2023年8月23日水曜日

8月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「恥ずかしいことをしてしまった」

 

聖書箇所 マタイ21:18-32。155/460。

日時場所 2023年8月20日平安教会朝礼拝式

   

なんかちょっと恥ずかしかったなあと反省させるような出来事に出会うときがあります。先日、地下鉄に乗り、座っていると、妊婦のような女性が入ってきました。「大丈夫かなあ。こりゃ、代わったほうが良いかなあ」とぼんやりと思っていると、前に座っている若い男性がスッと立って、席を代わっていました。「ああ、どうしてわたしはスッと立てなかったのかなあ」と思いました。まあわたしももう60歳ですから、自分が思っているようには、若者のようにスクッと立ち上がることができないということもあるとは思います。まあわたしももう若いとは言えないので、そうそう電車にのって席を立つというようなことを、いつもいつもしているわけでもないのですが、でもなんか、ちょっとこのときは、恥ずかしい気がしました。みなさんにも「こうしたらよかったなあ」と思えるような出来事に出会うことがあると思います。

今週の9月1日は関東大震災から100年の日です。1923年、関東大震災のときに、朝鮮人が暴動を起こしているというデマを信じて、朝鮮人に対する虐殺事件がたくさん起こりました。加藤直樹さんの『九月、東京の路上で』(ころから)という本には、そのことがいろいろと書かれてあります。自警団による朝鮮人に対する虐殺が行われた一方、そのとき朝鮮人を守った人たちもいました。【関東大震災時の朝鮮人虐殺の記録を読んでいると、朝鮮人をかくまった日本人もいたことがわかる。あれほど軽々(かるがる)と多くの朝鮮人の生命が奪われている最中でも、ひそかに、ときに公然と朝鮮人をかくまった人の記録にしばしば出会うのである。屋根裏にかくした、殺されようとしている子どもを連れて逃げた等である。「朝鮮人を守った日本人」の話として最も有名なのは横浜の鶴見警察署署長の大川常吉(つねきち)だろう。警察署を包囲した1000人の群衆を前に「朝鮮人を殺す前にこの大川を殺せ」と宣言したと言われる。・・・。朝鮮人をかくまった庶民の話は多い。下宿人を空き部屋に隠した下宿屋。日本刀を手に職工を守った工場経営者。朝鮮人労働者を守って自らも半殺しの目にあった親方。青山学院の寄宿舎は子どもを含む70-80人の朝鮮人をかくまったという】(P.145)。

朝鮮人の虐殺事件が起こっている中で、必死に朝鮮人を守った日本人がいたわけです。しかし一方で関東大震災時に起こった朝鮮人への虐殺事件を忘れ去ろうとしている人たちもいます。東京都知事は、2017年以降、「1923年の関東大震災で、虐殺された朝鮮人らを悼む式典」への追悼文を送っていません。恥ずかしいことをしてしまったことを隠そうとすることは、とても恥ずかしいことだと、わたしは思います。関東大震災時に起こった朝鮮人への虐殺を忘れ去ろうとすることは、そのときに朝鮮人を守った横浜警察署署長の大川常吉のような日本人に対しても、失礼だろうと思います。9月1日は、関東大震災から100年の式典になるわけですが、東京都知事がぜひこころからの追悼文を送っていただきないなあと思います。後で考え直して、恥ずかしいことをしてしまったことを悔い改めるということは、すてきなことだと思います。

今日の聖書の箇所は「いちじくの木を呪う」「権威についての問答」「二人の息子のたとえ」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書21章18−22節にはこうあります。【朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」】。

朝早く、エルサレムに帰る途中、イエスさまはお腹が空いたなあと思われました。道端にいちじくの木があり、もしかしたらいちじくがなっているのではないかと近寄ると、いちじくの実はありませんでした。それでイエスさまがいちじくの木に、「いまからずっとお前に実がならないように」と言われると、いちじくの木は枯れてしまいました。弟子たちはその様子をみて驚きます。そして「どうして枯れてしまったのですか」と、イエスさまに聞きました。するとイエスさまは「あなたがたも信仰があるならば、いちじくの木に対してだけでなく、山に向かって『立ち上がって、海に飛び込め』と言うと、そのとおりになる。信じて祈るなら、求めるものは何でも得られる、とイエスさまは言われました。

この話は私たちが読むと、なんとも釈然としないお話のような気がします。子どもの教会のスタッフの方で、子どもの教会の礼拝説教で、この「いちじくの木を呪う」という聖書の箇所があたっていたら、ちょっと戸惑うだろうと思います。わたし自身も戸惑います。まあ言いたいことは、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」ということなのだと思います。でも、そのことを伝えるために、どうしてイエスさまがいちじくの木を枯らした話を用いるのかということが、わたしには理解できません。お腹が空いていて、自分が育てたのでもない道端のいちじくに実がなっていないのに腹を立てて、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言うなんて、「どれだけイエスさま、機嫌が悪かったんだ」と思います。「イエスさまもお腹が空いていると、機嫌が悪かったから、皆さんも委員会の前には昼食を食べたほうがいいですね」という結論しか、わたしには思い浮かばないというような気がします。こうした聖書の箇所は、無理をして、それらしい結論を導き出すよりも、「なんかよくわからないけど、イエスさまはそうだったんだ」ということで良いような気がします。

