2025年10月3日金曜日

10月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「天国に入りたい人、手をあげて」

「天国に入りたい人、手をあげて」

聖書箇所 マタイ19:13-30。197/509。

日時場所 2025年10月5日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日礼拝

 

今日は世界聖餐日礼拝です。世界のクリスチャンと共に、聖餐に預かる日です。私たちの世界は神さまの前に、いろいろな問題を抱えています。戦争がありますし、テロ事件もあります。内戦が行われていたり、人権侵害が行われていたりします。私たちは共に聖餐に預かりながら、神さまの義と平和がきますようにと祈ります。

京都教区京都南部地区は、京都の在日大韓基督教会との合同礼拝を、この日に行なっています。週報にも書かれてあります。〈京都韓日教会合同礼拝。10月5日(日)15:00-16:00。京都復興教会。京都南部地区と在日大韓基督教会関西地方会京都教区との合同礼拝〉。ことしわたしは京都南部地区の地区長をしていますので、この礼拝の準備のために、在日大韓基督教会の方々と打ち合わせをしたり、プログラムの準備をしたりしていました。合同礼拝のなかで合同聖歌隊の合唱が行われ、平安教会の聖歌隊の方々も参加をしてくださいます。とてもうれしく思っています。

今日の聖書の箇所は「子供を祝福する」「金持ちの青年」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書19章13−15節にはこうあります。【そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。】。

小さな子どもは大人の思うとおりに動いてくれるとは限りません。突然、大きな声で話し出したりすることもあります。また走り回ったりすることもあります。お利口に座っていてくれるとは限らないですから、大人の側からすれば、困ったことが起きているというようなことが起こることがあります。ですからイエスさまのお弟子さんたちも、イエスさまがお話をしているときなど、なるべくイエスさまから子どもたちを遠ざけておくということにしていたわけです。しかしイエスさまは人気がありましたから、イエスさまに祝福していただこうと、子どもたちを連れてくるお母さんやお父さんがいました。それで弟子たちはそうした人々を叱りました。しかしイエスさまは弟子たちの考えに反して、「子供たちを来させなさい。妨げてはならない」と言われました。そして「天の国は子供たちにふさわしいものなのだ」と言われました。そして子供たちを招いて、子供たちに手を置いて祝福されました。

マタイによる福音書19章16−22節にはこうあります。【さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。】。

お金持ちの青年がイエスさまのところにやってきて、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねます。イエスさまは「「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」とすこしつれない返事をしています。あんまり大歓迎という感じでもないようです。イエスさまは「永遠の命を得たいのであれば、掟を守りなさい」と言われます。青年が「どの掟のことですか」と問うと、イエスさまは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」と言われました。まあいわゆるモーセの十戒のことを言っているわけです。「まあモーセの十戒を守ったらいいよ」と、イエスさまは言われました。するとこの青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言います。とてもまじめな青年であるわけです。モーセの十戒を守り、そしてその上でどうしたら永遠の命を得ることができるでしょうかと真剣に考えているわけです。青年が真剣に永遠の命を求めて、イエスさまに質問をしているので、イエスさまも真剣に答えられます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。イエスさまは青年に「わたしに従いなさい」と言われました。しかし青年はこの言葉を聞いて、悲しみながら去っていきました。青年はたくさんの財産をもっていたので、それを売り払って、イエスさまに従っていくということは、青年にとってとてもむつかしいことだったからでした。

マタイによる福音書19章23ー26節にはこうあります。【イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。】。

お金持ちの青年が去っていったことを見て、イエスさまは弟子たちに、「お金持ちが天の国に入るのは難しい」と言われました。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われます。らくだが針の穴を通ることはないですから、ほとんど無理なことだと言われたということです。これを聞いて、弟子たちはとても驚きます。どうして驚いているのかと言いますと、当時はお金持ちのほうが天の国に入りやすいというふうにみんなが思っていたからです。お金持ちの人たちは律法を守って生活することもできやすいですし、いろいろな人に施しをすることもできました。しかし貧乏な人たちはそういうわけにもいきません。ですから律法を守ることができやすいお金持ちのほうが、天の国に入りやすいと思われていたのです。

