2026年7月8日水曜日

7月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「恵みを見つける」

 「恵みを見つける」

聖書箇所 マルコ8:14-21。226/474

日時場所 2026年7月5日平安教会朝礼拝


私たちの日常生活、世界はわたしのためにあると思えるような毎日というわけではありません。「ふたりのため世界はあるの」と言えるような毎日であれば、それはいいわけですが、まあだいたいの人はそういうわけにはいきません。まああんまり楽しみなどないと思えるようなときもあるのではないかと思います。だからこそ、やはり良い心持ちで生きるということの大切さがあるような気がします。「ない、ない、ない」「いいことない」「やる気ない」「なんでそんなことせんといかんの。めんどくさい」「そんなの、あほらしいわ」。まあそんなふうに思えるときもあるわけですが、しかしそれは神さまの恵みを見逃してしまっているのではないかと思います。私たちの神さまは、私たちにつまらない人生しか用意してくださらない方なのでしょうか。私たちは私たちの神さまは私たちに良きものを備えてくださる方だと信じています。そして神さまが用意してくださっている恵みを見つけるということが、私たちの大切な仕事であると思います。

今日の聖書の箇所は「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」という表題のついた聖書の箇所です。

イエスさまの弟子たちは自分たちの食事となるパンを持って来るのを忘れてしまいました。舟の中には一つのパンしかありません。だれがパン係であったのかということは、気になることですが、聖書にはそんなことは書いてありません。特定の人が決まっていたのかどうかはわかりませんが、でもパンがないことに気づいた人は、そのことが気になって気になってしょうがなかっただろうと思います。なにか失敗をしてしまうということは、大きなダメージとなります。わたしなどもそうですけれど、小さな失敗が気になって気になってしかたがないということあります。たとえば週報に間違いがあったとか。まあよくあるのですが。あるいは「このことを誰かに伝えてください」と言われていて、それを忘れていたとか。「ミニトマトを買ってきてください」と頼まれて、図書館に先に寄って本を借りているうちにすっかり頼まれた買い物を忘れてしまって、本だけをもってうれしそうに帰ってきたとか。わたしは小さなことが気になって気になって仕方がない気の弱い人間ですから、失敗した時に自分に言い聞かせるように、「長い人生、そういうこともあるやろ」と思うようにしています。

たぶんパンを持って来るのを忘れた人は、イエスさまに気づかれないうちに、こそこそっと抜け出して、どこかでパンを買ってこようと思っただろうと思います。そんなことを思っているときに、イエスさまが【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】と言われたのです。弟子たちはみんな自分たちがパンを持ってこなかったから、イエスさまが怒っておられると思ったのでした。こういうところから、「イエスさまはお腹がすくと機嫌が悪くなられる方であったのだ」ということが、聖書学的にわかりそうな気がするわけですが、あんまりそんな学説を聞いたことはありません。

【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】というのは、「ファリサイ派の人々がやっていることやヘロデ派の人たちがやっているようなことをしてはいけない。ファリサイ派の人々やヘロデ派の人たちが心の中で思うことは、私たちの心の中にもないわけではないから、そのことに気をつけなさい」ということなのでしょう。ファリサイ派の人々もヘロデ派の人々も自分たちのことを特別な人間だと思っていました。驕り高ぶっていたわけです。人のことを蔑んでみたり、自分たちは特別な人間なのだと思いたいという気持ちは、弟子たちの心の中にもないわけではありません。イエスさまの弟子たちは自分たちの中でだれが一番えらいだろうというようなことを論じたりする人たちであったわけです。思い上がった心というのは、自分が気づかないうちに、どんどんどんどんと大きくなってしまうということがあります。ですからイエスさまは弟子たちに【「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」】と言われたわけです。

イエスさまが大切な話をされたわけですが、弟子たちはパンのことが気になっています。それで「パン種」という言葉を聞いたときに、「イエスさま、私たちがパンを忘れたことを怒っておられる」と思ったのでした。弟子たちはイエスさまが弟子たちがパンを忘れたことを知っていて、当てこすりとして「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言っていると思っていたというわけですから、これはイエスさまからするとがっかりしてしまうようなことだっただろうと思います。

イエスさまはかなり激しい調子で弟子たちを諭されました。「どうしてパンを持ってくるのを忘れたことで、心を乱してしまうのか。それがそんなに大切なことなのか。わたしがそんなことで怒り出すと思っているのか」。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。「そのお前の顔についているのは何だ。目と違うのか。顔の横についているのは何だ。耳と違うのか」。

マルコによる福音書6章30節以下には「五千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の72頁です。またマルコによる福音書8章1節以下には「四千人に食べ物を与える」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の76頁です。

弟子たちはイエスさまの奇跡を体験したのです。イエスさまは五つのパンで五千人を養ってくださった。イエスさまは七つのパンで四千人を養ってくださった。そういう奇跡を体験したわけですから、もうパンのことなど気にしなくてもいいように思えるわけです。しかし弟子たちはそうしたことを忘れてしまって、パンの心配をしていたのです。【イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた】ということですから、イエスさまはイエスさまのことを信じない弟子たちにがっかりしてしまったということでしょう。「はあ〜」というイエスさまの大きなため息が聞こえてきそうな気がします。

まあ、しかしいくらイエスさまがパンの奇跡を行なわれた方だといっても、「イエスさま、すみません。ちょっとパンを忘れてしまったので、ちょっちょっいっと私たちが食べるパンを出していただけますか」なんて、弟子たちも言いづらいだろうと思います。そうしたことを弟子たちが言ったというようなことは聖書に書かれていないですから、たぶんそうしたことはなかったのでしょう。なかなか見識のある弟子たちだと思います。わたしなどはつい「イエスさま、すみません。ちょっとパンを忘れてしまったので、ちょっちょっいっと私たちが食べるパンを出していただけますか」と言ってしまいそうな気がします。

