2023年5月31日水曜日

5月28日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「良いものを与えてくださる神さま」

聖書箇所 ルカ11:1-13。343/346。

日時場所 2023年5月28日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ   


ペンテコステ、聖霊降臨日と言いますが。イエスさまのお弟子さんたちに、神さまの霊である聖霊がくださり、お弟子さんたちが神さまのこと、イエスさまのことを宣べ伝えはじめます。

ペンテコステは、教会の誕生日と言われます。キリスト教には三つの大きなお祭りがあります。ひとつは、イエスさまの誕生をお祝いする日が、クリスマスです。そして二つ目は、イエスさまが復活なさったことをお祝いする日が、イースターです。そしてもう一つのキリスト教のお祭りが、教会の誕生日と言われるペンテコステです。ペンテコステはイエスさまのお弟子さんに神さまの霊である聖霊がくださり、そして弟子たちがイエスさまのこと、神さまのことを人びとに宣べ伝え、教会が生まれていったということで、ペンテコステは教会の誕生日と言われます。

一番最初のペンテコステの出来事が記されている聖書の箇所は、使徒言行録2章1−13節にはこうあります。【五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。】。

初期のクリスチャンたちは聖霊に満たされて、生き生きと歩み始めました。喜びの知らせを伝えて行きました。私たちもまた聖霊に満たされて、神さまの愛を、隣人に届けていきたいと思います。

今日の聖書の箇所は「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書11章1節にはこうあります。【イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。】。イエスさまが祈っておられるところに、弟子のひとりがきて、イエスさまに祈りを教えてくださいと言いました。バプテスマのヨハネがその弟子たちに祈りを教えたように、私たちにも祈りを教えてほしいと、弟子の一人が言いました。

ルカによる福音書11章2−4節にはこうあります。【そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」】。

なんだか聞いたような祈りだなあと思われると思います。私たちが礼拝毎に祈る、主の祈りに似ています。この聖書の箇所が、主の祈りの原形であるわけです。私たちが祈る主の祈りは、この主の祈りの原形から、いくつかのことが加えられているわけです。イエスさまが弟子たちに教えられたので、「主の祈り」であるわけです。マタイによる福音書6章9節以下にも、「祈るときには」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の9頁です。マタイによる福音書の方がすこし詳しく説明がなされています。

イエスさまが弟子たちに教えられた祈りは、短い祈りでした。とくに、神さまに対する呼びかけが「父よ」というふうに、とても短い呼びかけとなっています。当時のユダヤ教の祈りにおいては、この神さまへの呼びかけということについても、長々と呼びかけて祈るというのが、良い祈りであるとされていました。しかしイエスさまは「父よ」という簡素な呼びかけで、神さまに祈ることを弟子たちに勧めました。神さまに対して祈る時に、「こう祈らなければならない」というふうに構えてしまうと、こころからの祈りを神さまにお献げすることができません。イエスさまは短く祈ることによって、しっかりと神さまにこころを向けて、自分の祈りを神さまに真剣にお献げすることの大切さを、弟子たちに教えられました。

ルカによる福音書11章5−8節にはこうあります。【また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう】。

イエスさまは熱心に神さまにお祈りすることの大切さを、弟子たちに伝えています。熱心にお願いすると、人間だってその熱心さにほだされるということがあるだろうと、たとえでもってそのことを話されました。

旅行中の友だちが、自分のところに立ち寄ってくれたけれど、何も出すものがない。それで友だちのところに行って、パンを三つ貸してくれるようにお願いをする。だけど真夜中なので、もう勘弁してくれよと断られる。友だちということで願いを叶えてくれるということはないかもしれない。でも何度も何度も頼んだら、やっぱり起きて必要なものをくれるだろうと、イエスさまは言われました。

このたとえは聞いている人たちにとっては、「そういうことあるよね」と思えるたとえであっただろうと思います。「もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています」というところなど、なかなか生活感が出ていて、「そうだよなあ」と思えます。せっかく子供たちを寝かしつけたのに、また起きてしまうかも知れないのです。それは勘弁してほしい。でもやっぱり友だちが熱心に願うなら、何度も何度もお願いをされたら、それはやはり願いをかなえてあげざるを得ないのです。

ルカによる福音書11章9−13節にはこうあります。【そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」】。

イエスさまは神さまに熱心に求めなさいと言われます。魚をほしがる子どもに、蛇を与える父親はいないだろう。卵をほしがるどもに、さそりを与える父親はいないだろう。あなたたちは自分勝手な者だけれど、でも自分の子どもには良い物を与えたいと思っている。まして神さまは、神さまを慕い求めるあなたたちに良いものをくださる。あなたたちに神さまの霊である聖霊を与えてくださる。だから熱心に神さまに求めて歩んでいきなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。