マタイによる福音書21章23−27節にはこうあります。【イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」】。

イエスさまが神殿の境内で人々に神さまのことを伝えておられたとき、祭司長や民の長老たちがやってきました。そしてイエスさまに「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いただします。祭司長たちや民の長老たちは、自分たちは神さまからの権威が与えられていて、神殿のいろいろなことを取り仕切っている。私たちの言うことを聞かなかったり、私たちを批判することは、神さまを批判することだと言うわけです。私たちを批判しているイエスは、神さまからの権威ではなく、悪魔からの権威によって、それを行なっているのだと言うわけです。

イエスさまはそれに対して、洗礼者ヨハネを持ち出して、祭司長や長老たちを問いただします。あなたたちの質問に答える前に、あなたたちに答えていただきたい。洗礼者ヨハネのことをあなたたちはどう考えているのか。洗礼者ヨハネの洗礼は、天からのものなのか、人からのものなのか。洗礼者ヨハネは群衆に人気があり、群衆は洗礼者ヨハネのことを神さまの使い、神さまの預言者と思っていました。洗礼者ヨハネも、イエスさまと同じように、祭司長や長老たちを批判していました。

イエスさまから問いただされて、祭司長や長老たちは考えます。「天からのものだ」と答えると、「それではどうして洗礼者ヨハネの言うことを聞かなかったのか」と言われるだろう。しかし「人からのものだ」と答えると、群衆が怒り出すだろう。群衆は洗礼者ヨハネのことを、神さまの使い・神さまの預言者だと思っているのだから。ここは「分からない」と答えるしかないな。ということで、祭司長や長老たちは「分からない」と答えます。するとイエスさまはあなたたちが答えないのなら、わたしも答える必要はないだろうと言われました。

祭司長や長老たちは、腰が引けているわけです。そういう意味では、祭司長や長老たちは「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」というような質問をしているわりには、彼らは「人からのもの」で生きています。人から自分がどのように評価されるかとか、この人は人からの支持があるから逆らわないでおこうとか。やっぱり群衆は怖いわとか、彼らは「神からのもの」ではなく、「人からのもの」に強く影響を受けるのです。

マタイによる福音書21章28−32節にはこうあります。【「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」】。

イエスさまはたとえ話をされました。二人の息子をもつ人がいて、兄の方に「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。すると兄は「いやです」と答えます。でも後で考え直してぶどう園に行って働きました。同じように弟にも「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。すると弟は「お父さん、承知しました」と答えました。でも弟は出かけていきませんでした。イエスさまは「この二人のうち、どちらが父の望み通りにしたと思うか」と、祭司長や長老たちにたずねました。彼らは「兄の方です」と答えます。するとイエスさまは、はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたたちよりも先に神の国に入るだろう。洗礼者ヨハネがあなたたちに悔い改めを迫った時に、あなたたちは悔い改めなかった。しかし徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネを信じて、悔い改めた。あなたたちはそれをみても、まだ考え直して、洗礼者ヨハネを信じようとしなかった。だからあなたたちよりも先に、徴税人や娼婦たちのほうが神の国に入ることになる。

イエスさまは「後で考え直す」ということは大切なことだと言われます。人間ですからそのとき機嫌が悪いというようなこともあります。また体調がすぐれないということもあるかも知れません。元気な時であれば素直に応じることができることであっても、機嫌が悪かったり、体調がすぐれなかったりすると、意固地になってしまうというようなこともあります。出かけに夫と口論になり、いやな気持ちを抱えて、人に会いに行くと、その人が言った小さな冗談が気に障って、大きな口論になるというようなことも、人間ですからあるわけです。でもあとから冷静になって考えてみると、「ああ、やっぱり自分が悪かったなあ」と思えることもあります。

またお腹が空いていたので、ついついトゲのある言葉をかけてしまったというようなこともあると思います。普通なら言わないのだけれど、なんかお腹が空いててイライラして、言わなくても良いことを言ってしまったというようなことがあるわけです。イエスさまでさえお腹が空いていて機嫌が悪くて、いちじくの木に「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われることがあるくらいです。

しかし私たちには「後から考え直す」ということができるわけです。いろいろな事情があって、おかしなことを言ってしまったり、卑怯なことをしてしまったり。言わなくても良いことをいってしまったり、人を傷つけてしまったり。そうしたことが私たちの日常生活のなかで起こります。未然に防ぐことができれば、まあそれに越したことはないわけですが、でもなかなかそういうわけにもいかないのです。私たちは腹を立てることがありますし、いらいらするようなこともあるわけです。そしてついつい、良くないことを言ってしまったり、してしまったりします。

そうしたことがあるわけですが、私たちは「後で考え直す」ということができるのです。イエスさまのたとえ話の中の兄は、「後で考え直す」のです。父親から「ぶどう園へ行って働きなさい」と言われるわけですが、「いやです」と答えてしまったのです。しかし「後で考え直して出かけた」のでした。

祭司長や長老たちは「後で考え直す」ことができませんでした。徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて悔い改めました。しかし祭司長や長老たちは、徴税人や娼婦たちが悔い改めた様子を見ても、彼らは「後で考え直して」、洗礼者ヨハネを信じることはできませんでした。悔い改めることがありませんでした。

「恥ずかしいことをしてしまった」と後で考え直して、そのことを改めるということは、とても大切なことです。だれでも失敗をしたり、へんなことをしてしまうことがありますから、後で考え直して、すてきな自分に戻ることが大切です。

