2024年10月24日木曜日

10月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「悪より救い出したまえ」

「悪より救い出したまえ」


聖書箇所 ヨハネ17:13-26。3/462。

日時場所 2024年10月20日平安教会朝礼拝


今日は午後2時から、平安教会ふれあいコンサートがもたれます。いろいろな方々が出演してくださいます。とても楽しみにしています。秋はいろいろな行事があり、楽しみなことが多いですね。

教会のバザーは11月3日(日)にもたれます。バザー賛美フェスとして、礼拝からはじめます。ぜひ礼拝からご家族・ご友人の方々とご一緒にご参加ください。

今日が小さい頃に通っていた今治教会でも、バザーがありました。わたしはとても楽しみにしていました。小学生・中学生の頃は、父が教会員でしたからバザー券をもらい、バザーにいきました。今治教会のバザーは「やきとり」というのがあって、それを食べるのがとても楽しみでした。あとマドレーヌをいくつも買って、食べるのが楽しみでした。普段は三個も四個も食べることはないですから、バザーのときはお小遣いをためて、うれしげに食べていました。高校生になると、高校生の会が喫茶を任されて、みんなで前の日に用意して、当日もまた朝から店で交代で給仕をしていました。私たちの教会のバザーを毎年楽しみにして来てくださる方々がおられます。楽しく感謝しながら、バザーを行なうことができればと思います。来週は準備の会がありますから、ぜひよろしくお願いいたします。

「これぐらいならまあいいか」と思って、だんだんと深みにはまってしまうというようなことがあります。ギャンブルなどもそうですけれど、まあちょっとだけと思ってやり始めると、財布の中のお金が全部なくなってしまっていたというようなことがあるわけです。

「これぐらいならまあいいか」と思って、だんだんと深みにはまってしまうというようなことがあります。ギャンブルなどもそうですけれど、まあちょっとだけと思ってやり始めると、財布の中のお金が全部なくなってしまっていたというようなことがあるわけです。

いま政治家の裏金問題でおおごとになっていますが、だぶんやりはじめたときは「まあ大した悪いことではないだろう」というような思いでやっておられたのだろうと思います。「政治家に倫理など求めていないだろう」と、政治家自身も思っていて、「少々悪いことをしても、政治家だから大目に見てもらえるだろう」と思っていたわけですが、まあそうそう大目に見てもらえることはなく、おおごとになってしまったわけです。

私たちの世界はなかなか誘惑の多い世界で、「これくらいならまあいいか」と思っていると、とんでもないことになってしまうことがあるわけです。

(また何気なくはじめたことで、犯罪に巻き込まれていくというようなことも、私たちの世の中にはあります。振り込め詐欺などで、「かけ子」と言われる末端の人たちは、未成年や学生がアルバイトとして応募することがあると言われます。スマホで「運送のアルバイト」とか、「電話をかけるアルバイトです」と思って応募すると、振り込め詐欺の手先として働かされるようになってしまった。住所や電話番号、家族のことなどを知られてしまい、辞めることもできなかったということがあるようです。

私たちの世界はなかなか誘惑の多い世界で、「これくらいならまあいいか」と思っていると、とんでもないことになってしまうことがあるわけです。)

今日の聖書の箇所は「イエスの祈り」という表題のついている聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書18章1節以下には「裏切られ、逮捕される」という表題のついた聖書の箇所があります。ですからヨハネによる福音書では、イエスさまが逮捕される前に、弟子たちのために祈られたということになっています。

ヨハネによる福音書17章13-16節にはこうあります。【しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです】。

イエスさまは神さまのところにいま帰ると言われました。イエスさまは世の罪を除く小羊として、私たちの罪を担うために、この世にきてくださいました。そして今、私たちの罪のために十字架につけられようとしておられます。イエスさまは神さまのみ言葉を語られましたが、世の人々はそれを受け入れようとはしませんでした。しかしイエスさまの弟子たちは、イエスさまの言葉を受け入れました。そしてイエスさまは弟子たちは、イエスさまの言葉を受け入れたので、「この世に属していない」と言われます。イエスさまは弟子たちの心配をしておられます。そして神さまに「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってください」と言われました。

ヨハネによる福音書17章17-19節にはこうあります。【真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです】。

イエスさまは弟子たちがみ言葉を信じることによって、聖なる者となることができるようにと、神さまに祈られました。そしてそのために、自分自身をささげて十字架につくと言われました。イエスさまはご自分が十字架という神さまの業を成し遂げることによって、弟子たちもまた神さまの御旨を信じて歩む者になることができると言われました。