私たちの世の中は、魚を欲しがる子どもに蛇を与えるような父親がいたり、卵を欲しがる子どもにさそりを与える父親がいたりします。そうしたことがニュースになって出てきます。「昔はそんな父親はいなかった」と言いたいところですが、まあやっぱり昔もそんな父親はいたわけです。イエスさまのお話を聞きながら、「いや、そんなあまいもんじゃないんだ。世の中は」と思った人たちもいただろうと思います。そして実際に、人を信頼してひどい目にあって、「もう人を信頼することはできない。たとえそれが父であろうと、母であろう」とというふうに思う人もいたたろうと思います。

わたしが保育園で初めて園長として働くようになったとき、若い保育士の女性が、保育経験のないわたしに大切なことを教えてくれました。それは、「こどもが『これしてほしい』と言って、『あとでね『と応えた時は、かならずあとでそのことをしてあげてくださいね」ということです。園長はなかなか忙しいので、こどもに頼まれたとき、「あとでね」と言うことがあるわけです。でも忘れてしまったりすることが出てきます。でもこどもは「あとでね」と言われたら、覚えていて「あとでしてくれるのだ」と思って、ずっと待っています。でも「あとでね」と言われても、それをあとで行うことがなければ、「あとでね」という言葉は、むなしい言葉になってしまいます。人に対する基本的な信頼感、言葉に対する基本的な信頼感が、成長の過程で失われていきます。どうせ願っても、その願いはかなえられることはないのだということが、幼児のこころのなかで、確かな気持ちとして残っていくわけです。

イエスさまの時代の人たちも、「願いはかなえられないものなのだ」という思いを持っていた人たちがたくさんいただろうと思います。そうした切ない思いを抱えている人たちに対して、イエスさまは「あなたのことを愛してくださっている神さまがおられるから安心しなさい」と語りかけたのでした。

いろいろな悲しい出来事や苦しい出来事、つらい思いをすることがあっただろう。もうだれも信頼することができない。世の中にはたくさんの人がいるのだから、神さまだってわたしのことなど心配している暇はないに違いない。だから希望を持つなんてことは考えないで、ただただ一日が過ぎていけばそれでいいんだ。そんなふうにあなたたちは思っているかも知れない。でもそれはやっぱり違うよ。神さまはあなたのことを愛しておられるのだ。あなたのことを大切な一人として見ていてくださり、あなたのことを愛してくださっているのだ。だから神さまに願いなさい。神さまに祈りなさい。神さまが共にいてくださることを信じなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。そのようにイエスさまは言われました。

イエスさまは「良いものを与えてくださる神さまがおられる」と言われます。あなたたちは邪な思いももつし、悪いこころもある。でもそうしたあなたたちを愛してくださる神さまがおられる。そしてあなたたちに良いものを備えてくださり、あなたたちを祝福してくださる。そして何より、あなたたちに神さまの霊である聖霊を与えてくださる。「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。

今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。イエスさまの弟子たちに降った神さまの霊である聖霊は、私たちにも降り、私たちを神さまの民として祝福してくださいます。私たちは小さな者であり、いろいろな不安でこころがいっぱいになってしまうことも多いです。しかし私たちは神さまの民としての祝福を受け、神さまの霊による聖霊によって励ましを受けています。しっかりと神さまの示される道を、私たちも弟子たちのように歩んでいきたいと思います。聖霊でもって私たちを祝福し、私たちを用いてくださる神さまがおられます。神さまにお委ねして、安心して歩んでいきましょう。


(2023年5月28日平安教会朝礼拝式・ペンテコステ)

2023年5月23日火曜日

5月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「いつまでもイエスと共に」

日時場所 2023年5月21日平安朝礼拝

聖書箇所 マタイ28:16-20。521/522。

新型コロナウイルス感染症のために、お酒を飲みに行く機会も、ここ数年あまりなかったという方もおられるかも知れません。5月の連休明けから、新型コロナウイルス感染症も、五類感染症に移行したので、そろそろ飲みにいくことを考えておられるという方もおられるかも知れません。

お酒を飲みにいき、「お飲物は何になさいますか?」と聞かれたら、人はよく「とりあえずビール」と言います。わたしはビール好きなので、「それの言い方は、ビールに対して失礼だろう」という思います。「お飲物は何になさいますか?」と聞かれたら、やっぱりはっきりと「ビールが飲みたい」と応えるの良いと思います。ビールも「とりあえず」なんかで飲まれたくはないと思っているでしょう。しかし案外、私たちは「とりあえず」というようないい加減なことをいうのです。

バブル期の女性たちは、数人の男の人とつきあっていて、いろんな用途によってつきあいわけていたと言われます。「アッシー」というのは「いい車を持っていて、いろんなところに運転していってくれる人」のことです。いわゆる「あし」がわりの人なのです。「ミツグ君」というのは、「プレゼントをいろいろ買ってくれる人」のことです。「みついでくれる」わけです。そして「キープ君」というのは、「一番好きではないけれども、一番好きな人とうまくいかなかった場合に備えてつきあっておく人」のことです。「本命君」に対する「キープ君」なわけです。しかし最近は、こうしたことがあまり言われなくなってきました。ひとつには女性にとって結婚ということが、人生の中心ではなくなってきたからだと思います。