このイエスさまが弟子たちにがっかりされたという話は、わたしにとってはちょっと気の重い話です。わたしもまたイエスさまにため息をつかせているのではないかと思うからです。大きくなった息子がお母さんに、「何がいやだったって、お母さんのつく『はあ〜』というため息がとてもいやだった」というようなことを言われてショックだったというようなことがあったりします。「はあ〜」というため息とか「まだ悟らないのか」というような叱責の言葉は、なかなか重いものです。「今日もまたイエスさまにため息をつかせてしまった」。どうでしょうか。ちょっとショックではないでしょうか。聖書にはイエスさまがため息をついたとは書かれてないですけど、でもなんかため息ついただろうなあと思ってしまいます。

私たちは小さなことに心を奪われてしまうということがあります。今日の話では「パンをもってくるのを忘れた」ということでした。小さい頃から忘れ物をすると私たちは怒られていますから、まあ大変なことに思えるわけです。でもまあたかだかパンを持ってくるのを忘れたということだけなのです。弟子たちは小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっていたのです。信頼できる方が自分たちにいてくださる、イエスさまと私たちは一緒にいるのだということを忘れてしまっていたのです。

私たちもまた弟子たちのように、小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっているということがあります。私たちの生活の中でいろいろなことが起ります。私たちにとって意に沿わないこともたくさん起ります。世の中、わたし中心に回っているわけではありません。どうもおもしろくない。どうもうまくいかない。また失敗してしまった。そういうことはありますし、まあ心地よいというわけではないでしょう。しかしそうしたことにだけ心を奪われてしまうときに、私たちは大切なことを忘れてしまっています。小さなことばかりにこだわっていると、大きな恵みに気がつかないということがあるのです。

わたしはクリスチャンに許されていることとても豊かなことは、喜びをもって生きるということだと思います。いろいろなことがある私たちの歩みですが、それでもクリスチャンである私たちは喜びをもって生きることができます。私たちは神さまが私たちを愛してくださっているということを知っているからです。私たちは神さまを頼りに生きています。私たちは神さまを信じて生きています。私たち自身はいろいろな失敗もするでしょうし、間違ったこともしてしまうかも知れません。しかし私たちが頼りにしているのは、私たちではなく、神さまです。私たちは神さまの導きを頼りにして生きています。

いろいろなことがある私たちの歩みですけれども、私たちは神さまからも恵みを見つける歩みでありたいと思います。神さまが私たちに備えてくださっている恵みに気づくことのできる歩みでありたいと思います。神さまはたくさんの恵みを私たちに備えてくださっています。私たちは宝物を探すように、その恵みを一つずつ探していきたいと思います。そしてその恵みを見つけて、「神さま、ありがとう」と神さまに感謝したいと思います。

そしてなにより、神さまは私たちのところに、イエスさまを送ってくださいました。イエス・キリストは私たちのために大切なことをしてくださいました。私たちの罪のために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちをあがなってくださいました。私たちはイエスさまによって生きています。私たちは大きな恵みに根底から支えられて生きています。御子イエス・キリストを私たちのところに送ってくださった神さまは、いまも私たちに良きものを備えてくださっています。神さまの愛のうちに、こころ平安に歩みましょう。


(2026年7月5日平安教会朝礼拝)


6月28日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「わたしのなかに住んでいる罪」

 「わたしのなかに住んでいる罪」

聖書箇所 マルコ6:14-29。211/521。

日時場所 2026年6月28日平安教会朝礼拝式


キリスト教では、神さまの思いに反して生きていることを、罪というふうに言います。ギリシャ語で罪というのは、「ハマルティア」と言い、「的外れ」という意味です。神さまの思いから離れ、的を外した生き方をしているということです。

私たちはいろいろなことをするときに、神さまどう思われるかなあ、イエスさまどう思われるかなあと思います。「ああ、やっぱりこのことは、神さまの前に恥ずかしいことだよなあ」というようなことを思うわけです。

キリスト教だけでなく、昔は宗教的な意識がいまよりも強かったので、「ああ、なんか恥ずかしいことをしている」という意識がありました。しかし現代はだんだんと宗教的な意識が失われてきている社会なので、罪ということについて考えるということも失われてきているような気がします。

政治の世界などでも、「法律に違反をしていなければ大丈夫なのだ」というふうに考える人が多くなりました。もう一歩進めて、「捕まらなければ大丈夫」「裁判で有罪の判決がでなければ大丈夫」というふうになってきます。政治のリーダーたちが倫理的な感覚を大切にしなくなってくると、やはり世の中への影響も多くなってきます。

加藤喜之『福音派ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)という本を読んでいました。いまアメリカの政治に大きな影響を及ぼしているのが、キリスト教の福音派と呼ばれる人々であると言われます。その福音派とアメリカ政治との関係の歴史について書かれてある本です。アメリカにおいてキリスト教と政治との関わりというのは、昔から密接にあります。共和党の大統領だけでなく、民主党の大統領もキリスト教との関わりの中で政治を行っています。カーター大統領もレーガン大統領も、クリントン大統領もオバマ大統領も、そしてトランプ大統領も、さまざまな形で支持を受けたり、批判をされたりしながら、政治を行っています。

この『福音派』という本のはじめの方で、ビリー・グラハムという牧師が紹介されていました。ビリー・グラハムという牧師は、「アメリカの牧師」「市民主教の大祭司」と言われたりする有名な牧師でした。日本でも大伝道集会を開いているような牧師です。友だちに誘われて伝道集会に行ったという方もおられるかも知れません。