ヨハネによる福音書17章20-23節にはこうあります。【また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります】。

イエスさまは弟子たちのために祈られたのではありません。弟子たちによってイエスさまを信じる人たち、そしてその信じた人たちによって信じる人たち。そしてその信じた人たちによって信じた人たちによって信じた人たち。そしてその信じた人たちによって・・・・・、そして私たちへとイエスさまを信じる人々の群れはつながっています。イエスさまは私たちのために祈ってくださっています。そして忘れてはいけないことは、私たちがイエスさまのことを伝える次の世代の人たちのために、イエスさまは祈っておられるということです。

【こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります】。イエスさまが十字架につけられるときは、世はイエスさまを信じていないわけですが、だんだんとイエスさまを信じる人々がイエスさまのことを伝えるようになり、そして神さまがイエスさまを愛され、神さまが人間を愛してくださっていることを、世が知るようになるのです。

ヨハネによる福音書17章24-26節にはこうあります。【父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」】。

イエスさまは「わたしと同じように弟子たちも神さまのことを知っている」と、神さまに祈られました。しかし実際、弟子たちはイエスさまのことを、そして神さまのことを信じ切っていたわけではありませんでした。イエスさまが十字架につけられたあと、弟子たちはみんなイエスさまを裏切って逃げてしまったのです。イエスさまがここで祈られたようなりっぱな弟子たちではありませんでした。何も分かっていない愚かな弟子たちであったわけです。イエスさまはそのことを知っておられました。弱い弟子たちのことを、よく知っておられました。しかしイエスさまは弟子たちのことを知っておられたにも関わらず、「この馬鹿な弟子たちはわたしのことを何も分かっていないダメな人間なんです」とは、祈られませんでした。イエスさまは「わたしの弟子たちは真理を知っている」と神さまに祈ってくださいました。イエスさまはそういう方なのです。

イエスさまは天に帰られる前に弟子たちのため、「悪い者から守ってください」と神さまに祈られました。イエスさまが弟子たちに教えられた祈りが、「主の祈り」としてのちのクリスチャンに伝えられています。マタイによる福音書6章9-13節にはこうあります。新約聖書の9頁です。【だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』】。主の祈りは「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」とあります。私たちが普段祈っている主の祈りでは、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」となります。

私たちが主の祈りで、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈り、そしてイエスさまが神さまに「悪い者から守ってください」と祈ってくださっています。私たちは誘惑に弱いですし、りっぱな信仰をもっていると言いがたいところがあります。

この世でいろいろな事件が起こる時に、わたしはちょっと不安になるときがあります。もしかしたらこの事件を起こした人のように、自分も誘惑に負けて、同じようなことをしてしまうのではないかというふうに思う時があります。ですから主の祈りのなかにある「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、わたしにとってはとても切実な祈りです。

そんな私にとって、イエスさまが天に召される前に、弟子たちのために神さまに祈られた「悪い者から守ってください」という祈りは、とてもうれしい祈りです。イエスさまは私たちのために「悪い者から守ってください」と、神さまに祈られました。私たちは弱いですから、いろいろな誘惑に陥ってしまうときがあります。ふらふらと悪い者へと誘われてしまうときがあります。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが十字架につけられたときに、ものの見事にみんないなくなってしまいました。

使徒ペトロなどは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。マルコによる福音書14章27-31節にはこうあります。新約聖書の92頁です。【イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った】。

「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」という使徒ペトロに対して、イエスさまは「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われました。そしてそのとおり、使徒ペトロはイエスさまを裏切ることになります。使徒ペトロがイエスさまを知らないと言った話を読むときに、使徒ペトロの弱さはまさに私たちの弱さだと思います。

イエスさまはそうした私たちの弱さを知っていてくださり、私たちのために神さまに「悪い者から守ってください」と祈ってくださったのです。イエスさまが私たちのために祈ってくださり、そして私たちは神さまの守りのうちにあります。

神さまが私たちを守ってくださっています。弱い私たちですけれども、確かな方である神さまが私たちを守ってくださっている。このことを信じて、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。いたずらに不安になった、恐れたりするのではなく、私たちには確かな方がおられるということを信じて歩んでいきましょう。



(2024年10月20日平安教会朝礼拝)

2024年10月16日水曜日

10月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「すてきなわたしにもどる」

「すてきなわたしにもどる」

聖書箇所 マタイによる福音書7章1−5節

日時場所 2024年10月13日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい、神学校日礼拝


平安教会では毎月第二日曜日を「きてみて・れいはい」として、はじめて教会にきてくださった人にもわかりやすい話をすることを、心がけるということにしています。毎月第二日曜日ということなのですが、教会にもいろいろな行事がありますので、若干、日が別の日になることがあります。11月は第三週の11月17日、12月は第三週の12月15日を予定しています。

イエスさまが私たちに教えてくださったことの中で、わたしがとても大切だと思っていることに、「人を裁くな」ということがあります。いまはそうでもないですが、わかいのとき、自分が正しいという思いがとても強かったので、人を裁くことが多かったような気がします。

昔、何かの打ち上げの親睦会があり、宴会芸で、わたしの友人がわたしのまねをしました。それでは小笠原くんのまねをしますと、友人は言って、「そうじゃあ、ないんよ」と言いました。みんな大笑いをしていました。どうやらわたしの口癖は「そうじゃあ、ないんよ」だったようです。「そうじゃない」ということですから、わたしはたぶん多くのことに反対をしていたのだと思います。そして「わたしが正しく、あなたはまちがっている」と主張して、「そうじゃあ、ないんよ」と言っていたのだと思います。わたし自身はそんなことに気がついていませんでしたが、「そうだったんだなあ」と思います。まあ若い頃というのは、何かにつけて腹が立つというようなこともあるわけです。知らず知らずのうちに、人を裁いているというようなこともあります。

わたしは同志社大学の神学部で学ぶ前に、四国の高松市にある大学で学生生活を送っていました。高松市、なかなか良い街で、いまでもとてもなつかしい街なので、ときどき訪れたりします。さぬきうどんで有名ですが、香川の人はほんとによくうどんを食べます。わたしも学生時代、朝、起きて、ほとんど毎日、うどんを食べるというような生活をしていました。朝昼兼用でうどんを食べます。そして夜には、食堂に行って、夕食を食べるというようなことをしていました。

いくつか行きつけの食堂があったわけですが、その一つの食堂に夫婦で切り盛りをしておられる食堂がありました。その食堂のおばちゃんというのが、ちょっと太った威圧感のある、なかなか豪傑な人でした。まあ、なんとも言えない迫力のある人でした。

よく語り草になっていたことに、こんな話がありました。ある学生がラーメンを注文しました。するとしばらくしておばちゃんが、カウンタに座っている学生に、「ハイヨ」とラーメンの鉢を渡そうとしました。見ると、おばちゃんの指がラーメンの中に入っていました。それを見た、学生が言いました。「おお、おばちゃん、おばちゃんの親指がラーメンの中に入ってる」。すると、おばちゃんは「ああ、だいじょうぶ、あつくないよ。慣れてるから」と言ったそうです。

みなさんはこの話、どう思われますか?。まあよくある学生食堂の民話のような話です。学生は「おばちゃんの指がラーメンの中に入って汚い」と思って、そのことを指摘したわけです。「わたしのラーメンにおばちゃんの指が入って、きたないじゃないか」と、学生はいったわけです。でもおばちゃんは学生が自分の指があつくないかと心配してくれたと思ったわけです。学生は「おばちゃん、汚い」とおばちゃんを裁いたわけです。しかし逆におばちゃんの言葉によって、学生は自分が、おばちゃんのことを心配することのできない、思いやりのない人間であることに気づかされるのです。おばちゃんの指がやけどするかもしれないと気づくことのできない、やさしさのない、自分勝手な人間であることに学生は気づかされるのです。

イエスさまは「人を裁くな」と言われました。【「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる】。

イエスさまは人を裁くと自分も裁かれることになると言われました。あなたが人を裁いたように、あなたもまた人から裁かれることになる。そして互いに裁きあう世界に生きることになる。人を傷つけ、自分も傷つけられる世界に生きることになると、イエスさまは言われました。

イエスさまは「あなたの目の中に丸太がある」と言われました。【あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか】。

あなたは人の目の中にあるおが屑が見えるのに、どうして自分の目の中にある丸太は見えないのか。人が良くないことをしていることは、どんなにちいさなことでも気がつくのに、どうして自分がしている大きな良くないことに気がつかないのか。あなたはいつも自分勝手なことをしているのに、どうして人が自分勝手なことをしていると、人のことを裁いているのか。そのように、イエスさまは言われました。

自分のことを棚に上げて、人を裁くということを、私たちはよくしてしまいます。でも同じようなことを、自分もよくしていることがあったりします。でもたしかに意外に、自分がしていることは気がつかなかったりするのです「あいつ、どうして人の悪口ばっかり言っているのかなあ。ねえ、大澤くん。そう思わない」と小笠原くんが大澤くんに尋ねると、大澤くんが小笠原くんに応えます。「小笠原くんも、そうやって、よく人の悪口言ってるよ」。まあそういうことがあるわけです。人はなかなか自分のしていることに気がつかないものです。

イエスさまは「まず自分の目から丸太を取り除け」と言われました。【偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる】。

あなたの目の中には丸太がある。あなたは自分がしていることに気がつかずに、人のことばかりを裁いている。まず自分がどんなことをしているのかを顧みて、その上で、人を裁くということをしたほうが良いと、イエスさまは言われました。

「人を裁くな」というイエスさまの戒めは、よくわかる戒めです。「そうだねよ」というふうに思えます。しかし、「じゃあやめるね」と言って、やめることができるかと言えば、なかなかそういうわけにもいきません。わたしは先日もやはり、「人を裁いて、嫌みなことをいってしまったのかなあ」と反省することがありました。まあ人間のすることですから、どんなに気をつけていても、メッキがはがれると言いますか、なんか腹立たしい思いにかられて、人を裁いてしまうというようなことがあるわけです。そんなときいろいろと考えて自分の気持ちを整理してみます。そして思うことは、わたし自身がほんとうの意味で、癒やされていないのだなあと思いました。いろいろな出来事の中で自分自身が傷ついていて、その傷が癒えていなくて、ふとした拍子に、人を裁くという形で出てくるのです。あるいは人を傷つけるという形で出てくるわけです。

ですから、自分の口から悪口とか、人を裁く言葉が出てくるとき、私たちは気をつけなければなりません。たぶんそのとき、私たちはこころの調子や体の調子が悪いのです。人のことが悪く思える時、そのときはまずみなさんは自分のことを心配してあげてほしいと、わたしは思います。そして本来のやさしい自分に戻ってほしいと思います。やさしく、人のことを思いやることができる、すてきなあなたに戻って、そして人を裁くのではなく、人にやさしい言葉をかけてあげていただきたいと思います。

日常生活のなかで、いやな自分に出会うということがあります。人を裁いたり、いじわるな気持ちをもつ自分に出会い、「なんかいやなやつだなあ」と思うことがあります。でもそれだけでなく、自分のいいところも見付けてあげてほしいと、わたしは思います。「あっ、いがいに心のやさしいところが自分にはあるんだな」ということにも気がついてほしいと思います。

私たちはみな、ひとりひとり、神さまに愛されている尊い人間です。神さまが「あなたはわたしにとってもとても大切な人だよ」と、わたしのことを愛してくださっていることに気がつきたいと思います。「わたしがあなたのことを愛しているから、あなたは大丈夫だよ」と、神さまは私たちに語りかけてくださっています。

神さまの愛に気づいて、本来の「すてきなあなたに戻って」、人にやさしい言葉をかける、人を励ますことのできる、私たちの歩みでありたいと思います。


(2024年10月13日平安教会朝礼拝・きてみてれいはい、神学校日礼拝)


2024年10月10日木曜日

10月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「私たちに寄り添うイエスさま」

「私たちに寄り添うイエスさま」

 

聖書箇所 ヨハネ11:28-44。437/487。

日時場所 2024年10月4日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日

今日は世界聖餐日です。世界中の教会の人たちと、共に聖餐に預かる日は、私たちにとってとても大きな喜びの日です。世界中のクリスチャンと共に、聖餐にあずかり、私たちが神さまの民として歩んでいることを、こころにとめたいと思います。同じ神さまを信じる人たちが、日本の中だけでなく、世界にいて、そして共に祈りあいつつ歩んでいます。とても幸いなことだと思います。私たちと姉妹教会であるアメリカのサンディエゴのPOV教会の通信にも、世界聖餐日の喜びについて書かれてありました。

世界聖餐日・世界宣教の日に、在日大韓基督教会関西地方会京都地区と、日本基督教団京都教区京都南部地区は、合同礼拝をもちます。今年は京都教会でもたれます。午後3時からもたれます。    

日常生活をしていると、いろいろなことで後悔したり、落ち込んだりすることがあります。最近、わたしもあることで、気落ちすることがありました。「あんなこと言わなければ良かった」と思ったり、「そういうつもりではないのだけれど、なんかうまく説明することができず、なんかだめなことになったなあ」と思ったり、「自分の悪いところが出てしまったのだろうなあ」と反省したり。いろいろと自己分析をしながら、なんとなく悶々と過ごしていました。あまり良い人間ではないので、メッキがはがれるということがあるので、それはまあ仕方がないかなあとも思いました。みなさんにもあることと思いますが、やっぱり日常生活の中で、私たちはいろいろなことで悩み、落ち込んだりします。

そうしたときふと父や母のことを思い出すことがあります。わたしの母はもう24年前に天に召されています。父は3年前に召されています。思い出すというのは、「ああもう父も母もいないんだ」ということを思い出すのです。父が生きているとき、わたしは「元気にしているか」と思って、ときどき父に電話をしていました。そんなとき父は決まって「ああ、じゅんくんか、なんか用か」と言いました。別に用事があって電話をしているのではなく、わたしは「元気かなあ」と父のことを気づかってあげているのにと思っていました。しかしいま父が天に召され、ときどき「ああもう父はいないんだ」と思うとき、わたしは父のことを思って電話をしていたわけですが、しかしわたし自身が父の声を聞くことによって安心していたのだなあということに気づきました。自分のことを気づかってくれるだろう人がいるということは、その存在だけで、とてもありがたいことなのだなあと思いました。「いてくれたらなあ」と思える人がいるということは、とても幸いなことなのだと思いました。

今日の聖書の箇所にも「主よ、もしここにいてくださいましら」という印象的な言葉が出てきます。今日の聖書の箇所は、「イエス、涙を流す」「イエス、ラザロを生き返らせる」という表題のついた聖書の箇所です。先週の聖書の箇所の続きの箇所です。イエスさまの友人のラザロが死に、ラザロのところにイエスさまがかけつけているという流れになります。ラザロは墓に葬られて四日たっています。ラザロの兄弟姉妹であるマルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが慰めにやってきていました。マルタはイエスさまが来られたと聞いて、イエスさまを迎えにいき、そしてイエスさまに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。

そして今日の聖書の箇所では、マルタの姉妹、マリアがイエスさまに会うことになります。ヨハネによる福音書11章28ー32節にはこうあります。【マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った】。

マルタはマリアに、イエスさまがマリアを呼んでいることを伝えます。マリアはイエスさまのところに行くために、立ち上がりました。マルタやマリアを慰めに来ていた人たちは、マリアが悲しくて悲しくてたまらなくなったから、ラザロのお墓に泣きに行こうとしているのだろうと思います。マリアはイエスさまのところに来て、そしてイエスさまの足もとにひれ伏しました。そしてマリアはイエスさまに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。

マルタもマリアも同じように、「イエスさまがここにいてくださった」「イエスさまがここにいてくださったら、ラザロは死ぬことはなかったでしょうに」と言います。マルタもマリアも、そして私たちも、「イエスさまがここにいてくださった、こんなことになるはずがないのに」と思うのです。どうしようもない悲しみやつらい出来事に出会うとき、「イエスさまさえここにいてくださった」と思うのです。

ヨハネによる福音書11章33ー37節にはこうあります。【イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた】。

みんなラザロの死を悼んで、悲しみ、泣いています。マリアも、また一緒にいたユダヤ人たちも泣いています。イエスさまもそれを見て、感情をあらわにされます。イエスさまは人々に「ラザロをどこに葬ったのか」と言われ、人々に案内をしてもらいます。イエスさまもまた涙を流されます。その様子をみて、人々は「この人も、ラザロのことをどんなに愛しておられただろう」と嘆きます。しかし「この人もラザロを死なないようにはできなかった」と、人々は言いました。

ヨハネによる福音書11章38−40節にはこうあります。【イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。】。

このラザロの死に関しては、イエスさまはいつもの落ち着いたイエスさまではありません。「心に憤りを覚え、興奮したり」「泣いたり」「再び心に憤りを覚えたり」されます。愛するラザロに死に際して、イエスさまもまたいつものように振る舞うことはできないのです。

イエスさまはラザロの墓に来て、墓の中にいるラザロに会いに行こうとします。しかしラザロの姉妹のマルタは、「イエスさま、もう四日もたっているので、だめなのです」と言います。しかしイエスさまは「わたしを信じることができるのなら、神さまの栄光を見ることができる」と、あなたに言っておいたではないかと、マルタに言いました。

ヨハネによる福音書11章41−44節にはこうあります。【人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。】。

イエスさまは、神さまに祈り、そしてラザロに命を与えられます。神さまはイエスさまの願いを聞いてくださり、そしてラザロに命を与えてくださいました。イエスさまは「ラザロ、出て来なさい」と言われ、ラザロは手足を布でまかれ、顔を覆いで包まれたまま、人々の前に現れます。

イエスさまは神さまの御子だから、何でもできるんだという思いが、私たちにはあります。ですからラザロの復活の出来事のなかで、「まあ、そうなんだろうなあ」というふうに思います。

ラザロの復活の物語を読むと、イエスさまがどんなにラザロ、そしてマルタやマリアを愛しておられたのかということが、よくわかります。イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされます。いつもと違う雰囲気で、ラザロの復活の出来事に立ち向かいます。「父よ、わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」と言われますから、合理的に考えると、イエスさまはラザロの死に際して、何も心配はしておられないということなのでしょう。神さまがラザロを必ず復活させてくださるということを、イエスさまは信じています。しかしイエスさまはラザロの死に際して、私たちと同じように、心に憤りを覚えたり、私たちと同じように、泣いたりされるのです。

わたしはすこし人間があっさりとしているので、イエスさまが心に憤りを覚えたり、私たちと同じように泣いたりされるのを読むと、不思議な気もいたします。「イエスさまはそんなに興奮されなくても、イエスさまは神さまの御子だから、ラザロも大丈夫だよ」という気持ちをもったりします。しかしそれは聖書を読んでいるということのなかであって、実際の生活の中では、このラザロの復活の物語のなかで、イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされることが、やはりわたしにとっては大きな救いです。

日常生活のなかで、わたしはいろいろと気落ちしたり、悩んだりします。なんか失敗したなあと思えたり、人を傷つけてしまって申し訳ないなあと思ったりします。怒りに取りつかれ、あとで考えると、なんかとっても嫌な自分だったと反省したりします。

ラザロのために泣いてくださったイエスさまは、なさけないわたしのためにも泣いてくださると思えるからです。取るにたらないわたしを愛し、そしてわたしを慰めてくださるイエスさまがおられると思えるのです。

ラザロの兄弟姉妹であるマルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら」と言いました。「こんなとき、イエスさまがいてくださったらなあ」と、私たちも思います。そして、その願いのとおり、イエスさまは私たちと共にいてくださるのです。

どんなときも、イエスさまは私たちと共にいてくださる。私たちはそのことを信じて生きています。つらいとき、かなしいとき、また自分のなさけなさやいやになり、こんなわたしのことはだれも気にかけてくれることはないのではないかと思える時も、イエス・キリストは私たちと共にいてくださいます。

イエスさまの愛に感謝して、安心して歩んでいきましょう。



 

(2024年10月4日平安教会朝礼拝式・世界聖餐日)


2024年10月3日木曜日

9月29日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「神の栄光のために」

「神の栄光のために」

  

日時場所 2024年9月29日平安教会朝礼拝

聖書箇所 ヨハネ11:1-16。434/532。

ご家族を天に送ったり、ご友人を天に送ったりすることが、私たちにはあります。悲しみと嘆きの中、大切な人を天に送ります。

「人の死をどのように考えたらいいのか」。「肉親をなくされた方に、なんと声をかければいいのか」。私たちは死にまつわることについて、「これが正解です」という答えをもっていません。その人との今までの人間関係がどうであったかということでも違います。またその人の現在の精神状態によっても違います。正解があるわけではありません。

私たちは大きな悲しみの出来事に出会うとき、「神さまはどうしてわたしの願いを聞いてくださらないのだろう」「神さまはどうしてこんなことをなさったのだろう」と思います。わたし自身もそうした思いにかられるときがあります。わたしはわたしの母がアルツハイマーになったとき、長い間、「神さまはどうして?」という思いをぬぐい去ることができませんでした。

昔、教会員の方の御家族が天に召されて、仏式の葬儀に参列したことがあります。そのときの葬儀でくりかえし語られ、印象に残っていることは、「人間のむなしさ、はかなさ」ということでした。「昨日生きていても今日は死んでいるかもしれない人間のはかなさを思い、私たちも心して過さなければならない」ということが語られていました。わたしもたしかに人間ははかないと思います。聖書でも人間のはかなさということが語られます。人間は土の器であり、結局は死んでしまうむなしいものであるということが語られます。しかしわたしは人間のはかなさということを思いながらも、はたして人間の生と死とは、そのようにはかないということだけなのかということがそのとき、妙にひっかかりました。

御家族を天に送られたその教会員の方は御家族の死に際して、「【神さまはどうして!】ということより、【神さまはなんのために】ということを考えている」というふうに言っておられました。今日の聖書の箇所は、「ラザロの死」という表題のついた聖書の箇所です。【神さまはなんのために】という訴えに対して、聖書はヨハネによる福音書11章4節で、【神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである】と語っています。この聖書の箇所を心にとめながら、すこし聖書を読んでいきたいと思います。

ヨハネによる福音書11章1ー2節にはこうあります。【ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった】。マリアがイエスさまに香油をぬった話は、ヨハネによる福音書12章に出てきます。新約聖書の191頁です。ラザロの家族はイエスさまにとって特別な家族であったようです。そのラザロの病状はどうもよくありません。

ヨハネによる福音書11章3−4節にはこうあります。【姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」】。マリアとマルタは、イエスさまのもとに使いの者を走らせ、イエスさまに来てもらおうとします。使いの者に、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせました。マルタとマリアは自分の兄弟のラザロが、イエスさまによっていやされなければ死んでしまうと思い、あせります。しかしそれに対して、イエスさまは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

ヨハネによる福音書11章5−10節にはこうあります。【イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう」。弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。イエスはお答になった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」】。

イエスさまはマルタとマリアとラザロを愛しておられました。そして彼らのところにいかなければというふうに思っておられました。しかしイエスさまはラザロが病気だと聞いてからも、どういう事情か、なお二日間同じ所に滞在を余儀なくされます。そしてそれから弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言われました。弟子たちは乗り気ではありません。弟子たちはイエスさまに「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と言いました。それに対して、イエスさまは「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」と言われ、まだ神さまが定めたわたしがつかまり十字架にかけられるときは来ていないから、大丈夫だと言われました。そしていまのうちにすべきことを一生懸命にしなければならないと弟子たちを戒めました。

ヨハネによる福音書11章11-16節にはこうあります。【こうお話になり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」。弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」。すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った】。

イエスさまは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われました。それに対して弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言いました。しかしこのときすでにラザロは死んでいました。イエスさまははっきりと弟子たちに「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」と言われました。それに対して、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言い、イエスさまに付き従っていこうとみんなに呼びかけました。

イエスさまが弟子たちと一緒にラザロのところにいくと、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていました。もう完全に死んでしまっていたのです。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人たちが、兄弟ラザロのことで慰めに来ていました。マルタは、イエスさまが来られたと聞いて、迎えに行きました。マルタはいつも気丈なしっかりした女でした。マルタはイエスさまを迎えにいきましたが、マリアは家の中で座っていました。マルタはイエスさまに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言いました。そして「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」とも言いました。それに対してイエスさまは「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。イエスさsまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とマルタに問いかけました。マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と言いました。

イエスさまは危険を犯してラザロのところに来られました。弟子たちが「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」というふうに言っているように、イエスさまは危険を承知で、ラザロのところに行かれたのでした。ヨハネによる福音書11章16節に、【すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った】とありますように、イエスさまの周りの状況はかなり悪く、イエスさまをつかまえようとしている人々がおり、そして捕まってしまうともう殺されてしまうだろうというような状況になっていたのでした。しかしそうしたことを承知の上で、イエスさまは危険を顧みず、ラザロのところに来られたのでした。

イエスさまは私たちが嘆き悲しんでいるところに、かならず来てくださいます。そこに来ることがイエスさまにとってどんなに困難であったとしても、またイエスさまご自身にどんなことが降かかってくるかもわからなくても、イエスさまは私たちのところに来てくださいます。それだけ私たちひとりひとりは、神さまの前に、大切なかけがえのないものであるということです。私たちはだれひとりとして、いなくてもいいということはないということです。

そしてイエスさまは「死が終わりではない」と言っておられます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。私たちはふつう死んでしまったら、終わりであるというふうに考えます。私たちは天に召された人たちに、いま会うことはできません。この世での生活は天に召されることによって、否応なく終わりとなります。そういう意味では死は終わりです。しかしだからと言って、天に召されたことがすべてむなしい、はかないことであるのではないのです。人の死は、むなしさ・はかなさを感じさせるのと同時に、また私たちに力を与えるものであると、聖書は私たちに語っています。

ラザロの死と復活というのは、ヨハネによる福音書の中で特別な位置をしめていると言われます。イエス・キリストの死と復活との関連で、ラザロの死と復活があるのだというふうに言われます。ラザロの死と復活という出来事は、特別な意味があるのです。そして同時にラザロの復活の物語は、ラザロだけのものではありません。イエス・キリストがラザロに対してかけられた愛は、ラザロに対してだけ特別にかけられた愛というのではないのです。

イエス・キリストは苦しんでいる人々や悲しんでいる人々に対して、愛をそそがれます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」という言葉を聞くとき、キリスト者として私たちがイエスさまから愛され、またきびしく問われているということです。イエスさまは悲しんでおられる人々、悩みを担っておられる人々、苦しんでおられる人々と共に歩まれた方でした。そしてその苦しみや悲しみという重荷を共に担って歩いてくださる方でありました。人の死によって、その人のこの世での人生は終わります。しかしその人が苦しいとき、悲しいとき、あるいは喜びのときも、イエス・キリストが共にいてくださり、そして慰めを与え、重荷を担い、そして喜びをわかちあってくださったということは、残された私たちにとって大きな励ましであり、慰めとなります。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。この言葉はとても印象的な言葉です。これとよく似た言葉が、ヨハネによる福音書9章3節にあります。新約聖書の184頁です。ヨハネによる福音書9章1節以下に「生れつきの盲人をいやす」という表題のついた聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書9章1−3節にはこうあります。【さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」】。生まれつき目の見えない人に対して、イエスは「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。ヨハネによる福音書11章37節に「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」という言葉がありますように、ラザロの話と盲人の話は、関連のある話として語られています。

人々は盲人が目が見えないことについて、「神さまはどうして!」という質問をします。そして自分たちのうちで答えをだします。「ばちがあたったからだ」「両親が悪いことをしたからだ」。それに対してイエスさまは「神さまは何のために」という答えを出しました。「神の業がこの人に現れるためにである」。またラザロの死についても、人々はたぶん「神さまはどうして!」という質問をしただろうと思います。それに対してイエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

人から見れば、「ばちがあたった」「両親の罪のせいだ」という「不幸」について、イエスさまはそうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。また人から見れば、絶望であり、むなしさやはかなさという出来事でしかない死ということについても、イエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。イエスさまは悲しみ苦しみ悩みの中にある出来事、人から見ると不幸という言葉で括られてしまう出来事を経験している人々に、それは不幸ではなく、神さまの出来事なんだ。「神の栄光のための出来事なんだ」というふうに言われたのでした。

人の死という悲しみの出来事、絶望に思える出来事を、イエスさまは「それは神さまの出来事である」と言われました。それは私たちが経験するすべてのことにおいて、私たちは神さまの祝福の中にあるということです。死という、人間から見れば、むなしさやはかなさ、あるいは絶望ということ以外思いつかない出来事も、神さまは栄光の出来事へと導いてくださるのです。

「私たちの経験するどんなことも、神さまの栄光のために用いられる」とイエスさまは言われます。神さまは私たちを愛してくださっているのだから、私たちに豊かな祝福を備えてくださる。イエスさまはそのように言われました。イエスさまは空言(そらごと)としてそのように言われたのではありませんでした。それはイエスさまご自身の十字架での死によって明らかになります。イエスさまは十字架につけられて殺されました。しかし神さまはイエスさまの十字架での死によって、私たち人間の罪をあがなってくださいました。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちはさまざまな悲しみや苦しみ、悩みや寂しさを経験します。そうした歩みをイエス・キリストは共に歩んでくださり、そしてその出来事を神さまの出来事として祝してくださいます。私たちが傷つき、疲れ果て、沈み込んでしまうとき、イエス・キリストは私たちを抱きかかえて歩んでくださる方なのです。私たちは共に歩んでくださるイエス・キリストに頼り、慰め主であるイエス・キリストと共に、神さまが備えてくださる道を祈りながら歩んで行きましょう。


(2024年9月29日平安教会朝礼拝)

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》