しかし「とりあえず」とか「キープしておいて」というような生き方を、私たちはよくします。バーゲンセールに行って、「とりあえずこのセーターをキープしておいて」というふうに抱え込んで、そしてもっとよりよいものはないだろうかと探したりします。ものだったら、まあそれでもいいわけですが、やはり人の場合、なかなかそうもいかないわけです。

人間関係だけでなく、私たちと神さまの関係を考えたとき、私たちはかなり自分勝手なことばかりしているのではないかと思います。「神は愛である」というように、キリスト教の神さまは、愛の神さまです。神さまは私たちを一方的に愛してくれている。たえず私たちは神さまから愛の告白をされているわけです。そしてクリスチャンになるということは、その愛の告白を受け入れるということです。

しかし私たちは勝手なもので、神さまがたえず愛してくれているということを知りながら、いつもいつもその愛に応えることをせず、適当にあるいは自分の好きなときだけ応えているのです。神さまから愛されていながら、いつも神さまの方を向いているわけではないのです。他のものに、こころを奪われてしまっていることがあります。とりあえず神さまからの愛を受けておいて、他におもしろそうなことがあると、そちらにいってしまうのです。そういうことを考えると、「神をキープ君」にしてしまっているというように言えるかも知れません。

イエスさまの復活の出来事は、そうしたいいかげんな私たちに対して、またもや神さまの方から「いつもあなたがたと共にいる」という愛の告白がなされるという出来事です。その告白に対して、私たちは今度はどういうふうに応えていくのかということが、イエスさまの復活の出来事を前にして、私たちに問われています。今日の箇所はマタイによる福音書の最後の箇所です。「弟子たちを派遣する」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書28章は、イエスさまの復活物語が書かれてありますが、その復活物語の最後の部分でもあります。

マタイによる福音書28章16節には、【さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った】とあります。マタイによる福音書では、弟子たちがよみがえったイエスさまと出会う場所は、ガリラヤであるとされています。「ガリラヤ」という場所は、イエスさまの活動の中心的な場所でありました(MT0424,0412)。そして弟子たちの故郷でもあります。弟子たちはイエスさまとの出会いの場所であるガリラヤから、再出発することになるのです。

弟子たちはイエスさまに言われていたように、ガリラヤの山にのぼります。シナイ山でモーセが神さまから十戒をもらったことなどからもわかりますように、山というところは、神さまと出会う場所です。そしてそこで弟子たちは、イエスさまと出会うことになります。

マタイによる福音書28章17節には【そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】とあります。復活の出来事に関して「疑う者もいた」と、マタイによる福音書は言っています。しかしマタイによる福音書には、直接的に疑った人のことが書かれてありません。マルコによる福音書の復活物語は、後からの附加であるというふうに言われたりもしますが、私たちの聖書には一応のっています。イエスさまはマグダラのマリヤや旅をしているふたりの人に現れるのですが、その話を聞いてもだれも「信じません」でした。マルコによる福音書16章は、イエスさまの復活について書かれてあるのですが、この1章の中に「信じなかった」という言葉が3度出てきます。ルカによる福音書24章には、よみがえりのイエスを弟子たちが信じることができなかったので、イエスさまに「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と言われています。またヨハネによる福音書20章には、イエスさまの十字架の傷に指を入れてみなければ信じないと言ったトマスの話が出ています。

「キリスト教で一番大切なことは、キリストの復活である」とよく言われます。しかし聖書はこの復活に関して、信じられない弟子たちの様子を描き出しています。

多くの場合、この復活の出来事を信じることができないものに対して、非難がなされます。いつの世にもイエスさまのよみがえりを信じることのできない悪人はいるのだという調子で非難されています。「主イエスの復活について、予言され、それが成就し、目のあたりにこれを見ながら、なぜなお、疑ったのか」という感じで、よく論じられます。信じることのできないものが、まるで極悪人であるかのように論じられるとき、わたしはなにか釈然としないものを感じます。「わたしは信じられる」と胸を張って、信じられない人を裁いてしまっていいのかと思うからです。イエスさまは聖書の中で「人を裁くな」と言われたではないかと思うのです。

椎名麟三という小説家は『私の聖書物語』という本の中で、次のように言っています。【キリストが神だからという理由で全的にその奇跡を肯定している方々よ。もし少し正直になろう。あなた方も内心ではそんな奇跡なんか少しも信じられていはしないのだ。しかしそれを恥ずる必要は少しもない。実は、信じられないという点こそ、他の宗教はいざ知らずキリスト教にとっては、大切な生命の泉なのである。信じられないものであるという事実を消してしまえば、キリスト教は死んでしまうほどなのだ。信じられないなら信じられないでよろしい。むしろそれは人間の誇りであり、名誉だからである。何故ならそれはまごうことのない厳然とした人間の事実であるからだ。そしてキリストは、その人間の誇りをささえるために、いいかえれば限界への意識によって貧しくなっている人間を、むしろ生々といかすためにやって来たのである。限界をとりはずすためにやって来たのではなく、限界があるということが人間の喜びとなり栄光となるためにやって来たのである】(『私の聖書物語』、57頁)。

