2026年1月10日土曜日

1月11日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「気づかないかな。ほら、そこに。」

「気づかないかな。ほら、そこに。」

聖書箇所 マルコ1章9−11節。419/507。

日時場所 2026年1月11日平安教会朝礼拝

 

高槻にいたときに、よく駅前の商店街のところにあった「おはぎの丹波屋」というおもちとかおはぎとかを売っているチェーン店のお店がありました。わたしはときどきこの丹波屋さんでおはぎや柏餅を買ったりしていました。わたしがあまり買わないためか、その後、丹波屋さんは店を閉じられて、わたしは残念に思っていました。すると1、2年ほどして市役所の近くの交差点のところに、再び丹波屋さんが開店したというチラシが入っていました。それで嬉しくなって買いに行きました。

阪急の高槻駅のほうから阪急線沿いに歩いてきて、市役所の近くの交差点にまでやってきて、この辺だと思って見回してみたのですが、丹波屋さんは見つかりませんでした。「おかしいなあ、確かにこの辺のはずなんだけど」と思って、もう一度、見回してみると、「あっ、あった」と気がつきました。確かにありました。いまさっきはなかったのに、丹波屋さんが忽然と現れたのです。なんかきつねに化かされているような感じで、とても不思議な気がしました。

別に、丹波屋さんが急に現れたというのではないわけです。はじめのときに、わたしが気づかなかったのです。それはわたしが考えていた店のつくりのイメージと違っていたので、わたしが気がつかなかったということです。「こういう店の丹波屋さんがあるはずだ」と思っていたのと違っていたので、わたしはその店が丹波屋さんだと気がつかなかったのです。

わたしの目が人並みはずれて節穴だということもあるわけですが、人間の目というのは指向性がありますから、私たちは自分が見たいものだけを見ているということがあります。こういう店のつくりの丹波屋さんがあるはずだというふうに思い込んでいて、それがなければ丹波屋さんはないと思い込んでしまったりするのです。目だけでなく、耳でもそうです。私たちはだいたい自分が聞きたいと思っていることを聞いていたりします。

皆さんの家でもあると思いますが、よく「言った」「言わない」ということで言い合いになるということはないでしょうか。出かけようとすると、「どこに行くんだ」と言われ、「まえから言っていたでしょう。5月8日には○○さんと会うことにしているから出かけるって」と応えると、「そんなの聞いてないぞ」と言われる。「言いました」「聞いてない」「確かに言いました」「いや絶対聞いていない」。あるいは「わたしの車の鍵知らない?」と尋ねられて、「この前、帰ってきた時に、机の中に入れてましたよ」と応えると、「そんなところに入れるはずはない」と言われ、「いいえ、確かに入れました。探してらっしゃいよ」と言い返すと、「そんなところには入れるはずがない」とぶつぶつ言いながら、探しに行って、「やっぱり、なかった」と言う。それで一緒に机の中を探しにいくと、机の中から忽然と鍵が現れたりします。「おかしいなあ、さっきは確かになかったんだけどなあ」などと、まだぶつぶつと言っている。

あるものが見えない。あるものに気づかない。あるいは別のものに見える。私たちにはそういうことがあります。それは人と人との関係においてもそうですし、また私たちと神さまとの関係においても、そのように思えることがあります。神さまから愛されているのに、そのことに気がつかない。神さまから守られているのに、そのようには思えない。しかし私たちに許されていることは、「ただ信じる」ということであり、その他に私たちには道がないのです。

今日の聖書の箇所は「イエス、洗礼を受ける」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書1章9-11節にはこうあります。【そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた】。

イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。洗礼者ヨハネはヨルダン川で、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。洗礼者ヨハネのところには、たくさんの人たちが洗礼を受けにやってきました。洗礼者ヨハネは洗礼を授けながら、一人の人を待っていました。マルコによる福音書1章7-8節にはこうあります。【彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」】。