いつのころからか、私たちの世の中でも「嘘に嘘を重ねる」というようなことが行われるようになってきました。自分に都合の悪いことは、フェイクニュースだと言う人たちも出てくるようになりました。「後で考え直して」反省をするのではなく、忘れることを期待して、嘘に嘘を重ねて逃げ切ろうというような姿勢が見られるようになってきました。そうしたことは神さまの前にふさわしいことではないような気がします。

しかし洗礼者ヨハネの呼びかけに、徴税人や娼婦たちが答えたように、私たちもまた悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。私たちが神さまの前に誠実な歩みをしているときに、「やっぱりわたしも誠実な歩みでありたいよね」と思う人たちが増えてくるだろうと思います。そして私たちの世界も良い世界になると思います。

イエスさまは私たちに「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と教えてくださいました。私たちは「御国がきますように」と信じて祈りたいと思います。神さまの義と平和とが満ちあふれる世界になりますようにと、信じて祈りたいと思います。よくないことやへんなこともしてしまう私たちですが、それでも「後で考え直して」、神さまの前に悔い改めて、神さまの平安のうちを歩んでいきたいと思います。





(2023年8月20日平安教会朝礼拝式)

2023年8月15日火曜日

8月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

「おごれる人も久しからず」


聖書箇所 ルカ12:35-48。120/453

日時場所 2023年8月13日平安教会朝礼拝


平家物語の冒頭は有名です。

【祇園精舎の鐘の声(ぎおんしょうじゃの かねのこえ)

 諸行無常の響きあり(しょぎょうむじょうの ひびきあり)

 沙羅双樹の花の色(さらそうじゅの はなのいろ)

 盛者必衰の理をあらわす(じょうしゃひっすいの ことわりをあらわす)

 おごれる人も久しからず(おごれるものも ひさしからず)

 ただ春の夜の夢のごとし(ただはるのよの ゆめのごとし)

 たけき者もついには滅びぬ(たけきものも ついにはほろびぬ)

 偏に風の前の塵に同じ (ひとえにかぜのまえの ちりにおなじ)】

【『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している】(ウィキペディア、平家物語)。

高校生のときに覚えさせられたので、いまだに「おごれる人も久しからず」という言葉と共に出てきます。たぶんわりとわたしはこの言葉が好きなのでしょう。わたしもついつい心の中に高慢な思いが出てくることがあります。「おごれる人も久しからず」ということですので、やはり謙虚に歩んでいきたいと思います。

茨木保さんの『まんが医学の歴史』(医学書院)を読んでいました。医学の歴史については、わたしは知らないことが多く、ああ、そんなことがあったのかと感心させられながら読みました。医学者にもいろいろな人がいて、高慢な人がいたり、強欲な人もいたり、嘘つきがいたりします。また、あまり周りの人の評価とかに関心がなく、ぼーっとした人がいたります。

近代外科学の開祖と言われるアンブロアズ・パレという人は、謙虚な人だったと言われています。16世紀の人ですが、当時、拳銃で撃たれると、火薬の毒に汚染されないように、傷口を煮えたぎった油で消毒をしたり、焼きゴテで焼いたりするということが行なわれたそうです。いま考えると恐ろしいことだと思いますが、それが当時の医学的治療でした。あるときペレは油をきらしてしまいます。しかしけが人はどんどんと運び込まれてきます。ペレは卵の黄身と油を混ぜて軟膏をつくり、それを煮えたぎった油の代わりにつかってみました。けが人たちの傷をやさしく包帯で包みました。けが人達はいままでの治療では考えられないほどに回復しました。その後、治療のために煮え油が使われることはなくなっていくのです。

【ペレは、医学史家から「易しい外科医(げかい)」と称されている。その理由には2つある。1つは、彼が煮え油や焼きゴテという根拠のない残酷な処置を否定し、「侵襲(しんしゅう)を最低限におさえる」という、外科学の鉄則を確立したこと。もう1つは、彼が1人ひとりの患者に対しても、常に愛護的な精神を忘れなかったことだ】(P.52)。ということです。

パレが残した有名な言葉は「我、包帯し、神、これを癒やしたもう」という言葉です。「よくなりましたね」「はい、先生のおかげです」「いえ、私は包帯をしただけです。あなたを治したのは神さまですよ」。そのようにパレは患者に接していたようです。「我、包帯し、神、これを癒やしたもう」。なんとも謙虚な言葉でいいなあと思います。

今日の聖書の箇所は「目を覚ましている僕」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書12章35−40節にはこうあります。【「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」】。

「主人が婚宴から帰ってくる」というのは、世の終わり・終末のたとえということです。イエスさまの時代はいまの私たちの時代よりも、世の終わり・終末が近いというふうに考えられていました。「もうすぐ世の終わり・終末が来る」ということが、一般的に信じられていたということです。それでもなかなか終末が来ないですから、「ちょっと遅いなあ」というふうに感じる人たちもいて、ちょっとだらけているという雰囲気もありました。