「キリストが神だからという理由で全的にその奇跡を肯定している方々よ。もし少し正直になろう。あなた方も内心ではそんな奇跡なんか少しも信じられていはしないのだ」という言葉は、言い過ぎかも知れません。

しかし椎名麟三の言いたいことというのは「信じられない限界のある人間だからこそ、人間とはそういう存在であるからこそ、キリストが人間に働きかけてくれるのだ」ということです。信じられない弱い器である私たちを認め、そのままで愛してくれるというのです。「疑う者がいた」ということから、「疑うやつは極悪人だ」「おまえは疑っていないか」「疑っているのはおまえだろう」というように考えていくのではなく、「自分が疑う者であり、そうした弱い自分を神がそのままで愛してくれている」ということを信じることが、大切だというのです。

自分が神さまを信じられない者であるということがわかることによって、神さまを信じて生きたイエスさまの歩みのすばらしさがわかります。イエスさまは神さまを信じた歩みのゆえに、「天と地の一切の権能を授かっている」ことになったのです。聖書はいかなる力も、イエスさまの前には無きに等しい者であることを告白しています。

そして神さまからいっさいの権威を授けられたイエスさまが、いま私たちと共にいてくださるのです。マタイによる福音書28章20節には【わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる】とあります。

神さまあるいはイエスさまが私たちと共にあるということを、私たちは素直にうれしいことと思います。イエスさまが守ってくださるので、絶対安心であるような気がします。しかしイエスさまと共にあるということは、私たちにとって安心であるということだけではなく、同時にイエスさまの歩みに従うということをも意味しています。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙6章8節で「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と言っています。イエスさまは十字架につけられて殺された方です。そういうことを考えると、イエスさまと共にいるということは、いつもいつもいいことばかりが続くことではないかも知れません。この世的に見れば、あまりいいことがないことなのかも知れません。

そんなことを考え始めると、イエスさまの「いつまでもあなたがたと共にいる」という招きの言葉に対して、すなおに「ありがとう」というふうに思うことができないかも知れません。私たちはそうした弱さを抱えて生きています。

しかし、復活の出来事はそんな私たちを神さまが変えてくださる出来事なのです。イエスさまの弟子たちにとって、イエスさまの死は、奈落の底に突落とされるような事件でした。「神さまはどこにもいない」というように思える絶望的な事件でした。しかし「神はいない」と思える絶望の中に、それでも「神共にいます」ということを信じる人々がいたのです。

私たちはなかなか信じることのできない者であり、イエスさまに従うことのできない者です。しかしイエスさまはそれでもなお、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と私たちに言ってくださっています。この招きに応えて、イエスさまと共に歩みたいと思います。いろいろな不安なことや心配なことが、私たちの現実の中にたしかにあります。しかしそれでもなお、イエスさまは私たちを導き、祝福してくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださるイエスさまに、「私たちも世の終わりまであなたと共にいたい」と応える者でありたいと思います。


(2023年5月21日平安朝礼拝)

2023年5月15日月曜日

5月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「徳の高い生き方をなさいませ」

聖書箇所 ルカ7:1-10。433/520。

日時場所 2023年5月14日平安教会朝礼拝式・母の日礼拝


今日は、5月の第2日曜日ということで、母の日です。6月の第3日曜日が父の日です。母の日と父の日がどちらが子どもから覚えられているのかと言いますと、まあやっぱりいまの時代であっても、やはり母の日だろうと思います。最近は「父の日のプレゼント特集」というものもやっていますが、それでもやはり「母の日のプレゼント特集」のほうが活発なような気がします。

昔、政治家が自分の言ったおかしなことを指摘された時に、ぜったいに自分が正しいと言い張っていましたが、明くる日に「おかんに怒られた」と言って、自分の言ったことを取り下げるというようなことがありました。わたしは「おかんに怒られた」と言って取り下げるんだと、なんとも不思議な気がしました。わたしの文化のなかでは、いい大人が「おかんに怒られた」と言って、自分の言ったことを取り下げるというようなことは、やっぱりないだろうと思います。しかしこの「おかんに怒られた」という文化は、なんとなくあるような気がします。だからまあ政治家の人は自分に分が悪いと思った時に、自分が自分で言ったことを撤回するのではなく、「おかんに怒られた」という形で取り下げたのだと思います。そして周りの人たちも、「まあ、おかんに怒られたのならしょうがないかなあ」というふうに思うわけです。

2020年、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」という映画をみたときに、主人公の煉獄さんのお母さんが亡くなる前に、煉獄さんに話しかけるシーンはなかなか印象的なシーンでした。お母さんはこう言います。

