「恵みを見つける」
聖書箇所 マルコ8:14-21。226/474
日時場所 2026年7月5日平安教会朝礼拝
私たちの日常生活、世界はわたしのためにあると思えるような毎日というわけではありません。「ふたりのため世界はあるの」と言えるような毎日であれば、それはいいわけですが、まあだいたいの人はそういうわけにはいきません。まああんまり楽しみなどないと思えるようなときもあるのではないかと思います。だからこそ、やはり良い心持ちで生きるということの大切さがあるような気がします。「ない、ない、ない」「いいことない」「やる気ない」「なんでそんなことせんといかんの。めんどくさい」「そんなの、あほらしいわ」。まあそんなふうに思えるときもあるわけですが、しかしそれは神さまの恵みを見逃してしまっているのではないかと思います。私たちの神さまは、私たちにつまらない人生しか用意してくださらない方なのでしょうか。私たちは私たちの神さまは私たちに良きものを備えてくださる方だと信じています。そして神さまが用意してくださっている恵みを見つけるということが、私たちの大切な仕事であると思います。
今日の聖書の箇所は「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」という表題のついた聖書の箇所です。
イエスさまの弟子たちは自分たちの食事となるパンを持って来るのを忘れてしまいました。舟の中には一つのパンしかありません。だれがパン係であったのかということは、気になることですが、聖書にはそんなことは書いてありません。特定の人が決まっていたのかどうかはわかりませんが、でもパンがないことに気づいた人は、そのことが気になって気になってしょうがなかっただろうと思います。なにか失敗をしてしまうということは、大きなダメージとなります。わたしなどもそうですけれど、小さな失敗が気になって気になってしかたがないということあります。たとえば週報に間違いがあったとか。まあよくあるのですが。あるいは「このことを誰かに伝えてください」と言われていて、それを忘れていたとか。「ミニトマトを買ってきてください」と頼まれて、図書館に先に寄って本を借りているうちにすっかり頼まれた買い物を忘れてしまって、本だけをもってうれしそうに帰ってきたとか。わたしは小さなことが気になって気になって仕方がない気の弱い人間ですから、失敗した時に自分に言い聞かせるように、「長い人生、そういうこともあるやろ」と思うようにしています。
たぶんパンを持って来るのを忘れた人は、イエスさまに気づかれないうちに、こそこそっと抜け出して、どこかでパンを買ってこようと思っただろうと思います。そんなことを思っているときに、イエスさまが【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】と言われたのです。弟子たちはみんな自分たちがパンを持ってこなかったから、イエスさまが怒っておられると思ったのでした。こういうところから、「イエスさまはお腹がすくと機嫌が悪くなられる方であったのだ」ということが、聖書学的にわかりそうな気がするわけですが、あんまりそんな学説を聞いたことはありません。
【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】というのは、「ファリサイ派の人々がやっていることやヘロデ派の人たちがやっているようなことをしてはいけない。ファリサイ派の人々やヘロデ派の人たちが心の中で思うことは、私たちの心の中にもないわけではないから、そのことに気をつけなさい」ということなのでしょう。ファリサイ派の人々もヘロデ派の人々も自分たちのことを特別な人間だと思っていました。驕り高ぶっていたわけです。人のことを蔑んでみたり、自分たちは特別な人間なのだと思いたいという気持ちは、弟子たちの心の中にもないわけではありません。イエスさまの弟子たちは自分たちの中でだれが一番えらいだろうというようなことを論じたりする人たちであったわけです。思い上がった心というのは、自分が気づかないうちに、どんどんどんどんと大きくなってしまうということがあります。ですからイエスさまは弟子たちに【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】と言われたわけです。
イエスさまが大切な話をされたわけですが、弟子たちはパンのことが気になっています。それで「パン種」という言葉を聞いたときに、「イエスさま、私たちがパンを忘れたことを怒っておられる」と思ったのでした。弟子たちはイエスさまが弟子たちがパンを忘れたことを知っていて、当てこすりとして「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言っていると思っていたというわけですから、これはイエスさまからするとがっかりしてしまうようなことだっただろうと思います。
イエスさまはかなり激しい調子で弟子たちを諭されました。「どうしてパンを持ってくるのを忘れたことで、心を乱してしまうのか。それがそんなに大切なことなのか。わたしがそんなことで怒り出すと思っているのか」。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。「そのお前の顔についているのは何だ。目と違うのか。顔の横についているのは何だ。耳と違うのか」。