私たちは携帯電話の時代に生きていますから、「いま地下鉄の国際会館駅、もうすぐつきます」というように簡単に伝えることができますが、イエスさまの時代はそういうわけにはいかないのです。主人が婚宴から突然帰ってくるように、終末はやってくると考えられていました。世の終わり・終末はいきなりやってくるのです。ですから「終末はなかなか来ないなあ」などと思ってだらけていると、大変な事になるわけです。ですからいつも目を覚ましていなければならないのです。【腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ】というのは、そういうことです。いつもちゃんとして、主人が帰ってくるのを待っていることができれば、主人のほうもそれ相応の対応をしてくれる。【主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる】。だから世の終わり・終末に備えて、しっかりとしていなさいということです。

ルカによる福音書12章41−44節にはこうあります。【そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない】。

イエスさまが世の終わり・終末の話をされたときに、使徒ペトロは「このたとえ話は私たち使徒に対して言われていることなのですか、それとも一般的な人々に対して言われていることなのですか」と質問をしました。イエスさまはその問いに直接答えられるということはありませんでした。イエスさまが話されたたとえからすると、まあふつうに考えて一般的な人々に対して語られている教えのように思えます。しかしイエスさまは使徒ペトロの質問に続けて、忠実で賢い管理人の話をしておられます。この忠実で賢い管理人というのは、ペトロたち使徒であるということでしょう。【主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである】というように、神さまから使徒として託された業をちゃんとするということが大切だと、イエスさまは言われます。

ルカによる福音書12章45−48節にはこうあります。【しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」】。

世の終わり・終末のときに備えてちゃんとしている忠実で賢い管理者である僕は、神さまから大きな祝福を受けるわけですが、どうではなくいいかげんなことをしている不忠実な管理者は、神さまから罰せられるのです。神さまは管理者である僕にいろいろなことをまかせているわけです。ある意味信頼されているのです。だからその信頼に応えなければならないのです。しかし信頼に応えることをしないで、いいかげんなことをしていると、あとで罰せられるというのです。

神さまから託された管理者として、してはいけないことというのは、「下男や女中を殴ったりしてはいけない」ということです。管理者は神さまから託されて、下男や女中が仕事をするような体制を整えるのが、その役割であるわけです。しかしそうしたことを忘れて、自分が女中の主人であるかのようになって、下男や女中に対して暴力をふるったり、虐げたりする。そうしたことは許されないことなのです。また終末がくるわけですから、ちゃんとしていなければならないので、贅沢三昧をしていたり、よっぱらってしまっていてはいけないのです。

「下男や女中を殴ったりしてはいけない」というのは、結局、「謙虚になりなさい」ということなのです。力で人を支配しようとするのは、それは神さまの目からすると、それは異常なことなのです。自分のことを異常に高いところに置くからこそ、力で人を支配することができるのです。暴力的であったり、力で人を支配しようとすることを、神さまは強く戒められ、「謙虚になりなさい」と言われるのです。

そしてイエスさまは弟子たちに言われました。【すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される】。あなたたちは使徒として多くの責任を求められ、多くのことを任されているのだから、多くのことが要求されるのだ。なかなかきびしいことが言われています。神さまから選ばれて、その役割を与えられているのだから、謙虚になって、任されていることに誠実に取り組みなさい。世の終わり・終末は必ず来るから、それにしっかりと備えなさい。ぼんやりとしているのではなく、神さまから託されていることを行ないなさい。そんなふうにイエスさまは弟子たちに言われました。

【すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される】。世の中の社長さんたちはたぶんこの聖書の箇所を読まれると、「まさにそのとおりだ」と思われるのではないかと思います。座右の銘にしているというクリスチャンの社長さんなども多いのではないかなあと思います。「やっぱり社長さんは大変だなあ。そこいくと私たちは気楽なもんだ」と、私たちは思いがちですが、そういうことでもないわけです。

私たちもまた神さまに多くのことを任されているのです。使徒ペトロはイエスさまに【「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」】と尋ねました。使徒ペトロは十二弟子として、一般的な人々からすると、先にイエスさまを知り、イエスさまに弟子として召された人でした。使徒ペトロはだれよりも先にイエスさまに弟子として召された者の責任があるのです。そしてそういう意味において、私たちもまた先にクリスチャンになった者としての大きな責任があるのです。私たちは先に救われた者として、宣べ伝えるという仕事を神さまから託されています。私たちは伝えられた者として、伝える者になるということを、神さまから託されています。【すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される】。私たちも神さまからたくさん愛された者として、神さまに多くのことを託されています。

神さまはイエス・キリストの十字架のあがないによって、私たちの罪をゆるしてくださいました。そして私たちはクリスチャンとして、永遠の命を受け継ぐ者として、神さまから招かれています。このことはとてもすばらしいことですが、それは私たちがいばることではありません。私たちはときどき勘違いをして、自分がクリスチャンであることを誇りに思うがゆえに、いいばってしまうことがあります。「まだ救われていない人たちに、神さまのことを教えてやる」というような感じで、キリスト教の福音を宣べ伝えていくというようなときがありますが、それはちょっと違うだろうと思います。私たちは救われた喜びを宣べ伝えているわけですから、いばっていてはその喜びは伝わらないのです。

讃美歌1編の11番に「あめつちにまさる」という讃美歌があります。【1.あめつちにまさる かみの御名を ほむるにに足るべき こころもがな。2.おごらず、てらわず へりくだりて、わが主のみくらと ならせたまえ。(3.生くるも死ぬるも ただ主をおもう ゆるがぬこころを あたえたまえ。4.こころをきよめて 愛をみたし、わが主のみすがた 成らせたまえ。5.みめぐみゆたけき 主よ、きたりて、こころに御名をば しるしたまえ)】。もうわたしの年代の人であっても、なかなか意味のわからない讃美歌だなあと思います。

