「イエスさまは十字架へと歩まれた」
聖書箇所 マルコ9:2-10。301/300
日時場所 2026年3月15日平安教会朝礼拝・受難節4
十字架というものは不思議なもので、刑罰の道具であったものが、いまではジュエリー・アクセサリの形として使われています。京セラジュエリーの「ダイヤモンド プラチナネックレス」(計0.3カラット/クロスモチーフ/4月誕生石)《BPDD3185W》、131,000円。高いんだか安いんだかさっぱりわかりませんが、十字架にダイヤモンドがついていて、なかなかりっぱです。いまなら「金の十字架がいいですか、ダイヤモンドの十字架がいいですか、木の十字架がいいですか」と、いろいろ選べるわけですが、イエスさまの時代はそういうわけにもいきませんでした。イエスさまは木の十字架につけられました。ゴルゴタの丘に十字架の縦の部分が埋まってあって、そしてそこに十字架刑を受ける人が十字架の横の部分を、自分で運んでくるわけです。
それはそれで道理にかなったことです。十字架は刑罰の道具であったわけですが、しかしイエスさまが十字架につけられたことによって、栄光のしるしとなったからです。教会の屋根の上に十字架があるということは、まあふつうのことであるわけですが、イエスさまの時代に建物の上に十字架をつけていたりすると、それはちょっと不吉な建物と見られたことでしょう。十字架は恥さらしで不吉なものであったわけですが、しかしいまは十字架は聖なるものとされています。
今日の聖書の箇所は「イエスの姿が変わる」という表題のついた聖書の箇所の一部です。この聖書の箇所は、「山上の変容」と言われる聖書の箇所です。マルコによる福音書9章2ー4節にはこうあります。【六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた】。
マルコによる福音書において、今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書8章31節以下で、イエスさまが死と復活を予告されたあとの話として出てきます。イエスさまはご自分の死と復活を予告され、そして群衆と弟子たちに【わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい】と言われました。
その六日あとに、イエスさまはペトロとヤコブとヨハネをつれて高い山に登られます。そしてペトロたちは山上の変容と言われる神々しい出来事に出会います。今日の旧約聖書の箇所では預言者モーセが十戒を神さまからいただくことになるシナイの山に登るという話が出てきます。山というのは神聖な場所であるわけです。
ペトロたちは山の上で、イエスさまの姿が神々しく変わるという出来事に出会いました。イエスさまの服は真っ白に輝いています。そしてイエスさまのほかに、エリヤとモーセが出てきて、そしてイエスさまと話をされます。エリヤは偉大な預言者で、世の終わりの時に再び現れると言われていた預言者でした。そしてモーセはエジプトで苦しんでいたイスラエルの民を導き出した偉大な預言者です。モーセは神さまから律法のもととなる十戒をいただきました。その偉大なエリヤと偉大なモーセが、イエスさまと語り合っているのです。もうペトロたちは神々しいやら、うれしいやらで大変だったことでしょう。
マルコによる福音書9章5−6節にはこうあります。【ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである】。
あまりにすばらしい出来事だと思えたので、ペトロはそれを記念するために、イエスさまとモーセとエリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと提案します。仮小屋というのは、まあ記念碑ということでしょう。【ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった】とありますが、ペトロとしては「おれ、なかなかいいこと言っている」と思えたでしょう。わたしであれば「それではイエスさまとエリヤさまとモーセさまで、わたしのスマホでお写真をとりましょう」とか言ってしまいそうですが、それよりはペトロのほうが気が利いていると思います。
しかしこのペトロの提案はあとで考えるとあまりふさわしい提案ではありませんでした。「ペトロは何もわかっていなかったのです」と、後の人々は言うわけですが、それでもわたしもイエスさまが神々しい姿をして、エリヤとモーセと一緒に話をしておられるというところを見てみたいと思います。ペトロが有頂天になる気持ちもわかります。
マルコによる福音書9章7−8節にはこうあります。【すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。】
ペトロがイエスさまに記念の仮小屋について提案をしたあと、雲が現れ、イエスさまとエリヤとモーセは雲に覆われて見えなくなってしまいます。雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と聞こえました。ペトロたちはエリヤやモーセを捜すのですが、しかしもうエリヤとモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられました。現実であったのか、幻であったのか。ペトロたちには「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声だけが、こころに響いていました。
マルコによる福音書9章9−10節にはこうあります。【一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った】。
ペトロたちは山の上での神々しく不思議な出来事を経験して、頭がぽわーんとなっていました。夢なのか幻なのか、いまも耳に響いている「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という言葉は、どういうことなのか。そのうえイエスさまは山から下りる途中に、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言われます。ペトロたちはわからないことだらけでした。
「イエスさまの姿が変わる」という山上の変容の出来事は、神の御子であることを表す出来事です。イエスさまが神々しい姿で、エリヤとモーセと一緒に語り合っているというのは、いわば天上でのイエスさまの姿です。それは栄光に満ちています。ペトロたちがうれしがるのも無理はないことです。ただ地上でのイエスさまが神さまから託されていることは、ぼろぼろになって十字家につけられるということです。それは不吉な出来事であり、ペトロたちにとってはそれはあってはならないことです。ですからイエスさまが十字架と死を予告したときに、ペトロはイエスさまをわきへお連れしていさめ始めたのでした。マルコによる福音書8章31節以下の「イエス、死と復活を予告する」という出来事です。
ペトロたちにしてみれば、神々しい姿のイエスさまがずっと続いてほしいのです。神々しい姿で、エリヤとモーセを従えて、悪い律法学者たちやファリサイ派の人々をやっつけてほしいのです。そして自分たちも神々しいイエスさまの一番弟子として、できればすこし格好のいい姿をして、人々から「ペトロさま、ペトロさま」と言われたい。
しかし神々しいイエスさまの姿は天上の姿であって、それは地上での姿ではないのです。結局、エリヤやモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられます。そして天の声は「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と響きます。神さまは十字架への道を歩まれるイエスさまこそが、わたしの愛する子だと言われます。ペトロたちは十字架への道を歩まれるイエスさまに従っていくのです。エリヤやモーセではなく、十字架への道を歩まれるイエスさまに聞くのです。
フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という聖書の箇所があります。フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが書いた手紙です。フィリピの信徒への手紙2章6−9節にはこうあります。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました】。
この箇所は使徒パウロが独自に考えたことではなくて、使徒パウロ以前からあった信仰告白のようなものだと言われています。初期のクリスチャンたちは「イエス・キリストってどういう方ですか」という問いに対して、私たちの信じているイエス・キリストはこういう方ですと告白していたのです。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました】。
私たちは輝かしいものやりっぱに見えるものに目が向きがちです。とくに若いときや元気のいいときはそうです。そのことがすべてが悪いということもないと思います。やっぱり人間、りっぱになりたいと思いますし、また輝かしい栄光を求めて一生懸命になるということも大切なことだと思います。ただそのことがすべてのことについての価値基準になるとき、やはりすこしおかしなことが起こってきます。何でも手に入れることにだけ心が向いてしまい、自分が自分がという気持ちが大きくなってきます。何でも自分が中心となり、高慢な思いに取りつかれてしまいます。
使徒パウロは、イエス・キリストはそうした生き方とは正反対の生き方をされたと言っています。イエスさまは神の身分であったけれども、自分を無にして僕の身分となられた。神さまと等しい者であることに固執することなく、私たちのためにこの世にきてくださった。イエスさまは死に至るまでへりくだり、私たちのために十字架についてくださった。イエス・キリストは、支配するためではなく、仕えるために、私たちのところにきてくださった。
受難節、イエスさまの御苦しみを覚えて、私たちは歩んでいます。私たちは、イエスさまが十字架へと歩まれたということを、私たちの心の指針としてしっかりと持っていたいと思います。世は移り変わり、いろいろなものが起こっては消えていきます。一時的に私たちの目を奪うものがあるかも知れません。しかし消え去るものではなく、永遠なるものに、私たちは心の中心を向けたいと思います。こころはしっかりと、イエスさまに向けたいと思います。
【雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」】。いろいろなものは消え去っていくわけですが、イエスさまは私たちと共にいてくださいます。イエス・キリストは私たちを愛してくださり、そして私たちを導き、祝福してくださいます。
(2026年3月15日平安教会朝礼拝・受難節4)
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