マルコによる福音書6章30節以下には「五千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の72頁です。またマルコによる福音書8章1節以下には「四千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の76頁です。
弟子たちはイエスさまの奇跡を体験したのです。イエスさまは五つのパンで五千人を養ってくださった。イエスさまは七つのパンで四千人を養ってくださった。そういう奇跡を体験したわけですから、もうパンのことなど気にしなくてもいいように思えるわけです。しかし弟子たちはそうしたことを忘れてしまって、パンの心配をしていたのです。【イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた】ということですから、イエスさまはイエスさまのことを信じない弟子たちにがっかりしてしまったということでしょう。「はあ〜」というイエスさまの大きなため息が聞こえてきそうな気がします。
まあ、しかしいくらイエスさまがパンの奇跡を行なわれた方だといっても、「イエスさま、すみません。ちょっとパンを忘れてしまったので、ちょっちょっいっと私たちが食べるパンを出していただけますか」なんて、弟子たちも言いづらいだろうと思います。そうしたことを弟子たちが言ったというようなことは聖書に書かれていないですから、たぶんそうしたことはなかったのでしょう。なかなか見識のある弟子たちだと思います。わたしなどはつい「イエスさま、すみません。ちょっとパンを忘れてしまったので、ちょっちょっいっと私たちが食べるパンを出していただけますか」と言ってしまいそうな気がします。
このイエスさまが弟子たちにがっかりされたという話は、わたしにとってはちょっと気の重い話です。わたしもまたイエスさまにため息をつかせているのではないかと思うからです。大きくなった息子がお母さんに、「何がいやだったって、お母さんのつく『はあ〜』というため息がとてもいやだった」というようなことを言われてショックだったというようなことがあったりします。「はあ〜」というため息とか「まだ悟らないのか」というような叱責の言葉は、なかなか重いものです。「今日もまたイエスさまにため息をつかせてしまった」。どうでしょうか。ちょっとショックではないでしょうか。聖書にはイエスさまがため息をついたとは書かれてないですけど、でもなんかため息ついただろうなあと思ってしまいます。
私たちは小さなことに心を奪われてしまうということがあります。今日の話では「パンをもってくるのを忘れた」ということでした。小さい頃から忘れ物をすると私たちは怒られていますから、まあ大変なことに思えるわけです。でもまあたかだかパンを持ってくるのを忘れたということだけなのです。弟子たちは小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっていたのです。信頼できる方が自分たちにいてくださる、イエスさまと私たちは一緒にいるのだということを忘れてしまっていたのです。
私たちもまた弟子たちのように、小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっているということがあります。私たちの生活の中でいろいろなことが起ります。私たちにとって意に沿わないこともたくさん起ります。世の中、わたし中心に回っているわけではありません。どうもおもしろくない。どうもうまくいかない。また失敗してしまった。そういうことはありますし、まあ心地よいというわけではないでしょう。しかしそうしたことにだけ心を奪われてしまうときに、私たちは大切なことを忘れてしまっています。小さなことばかりにこだわっていると、大きな恵みに気がつかないということがあるのです。
わたしはクリスチャンに許されていることとても豊かなことは、喜びをもって生きるということだと思います。いろいろなことがある私たちの歩みですが、それでもクリスチャンである私たちは喜びをもって生きることができます。私たちは神さまが私たちを愛してくださっているということを知っているからです。私たちは神さまを頼りに生きています。私たちは神さまを信じて生きています。私たち自身はいろいろな失敗もするでしょうし、間違ったこともしてしまうかも知れません。しかし私たちが頼りにしているのは、私たちではなく、神さまです。私たちは神さまの導きを頼りにして生きています。
いろいろなことがある私たちの歩みですけれども、私たちは神さまからも恵みを見つける歩みでありたいと思います。神さまが私たちに備えてくださっている恵みに気づくことのできる歩みでありたいと思います。神さまはたくさんの恵みを私たちに備えてくださっています。私たちは宝物を探すように、その恵みを一つずつ探していきたいと思います。そしてその恵みを見つけて、「神さま、ありがとう」と神さまに感謝したいと思います。
そしてなにより、神さまは私たちのところに、イエスさまを送ってくださいました。イエス・キリストは私たちのために大切なことをしてくださいました。私たちの罪のために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちをあがなってくださいました。私たちはイエスさまによって生きています。私たちは大きな恵みに根底から支えられて生きています。御子イエス・キリストを私たちのところに送ってくださった神さまは、いまも私たちに良きものを備えてくださっています。神さまの愛のうちに、こころ平安に歩みましょう。
(2026年7月5日平安教会朝礼拝)