讃美歌21では492番です。讃美歌1編の11番の「おごらず、てらわず へりくだりて わが主のみくらと ならせたまえ」というのは、なかなか印象的な歌詞です。讃美歌492番では「心を低くし、御前に伏す」です。「てらう」というのは「ひけらかす」ということです。(自分の学識・才能・行為などを誇って、言葉や行動にちらつかせる)。「みくら」というのは「大切なものを納めているところ、またそこに勤める下級役人(僕)」ということです。「おごらず、てらわず へりくだりて」というのが、クリスチャンの良き姿勢であるということです。

イエスさまは【「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい】と言われました。世の終わり・終末の話というと、私たちはなんだかちょっと遠くの話というような気になってしまいがちです。しかし世の終わり・終末がいつくるか、それは昔の人がそうであったように、私たちにもわからないことです。すぐに来るかも知れないし、またなかなか来ないかも知れません。私たちは備えて待つしかありません。備えて待つと言っても、無理して待つことは出来ませんから、ふつうに待つのです。「おごらず、てらわず へりくだりて」、神さまの僕としてふつうに待つのです。

私たちクリスチャンは、「終末を見つめて、きちんと生きる」ということが大切です。周りの人々から誉めたたえられるような生き方でなくても、神さまとの関係を正しく保って、きちんと生きるのです。私たちは罪人ですから、正しく生きることはできないかも知れません。なんどもなんども神さまを裏切るようなことをしてしまうかも知れません。それでもやはり神さまの前に立つ一人の罪人として、きちんと生きるのです。世の終わり・終末に、神さまの前に立つということを、心に留めて、きちんと生きるのです。できなかったことはできなかったこととして、神さまにご報告し、だめだったことはだめだったと、神さまにご報告する。そして神さまに守られ、神さまに愛されて、人生を歩むことができた幸いを、心から感謝したいと思います。

「おごらず、てらわず へりくだりて」、クリスチャンとしての良き人生を、これからも歩みましょう。




(2023年8月13日平安教会朝礼拝)

2023年8月8日火曜日

8月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「隣人を自分のように愛しなさい」

 

聖書箇所 ルカ10:25-42。57/371。

日時場所 2023年8月6日平安教会朝礼拝式・平和聖日

 

今日は私たちの属する日本基督教団が定めた「平和聖日」です。金曜日、土曜日、平安教会では朝7時から早天祈祷会がもたれて、平和のために祈りを献げました。

ことしは平和聖日に、「戦争プロパガンダ展」を計画いたしました。ウクライナ戦争などを見ていると、ある地方への攻撃について、「この攻撃はウクライナの攻撃だ」「いやこれはロシアの攻撃だ」というようなことが言われます。情報戦が行われるわけです。アジア・太平洋戦争のときの満州事変も、日本軍が満州で南満州鉄道の線路を破壊したにもかかわらず、それを中国軍のしわざとして、中国軍に攻撃を始めます。日本軍は「自衛のための行動だ」と言います。自分たちで破壊活動をしておいて、相手の国の攻撃だといい、そして攻め込んでいくわけです。情報のない私たちは国家が出す情報によって、「自衛のための行動」だと思わされ、そして戦争へと駆り出されていくわけです。とても怖いのです。私たちは過去の戦争を振り返りながら、自分たちが戦争に駆り出されて行くことのないようにしたいと思います。

今日の聖書の箇所は「善いサマリア人」「マルタとマリア」という表題のついた聖書の箇所です。

ルカによる福音書10章25−28節にはこうあります。【すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」】。

イエスさまは律法の専門家から「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問われます。それに対して、イエスさまは「律法にどう書いてあるか」と律法の専門家に問いかけます。そして律法の専門家は、まず申命記6章4−5節の御言葉を引用します。申命記6章4−5節にはこうあります。旧約聖書の291頁です。【聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい】。またレビ記19章18節にはこうあります。旧約聖書の192頁です。【復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である】。

律法の専門家の言葉に対して、イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われました。永遠の命を受け継ぐための正しい答えをあなたは知っているのだから、それを実行しなさいと、イエスさまは律法の専門家に言われました。まあ「知ってるんだったら、それをしろよ」と、イエスさまは律法の専門家に言われたわけです。でもまあ私たちもそうですけれども、知っているからと言って、それを行えるわけでもありません。それで律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、イエスさまに質問をして、とぼけるわけです。

ルカによる福音書10章29−37節にはこうあります。【しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」】。

イエスさまはたとえ話をされました。あるユダヤ人が「追いはぎ」に襲われる。追いはぎというのは、まあ強盗のようなものです。半殺しの状態にあるユダヤ人のわきを、祭司は立ち去り、レビ人も立ち去っていく。しかしサマリア人がその人を憐れに思って、手当てをします。宿屋に連れていって介抱し、翌日、宿屋の主人にデナリオン銀貨2枚を渡して、引き続き介抱してくれるように、そして費用がもっとかかったら、帰りがけに支払いますとお願いをします。そうしたたとえを話されたあと、イエスさま律法の専門家に尋ねます。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。すると律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えます。そしてイエスさまはまた「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。

