2026年1月10日土曜日

1月4日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「心配するな。大丈夫」

「心配するな。大丈夫」

聖書箇所 ルカ2:41-52。259/265。

日時場所 2026年1月4日平安教会朝礼拝式・新年礼拝      


クリスマスに救い主イエス・キリストをお迎えし、そして2025年を終え、2026年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

毎年、わたしは年賀状に、聖書の言葉を書くことにしています。ことしは、旧約聖書の詩編34編15節のみ言葉を選びました。「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」(旧約聖書 詩編34編15節)。「あさましい自分の思いで争わず、平和を尋ね求めて歩みます」。

「今だけ、金だけ、自分だけ」というような雰囲気が世の中に漂います。「法律で禁止されていなければ、何をしても良い」というふうに考える政治家も増えました。「自分が自分が」という思いだけが大切にされてくると、さみしい世の中になってしまいます。「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」との御言葉のとおり、神さまが示してくださる道を歩んでいきたいと思います。

日常生活を送っていますと、「わたし、大丈夫かなあ」と思えるときがあります。わたしが最近、体験した、「わたし、大丈夫かなあ」という体験は、古本を買った時の体験です。年末年始に、娯楽のために本を買おうとおもって、近くのブックオフに行きました。そこで「ミレニアム4」という本を買いました。シリーズもので、ミレニアム1、2、3と読んできたので、続きを買ったわけです。映画化もされて、昔、話題の本であったわけです。そして文庫本で上下2冊だったので、2冊買ってきました。しばらくはクリスマスなどの忙しかったので、机のうえに置いてあったのですが、少し時間ができたので、夕食を終えたあと、「さあ、読もうか」と思って、本を取りに行くと、「ミレニアム4下」「ミレニアム4下」という二冊の本がありました。上下と思って買ってきたわけですが、どちらも下巻であったわけです。よりにもよって下巻二冊です。上巻二冊だったら、読み始めることができるわけですが、下巻二冊でした。「おんなじ本を買ってくるなんて、わたし、大丈夫か」と思いました。まあ一冊220円の本でしたので、そんなに悲観するような出来事でもないわけです。また上巻を買いに行ったら良いのです。でもまあ金額はそうですが、出来事は「わたし、大丈夫か」と思える出来事でした。そんな感じで、わたしもいろいろな「わたし、大丈夫か」と思う出来事に出会います。「心配するな。大丈夫」と思い直して生きています。

今日の聖書の箇所は「神殿での少年イエス」という表題のついた聖書の箇所です。少年のときのイエスさまがどのような感じであったのかということが書かれてある聖書の箇所はあまりありません。今日の聖書の箇所も、ルカによる福音書にだけ書かれてあります。しかし当り前のことですが、イエスさまにも少年のときがありました。

ルカによる福音書2章41−45節にはこうあります。【さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。】

ユダヤのお祭りの過越祭に、イエスさまの家族はエルサレムで過ごすことにしていました。出エジプト記23章14−19節には「祭りについて」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の132頁です。【あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。また、祭りの献げ物の脂肪を朝まで残しておいてはならない。あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。】

除酵祭というのは、過越祭に続いて7日間に渡って行われる祭りです。イエスさまの家族がエルサレムに滞在しているのは、この除酵祭の期間であるわけです。【年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない】ということですから、十二歳になったイエスさまも一緒に過越祭にエルサレムに来ているということです。ナザレからエルサレムまでは100キロメートルくらいです。三日くらいかかって歩いていくということなのでしょう。

もうイエスさまも十二歳ですから、いつもいつも両親と一緒にいるということではなく、親類の同じくらいの年代の人と一緒に歩いているわけです。まあ行動も別行動というようなことでしょう。それはそれでよかったわけですが、祭りが終わって帰り道になると、親類や知人の一群の中に、イエスさまがおられないということに、ヨセフとマリアは気がついたわけです。それであわてて探し回ったのですが、やっぱりいない。それで探しながらエルサレムまで引き返すことになりました。

ルカによる福音書2章46−50節にはこうあります。【三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。】。

