「苦労もなくなり、力がわいてくる」
聖書箇所 マルコ13:5-13。405/464。
日時場所 2025年11月16日平安教会朝礼拝式
農業研究者の篠原信(しのはら・まこと)の『そのとき、日本は何人養える? 食料安全保障から考える社会のしくみ』(家の光協会)を読みながら、いろいろと考えさせられました。「戦争、原油高騰、温暖化、大不況、本当は何が飢饉をもたらすのか」と書いてあり、ああ、なかなか大変な世の中だと思わされます。
この本の第一章は問いと答えの形で書かれてあります。
問い1.「日本だけでどれくらいの食料が生産できますか?」
化学肥料・化学農業・トラクターなどの農機具をうごかすためには、石油などの化石燃料が必要です。「米は石油でできている」と言っても過言ではない。石油などの化石燃料が安く手に入るのであれば、9000万人分くらいは大丈夫だ。でも石油が高騰するなどして手に入りにくくなれば、3000万人もむつかしいかも知れない。ということです。江戸時代の日本の人口は、3000万人です。
そのあと、魚をたべたらとか、太陽電池ならとか、原子力ならとか、ああやったらどうですか、こうやったらどうですかと、いろいろな問いがあるわけです。でも「ああ、これで解決」というような感じではありません。そして最後の問いが28です。
問い28.「日本は今後どうすべきでしょうか?」
海外から食料やエネルギーを安定的に輸入するには、世界が平和に活動できている必要があります。日本は人工が多すぎるうえに国土が狭いので、鎖国はできません。世界の国々とどう協調し、食料とエネルギーを輸入できるか。そのことを意識して国の進む道を模索していく必要があるでしょう。とのことです。
いろいろと不安なことがあると、自分たちが助かるために自分たちのことだけを優先して考えるべきだというような気持ちになります。でも落ち着いて考えてみると、実際そういうわけにもいかないように世界は回っていて、みんなで平和に暮らしていくためにはどうのようにすれば良いのかということを考えなければならないわけです。まあそうだろうなあと思います。自分たちにとって不都合なことがあるときは、「あいつが悪い、そいつがわるい」などど、慌てず騒がず落ち着いて考えてみるということが大切なのでしょう。
「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」という言葉は、宗教改革者のマルティン・ルターの言葉だと言われたり、いやそうではないと言われたりする言葉ですが、良い言葉だと思います。慌てず、騒がず、落ち着いて考え、自分のできることをするという基本姿勢が感じられます。慌てふためくと、フェイクニュースを信じて、とんでもないことをやってしまうのです。とくに人がいい人はフェイクニュースを信じやすいので気をつけなければなりません。落ち着いて考えるということが大切であるわけです。
今日の聖書の箇所は「終末の徴」という表題のついた聖書の箇所の一部です。マルコによる福音書13章5−8節にはこうあります。【イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。】。
イエスさまの時代、世の終わり・終末が来るということがもうすぐ起こるというふうに考えられていました。私たちは聖書を読んで、「終末の徴」というようなことが書いてあっても、イエスさまの時代から2000年経っても、世の終わり・終末は来ていないので、イエスさまの時代の人々ほど、世の終わり・終末が明日起こるかもしれないというように感じられるわけでもありません。昨日も来なかったのだから、今日も来ないし、明日も来ない、明後日も、一年後も、10年後も、100年後も来ないだろう。2000年経っても来なかったのだからと思えるわけです。しかしイエスさまの時代の人々は、昨日も今日も来なかったけど、明日は来るかも知れないというふうに思っていたわけです。
そして世の終わり・終末には預言者エリヤが現れ、そして方々で地震や災害といった天変地異が起こるというふうに言われていました。ですから「わたしがそれだ」というように、わたしが終末の預言者エリヤの生まれ変わりだというようなことを言う人が出てきます。惑わすことをいう人たちが出てくるけれども、そんな人たちに惑わされてはいけないと、イエスさまは言われます。戦争の騒ぎや戦争のうわさが起こったりするけれども、だからといってすぐに世の終わり・終末になるわけではないので慌てるなと、イエスさまは言われました。
マルコによる福音書13章9−11節にはこうあります。【あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。】。
イエスさまは弟子たちが迫害を受けることになるということを伝えます。イエスさまご自身が十字架につけられるわけですから、弟子たちもまた迫害を受け、地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれることになる。もしかしたら総督や王さまの前に連れていかれることもあるかも知れない。そんなときもあわてることはない。連れていかれても、聖霊があなたたちに働いて、良い証を行なってくれるから、安心しなさいと、イエスさまは言われます。
マルコによる福音書13章12−13節にはこうあります。【兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」】。