「わたしの隣人とはだれですか」という質問は、なかなかきびしい問題です。それは人と人との間に線引きをすることであるからです。ユダヤ人は自分たちは神さまから選ばれた民族であると考えていましたから、どちらかと言えば、自分たちの民族と他民族との間の線引きをきっちりと付けたがる民族であるわけです。ユダヤ人か、異邦人かという、線引きであるわけです。基本的に律法における「隣人」というのは、ユダヤ人内の話であるわけです。異邦人の「隣人」というのはないのです。私たち日本人もどちらかと言えば、自分たちの民族と他国の人とを分ける傾向の強い民族です。日本人か、外国人かという分け方です。

でも実際問題、「隣人」というのは、隣にいる人であるわけですから、だれが隣にいるか分からないわけです。ユダヤ人とは限りません。隣にいる人がユダヤ人である場合が多いとは思いますが、でもそうでない場合もあります。

紀元前720年頃に、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ばされ、アッシリアの移住制作によって、サマリアに異邦人が定住するようになります。その結果、ユダヤ人と異邦人の間に生まれた人々がサマリア人であるということが、一般的には言われます。ですからイエスさまの時代のサマリア人に対する感覚というのは、異邦人ではないけれども、純粋なユダヤ人でもないというような感じです。そのためユダヤ人とサマリア人は仲が良くないわけです。

「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対して、イエスさまは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家にたずねています。隣人の定義だどうだこうだということではなく、「人は隣人になる」のだと、イエスさまは言われます。「隣人はだれか」ではなく、「隣人になる」のだと、イエスさまは言われるのです。隣人とはそういうものだ。困っている隣にいる人が隣人で、それをあなたが助けて、その人の隣人になるのだと、イエスさまは言われました。

「隣人」の話が、間にはいっているので、ちょっと混乱しますが、よくよく考えてみると、そもそも「永遠の命を受け継ぐための話」をしていたわけです。永遠の命を受け継ぐためには、困っている隣にいる人を助けるということが大切なのだということです。ですから「それを実行しなさい」「行って、あなたも同じようにしなさい。」というように、とにかく困っている人を助けに行きなさいと、イエスさまは言われるわけです。

ルカによる福音書10章38−42節にはこうあります。【一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」】。

私たちは「永遠の命を受け継ぐためには」「隣人とは」「困っている人たちを助けたい」「世界の平和のために」というようなことを話しながら、実際は家族のなかで、「あいつ、どうよ」というようなことを繰り返します。マルタはマリアの態度がいやでした。イエスさまがお家にやってきたので、マルタはイエスさまをもてなすために一生懸命に働いています。しかしマリアはイエスさまの足もとに座って、イエスさまの話を聞いています。それでマルタは「あいつ、どうよ」と思います。そしてイエスさまに「なんとか言ってください」と頼みます。しかしイエスさまはなんともマルタに対して冷たい言葉がけを行ないました。

いいことをしていると思っているときには、人は人のことを裁きがちです。「あいつ、どうよ」と思います。「わたしが一生懸命に、イエスさまのおもてなしをするために働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしがこんなに世界平和のために一生懸命に働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしが一生懸命にイエスさまの話を聞いているのに、『あいつ、どうよ』」。

イエスさまから「それを実行しなさい」と言われて、それを実行しているうちに、周りの人が実行していないことが気になるということが出てくるときがあります。自分が良いことをしているがゆえに、腹が立って、人を裁いてしまうというようなことが出てきます。マルタもそうでした。イエスさまにお仕えしたいとの良き思いを強く持っていました。そしてマリアのしていることが腹立(はらだ)たしく思いました。そんなとき、イエスさまはマルタに、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と声をかけられました。一生懸命になると、平和でなくなることがあります。こころに余裕がなくなって、人を裁いてしまうことがあります。多くのことで悩んで、心を乱してしまうことがあります。

イエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。マルタがそうであったように、身の回りのことでも、私たちはついつい腹を立てて、自分の心の中を憎しみまみれにしてしまうことが多いです。「あいつ、どうよ」「どうして、あいつ、あんなことしているの」。心の中がついつい憎しみや怒りに支配されてしまうということがあります。しかしイエスさまは「愛しなさい」と言われました。あなたは憎しみに支配されてしまっているけれど、でも大丈夫。わたしの愛をあげるから、あなたも愛するようになりなさい。

わたしが「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」、神さまを愛したように、あなたも愛に満たされていきなさい。わたしが隣人を愛したように、あなたも隣人を愛しなさい。そのようにイエスさまは私たちを招いておられます。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」。マタイによる福音書5章9節の聖書の御言葉です。神さまの愛に満たされて、平和を実現する人として、隣人を愛し、神の子として歩んでいきましょう。




(2023年8月6日平安教会朝礼拝式・平和聖日)



2023年8月3日木曜日

7月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)

 「お調子者でごめんなさい」

 

聖書箇所 ルカ9:51-62。18/459。

日時場所 2023年7月30日平安教会朝礼拝式

  

太宰治の『走れメロス』は、友人を人質において妹の結婚式に出席し、帰ってくるという話です。「メロスは激怒した」。メロスは激怒するテロリストです。「必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した」。しかしメロスは失敗して、人間不信に陥っている暴君ディオニスに捕まります。メロスは死刑になることになるわけですが、死刑の前に妹の結婚式に出て帰ってくるから生かせてくれと暴君ディオニスに頼みます。

【「ああ、王は悧巧(りこう)だ。自惚(うぬぼれ)ているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」】。

しかし暴君ディオニスは信じません。そこでメロスは自分の身代わりに、親友のセリヌンティウスを人質として置いていくから、行かせてくれというわけです。

【「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」】。

続きは、お家に帰ってから「走れメロス」を読んでいただいたらよいわけですが、人生には「これをする前に、それをしておきたい」というようなことが起こるわけです。もちろんこのことは大切なことで、こころからそのことをしたいと思っているけれども、でも現実にはその前にそれをしておきたいということが起こるわけです。メロスにとっては「死刑に処せられる」ということはとても大切なことであったわけですが、しかしその前に「妹の結婚式」に出席をすることをしなければならなかったのです。

昔、ビジネスマンがリゲインというドリンクを飲んで24時間働いていたという時代の4コマ漫画にこんなのがありました。「田中くん、大阪に転勤で行ってくれ」「すみません。その前に、トイレにいかせてください」「トイレに行きたいだと、そんな暇あるわけないだろう。いますぐ、大阪に行きなさい」。

まあでも大切なことがあるけれども、でもその前にしなければならないことがあると思えるときというのが、私たちの人生にはあるわけです。

今日の聖書の箇所は「サマリア人から歓迎されない」「弟子の覚悟」という表題のついた聖書の箇所です。ルカによる福音書9章51−55節にはこうあります。【イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。】。

イエスさまは私たちの罪のために十字架につけられるときが近づいてきたことを悟り、十字架に付けられる場所であるエルサレムに向かいます。エルサレムに向かう途中に、サマリア人の村にやってきました。しかしサマリア人はイエスさまを歓迎しませんでした。サマリア人とユダヤ人は当時、仲良くありませんでした。ユダヤ人はサマリア人のことを蔑んでいましたし、サマリア人はそんなユダヤ人のことを嫌っていました。でもイエスさまはユダヤ人の中でもまあいい人なのかもしれないとサマリア人の村人は思っていたかも知れません。でもイエスさまがエルサレムに行かれるというのを聞いて、「やっぱりイエスさまもエルサレムに行かれるのだ。ほかのユダヤ人と変わりない」と思いました。そしてイエスさまを歓迎しませんでした。ヤコブとヨハネはそんなサマリア人たちに腹を立てます。そして「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。そうした不適切な発言をするヤコブとヨハネを、イエスさまは戒められました。

ルカによる福音書9章56−58節にはこうあります。【そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」】

イエスさまたちはサマリア人の村から別の村に行きました。するとイエスさまに「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいました。イエスさまのことをすばらしい人だと思い、この人についていきたいと思う、志の高い人であったのだと思います。しかしイエスさまは「狐には隠れる穴があり、空の鳥には体を休める巣がある、しかしわたしには体や心を休める場所はない」と言われました。「そんなわたしに付き従うというのは、並大抵のことではない。それでもわたしに従ってくることはできるのか」と、イエスさまは問うておられるのです。

ルカによる福音書9章59−62節にはこうあります。【そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた】。

「あなたについて行きます」という人がいたので、イエスさまは別の人に「わたしに従いなさい」と言われました。その人は、「イエスさま、あなたについて行きます。でもその前に、父の葬りに行かせてください」と言いました。ユダヤは父親の権威の強い社会です。ですから親の葬りを行なうということは、ユダヤでもとても大切なことでした。しかしイエスさまは父の葬りは、他の家族に任せて、あなたは神さまのことを宣べ伝えるために、わたしについてきなさいと言われました。

また別の人も、「イエスさまに従います。しかしその前に最後に家族に会いに行かせてください」と言いました。しかしイエスさまは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われ、一度、わたしについてくるといったのだから、もう家族のことを顧みることなく、わたしについてきなさい。鋤に手をかけて、田畑を耕そうとしている人は、前を向いて田畑を耕す。後ろを向きながら、田畑を耕したりはしない。そのように、イエスさまは言われました。

イエスさまに付き従うということは、なかなか厳しいことであることがわかります。「走れメロス」のメロスではないですが、「このことの前に、せめてこのことをしておきたい」というようなことはあるわけです。メロスは死刑になる前に、せめて妹の結婚式に出席をしたいと思いました。イエスさまに従いますと言った人も、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言います。また別の人は、「まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いました。父の葬りに行くことも、家族にいとまごいに行くことも、まあ常識の範囲ないだと思います。「ああ、行ってきなさい」と言ってあげるということのほうが良いのではないかとも思えます。

イエスさまの時代は世の終わり・終末ということを、みんなが身近に感じていました。もう世の終わり・終末はすぐに来るというふうに思っていたわけです。ですからあんまり悠長なことを言っている場合ではないというような思いが強かっただろうと思います。どちらかというと激しい時代であるわけです。「どっちにするんだ。どうするんだ」ということが激しく問われるわけです。

マルコによる福音書1章16節以下に「四人の漁師を弟子にする」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の61頁です。マルコによる福音書1章16−20節にはこうあります。【イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。】。

イエスさまの弟子選びの話であるわけですが、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、どちらも「すぐに」、イエスさまについていくのです。イエスさまのお弟子さんたちは、いろいろな失敗をするわけですが、でもこの「すぐに」イエスさまについていったということは、とても良いことであったわけです。イエスさまの弟子たちは「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」「まず家族にいとまごいに行かせてください」とは言わないのです。

でもまあ、もうすぐ世の終わり・終末が来るということであれば、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスさまの後について行ってもよいかも知れません。でも私たちの場合は、なかなかそうもいかないのです。親の葬りということは大切なことだと思います。「この仕事についたら、親の死に目にも会えないということを覚悟しなさい」というようなことが言われたりしました。ですからまあ、葬りにいくことができないということもあるでしょう。あるいは家族にいとまごいに行くこともできないこともあるでしょう。あるいは妹との結婚式に行くことできないということもあるでしょう。それはそれで仕方がないかも知れません。みんな「かわいそうだけれども、仕方がない」と思ってくれるでしょう。それでは「介護」というような場合はどうでしょうか。自分以外のだれかがやってくるから、「まあええか」というふうに言うことができるでしょうか。

実際、イエスさまについて行く前に、やっぱりしなければならないと思えることということは、私たちの生活のなかで起こってきます。それを「不信仰」という言葉でもって片づけることはできないということがあります。

人はどちらかというといさましい物語が好きです。「すべてを棄てて、イエスさまに従った」という物語にこころ引かれていきます。わたし自身もそうです。こころが踊るような信仰の話を聞くとうれしくなります。「棄てられた人の介護をした人たちはだれですか」というようなことは、あまり気に留められてきませんでした。しかし高齢化社会になって、「ケア」の大切さということが言われるようになっています。ケアというのは、家事、育児、介護、あるいは医療や看護というようなことです。

小川公代という文学者が書いた『ケアの倫理とエンパワメント』という本を読みました。いろいろな小説をケアという観点から読み解くという内容です。【ウルフ(バージニア・ウルフのことです)が一九二六年に発表したエッセイには「病気が愛や戦いや嫉妬と同程度に文学の主要テーマになっていないというのは、いかにも奇妙なことである」と書かれている。(しかし、じつはその二年前に病小説とも呼べる『魔の山』がトーマス・マンによって書かれていた。ウルフがマンのこの小説を看過看過(かんか)していたことは極めて驚くべきことである)】と書かれています。とても丁寧に文学の読み直しがなされています。

今日の聖書の箇所などもそうですが、以前は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」とか「まず家族にいとまごいに行かせてください」とか言うことは、それは信仰の観点から見ると、良くないことと考えられてきました。しかし実際問題そうしたことは、私たちの生活から切り離して考えることはできません。

イエスさまの弟子のヤコブとヨハネが「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言うのを、イエスさまから戒められるという話も、また微妙な話であるわけです。サマリア人から歓迎されなかったからと言って、「天から火を降らせて、サマリア人を焼き殺しましょう」と思うというのは、まあどうかしています。自分たちを英雄視しているので、自分たちは何でもできると思っているのです。私たちは「父ゼベダイを残して、イエスさまに付き従ったヤコブさまとヨハネさまだ」という思いが、ヤコブとヨハネにはあるわけです。

聖書には「イエスは振り向いて二人を戒められた」とだけありますが、わたしはもっと、イエスさまがヤコブやヨハネを激しく叱ったほうが良いのではないかと思います。ただイエスさまにしても、【「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない】にも関わらず、よく父ゼベダイを家に残して、自分に付き従ってきてくれたという思いが、ヤコブやヨハネに対してあるのだと思います。

人にはさまざまな事情や人間関係があり、「これが正解です」というようなことにはなかなかなりません。多くの人は悩みを抱えながら決断し、その決断を後悔したりしながら、前に進んでいきます。またその人特有の個性というのもありますから、「ちょっとどうよ」というようなことをしてしまうというようなこともあります。

わたしはヤコブとヨハネのサマリア人に対する態度はどうかと思いますが、でも一生懸命にイエスさまに付き従っているにも関わらず、サマリア人から冷たい態度をとられたヤコブとヨハネの悔しさもわかるような気がします。そうした中で、ヤコブとヨハネは強がりを言うわけです。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。でもヤコブとヨハネにはそんな力はないわけです。ヤコブとヨハネが天から火を降らせたというようなことは、聖書のどこにも書かれてありません。そういうことでは、ヤコブとヨハネはなかなかのお調子者であるわけです。

「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人も、まあなかなか調子の良い人であるわけです。いろいろなことを考え始めると、なかなかイエスさまに付き従うという決断をすることはできません。いろいろなことが起こるかも知れないというのが、私たちの人生であるわけです。「イエスさまに付き従う」と言った後で、そのようにできない事情が出てくることもあるかも知れません。「すみません。従うことができませんでした」というようなこともあるかも知れません。

先のことはよくわからないのですが、私たちは調子よく「イエスさまに従います」という思いを大切にしたいと思います。「お調子者でごめんなさい」。「すみません。ちょっとできませんでした」ということがあるかも知れません。それでもイエスさまの「わたしに従いなさい」との招きに応えたいと思います。

私たちのことをすべて知ってくださり、そして私たちのことを愛してくださるイエスさまが、私たちを招いてくださっています。「わたしに従いなさい」との招きに応え、イエスさまにお委ねして歩んでいきたいと思います。



  

(2023年7月30日平安教会朝礼拝式)



12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》