025年9月28日平安教会朝礼拝式) 

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》