ビリー・グラハムはニクソン大統領を支援していました。ウォーターゲート事件にの疑惑が出てきた時も、ニクソン大統領の無実をアメリカ国民に訴えかけました。しかし1974年5月中旬に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された記事をみて、ビリー・グラハムは友人として親しくしてきたニクソン大統領が、とんでもない悪事を重ねても平気な人間であることを知ることになります。ビリー・グラハムは泣き悲しみ、嘔吐するほどだったと言われています。ビリー・グラハム牧師は倫理的な感性を失った大統領に失望したわけです。そうしたことを、この『福音派』という本を読み知りました。でもいまの福音派の牧師たちは、倫理的な感性を失った大統領に失望するだろうかと考えた時、そうしたことはあまり関係のないこととして考えるだろうなあと思います。キリスト教という宗教の中においても、倫理ということが失われているということがあるわけです。(ビリー・グラハム牧師の息子さんのフランクリン・グラハム牧師は、トランプ大統領を支持しています。トランプ大統領が再任された就任式で、フランクリン・グラハム牧師は、「神よ、あなただけがトランプを彼の敵から救い出し、力をもって復活させてくださった」と感謝の祈りを捧げたと言われています。(『福音派』、P.270参照)

今日の聖書の箇所は「洗礼者ヨハネ、殺される」という表題のついた聖書の箇所です。洗礼者ヨハネは、イエスさまの前に世に現れ、人々に悔い改めを迫りました。政治家に対しても、神さまの御心に反している人に対しては、痛烈な批判をしていました。ヘロデ王もまたそのひとりであったわけです。洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判していたため、ヘロデ王によって殺されました。ヘロデ王が洗礼者ヨハネを殺した出来事について、今日の聖書の箇所には書かれてあります。今日の聖書の箇所は、すべてが歴史的な事実というわけでもありません。ヘロディアなどはこんな感じの悪人ではなく、もう少し純真な人であっただろうと言われています。この話は歴史的な事実というよりは、ひとつの物語として読むほうがよいだろうと思います。

ヘロデ王はイエスさまのことを知った時に、自分が殺した洗礼者ヨハネが生き返って現れたのではないかと思います。イエスさまのことを世の人々は、預言者エリヤだとか昔の預言者だとか、いろいろと噂をしていたのですが、ヘロデは自分が首をはねた洗礼者ヨハネが生き返ってやってきたのだと思いました。

洗礼者ヨハネはヘロデ王のことを批判していました。ヘロデ王が残虐な王でしたし、王さまですから好き勝手なことをしていたわけです。ヘロデ王とヘロディアとの結婚についても非難をしていました。現代的に考えればまあそんなに問題となるようなことではないですが、まあ洗礼者ヨハネは律法に基づいて非難をしていたのです。結婚のことというよりも、ヘロデ王が倫理的な王さまでないということが、洗礼者ヨハネにとっては非難すべきことであったのだと思います。

ヘロデ王は洗礼者ヨハネによって非難されていたのですが、一方で洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であったので、洗礼者ヨハネの話すことに耳を傾けていました。ヘロデ王は自分のことを非難されることについては、なかなかしんどいことであるけれども、それども神の人としての洗礼者ヨハネを受け入れていたわけです。私たちの時代の総理大臣や大統領が、自分を批判するような人を、周りから遠ざけ、意見を聞こうとしなかったりすることがありますが、そういうことからすれば、ヘロデ王の方が自分を批判する人の意見を聞くという姿勢があったわけです。まあだからと言って、ヘロデ王のほうが現代の総理大臣や大統領よりましであったのかというと、そうではなくヘロデ王は残虐な王さまでありました。

ヘロデ王の妻のヘロディアは洗礼者ヨハネが自分のことを非難するので、洗礼者ヨハネを殺そうとします。ヘロデ王が自分の誕生日のときに、たくさんの人々を呼んで宴会を催しました。そのときの余興で、ヘロディアの娘が踊りを踊ります。それがたいそう、来ていた高官や将軍を喜ばせました。それでヘロデ王はヘロディアの娘に、ほうびをとらせることにします。

ヘロデ王は言います。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。それでヘロディアの娘はお母さんのところに言って、何を望んだらいいでしょうかと尋ねます。するとヘロディアは「洗礼者ヨハネの首を」と言います。ヘロディアの娘はヘロデ王のところに帰ってきて、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と答えます。

ヘロデ王は人々の前で、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言っていたので、仕方なく、洗礼者ヨハネを殺して、首をお盆に載せて、ヘロディアの娘に渡します。

「イエスは言われた。『この3人の中で一番罪深いものはだれか。ヘロデかヘロディアか、ヘロディアの娘か』」。というようなことは、聖書に書いていませんが、みなさんはどう思われますか。みんなが集まって、「こいつが悪い」というような話をするとおもしろいかも知れません。

この話では洗礼者ヨハネの殺害の糸をひいているのは、ヘロディアだという話になっていますから、まあ「ヘロディアが悪い」ということになるかも知れません。ヘロデ王は罪の自覚のある人として描かれています。ヘロディアの娘には罪の自覚はありません。ヘロディアの娘はなにもわからず、母の言うことを聞いて、「洗礼者ヨハネの首を」とヘロデ王に言うわけです。

「わたしは悪いことをしている」「わたしは罪深い者だ」ということが、わかっているかどうかということは、やはり大切なことであるわけです。そういう意味では、ヘロデ王は自分が悪い人間であるということを意識していました。それでもまあ悪いことをし続けるわけですから、人間というのはなかなかどうしようもないわけです。自分の罪に向き合うということは、なかなかむつかしいことであるわけです。

自分の中の罪ということに、真摯に向き合った人に、使徒パウロという人がいます。ローマの信徒への手紙7章7節以下に「内在する罪の問題」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の282頁です。この聖書の箇所で、使徒パウロは自分の中に罪がいて、その罪が自分を悪い方へと導いていき、神さまの御心に反することをしてします。「律法を守ろうと思っても、律法を守ることができない。悪いことをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのだ」と言います。そして「わたしはなんと惨めな人間なのだろう」と、使徒パウロは嘆いています。自分の中にある罪に向き合えば向き合うほど、自分が悪い人間であると思えてきます。汚い部屋にいると、少々、ほこりがたまっていても気になりません。しかしきれいに掃除をした部屋にいると、机の隅のほこりも気になってきます。

