「良いものを与えてくださる神さま」
聖書箇所 ルカ11:1-13。343/346。
日時場所 2023年5月28日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ
ペンテコステ、聖霊降臨日と言いますが。イエスさまのお弟子さんたちに、神さまの霊である聖霊がくださり、お弟子さんたちが神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝えはじめます。
ペンテコステは、教会の誕生日と言われます。キリスト教には三つの大きなお祭りがあります。ひとつは、イエスさまの誕生をお祝いする日が、クリスマスです。そして二つ目は、イエスさまが復活なさったことをお祝いする日が、イースターです。そしてもう一つのキリスト教のお祭りが、教会の誕生日と言われるペンテコステです。ペンテコステはイエスさまのお弟子さんに神さまの霊である聖霊がくださり、そして弟子たちがイエスさまのこと、神さまのことを人びとに宣べ伝え、教会が生まれていったということで、ペンテコステは教会の誕生日と言われます。
一番最初のペンテコステの出来事が記されている聖書の箇所は、使徒言行録2章1−13節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。】。
初期のクリスチャンたちは聖霊に満たされて、生き生きと歩み始めました。喜びの知らせを伝えて行きました。私たちもまた聖霊に満たされて、神さまの愛を、隣人に届けていきたいと思います。
今日の聖書の箇所は「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書11章1節にはこうあります。【イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。】。イエスさまが祈っておられるところに、弟子のひとりがきて、イエスさまに祈りを教えてくださいと言いました。バプテスマのヨハネがその弟子たちに祈りを教えたように、私たちにも祈りを教えてほしいと、弟子の一人が言いました。
ルカによる福音書11章2−4節にはこうあります。【そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」】。
なんだか聞いたような祈りだなあと思われると思います。私たちが礼拝毎に祈る、主の祈りに似ています。この聖書の箇所が、主の祈りの原形であるわけです。私たちが祈る主の祈りは、この主の祈りの原形から、いくつかのことが加えられているわけです。イエスさまが弟子たちに教えられたので、「主の祈り」であるわけです。マタイによる福音書6章9節以下にも、「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の9頁です。マタイによる福音書の方がすこし詳しく説明がなされています。
イエスさまが弟子たちに教えられた祈りは、短い祈りでした。とくに、神さまに対する呼びかけが「父よ」というふうに、とても短い呼びかけとなっています。当時のユダヤ教の祈りにおいては、この神さまへの呼びかけということについても、長々と呼びかけて祈るというのが、良い祈りであるとされていました。しかしイエスさまは「父よ」という簡素な呼びかけで、神さまに祈ることを弟子たちに勧めました。神さまに対して祈る時に、「こう祈らなければならない」というふうに構えてしまうと、こころからの祈りを神さまにお献げすることができません。イエスさまは短く祈ることによって、しっかりと神さまにこころを向けて、自分の祈りを神さまに真剣にお献げすることの大切さを、弟子たちに教えられました。
ルカによる福音書11章5−8節にはこうあります。【また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう】。
イエスさまは熱心に神さまにお祈りすることの大切さを、弟子たちに伝えています。熱心にお願いすると、人間だってその熱心さにほだされるということがあるだろうと、たとえでもってそのことを話されました。
旅行中の友だちが、自分のところに立ち寄ってくれたけれど、何も出すものがない。それで友だちのところに行って、パンを三つ貸してくれるようにお願いをする。だけど真夜中なので、もう勘弁してくれよと断られる。友だちということで願いを叶えてくれるということはないかもしれない。でも何度も何度も頼んだら、やっぱり起きて必要なものをくれるだろうと、イエスさまは言われました。
このたとえは聞いている人たちにとっては、「そういうことあるよね」と思えるたとえであっただろうと思います。「もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています」というところなど、なかなか生活感が出ていて、「そうだよなあ」と思えます。せっかく子供たちを寝かしつけたのに、また起きてしまうかも知れないのです。それは勘弁してほしい。でもやっぱり友だちが熱心に願うなら、何度も何度もお願いをされたら、それはやはり願いをかなえてあげざるを得ないのです。