それで弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。それに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。イエスさまはそもそも天の国に入るとか、永遠の命を得るというようなことは、それは人間の側がどうにかしてかなうというようなことではないのだと言われるのです。お金持ちが天の国に入るのも難しいですし、また貧しい人が天の国に入るのもむつかしい。人間が人間の力でもって天の国に入るのは難しいのです。それは人間がどうにかするのではなく、神さまから恵みとして与えられるものであるのです。ですから「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」ということであるのです。

マタイによる福音書19章27−30節にはこうあります。【すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」】。

使徒ペトロはイエスさまがお金持ちの青年に「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言われたので、「では私たちは永遠の命を得ることができますよね」と確認をしたわけです。【このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」】。ペトロはなかなかあざといのです。ここぞとばかりに、イエスさまにアピールをしているわけです。

ペトロのあざといアピールに対して、イエスさまは「そうだ。あなたが言うとおり、あなたたちはわたしに従ってきたのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と答えます。「どうだすごいだろう。もうあなたたちの思うままだ。そして弟子であるあなたたちだけでなく、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」。

そして最後にペトロに言われます。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。あなたたちは自分がわたしに付き従っているから永遠の命を、いの一番に得ることができると思っているだろう。しかし先のことはわからないし、あなたはわたしを裏切って、わたしのことを三度知らないというかも知れないよ。「イエスさまから永遠の命の確証を得た」とあざといことを考えているかも知れないけれども、それはこの先、どうなるかはわからない。人間は弱さを抱えているし、先のことなどわからないのだ。あなたは自分が一番だと思っているけれども、あとから来た人たちがあなたを追い抜いてしまうかも知れない。祝福は神さまから与えられるもので、人間が自分の力だ獲得するものではないのだから。そのように、イエスさまはペトロを諭しました。でも自分のことを過信していたペトロには、イエスさまの言葉がこのとき理解できなかっただろうと思います。

今日の聖書の箇所では、3人の人がイエスさまのところにやってきます。はじめにこどもたち。そして二番目にお金持ちの青年。そして三番目にペトロです。こどもたちは自分たちがどうこうすることなく、イエスさまから祝福を受けます。そしてお金持ちの青年は、自分の力によって律法を守り、永遠の命を受けるべく努力をします。しかしお金持ちの青年は永遠の命の約束を得ることはできません。祝福は人間の努力によって得られるものではないからです。そしてペトロですが、すべてを捨ててイエスさまに従うということで、祝福を受けようとします。しかしこれもまた人間の力によるものですから、イエスさまから「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われてしまいます。

「それでは、だれが救われるのだろうか」という問いかけに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と答えられます。救いは人間によって得られることではなく、神さまからの賜物として与えられるのです。

「わたしはこれこれをしたから、神さま、祝福してくださいますよね。そうですよね。こんなに善いことをたくさんしたんだから、神さま、わたしを祝福してくださいますよね」。もちろん、善いことをたくさんするということはりっぱなことだと思いますし、善いことをあまりできないわたしからすれば、そのようにアピールできるというのは、人間的にみれば、なかなか立派なことだと思えます。

しかし祝福をうけるとか、救われるというのは、そういうことではないのです。それは人間がどうしたからということではなく、ただ恵みとして備えられるものであるわけです。神さまが祝福してくださり、そして私たちはその祝福をただ受けるのです。「人間にできることではないが、神は何でもできる」ということですので、私たちは神さまにお委ねして生きていくのです。

とはいうものの、「天の国に入りたい」という素朴な願いをもつことは、とても大切なことだと思います。イエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたというようなことは、聖書には書かれてはいません。でもたぶんイエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたとしたら、こどもたちは「はい、はい、はーい」と素直に答えるだろうと思います。

私たちもまた「天の国に入りたい」とこころから望むものでありたいと思います。自分が天の国に入るにふさわしいとか、天の国に入るのにふさわしくないということではないのです。ただ「天の国に入りたい」。ただ神さまの祝福を受けて生きていきたいと、こころから願う者でありたいと思います。

神さまは私たちを祝福し、神さまの愛を私たちに注いでくださっています。すなおに神さまを求めつつ、歩んでいきましょう。


 

(2025年10月5日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日礼拝) 

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