「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。やっぱりこの言葉をお母さんが語るというところが、ミソなのだと思います。お父さんが語ったのではだめなのです。お母さんが語るということに意味があるのです。

しかしなんとなくお母さんにもたれかかったような息子のあり様というのは、なんとなくひっかかるような気もするのですが、しかしなんとなく涙を誘うのです。ということで、わたしは今日の説教題を、母が子どもに伝えるという形の言葉遣いにしました。「徳の高い生き方をなさいませ」。「徳の高い生き方をしよう」や「徳の高い生き方をしなさい」ではなく、「徳の高い生き方をなさいませ」といたしました。

今日の聖書の箇所は「百人隊長の僕をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書7章1−5節にはこうあります。【イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」】。

ルカによる福音書6章では、「幸いと不幸」「敵を愛しなさい」「人を裁くな」というような、いわゆるマタイによる福音書の山上の説教に出てくるような内容のイエスさまのお話がされてあります。そうした大切なお話を民衆に話されて、イエスさまはカファルナウムにやってきます。そこである百人隊長に出会います。百人隊長というのは、軍隊組織のなかで、百人の部下をもつ隊長ということです。イエスさまの時代、ユダヤを治めていたのはローマ帝国でしたので、ローマ帝国の百人隊長ということです。この百人隊長の部下が病気で死にそうでした。イエスさまが病気の人たちをいやしておられたということをどこかで聞いたのでしょうか、百人隊長はイエスさまに部下をいやしてもらおうと、ユダヤ人の長老たちに頼みました。長老たちはイエスさまのところにきて、百人隊長の願いを叶えてあげてほしいと、一生懸命にお願いをします。長老たちは「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を立ててくれたのです」と言いました。「わたしたちユダヤ人を愛して」とありますから、百人隊長はユダヤ人ではないことがわかります。ですから百人隊長はローマ帝国の百人隊長で、異邦人ということです。でも異邦人でありながらも、ユダヤ教に対する理解者であり、ユダヤ教に心を寄せていたので、ユダヤ教の会堂を建ててくれたりして、支援をしてくれていました。それでユダヤ人の長老たちは熱心に、百人隊長の願いを聞いてくれるようにと、イエスさまにお願いをしたのでした。

マルコによる福音書7章24節以下には「シリア・フェニキアの女の信仰」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の75頁です。この聖書の箇所は、マタイによる福音書15章21−28節にも同じような話が出てきます。ルカによる福音書には出てきません。この「シリア・フェニキアの女の信仰」という話は、異邦人の女性が、自分の幼い娘をいやしてもらおうと、イエスさまにお願いをするという話です。しかしはじめイエスさまは彼女が異邦人だったので、やんわりと断ります。でも異邦人の女性が熱心にお願いするので、娘の病をいやしてあげるという話です。この話の中では、イエスさまは基本的には、ユダヤ人の病気を治すけれど、異邦人の病気は治さないという話になっています。しかし今日の聖書の箇所では、百人隊長は異邦人ですが、イエスさまは百人隊長の願いを聞いて、部下の病をいやされます。

ルカによる福音書7章6−8節にはこうあります。【そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」】。

イエスさまはユダヤ人の長老たちの願いを聞いて、百人隊長の部下をいやしにいかれました。イエスさまたちが百人隊長の家に近づいた時に、百人隊長は友だちを使いとしてたてて、イエスさまにこう言いました。イエスさま、家にまで来ていただかなくても大丈夫です。わたしは異邦人なので、あなたをお迎えするような立場の者ではありません。わたしのほうからお伺いすることさえ、ふさわしくないと思っていました。どうかひと言、「あなたの部下の病気は治る」とおっしゃってください。そうすればわたしの部下の病気は治ります。わたしも百人隊長という立場の者ですが、わたしが兵士に「行け」と言えば、兵士は行きますし、「来い」と言えば来ます。「これをしろ」と言えば、そのとおりにします。

ルカによる福音書7章9−10節にはこうあります。【イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。】。

イエスさまは百人隊長の言葉を聞いて関心します。そしてイエスさまは「イスラエルの中でも、これほどの信仰をわたしは見たことがない」と言われました。イエスさまは「この人の信仰はすばらしい信仰だ」と、異邦人である百人隊長のことをほめたわけです。そしてイエスさまはいやしのわざを行われました。百人隊長の使いが、百人隊長の家に帰ると、病気の部下は元気になっていました。

旧約聖書の列王記下5章1節以下には、預言者エリシャがアラム王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病をいやしたという話が出てきます。旧約聖書の583頁です。預言者エリシャは使いのものを、ナアマンのところに送り、「ヨルダン川で七回体を洗ったら直るから」と言わせました。それに対してナアマンは怒ります。列王記下5章11節にはこうあります。【ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた】。ナアマンはエリシャが自分のところに来なかったことを怒ったわけです。