「三日の後」ということですから、まあヨセフもマリアも心配したことだと思います。イエスさまは神殿の境内で、学者たちの話を聞いたり質問をしたりしていました。少年であるのに賢い受け答えをしているので、みんなびっくりしていました。マリアはイエスさまを見つけてほっとして、気持ちが高揚して、イエスさまを叱ります。「どうしてこんなことをしたのですか。おとうさんもわたしもどんなに心配したことか」。しかしそんなマリアに対して、イエスさまは「どうしてわたしがいるところがわからなかったのですが、わたしが自分の父の家である神殿にいるのは当り前じゃないですか」と言いました。しかしヨセフもマリアも、イエスさまの言っていることの意味がわかりませんでした。

この話は、イエスさまが神さまの御子であるということを、世の人たちに伝える話であるわけです。神さまの御子であるイエスさまは、神さまの家である神殿にいる。「いやいや、たとえそうであったとしても、ヨセフとマリアに、『神殿に行ってくるから』とひと言いってから行きましょうよ。なにも言わないでいなくなったら心配するでしょう」と思わないでもないわけですが、まあもともとはイエスさまの迷子物語であったのだと、わたしは思います。

ルカによる福音書2章51−52節にはこうあります。【それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。】。

まあ、イエスさまももう十二歳ですから、お父さん、お母さんがしつこく叱ってもだめだろうと言うことで、そのあとマリアが何度も何度もこのことを蒸し返すということはありませんでした。【母はこれらのことをすべて心に納めていた】と聖書には書かれてあります。でも聖書に書かれているくらいですから、有名な話であるわけなので、「もー、たいへんだったのよ。イエスがいなくなって。そりゃ、心配したわよ。一生懸命、ヨセフと一緒にさがしまわったわ。そしたらなんと、神殿で学者さんと話をしているのよ。びっくりしたわ」と、マリアはいろいろな人に話しただろうと思います。

迷子になり、みつかったイエスさまはヨセフとマリアと一緒にナザレに帰ります。そのあとまあ穏やかに、マリアとヨセフに仕えて、イエスさまは大きくなっていきます。【イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された】ということですから、そのあとはあまりマリアとヨセフに心配をかけることなく、穏やかに大きくなっていったということでしょう。

【イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された】という聖書の言葉は、とても安心できる聖書の言葉です。「ああ、わたしもそんなふうに育ちたいものだ」と思えます。まあもうおじいさんになってしまっているので、育つも何もないわけですが、「すべての人がそんなふうに育ってほしいよね」と思えます。

私たちの周りではいろいろな出来事が起こります。とても良い出来事もありますが、不安になるような出来事も起こります。とくにここ数年、ロシアとウクライナの戦争、パレスチナのハマスとイスラエルの戦争、タイとカンボジアの国境紛争、戦争や内戦、大きな地震や山火事の被害、熊による被害などなど、なんとなく不安になることも多いです。地球の温暖化による災害など、この先、どのようになるのだろうかと思えるようなこともあります。

しかしそれでも私たちの周りには、私たちのことを愛してくれる人たちがいてくれます。私たちを見守ってくださっている人たちがおられます。そのようにして私たちの世の中は回っていますし、そのようなやさしい社会のあり方を、私たちはこれからも大切にしていかなければなりません。「いまだけ、金だけ、わたしだけ」ではなく、みんなでずっと手を取り合って生きていくということを大切にして歩んでいきたいと思います。

【イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された】という聖書の言葉は、私たちに「心配するな。大丈夫」と呼びかけています。あなたの周りにはすてきな人たちがいる。その人たちはあなたのことを愛している。そして私たちには神さまがおられる。神さまはあなたのことを愛しておられる。あなたはイエスさまがそうであったように、これからも神と人とに愛されて、幸いな人生を歩んでいく。

神さまは私たちのことを愛してくださり、そしてみんなでこころを通わせながら、神さまの平安のうちを歩むことを望んでおられます。

神さまの愛のうちを、新しい年も、こころ平安に歩んでいきましょう。



  

(2026年1月4日平安教会朝礼拝式・新年礼拝式) 


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