私たちはヘロディアの娘のように、自分のしていることがわからずに、神さまの前に恥ずかしいことをしてしますことがあります。またヘロディアのように、高慢な気持ちや怒りに身を委ねてしまい、神さまの前に恥ずかしいことをしてしまうこともあります。またヘロデ王のように、神さまの前に恥ずかしいことをしているという気持ちがありながらも、でもやっぱり自分の好き勝手に生きてしまうということもあります。

人というのはなかなかやっかいなもので、自分で自分のしていることさえわからないようになってしまうこともあります。一方で良い人でありたいと思いながら、他方で自分の好き勝手なことばかりしていたりするわけです。使徒パウロはそんなやっかいな人間の一人として、自分の中にある罪に向き合いました。そして自分ではどうすることもできないけれども、イエス・キリストがわたしの罪を贖ってくださり、こんな惨めなわたしを救ってくださるということに気づきました。そして使徒パウロはイエスさまに従って歩みました。

私たちもまたいろいろな弱さを抱え、そしてときに邪な思いをもつ、やっかいな人間です。しかしそんな私たちを愛してくださり、私たちを祝福してくださる神さまがおられます。悔い改めの気持ちをもちつつ、神さまの愛を受け入れて、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。





(2026年6月28日平安教会朝礼拝式) 


6月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「きこうとしないわたし」

 「きこうとしないわたし」


聖書箇所 マルコ6:1-13。197/542

日時場所 2026年6月21日平安教会朝礼拝式

  

10年くらい前、宇多田ヒカルの曲をよく聴いていました。朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の主題歌も、宇多田ヒカルの「花束を君に」でした。同じ頃の宇多田ヒカルの歌に、「荒野の狼」という曲があります。ちょっととがった歌詞でした。聞く人によっては、なんか不快に感じる歌だなあと思いながら聴いていました。

【惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら

 そうだそうだ お互いを肯定する輩(やから)

 まずは仲間になんでも相談する男

 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子

 偽物の安心に悪者探し

 私たちには関係ない】

【惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら

 そうだそうだ お互いを肯定する輩(やから)

 まずは仲間になんでも相談する男

 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子

 偽物の安心に悪者探し

 私たちには関係ない】

仲間内に閉じこもって、自分たちだけが正しく、人を非難することで自分たちが安心するといった人間の姿が歌われています。

曲を聴いていると、「惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら」と歌われているので、若い人たちの姿のような気がするわけですが、「偽物の安心に悪者探し 私たちには関係ない」というような姿は、若い人だけではないような気がします。

「まずは仲間になんでも相談する男」という歌詞が、わたしにはとても印象的でした。政治家の人たちも、よく「進退ついては、仲間と相談して判断します」と言ったりします。わたしの周りの社会活動をしている人も「わたしの仲間がとても傷ついている」というような話をされることがあります。同じ思想信条で行動を共にしている人たちというのが、仲間ということなのかなあと思ったりします。でもこういう使われ方をするとき、「ああ、わたしはこの人の仲間ではないのだ」というような気持ちがわいてきて、なんかとても微妙な気持ちになるわけです。

どうしても仲間内で固まると、仲間とそうでない人たちとのグループができてしまいます。そしてあんとなく風通しが悪くなってしまいます。仲間内で固まると、一般的な意見が聞えてこなくなります。そして「そうだそうだ お互いを肯定する輩」になってしまいます。総理大臣や大統領といった政治的指導者が、自分のが周りに自分の考えに同調する人たちだけを集めて政治をしていると、そのうち世の人々の声が届かなくなり、ちょっと困った状態になってしまうというようなことが出てきたりします。いやなことを言う人を周りに置いておくということは、気持ちの良いことではないわけですが、でもやっぱり必要なことであるわけで、政治家の人たちはなかなか大変だなあと思ったりします。

でも仲間がいるということはとても楽しいことだし、わくわくすることでもあります。わいわいとやっていくことができれば、とても力になります。仲間内で固まることなく、開かれた形で、いろいろな人たちと交流するというのは、なかなかむつかしいことだなあと思わされます。

今日の聖書の箇所は「ナザレでは受け入れられない」「十二人を派遣する」という表題のついた聖書の箇所です。

マルコによる福音書6章1−6節にはこうあります。【イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた】。

イエスさまは故郷のナザレのユダヤ教の会堂で、神さまのことを話されます。故郷の人々は、小さい頃からイエスさまのことをよく知っています。イエスさまのお父さんがヨセフで、イエスさまはお父さんの仕事を継いで、大工をしている。お母さんはマリアさんで、兄弟にヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンがいる。姉妹たちもナザレに住んでいる。そういうことを故郷の人々はよく知っているわけです。私たちも聖書を読んで、イエスさまのことをよく知っているわけですが、でもイエスさまの兄弟のヤコブは知っているけど、ヨセ、ユダ、シモンは知らなかったわというような感じの知識です。でも故郷の人たちは、イエスさまのことをほんとによく知っているわけです。

たしかにイエスさまが聖書について、神さまについて話される御言葉は力に満ちている。そしていろいろな奇跡を行なっている。そのこともまあわかるのだけれども、でも幼いときからイエスさまを知っている人たちにとっては、なんとなくそうしたことはしっくり来ないわけです。わたしが知っている鼻たれ坊主のイエスみたいなものが、頭のなかにあるわけです。それでイエスさまも「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。自分が敬われていないことを、イエスさまご自身が感じておられました。

マルコによる福音書6章6−13節にはこうあります。【それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃(ほこり)を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした】。