「イエス、洗礼を受ける」という聖書の箇所は、洗礼者ヨハネが思っていたとおりの方が現れたということを記しています。その方はすぐれた方であり、そして聖霊で洗礼をお授けになる方であり、天から特別の信頼を受けて、私たちの世に来てくださる方であるということです。

イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたわけですが、しかしそのときとても不思議な出来事が起こったと、聖書は記しています。【天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった】。「天から霊がイエスさまのところに降ってきた」、イエスさまが天からの霊を受けられた。【御覧になった】というふうに敬語で書かれてありますから、イエスさまに天から霊が降ってきたことを見たのは、イエスさまということでしょう。

そして【「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえ】ました。これはイエスさまがこの声を聞かれたとは書かれていませんから、だれか他の人が聞いたということも考えられるわけですが、でも他の人がその声を聞いたというふうにも書かれていませんから、一般的に考えて、イエスさまが「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞かれたということでしょう。

天からの声は、非常に孤独な形で語りかけてくるということがあるようです。みんなが聞いているところで、「この方が『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』です」と、多くの人々の拍手や称賛の声と共に、天からの声が聞こえてくるということではないのです。そういうことであれば、大きな苦難であってもまだ耐えられるような気もします。しかし多くの場合はそうではなく、天からの声は孤独な形で、ただ一人、あなた自身に語りかけてくるのです。【「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」】。

また、私たちが期待するような出来事として、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉の出来事が起こるというわけでもありません。とてもうれしい出来事が次から次へと起ってくる。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。もう神さまがわたしに味方してくれて、何してもうまくいく。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というのは、そういうことでもないのです。

イエスさまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声を聞かれました。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉の出来事が、もっともよく現れている出来事というのは、イエスさまの場合はイエスさまの十字架であったわけです。神さまは私たちのために十字架についてくださる方として、イエスさまを私たちの世に送ってくださいました。「わたしの心に適う者」というのは、神さまのご計画に沿って私たちのために十字架についてくださる者ということです。それは到底、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、神さまからの祝福に満ちた言葉からかけ離れているような出来事でした。

いまは気づかなくても、あとでわかるということがあります。あとから振り返った時に、はじめてその出来事の意味がわかるということがあります。たとえば若い頃、母親から言われる言葉や父親の態度など、うっとうしくて仕方がないというようなことがあります。その言葉や態度からは束縛を感じるけれど、愛など到底感じることができないというようなことがあります。しかし自分も成長して、世間の冷たい風の中で生きていく時に、父の言葉の意味や母の態度の意味が、少しずつわかってくるということがあります。また自分が母になり、父になった時に、母の思いや父の思いをとらえなおすことができたりします。昔はうっとうしく思えた母の言葉のなかに、母の愛があったことに気づくことがあります。昔も確かに母の愛は自分に注がれていたわけですが、しかし自分はそのことに気づかなかった。

イエスさまに聞こえた天からの声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」は、それはイエスさまに対してだけ語られている言葉ではなく、私たちに対しても語られている神さまの言葉です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これは私たちに対して語られています。私たちは神さまの愛する子であり、神さまの御心に適う者なのです。それは私たちが神さまの愛を受けるにふさわしい立派な子であるとか、神さまの御心に適うりっぱなことができているということではありません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、神さまの大きな祝福の中に生かされているということです。

「気づかないかな。ほら、そこに」と、神さまは私たちに言っておられます。神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、イエスさまを祝福され、そして私たちの世にイエスさまを送ってくださいました。そしてイエスさまは神さまの心に適う者として、私たちのために十字架についてくださいました。

私たちは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの祝福の中にあります。私たちは神さまの愛する子として生きています。神さまの心に適う者として、私たちは生きています。もちろん、私たちは神さまにふさわしい者ではないかも知れません。しかしそれでも神さまは私たちのことを「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださり、私たちに神さまの愛を示してくださいます。神さまの大きな愛のうちにあることを信じましょう。神さまからの招きに応えて、胸を張って、新しい一週間の歩みをいたしましょう。


(2026年1月11日平安教会朝礼拝)


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