まあナアマンの気持ちもよくわかるわけです、病気をみてもらうのに、私たちもやっぱり親身になってみてもらいたいと思います。私たちも病院に行って見てもらう時に、お医者さんがコンピュータの画面ばかりみていると、「あの医者はコンピュータの画面ばかり見ていて、わたしのことをみてくれない」と思います。コンピュータの画面をみるお医者さんよりも、わたしの顔をみて、「ああ、こりゃ、風邪ですね。葛根湯を出しておきましょう」と言うお医者さんのほうが、良いお医者さんのような気がするわけです。みてもらったあと、診察室の外で待っていると、お医者さんのやさしい声が聞えてきます。「ああ、こりゃ、風邪ですね。葛根湯を出しておきましょう」。それでもやっぱりコンピュータの画面ばかり見ているお医者さんよりも、良いお医者さんのような気がするわけです。

まあそれはさておき、百人隊長はナアマンとは違い、イエスさまが自分の家に来てくださらなくても、「あなたの部下は直る」とひと言言ってくださるだけで、大丈夫ですと言いました。百人隊長はナアマンのようにいばったりしませんでした。自分がえらいものであるというような振る舞いをしませんでした。

百人隊長は日頃から、ユダヤ人たちに親切にしています。会堂を建てたのも、百人隊長です。百人隊長は異邦人でありながらも、ユダヤ人の信じる神さまを信じていたのだと思います。そしてユダヤ人に対して敬意をはらっていたのでしょう。イエスさまに部下の病気をいやしてもらうときも、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」と言っています。当時、ユダヤ人の多くは異邦人のことを汚れた人たちであると考えていました。自分たちは特別な民族であるという考え方は、私たちの時代からすると、「それはちょっと高慢な考え方だろう」と思います。ですから本来であれば、民族的な意味においては、百人隊長はイエスさまに対して、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」というようなことを言う必要はないような気がします。ただ百人隊長は、イエスさまに対して特別な敬意をもっていたのだと思います。「この方は病気の人をいやし、貧しい人々のことを心に留めておられる方だ。神さまの示される道を歩んでおられるすばらしい方だ」。そのような敬意を、百人隊長はイエスさまに対してもっていたのだと思います。

百人隊長が病をいやしてほしいと願ったのは、自分の病気ではなく、また自分の家族の病気ではありませんでした。。百人隊長は自分の部下の病気をいやしてもらうようにと、イエスさまにお願いをしました。百人隊長は部下思いの人であるわけです。

イエスさまは百人隊長をほめられました。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と、イエスさまは言われました。それは百人隊長が、まっすぐな信仰をもっていたからです。兵士が上官に命令をされたら、それに従うように、自分も神さまによって良きことを示されたら、神さまの御心をしっかりと行なっていきたい。そういうまっすぐな信仰をもっていたからです。

百人隊長は神さまに対してしっかりとこころを向けて歩んでいました。ですから百人隊長はユダヤ人に対して親切でしたし、部下に対しても配慮がある人でした。神さまの御子としての歩みをされているイエスさまに対して、とても謙虚な思いをもっていました。ひと言で言えば、百人隊長は人徳者であったのです。

徳の高い生き方をするということは、とても大切なことです。とくに現代のように、「法律に違反しなければいいだろう」「立件されなければ、犯罪を犯したことには成らない」というような雰囲気が漂っている社会の中にあって、徳の高い生き方をするということは、それはとても大切なことだろうと思います。

今日は母の日ですので、はじめに紹介いたしました、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」の主人公の煉獄さんのお母さんの言葉をもう一度読んでみたいと思います。「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。

百人隊長のお母さんが百人隊長にどんな言葉をかけていたのかというようなことは、あたりまえですが、聖書に出てくるわけではありません。しかし私たちは思います。たぶん百人隊長のお母さんは百人隊長に、「徳の高い生き方をなさいませ」と語っただろうと思います。それは私たちの願いであり、私たちもそのように歩んでいきたいと思うからです。

神さまが私たちを祝福し、私たちを愛してくださっています。私たちはそのことをしっかりと受けとめて、神さまに神さまにふさわしい歩みでありたいと思います。



  

(2023年5月14日平安教会朝礼拝式・母の日礼拝)


2023年5月9日火曜日

5月7日平安教会礼拝説教要旨(一木千鶴子牧師)

「いのちの小さな声を聴け」

マタイによる福音書6章25~34節

 生命絶滅のスピードはどんどん加速していて、2億年ぐらい前恐竜がいた時代は、1,000年の間に1種類の生物が絶滅したそうですが、2,3百年前になると4年で1種、100年前には1年で1種が絶命するというペースになったそうです。そして、1975年には1年間で1,000種、今では1年間に4万種以上の生物が絶滅しているそうです。人間が今のままの生活を続ければ、そう遠くない将来に地球上からほとんどすべての生物が消えてしまうかもしれないとも言われています。私たち人間は、自分たちの利益のために、小さな命の居場所を容赦なく奪ってきました。いのちの小さな声を聴けない世界は、人間の命をも粗末にする世界に違いありません。