イエスさまは故郷で受け入れられないという経験をされたあと、弟子たちを世に遣わされます。そのときの注意事項について書かれてあります。イエスさまは弟子たちを二人ずつ組にして遣わします。二人であればまあなにか困ったときに助け合うこともできます。旅の途中は危険も多いですし、誘惑も多いわけです。そしてイエスさまは食料もお金ももたさないで、弟子たちを遣わします。神さまに頼り、受け入れてくれる人たちを頼りにして歩みなさいということです。「袋も持たない」というのは、旅先でいただいたお土産や食料をもつというようなこともしてはいけませんということでしょう。「下着は二枚着てはならない」というように、贅沢をしてはだめだと言われます。でもケガをしないように、履物は履きなさい。あんまり足が汚れて、誰かの家にいくというのも失礼になるので気をつけなさいと、弟子たちは言われています。

どこかの家に迎えられたら、その家に留まりなさい。もっとご馳走をだしてくれそうな家があったとしても、あとからそこに変わるというようなことはやめなさい。「きてください。きてください」と熱心に誘われたとしても、そういう不義理なことはしてはだめですと、弟子たちはイエスさまから言われています。そしてもし弟子たちを迎え入れる人たちがいないことがあるかも知れない。弟子たちが語る福音に耳を傾ける人たちがいないかも知れない。そうしたときはその町を出て行く時に、足の裏の埃(ほこり)を払い落として、その町を出ていきなさいと、イエスさまは弟子たちに言われました。

イエスさまも故郷で、イエスさまのことを受け入れようとしない人たちに出会いました。弟子たちもまた弟子たちのことを受け入れてくれない人たちに出会うことがあるかも知れません。それはまあ特別なことではなく、ふつうに起こることであるわけです。私たちもいろいろな伝道・宣教活動を行いますけれども、でもそうしたことが簡単に実を結ぶというわけでもありません。

でも自分が大切にしていることを一生懸命に伝えるのに、だれもそのことに関心を持ってくれないのは、なかなかさみしいことであります。ですから腹が立ってきたりするようなことも起こります。怒鳴ってみたり、人のことを悪し様に言ってみたい気持ちになってくることもあります。でもイエスさまは弟子たちに、そうしたことをするのではなく、ただ「足の裏の埃(ほこり)を払い落として、その町を出て行きなさい」と言われました。過剰に反応して、腹を立てたりするのではなく、たんたんとそのこと受け入れて、次のところに進んでいけば良い。そうするとまたあなたたちのことを受け入れてくれる人たちがいる。

イエスさまの弟子たちはイエスさまが教えてくれた注意事項を守りながら、伝道・宣教活動に励みました。人々を神さまのところに招き、神さまへの悔い改めの気持ちをもつことの大切さを伝えました。そして多くの悪霊を追い出し、多くの病気の人たちを癒やしました。

私たちはこの「ナザレでは受け入れられない」「十二人を派遣する」という聖書の箇所を読みますと、イエスさまの教えを受け入れようとしないような人たちがいて、とんでもない人たちだという思いをもちます。しかし仲間内で固まって、他の人の意見を聞こうとしないというのは、それはまた私たちの姿でもあるわけです。私たちもまたイエスさまの故郷の人たちや、イエスさまの弟子たちを受け入れなかった町の人たちのように、自分たちの世界に閉じこもって、外からの声に素直に耳を傾けることができなかったりすることがあるわけです。

今日の説教題の「きこうとしないわたし」の「わたし」というのは、わたしのことです。わたしもまた自分の考えが正しくて、相手の考えは間違っていると思い込んでしまうこともあります。また世の中のスピードについていけず、戸惑うことも多くなりました。そのためなんとなく身構えてしまうということもあります。

わたしも初老になり、若い人たちの考えていることが、さっぱりわからなくなりました。「初老」って、何歳くらいからだと思われますか。【Q:「初老」という言葉は、何歳ぐらいの人のことを指すのでしょうか。A:かつては、40歳ぐらいの人のことを指していました。ただし寿命が長くなった現代では、「初老」が当てはまるのは60歳ぐらいからと考える人が多くなっています】(NHK放送文化研究所)ということです。先週、同志社高等学校の礼拝に行って、1年生、2年生、3年生と3回礼拝説教をしてきました。若い人たちが考えていることはわからないので、若い人たちの前に立って話をするという機会を大切にしています。いろいろな反応があり、勉強になります。なるべくいろいろな場所に行って、いろいろな人々と交わり、話を聞いたりしながら、自分の考えだけに凝り固まることなく歩むことができれば良いかなあと思っています。

そして何より、こころを開いて、イエスさまの声に心を傾ける者でありたいと思います。イエスさまは私たちにどんなに神さまが私たちのことを愛してくださっているかを教えてくださいました。私たちがつらいとき、さみしいときも、神さまが私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださっていることを、私たちに教えてくださいました。

神さまの愛に守られて、私たちもまた愛に満ちた歩みでありたいと思います。人のことを悪く言ったり、自分の考えだけが正しいというような思い込みにとらわれるのではなく、どうすれば神さまの愛に応えることができるのかを考えながら、謙虚に歩んでいきたいと思います。




(2026年6月21日平安教会朝礼拝式) 

6月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「自分の家に帰りなさい」

 「自分の家に帰りなさい」

聖書箇所 マルコ5章1-20節。69/509

日時場所 2026年6月14日平安教会朝礼拝・きてみて合同れいはい


わたしが保育園の園長をしていたときに、よく読まれた本に、佐々木正美さんという方の『子どもへのまなざし』(福音館書店、1785円)という本があります。絵本やこども向けの本をたくさん出している福音館書店から出ています。保育園で、佐々木正美さんの講演会をしましたが、近くの公立の保育園の先生方も聞きに来られたりと、なかなか人気の先生でした。