人というのはなかなか大変なもので、いろいろなことで対立しあったり、憎しみ合ったりするようなことが起こります。じっさいに死に追いやったりするようなことは、そんなに起こるわけではないですが、しかしそれでも戦争が起こったり、内戦が起こったりすると、大変なことが起こることがあります。そのように迫害が起こると、とても信じられないような悲しい出来事が起こることがあると、イエスさまは言われました。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われました。
実際、私たちの国であります日本でも、明治時代やアジア・太平洋戦争のときに、キリスト教は迫害を受けることになりました。教会に対して石を投げるというようなことが行われたり、また戦争のときには牧師が逮捕され、獄中で亡くなるというようなことが行われました。治安維持法という恐ろしい法律があり、国家にとって都合の悪い人たちは迫害を受けたわけです。現在、スパイ防止法の制定をというようなこと言われますけれども、それはとても恐ろしいことであるわけです。「おまえはスパイ防止法に反対しているから、スパイに違いない」というような乱暴なことが簡単に行われるようになるわけです。
最近、「ゲバルトの杜〜彼は早稲田で死んだ〜」という映画を見ました。早稲田大学の文学部の川口大三郎さんが中核派のスパイと疑われて殺されたという事件を扱ったドキュメンタリー映画です。「お前はスパイだ」「ちがうスパイじゃない」「おまえはスパイだ」「ちがうスパイじゃない」。佐藤優という評論家が、この映画に出てききます。「これは魔女狩りの論理なんだ」と説明します。「おまえは魔女だ」「魔女じゃない」「おまえは魔女だ」「魔女じゃない」。人はバットで人を殴ったりしておいて、「こんなに殴られても、スパイじゃないと言い張ることができる強い意志をもっているから、やっぱりスパイに違いない」と考えるわけです。「おまえはスパイだ」。スパイ防止法ができると、スパイでない人がスパイにされてしまうわけです。人間というのは、そうした恐ろしさをもっているので、こうした法律に対しては、慎重にならなければならないのです。
世の終わり・終末というと、いろいろな天変地異が起こったり、迫害が起こったりするという聖書に書かれてありますから、ちょっと怖い感じがします。「世の終わり・終末が来たら、もう世の終わりだなあ」と思うわけです。でも世の終わり・終末というのは、ただただ怖い時として、聖書が語っているわけではありません。世の終わり・終末というのは、再びイエスさまが来られるときであるわけです。とんでもなくたいへんなときに、イエスさまが来てくださるということが言われているということです。
世の終わり・終末のときに、あなたたちがしなければならないことは、落ち着いていることだと、イエスさまは言われます。「慌ててはいけない」と、イエスさまは言われます。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない」。いろいろなことが起こって、「もう世の終わりだ」と思えても、慌ててはいけないと、イエスさまは言われます。
地方法院に引き渡されたり、総督や王さまの前に立たされることがあったとしても、慌ててはならない。困った時には、あなたたちに聖霊が働いてくださり、あなたたちを導いてくださる。だから神さまが守ってくださることを信じて、慌てることなく、落ち着いていなさい。そのようにイエスさまは言われました。
私たちはいろいろなことで不安になったり、慌てたりします。まあ人間はちっぽけな存在ですし、不安になったり、あわてたりするわけです。自分に自信のある人はまあそんなに不安になることもないのかも知れません。しかしたとえそういう人であったとしても、病気なったり、ケガをしたりすると、あたりまえですが自信がなくなってくるわけです。
わたしは10月、腰が痛かったので、すっかり自信を失いました。11月に入って、よくなりましたので、また自信を取戻しましたが、腰が痛かったときは、とっても弱気になっていました。いつまでこの痛みは続くのだろう。ずっと続いたらいやだなあ。そんなふうに思います。体が痛かったりすると、やはり不安になったり、慌てたりするようなことが起こります。
イエスさまはあなたたちは人間でちっぽけな存在であるのだから、神さまに頼って生きていきないと言われます。いろいろなことで不安になったり、どうしようどうしようと思うようなことが起こってくるかも知れないけれども、でも聖霊があなたたちを導いてくださるから安心しなさい。取り越し苦労をすることなく、安心して神さまにお委ねしなさいと、イエスさまは言われました。
神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは私たち人間を愛を創造されました。私たちは欠けたところが多いですし、すぐ腹を立てたりする弱いところがあるわけです。神さまなんて信じられないというような思いをもったりもします。それでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちを守り導いてくださいます。
イエスさまは「取り越し苦労をしてはならない」と言われました。いたずらに不安になるのではなく、神さまにお委ねして歩んでいきたいと思います。愛の神さまは、私たちに愛を注いでくださり、生きていく力を与えてくださいます。
神さまを信じ、祈りつつ歩んでいきたいと思います。
(2025年11月16日平安教会朝礼拝式)
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