 イエスさまは、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われました。こんなに小さな命をも神は大事に養い、育ててくださる、ましてや神は、どんなにあなたを大事に思ってくださっていることか、そのことを信頼して、今日という日を精一杯生きよ、そう呼びかけておられます。

 あらためてこの聖書の箇所を読むと、イエスさまは、空の鳥や野の花の命は、はかない命だけれど、それらの小さな命は神が愛しておられる命であり、決して人間が自由にでき命ではないのだ、ということも言われているように思います。イエスさまは、今の私たちに問われているのではないでしょうか。人間の便利さや利益のために、それら小さな命を軽んじ、排除する私たちの生き方に、イエスさまは「それでいいのか」と問うておられるのではないでしょうか。

 空の鳥、野の花を見て、そのいのちの声を聴き、イエスさまの言葉を思い起こしたい。そしてイエスさまを通して明かにされた神の愛を思い起こしたい。その愛が、私たちに注がれていることを信頼する、そんな私たちでありたいと思います。そして、誰かの命を犠牲にするのではなく、隣人の命を心から尊敬し、共に生きる、そのような神の国と神の義を第一に祈り求める者でありたいと思います。そうして今日という日を感謝して精一杯生きる者でありたいと思います。私たちが平和の道、命の道を選びとることができますように。


2023年5月2日火曜日

4月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「あなたを愛している人がいる」

聖書箇所 ヨハネ6章34-40節。333/484。

わたしは二つの母子像の絵をもっています。一つはケーテ・コルヴィッツの母子像の絵で、もう一つは『ウラジーミルの生神女』と呼ばれる正教会のイコンの模写です。『ウラジーミルの生神女』は、扇田幹夫先生からいただいたものです。この『ウラジーミルの生神女』は、ロシア正教会で最も有名な生神女(聖母マリア)のイコンの一つだそうです。生神女(しょうしんじょ)というのは、生ける神の女と書きます。生神女とは、聖母マリアのことです。

このイコンの特色は、イエスさまとマリアが頬を寄せ合っているというところです。このイエスさまとマリアが頬を寄せ合って描くというのはイコンの描き方のようです。エレウサ型という形式があるそうです。エレウサというのは、ギリシャ語で「慈憐」、慈愛と憐れみという意味です。マリアのイエスさまへの慈愛と、そしてすべての者に対する慈愛を表し、そしてイエスさまがこれから受けられる十字架の苦しみを思っての嘆きと忍耐を表しているのだそうです。

わたしはこのイコンを見ながら、イエスさまがマリアさんにマーキングをしているのかと思いました。マーキングというのは、「これはわたしのもの」というしるしのようなものです。小さな子どもが母親に甘えて、頬をくっつけるということはよくあることだと思います。また母親のほうからこどもに対して親愛の情をこめて、頬をくっつけるということもよくあることです。もちろん親子ということだけでなく、恋人同士が頬を愛情を込めて頬をくっつけるということもあるでしょう。

エレウサ型という形式は「マリアのイエスさまへの慈愛と、そしてすべての者に対する慈愛を表し、・・・」ということでしたから、たぶんマリアの方からイエスさまに頬を寄せているということなのだと思います。しかし絵を見ただけでは、マリアの方からイエスさまに頬を寄せているのか、それともイエスさまの方からマリアに頬を寄せているのか、わかりません。わたしはなんとなくイエスさまの方からマリアに頬を寄せているような気がしていました。ですからわたしはこのイコンを見ながら、イエスさまがマリアにマーキングしていると思ったのです。わたしはイエスさまはマリアに対してだけでなく、誰に対しても頬を寄せてくださって、「あなたのことが大好きだよ」と言ってくださっているような気がするのです。イエスさまはいつも私たちがさみしいとき、かなしいとき、私たちのところにきてくださり、私たちに頬をよせて慰めてくださいます。この『ウラジーミルの生神女(しょうしんじょ)』を見ていると、そんなふうに感じました。わたしのことを愛してくださる人がいることの幸いを感じます。

今日の新約聖書の箇所は「イエスは命のパン」という表題のついた聖書の箇所の一部です。イエスさまは「五千人に食べ物を与える」という奇跡を行なわれました。ヨハネによる福音書6章1−15節に記されてあります。それは五つのパンで五千人の人々が満腹し、そして残ったパン屑が12の籠いっぱいになったという奇跡でした。人々はその奇跡を見て、ますますイエスさまに付き従うようになります。しかしイエスさまは人々に対して、【朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい】(ヨハネによる福音書6章27節)と言われました。そして【わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる】(ヨハネによる福音書6章32節)と言われました。

そして今日の聖書の箇所になりますが、ヨハネによる福音書6章34−35節にはこうあります。【そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない】。

イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われました。ヨハネによる福音書では、イエスさまは「わたしは・・・・・である」という言葉で、自分を表されます。「わたしは羊の門である」(ヨハネによる福音書10章7節)、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネによる福音書10章11節)、「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネによる福音書15章1節)。イエスさまが「わたしは・・・・・・である」と言われるのは、とても重要なときです。イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われました。

イエスさまは人々に、「わたしに付き従うならば永遠の命を得ることができる」と言われました。食べるパンは食べてしまったらなくなってしまう。しかしわたしに付き従って歩むならば、神さまが私たちを祝福してくださり、豊かな人生を歩むことができる。目先のパンではなく、永遠の命につながる生き方をあなたたちはしなければならない。わたしにつながって生きるならば、神さまから永遠の命が与えられると、イエスさまは言われました。

ヨハネによる福音書6章36−38節にはこうあります。【しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである】。

イエスさまは「わたしのことを信じるのか、信じないのか」と一人一人に問われます。「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」。どうしてわたしのことを信じようとしないのか。わたしはあなたがたを招いているのに。わたしは決して自分の方から追い出すというようなことはしない。すべての人々を招いている。「わたしのところに来なさい」と招いている。わたしがこの世に来たのは、わたしが自分勝手な気持ちで人を裁いたりするためではなく、神さまがわたしをお遣わしになられたのだ。わたしはただ神さまの御心を行なっている。そのようにイエスさまは言われました.

ヨハネによる福音書6章39−40節にはこうあります。【わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」】。

そしてイエスさまは神さまの御心について話されました。神さまはイエスさまのことを信じる人々がすべて永遠の命を得ることができるようにと願っておられる。イエスさまのことを信じるすべての人が、神さまによって永遠の命を得ることができる。そして世の終わりの時にみな復活することができる。イエスさまを信じる人がすべて、神さまの祝福のうちに永遠の命を生きることができる。それが神さまの御心だと、イエスさまは言われました。

イエスさまは人は神さまから愛されている。人はみな神さまの救いの中に入れられている。神さまを信じる人々に永遠の命を与えるために、神さまはわたしをお遣わしになったのだと、イエスさまは言われました。だからイエスさまは【「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」】と言われたのです。

神さまは私たちの世にイエス・キリストを送ってくださいました。それはイエス・キリストの十字架によって、私たちの罪を贖うためでした。イエスさまが私たちの罪のために十字架についてくださることによって、私たちは救われたのです。このことは神さまがご計画されたことでした。愛する御子イエス・キリストを十字架につけることによって、神さまは私たちの罪を赦されました。イエスさまが私たちの身代わりになって、神さまに罰せられたのです。【わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである】というのは、そのことです。ヨハネによる福音書3章16−17節にはこうあります。【神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである】。

私たちは神さまの愛の中に生きています。私たちは罪深いものです。いろいろな邪な思いも持ちますし、また互いに傷つけあうことも多いです。神さまの前に正しいものであることはできません。いろいろなときに自分のだめなところに気づいて、とてもいやな気持ちになります。どうして心ない言葉を語ってしまったのだろう。どうして配慮できなかったのだろう。どうして傷つけてしまったのだろう。いろいろなことで後悔します。神さまの前に立ち得ない罪深さを感じるときがあります。

そんな私たちですから、神さまから裁かれて当然であるわけです。しかしそんな私たちであるわけですが、私たちは神さまの愛の中に生きています。私たちは裁かれるために生きているのではなく、私たちは愛されるために生きています。

イエスさまは【わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである】と言われました。「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで」とありますように、神さまは私たち一人一人をかけがえのない者として愛してくださっています。「一人も失わないようにする」という思いで、神さまは私たちを愛してくださっています。

イエスさまは「あなたを愛している方がいる」と、私たちにくりかえしくりかえし教えてくださいます。私たちは神さまにふさわしいから愛されているのではありません。私たちにすばらしいことがあるから、私たちを神さまが愛してくださっているのではありません。私たちは神さまの前にふさわしいものではないけれども、ただ神さまは私たちを愛してくださっているのです。

使徒パウロは「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)と言いました。そして自分は罪にとらわれた惨めな人間だと言いました。その胸のうちを使徒パウロは、ローマの信徒への手紙7章15−20節でこう語っています。【わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです】。悪いことと知りながら、罪に取りつかれて悪いことを行なってしまう。【わたしはなんと惨めな人間なのでしょう】(ローマ7章24節)と使徒パウロは嘆きました。

しかし、使徒パウロはそんな惨めな人間を救うために、イエス・キリストが十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださったことを知りました。そして【わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします】(ローマ7章25節)と、イエス・キリストによって救われた者の喜びを告白しています。

「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)。しかしそれでも神さまは私たちを愛してくださるのです。私たちは神さまのものです。神さまは罪深い私たちに、「わたしのところに帰ってきなさい」と招いておられます。神さまの愛に応えて、神さまのところに帰りましょう。 



(2023年4月30日平安教会朝礼拝)

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》