その佐々木正美さんの『子どもへのまなざし』には、こんなことが書かれてありました。【ある保育園で勉強の会がありましたとき、夕方、出入り口のみえる職員質で、お母さんやお父さんのおむかえの様子をみていました。ときどき、「おんぶして」とかいっている子どもがいるのですね。・・・。いつもは、ちゃんとさっさと歩いて帰る子どもが、「おんぶして」というような日は、たいていは、ちょっと悲しいこととか、つらいことがあった日のことが多いのです。・・・。家までずっとおんぶしていけと、いっているのではないのです。おんぶをちょっとしてあげれば気がすむことなのです。気持ちをいやしたいだけなのです。これは大人にもある感情でして、会社で仕事がうまくいかないことがあった、上司に怒られた、とてもいやなことがあった、取り引きで失敗したなどということがあったときに、家に帰って奥さんにいやされるご主人は、さっさと帰っていきます。帰ってもそれが期待できない場合は、寄り道してバーのママさんなんかに、なぐさめられていくのです。】(P302)。

わたしは大阪教区の仕事で、自宅がある高槻市から、大阪教区事務所がある大阪市の玉造によく通っていました。若い頃はよく買い物をして変えるとか、そういうことをしていたのですが、だんだんと年をとってくると疲れてきて、一刻も早く家に帰りたいと思い、いちもくさんに家に帰っていました。家に帰ると、ホッとするというのは、それはとても幸せなことです。

今日の聖書の箇所は「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。「自分の家に帰りなさい」という説教題は、マルコによる福音書5章19節にあります。イエスさまが悪霊に取りつかれていた人に言われた言葉です。

イエスさまはゲラサの地で、汚れた霊に取りつかれた人に出会われます。この人は墓場を住まいとしていました。夏の暑いときなどは、「墓場は涼しくていいかなあ」などと思ったりもしますが、ふつう人は好きこのんで、墓場に住もうとは思いません。鎖を用いてつなぎとめておくことはできなかったというわけですから、無理矢理、墓場に住まわせられているわけです。家族や身内、町の人たちから捨てられたのです。だれもこの人に関わりたくないと思っていました。そしてこの人自身ももはや家族や身内の人々のところに帰ろうとは思っていませんでした。しかしこの人は大きな悲しみを抱いていました。そして叫ばずにはいられませんでした。また自分で自分を傷つけずにはいられませんでした。そうした悲しみを抱えた人が、イエスさまのところにやってきました。

この人に取りついている汚れた霊は、イエスさまのことをよく知っています。「いと高き神の子イエス」と言っています。汚れた霊のほうが、ファリサイ派の人々や律法学者たちよりも、イエスさまのことをよく知っているというのも、なかなか皮肉なことです。もしかしたら私たちよりも、汚れた霊のほうが、イエスさまのことをよく知っているかも知れません。まあとにかく悪霊はイエスさまがやってきたのであわてるわけです。そして悪霊はもうそのときにすでに、自分たちがイエスさまにかなわないということを知っているのです。ですからイエスさまに命令するのではなくて、懇願するわけです。「後生だから、苦しめないでほしい」と、お願いするわけです。

この男に取りついている悪霊は、「レギオン」だと言います。レギオンというのは、古代ローマの軍隊の単位です。4200人から6000人の兵士からなります。ですから悪霊は「大勢だから」と言っているわけです。「名を、名を名乗れ」と言われて「赤銅鈴之助だ!」と答えられたり、「君の名は」と言われて「後宮春樹」(あとみや・はるき)とか「氏家真知子」(うじいえ・まちこ)と答えられたらいいのですが、まあ名の知れた大した悪霊であるわけではないのです。ただ数が多いのです。

豚は私たちにとっては、おいしいごちそうですが、ユダヤ人にとっては汚れた動物です。汚れた動物に、汚れた霊が入るのであればまあいいかということで、汚れた霊は人から出て行って、豚の中に入りました。すると二千匹ほどの豚の群れが、崖をくだって湖になだれこむという壮絶なことが起こります。そして二千匹ほどの豚は、湖の中でおぼれ死んでしまいました。

どうやら豚は飼われていた豚のようです。豚飼いたちは、この出来事をみて、恐ろしくなります。そして町や村の人にこの出来事を知らせました。人々はいったいどんなことが起こったのだろうとやってきました。するとイエスさまのところに、自分たちが墓場に追い出した悪霊にとりつかれた人が、正気になって座っているのに、気づきました。目撃者によると、どうやら悪霊にとりつかれていた人から出た悪霊が、豚に入って、豚が崖から湖になだれこんで、豚がおぼれ死んだという壮絶な出来事が起こったということがわかります。原因はどうやら、このイエスという男にあるようだ。ちょっと恐ろしいけど、やっぱりこのイエスっていう男に、この地方から出ていってもらったほうがいいみたいだ。「ちょっとおまえ、イエスに出ていてくれって言いにいってこいよ」「えっ、おれが・・・」「そんなこと言いに行って、豚に入ってどっかいった悪霊を呼び戻されて、こんど、『おまえに入れ!』とか言われたら、どうするんだよ」。というような話になったのでしょう。

結局、イエスさまはこの地方から出ていくことになりました。村や町の人たちは、ほっとしたことだと思います。「やれやれ、もうイエスたちがここに居座ると言われたら、どうしようかと思ったよ」と言っていたことでしょう。悪霊に取りつかれていた人は、イエスさまと一緒に行きたいと、イエスさまに言いました。それに対して、イエスさまは「自分の家に帰りなさい」と言われました。この悪霊に取りつかれていた人にとっては、イエスさまについていくということのほうが、とてもうれしいことだったと思います。いままで家族からも、身内からも、そして町や村の人々からも捨てられていたわけです。もちろん、この人自身もいろいろなことでそうした人々に迷惑をかけたりすることもあっただろうと思います。おまけに豚が二千匹あまり死ぬというような事件も起こっています。ここはきれいさっぱりこの地方から去って、自分を救ってくださったイエスさまにお仕えするというほうが、この人にとってはとてもうれしいことだっただろうと思います。

しかしイエスさまはこの人に、「自分の家に帰りなさい」と言われました。そして「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。この人にとっては、それはとても大変なことだったと思います。しかしイエスさまによって救われたこの人は、イエスさまが自分にしてくださったことを、一生懸命に宣べ伝えました。