ルカによる福音書11章9−13節にはこうあります。【そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」】。
イエスさまは神さまに熱心に求めなさいと言われます。魚をほしがる子どもに、蛇を与える父親はいないだろう。卵をほしがるどもに、さそりを与える父親はいないだろう。あなたたちは自分勝手な者だけれど、でも自分の子どもには良い物を与えたいと思っている。まして神さまは、神さまを慕い求めるあなたたちに良いものをくださる。あなたたちに神さまの霊である聖霊を与えてくださる。だから熱心に神さまに求めて歩んでいきなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。
私たちの世の中は、魚を欲しがる子どもに蛇を与えるような父親がいたり、卵を欲しがる子どもにさそりを与える父親がいたりします。そうしたことがニュースになって出てきます。「昔はそんな父親はいなかった」と言いたいところですが、まあやっぱり昔もそんな父親はいたわけです。イエスさまのお話を聞きながら、「いや、そんなあまいもんじゃないんだ。世の中は」と思った人たちもいただろうと思います。そして実際に、人を信頼してひどい目にあって、「もう人を信頼することはできない。たとえそれが父であろうと、母であろう」とというふうに思う人もいたたろうと思います。
わたしが保育園で初めて園長として働くようになったとき、若い保育士の女性が、保育経験のないわたしに大切なことを教えてくれました。それは、「こどもが『これしてほしい』と言って、『あとでね『と応えた時は、かならずあとでそのことをしてあげてくださいね」ということです。園長はなかなか忙しいので、こどもに頼まれたとき、「あとでね」と言うことがあるわけです。でも忘れてしまったりすることが出てきます。でもこどもは「あとでね」と言われたら、覚えていて「あとでしてくれるのだ」と思って、ずっと待っています。でも「あとでね」と言われても、それをあとで行うことがなければ、「あとでね」という言葉は、むなしい言葉になってしまいます。人に対する基本的な信頼感、言葉に対する基本的な信頼感が、成長の過程で失われていきます。どうせ願っても、その願いはかなえられることはないのだということが、幼児のこころのなかで、確かな気持ちとして残っていくわけです。
イエスさまの時代の人たちも、「願いはかなえられないものなのだ」という思いを持っていた人たちがたくさんいただろうと思います。そうした切ない思いを抱えている人たちに対して、イエスさまは「あなたのことを愛してくださっている神さまがおられるから安心しなさい」と語りかけたのでした。
いろいろな悲しい出来事や苦しい出来事、つらい思いをすることがあっただろう。もうだれも信頼することができない。世の中にはたくさんの人がいるのだから、神さまだってわたしのことなど心配している暇はないに違いない。だから希望を持つなんてことは考えないで、ただただ一日が過ぎていけばそれでいいんだ。そんなふうにあなたたちは思っているかも知れない。でもそれはやっぱり違うよ。神さまはあなたのことを愛しておられるのだ。あなたのことを大切な一人として見ていてくださり、あなたのことを愛してくださっているのだ。だから神さまに願いなさい。神さまに祈りなさい。神さまが共にいてくださることを信じなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。そのようにイエスさまは言われました。
イエスさまは「良いものを与えてくださる神さまがおられる」と言われます。あなたたちは邪な思いももつし、悪いこころもある。でもそうしたあなたたちを愛してくださる神さまがおられる。そしてあなたたちに良いものを備えてくださり、あなたたちを祝福してくださる。そして何より、あなたたちに神さまの霊である聖霊を与えてくださる。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。
今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。イエスさまの弟子たちに降った神さまの霊である聖霊は、私たちにも降り、私たちを神さまの民として祝福してくださいます。私たちは小さな者であり、いろいろな不安でこころがいっぱいになってしまうことも多いです。しかし私たちは神さまの民としての祝福を受け、神さまの霊による聖霊によって励ましを受けています。しっかりと神さまの示される道を、私たちも弟子たちのように歩んでいきたいと思います。聖霊でもって私たちを祝福し、私たちを用いてくださる神さまがおられます。神さまにお委ねして、安心して歩んでいきましょう。
(2023年5月28日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ)