「あなたは、神の国から遠くない」
聖書箇所 マルコ12:28-34。287/528。
日時場所 2026年8月30日平安教会朝礼拝
神戸女学院はアメリカの会衆派の宣教師によって創られた学校です。神戸女学院は米国会衆派の海外伝道団体(アメリカン・ボード)から派遣された二人の女性宣教師、イライザ・タルカットさんとジュリア・ダッドレーさんによって、1875(明治8)年10月12日に創立されました。去年、神戸女学院は創立150周年を向かえました。昔、神戸女学院と同志社大学は仲良しの大学だと言われていました。アメリカの会衆主義の流れの中からできた学校であるからです。いま同志社大学神学部を卒業した、わたしの友人の牧師が神戸女学院大学の学長をしています。
神戸女学院の教育の基盤となる標語は「愛神愛隣」です。神戸女学院中高部宗教委員会が発行した報告書(2005年)の名前も「愛神愛隣」です。手元にある報告書に、当時の院長・学長であった松澤員子(まつざわ・かずこ)先生が中学部入学式で話された式辞が載ってありました。【新入生のみなさん、数知れない多くの人々の献金、献身、そして祈りに支えられて、130年の歴史を刻んできた学院の新たな担い手として、誇りをもってその第一歩を歩みだしてください。みなさんには、良いこと悪いことを自分で判断し、その判断の結果を行動に移してゆくという自主性が求められています。なにが良いことで悪いことか、その判断の基礎は「愛神愛隣」の精神です】。【みなさんには、良いこと悪いことを自分で判断し、その判断の結果を行動に移してゆくという自主性が求められています】というところなどは、会衆主義らしさがあります。そして【なにが良いことで悪いことか、その判断の基礎は「愛神愛隣」の精神です】ときっぱりと話されているところが、なんとも爽やかな感じがいたします。
今日の聖書の個所は、「愛神愛隣」の聖書の個所です。「最も重要な掟」という表題のついた聖書の個所です。
今日の聖書の個所で、律法学者はイエスさまに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問をしています。この質問は、まあそんなに特別な質問というわけではなく、よく問われた質問であったようです。それに対して、イエスさまは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と答えました。そして、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と答えました。
イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまに質問をした律法学者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問いました。それに対してイエスさまは「第一の掟は、これで、第二の掟は、これだ」と言いました。イエスさまはこの第一の掟と第二の掟は切り離すことができないのだということを言われたわけです。「神さまを愛すること」「隣人を愛すること」、この二つの掟は切り離すことができず、【この二つにまさる掟はほかにない】と言われました。
質問をした律法学者はこの答えに対して、「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」】と答えています。この律法学者はイエスさまの答えを、本当にその通りだと受け入れたのでした。そしてイエスさまは律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。
イエスさまは律法学者に対して答えられたように生きられました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「『隣人を自分のように愛しなさい。』」。イエスさまは神さまによって私たち人間のところに遣わされました。しかしイエスさまは裁き人として、私たちのところに来られたわけではありませんでした。神さまを愛するだけの方であったとしたら、イエスさまは裁き人として、私たちのところに来られたかも知れません。しかしイエスさまは私たちの隣人として、私たちのところに来てくださいました。そして私たちの罪のために、イエスさまは十字架についてくださいました。イエスさまは私たちを愛し、私たちを憐れみ、私たちの隣人となってくださいました。「神を愛し、隣人を愛する」。それはイエスさまの生き方でした。
「神を愛し、隣人を愛する」「愛神愛隣」ということは、キリスト教において大きな道しるべの規範です。イエスさまがそのように生きられ、そして多くのキリスト者がイエスさまが教えてくださった「神を愛し、隣人を愛する」という教えを、こころにしっかりと受けとめて歩んでいます。
わたしはクリスチャンにならなくても、「神を愛し、隣人を愛して生きている」という人はたくさんいると思います。イエスさまの教えに感銘を受け、「神を愛し、隣人を愛して生きている」という人はたくさんいると思います。神を愛し、隣人を愛して生きていれば、それでいいではないか。そんな気もするわけですが、わたしはやはりクリスチャンになって、「神を愛し、隣人を愛して生きる」というのがいいだろうと思います。「神を愛し、隣人を愛しなさい」と教えてくださったイエスさまも、そのことを望んでおられるだろうと思います。
わたしの車にはカーナビゲーションがついています。カーナビゲーション、略して「カーナビ」と言われますが、知らないところに行く場合はとても便利です。電話番号とかを教えると、その場所近くまで案内をしてくれます。いまのカーナビは性能がいいからどうか知りませんが、わたしのカーナビは目的地の近くまで案内してくれますが、目的地まで案内してくれるというわけではありません。目的地が大きな建物の場合はいいですけれども、家が密集している場合などは困る時があります。カーナビはわたしにこう言います。「目的地周辺に到着いたしました。運転お疲れさまでした」。「運転お疲れさまでした」と言ってくれるのはうれしいのですが、でも「まだ途中やろ」と思うわけです。「目的地の前まで連れて行ってくれよ」と思います。
イエスさまは一人の律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。「あなたは、神の国から遠くない」というのは、微妙な言葉です。「あなたは、神の国から遠くない」。遠くないわけですから、もうほとんど着いているような気がします。しかし遠くないというわけですから、着いているというわけでもないのです。「あなたは、神の国から遠くない」。ちょうどわたしのカーナビの「目的地周辺に到着いたしました。運転お疲れさまでした」というような響きです。もうあなたは神さまのことをよく知っている。神さまの祝福はあなたに届いている。あとはあなたがそれを受け入れるかどうかだと、イエスさまは言っておられるのです。
信仰というのは理解をし、そして生きるということです。私たちは理解しないで、それを生きるということはできません。よく知らないけれども、信仰しているというわけにはいきません。やはりある程度理解をして、キリスト教が何を大切にしているのか、神さまはどのように私たちを愛してくださっているのか。イエスさまは私たちに何をしてくださったのか。そうしたことを理解することなく、私たちは信じることはできません。しかし信仰とは理解をして、そして信仰を生きなければなりません。そこにはやはり一歩踏み出すという時があるわけです。
イエスさまは「神を愛し、隣人を愛しなさい」と言われました。そのことが大切だと言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。私たちは心が弱いですから、そんな「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われても、そんなことできるだろうかという思いももちます。またイエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。私たちは自分勝手な人間ですから、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われても、そんなこと自分はできるだろうかという思いを持ちます。そんな洗礼を受けて、クリスチャンになっても、イエスさまの教えを大切にして生きることができるだろうかと思います。
信仰を生きるというのは、そういうことです。クリスチャンになったらすべての迷いがなくなるというわけではありません。いろいろな迷いや信仰的な挫折があります。私たちはある意味、上手に生きることはできません。上手に生きることができるのであれば、わたしは神さまを信じていないだろうと思います。わたしは上手に生きることも、正しく生きることもできません。しかしわたしは神さまを信じて、確かに生きることができます。
「神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエスさまの教えを知り、私たちはイエスさまと共に生きます。イエスさまが私たちに先立ってくださり、私たちの歩みを導いてくださいます。イエスさまは「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。イエスさまの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。
(2026年8月30日平安教会朝礼拝)
0 件のコメント:
コメントを投稿