イエスさまが悪霊にとりつかれた人に「自分の家に帰りなさい」と言われたのは、なかなかきびしい言葉であると思います。しかしたぶん、この人にはこの人を迎えてくれる人たちがいたのだと思います。「いままで辛い思いをさせてすまなかったねえ」と言って、この人を迎えてくれる家族がいたのだと思います。もちろん、「すまなかったねえ」ということではすまないようなことであったわけですが、それでもこの人が家に帰ってきたことを喜んでくれる人がいたのだと思います。

イエスさまは「自分の家に帰りなさい」と言われました。そして「そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。私たちは幸せなことに、イエスさまによって救われたことを知ることができました。私たちはここに帰れば安心だ。ここに帰ればホッとするという家をもっています。つらいとき、かなしいとき、私たちは帰るべきところをもっています。私たちを慰め、いやしてくださる方を、私たちは知っています。

イエスさまは私たちの慰め主として、いつも私たちを招いてくださっています。このことをしっかりとこころにとめて、よき小さなわざに励んでいきましょう。


(2026年6月14日平安教会朝礼拝・きてみて合同れいはい)


6月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「この人をみよ」

 「この人をみよ」

聖書箇所 マルコ1章29-39節。155/280。

日時場所 2026年6月7日平安教会朝礼拝


『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』というのは、映画『アニー・ホール』でウディ・アレンが扮するアルビー・シンガーのせりふです。ウディ・アレンはこの『アニー・ホール』という映画で、1977年にアカデミー最優秀作品賞や監督賞をとりました。

『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。なんとも屈折した感情です。自分は自分のことが嫌いであるわけです。ですからこんな自分を会員として認めるようなクラブはろくでもないクラブだから、そんなろくでもないクラブには入りたくない。本当は寂しいから、どこかのクラブに入りたいわけです。でも「自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない」から、どこのクラブにも入ることができない。

『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。わたしはこの言葉、ある部分はキリスト教の教会に似ていて、ある部分はキリスト教の教会に似ていないなあと思いました。似ている部分というのは、自分が問題になっている点です。評価というのが自分に向けられている点です。キリスト教で大切なのは、自分の罪ということです。問題になるのは自分の罪ということです。人のことはどうでもいいわけです。問題は自分です。もちろんキリスト教でも人のことばかりをとやかくいうことがあります。けれども、基本的には自分の罪が問題であるのです。だいたい聖書の福音書のなかの登場人物でも、人のことについてとやかくいう人というのは、律法学者たちやファリサイ派の人たちとして登場します。でもやはり罪の問題というのは「あの人が罪人だ」ということが問題なのではなくて、基本的に自分の罪が問題であるのです。私たちは「自分は自分のことが嫌いだ」という思いをもっています。「自分は神さまに対して恥ずかしい」という思いを持っています。「こんなわたしがいや」という思いを私たちはもっています。

『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』。でもちがうところは、私たちはやっぱりそれでも「このクラブの会員になりたい」という思いをもっている点です。神さまは「あなたのような人でも、わたしはあなたを愛している」と、私たちを受け入れてくださっています。教会というところは、わたしのようなものが会員として受け入れられているわけですから、ろくでもないところであるわけです。ふつうであれば、『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』と言いたいところですが、しかし私たちはやはり『自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない』というところに留まることができません。私たちは神さまなしではどうしても生きていくことができないのです。私たちは自分を会員にするようなクラブであったとしても、やはりどうしてもこのクラブの会員になりたいと思うのです。

キリスト教は「自分というものに過度な期待をしない」ということが前提となっている宗教です。もちろん罪深い私たちがイエスさまの十字架の贖いによって罪許されて、キリスト者として生きていくわけですから、そこに希望がまったくないわけではありません。しかしそれでもやはり人間のすることですから限界があったり、弱さがあったりします。自分を見ていると、あまり希望がもてないわけです。ですから私たちは自分に希望をおくのではなく、神さまに希望をおいて歩んでいます。また自分だけでなく、やはり人にも過度な期待をしないのです。それはやはり自分と同じ、人間のすることですから、限界があり、弱さがあるからです。私たちは人を見るのではなく、神さまを、そして神の独り子イエス・キリストを見つめて歩むのです。

今日の聖書の箇所は「多くの病人をいやす」「巡回して宣教する」という表題のついた聖書の箇所です。マルコによる福音書1章29-31節にはこうあります。【すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした】。

イエスさまはカファルナウムのユダヤの会堂で、汚れた霊に取りつかれた男をいやされました。イエスさまの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。会堂を出たあと、イエスさまたちはペトロとアンデレの上に行きました。ペトロたちはまあちょっとイエスさまにゆっくりとしてもらいたかったのかも知れません。しかしペトロのしゅうとめは家で熱を出して寝込んでいました。ついでにペトロのしゅうとめもいやしてもらいたかったのかも知れません。イエスさまはペトロのしゅうとめをいやされました。

マルコによる福音書1章32-34節にはこうあります。【夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである】。

夕方になって日が沈むと、まあ夕食を食べてゆっくりしたいというのが人情であるわけですが、イエスさまの場合はそんな生活ではなかったようです。人々が病人や悪霊に取りつかれている人々を、どんどんどんどんイエスさまのところに連れてきます。だいたい夜に訪ねてくるというのは、いろんな事情があるからです。イエスさまにしても「昼間にしてくれ」とは言えません。イエスさまは連れて来られた病気の人々をいやされ、悪霊を追い出されました。イエスさまは一生懸命に、カファルナウムの人々をいやされました。

マルコによる福音書1章35-39節にはこうあります。【朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された】。

大勢の人々がペトロとアンデレの家にやってきて、イエスさまは多くの人々を夜にいやされました。大勢の人々に会い、そしていやされるというのは、なんとも落ち着かず、精神的にも疲れることだと思います。まあ一応眠ることはできたわけですが、イエスさまは朝早く起きて、心を静めるために、神さまにお祈りをささげに、人里離れた所にいかれました。やっぱり一人になるということは、大切なことなのです。しかし人々はなかなかイエスさまを一人にはしてくれません。「イエスさまがおられない」ということで、ペトロたちはイエスさまを探しにやってきました。「どこに行かれたんだろう。イエスさま、どこに行かれたんだろう」。ペトロたちも一生懸命にイエスさまを探したのでしょう。そして見つけて、ほっとして「みんなが探しています」とペトロたちはイエスさまに言いました。

そしてイエスさまは応えられます。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。ちょっといたいたしい感じがします。「イエスさま、もうくたくただろうなあ」と、わたしは思います。それでもイエスさまのところにはたくさんの人々がやってきました。病気をいやしてもらうために、悪霊を追い出してもらうために、せっぱ詰まった状況の中で、困難な状況を抱え込んでいる中で、「イエスさまに頼るしかない」と思った人々が、イエスさまのところにやってきました。イエスさまはガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されました。

今日の聖書の箇所を読むと、イエスさまのことを慕う人々がどんどんどんどんイエスさまのところに集まってくる様子がよくわかります。イエスさまは、はじめはたまたま出会った汚れた霊に取りつかれた男をいやされます。そして次にイエスさまはペトロのおつれあいのお母さんをいやされる。身内の人をいやされたわけです。そしてこんどはカファルナウムの人々をいやされます。マルコによる福音書1章33節には【町中の人が、戸口に集まった】とあります。そしてつぎに、マルコによる福音書1章39節にありますように【ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出され】ました。

先ほど歌いました讃美歌は、讃美歌21−280でした。「馬槽のなかに」という讃美歌です。とても有名な讃美歌です。詞:由木康(ゆうき・こう)、曲:安部正義(あべ・せいぎ)ですから、日本の讃美歌です。この曲の作詞をした、由木康は讃美歌学者です。イエスさまのご生涯をとてもうまく表している讃美歌となっています。

【1.馬槽のなかに うぶごえあげ、木工の家に ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。2.食するひまも うちわすれて、しいたげられし ひとをたずね、友なきものの 友となりて、こころくだきし この人を見よ。3.すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。4.この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】

イエスさまは王宮ではなく、馬小屋の馬槽のなかにお生まれになられました。神の御子でありながら、私たちの世に来てくださり、そして私たちと同じように悲しみや嘆きや苦しみを経験してくださいました。そして【「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」】と今日の聖書の箇所にありましたように、虐げられた人々を訪ねられ、そして友なき者の友となってくださいました。そしてイエスさまは十字架へと歩まれました。十字架につけられても人をののしったりされず、【「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」】と、神さまにとりなしの祈りをささげられました。私たちのように罪深い者のところにも、イエスさまは訪ねてくださり、そして「あなたは神さまから愛されている大切な人なのだ」と言ってくださいました。

この「馬槽のなかに」という讃美歌で繰り返し出てくる言葉は、「この人を見よ」という言葉です。この「この人を見よ」という言葉は、キリスト教において特別な言葉で、絵画などでもよく題名になっています。「エッケ・ホモ」という言葉です。ラテン語だそうです。「エッケ」というのは間投詞で、「ホモ」というのは「人間」という意味です。

「この人を見よ」というような言葉を、聖書の中で言いそうな人というのはだれだと思いますか。わたしはこの「この人を見よ」という言葉を聞いたとき、洗礼者ヨハネがイエスさまのことを「この人を見よ」と言ったのかなあと思ったりしました。しかしこの「エッケ・ホモ」「この人を見よ」という言葉は、総督ピラトが言った言葉です。

ヨハネによる福音書19章1-7節にはこうあります。新約聖書の206頁です。【そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」】。そんな「この人を見よ」なんて、どこにあったのかと思いますが、ヨハネによる福音書19章5節の言葉です。【ピラトは、「見よ、この男だ」と言った】。この「見よ、この男だ」というのが、「エッケ・ホモ」「この人を見よ」です。

総督ピラトから「見よ、この男だ」「エッケ・ホモ」「この人を見よ」といわれたときのイエスさまは、私たちにとって見るのがつらいイエスさまです。弟子たちから裏切られ、大祭司から尋問され、総督ピラトから尋問され、疲れ果てておられるイエスさまです。鞭で打たれ、茨の冠を頭に載せられ、紫の服をまとわされ、「ユダヤ人の王、万歳」と兵士たちから平手でうたれ、そして十字架につけられるイエスさまです。私たちの罪のために十字架につけられるイエスさまです。

私たちは総督ピラトから、イエスさまのことを「この人を見よ」と言われているわけですから、なんとも不思議なことだと思います。洗礼者ヨハネから「この人を見よ」と言われたら、「そうですね。ほんと、そうです。すみません」というような思いになります。しかし私たちは総督ピラトから「この人を見よ」と言われています。「ピラト、あなたに言われたくはないよ」と思えるわけです。

しかし大切なのは「この人を見る」ことなのです。総督ピラトが悪いとか、総督ピラトよりもわたしのほうがましだろうというようなことは、あまり関係のないことなのです。私たちは人を見るのではなく、イエスさまを見ることが大切なのです。

【1.馬槽のなかに うぶごえあげ、木工の家に ひととなりて、貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし この人を見よ。2.食するひまも うちわすれて、しいたげられし ひとをたずね、友なきものの 友となりて、こころくだきし この人を見よ。3.すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし この人を見よ。4.この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は あらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。】。

私たちの救い主イエス・キリストをしっかりとみて、希望を持って歩んでいきましょう。



(2026年6月7日平安教会朝礼拝)


7月5日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「恵みを見つける」

 「恵みを見つける」 聖書箇所 マルコ8:14-21。226/474 日時場所 2026年7月5日平安教会朝礼拝 私たちの日常生活、世界はわたしのためにあると思えるような毎日というわけではありません。「ふたりのため世界はあるの」と言えるような毎日であれば、それはいいわけですが、ま...