2025年3月27日木曜日

3月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「神さまの祝福を受けて生きる」

 「神さまの祝福を受けて生きる」

聖書箇所 マタイ16:13-28。298/306

日時場所 2025年3月23日平安教会朝礼拝・受難節第3主日


賀川豊彦は、大正・昭和期のキリスト教社会活動家です。世界的にも有名な日本のクリスチャンです。キリスト教と関係のないところでは、生活協同組合運動で重要な働きをされた方でした。日本生協連初代会長は、賀川豊彦です。

賀川豊彦はキリスト教社会運動家としてよき働きをされた方であるわけですが、賀川豊彦が若い時に書いた『貧民心理之研究』という本の内容がとても差別的であるということで非難されたりもしています。

工藤英一『明治期のキリスト教』(教文館)のなかに「賀川豊彦の学生時代」という文章があります。そのなかに賀川豊彦が『プラトン全集』を買うためにマヤス宣教師からもらったお金で自分の制服を買ったという話が出てきます。賀川豊彦の幼馴染みに二宮千鶴さんという方がおられて、その千鶴さんが東京の四谷荒木町の芸者屋にいることがわかります。賀川豊彦はいちど二宮千鶴さんを訪ねようと思います。賀川豊彦は昔、中学生だったときに学費をもらいに徳島の芸者のもとにいる兄のところを訪ねたことがありました。そしてそのとき賀川豊彦はとてもみすぼらしい服装で訪ね、とても恥ずかしい思いをしたことがありました。それで二宮千鶴さんを訪ねるときに、新しい制服で訪ねようと思いました。そして『プラトン全集』を買うといってマヤス宣教師からもらったお金で、新しい制服を注文してしまいます。注文した新しい制服を受け取ったとき、賀川豊彦はマヤス宣教師をだましたという良心の呵責(かしゃく)に苛まれることになります。悔やんだ賀川豊彦は出来たての制服を再びお金にかえて旅費にして、マヤス宣教師に赦しをこうためにマヤス宣教師のところに向かいます。そのとき賀川豊彦は死んでお詫びしなければならないというように思い詰めていたようです。賀川豊彦はしばらく放浪したあと、マヤス宣教師のもとを訪ね、マヤス宣教師はとても怒ったのですが、結局、賀川豊彦を赦します。

【この事件以後、賀川は極端なぐらい自分の服装についてかまわなくなります。あまりにひどい服装をしているので、高輪教会の婦人会のかたなどが、賀川に着物をおくっても、それを皆付近の乞食のおじさんや子供にやってしまう。新しい着物をあげても、いっこうに賀川がそれを着ないので、不審に思ってたずねてみても、賀川はそれは聞かないでくださいといってとりあわなかったということです】(P.164)(工藤英一『明治期のキリスト教』、教文館)。

賀川豊彦が学生のときの話であるわけですが、でも聖人と言われる賀川豊彦にも人間的な欲望があったんだなあと思います。でもその後、悔い改めて自分の服装にかまわなくなったというのは、ちょっと感心しました。もちろん賀川豊彦がその後、きれいな服を着ても別にいいわけです。そのことで賀川豊彦はだめな人だということにはならないと思いますが、やっぱりまじめな人だったんだろうなあと思います。人間ってだめなこともあるけれども、悔い改めて生き直そうという気持ちをもつことができるというのは、人間ってすてきだなあと思います。わたしは賀川豊彦のすばらしいと言われる数々の事業よりも、なんとなく賀川豊彦のだめなところとまじめなところが出ている、この賀川豊彦の服の話のほうに心ひかれます。

今日の聖書の箇所は「ペトロ、信仰を言い表す」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書16章13-14節にはこうあります。【イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」】。

イエスさまは弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられました。弟子たちは人々はイエスさまのことを「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」というふうに言っていると答えました。まあそれぞれに人間としてりっぱな人たちであるわけです。洗礼者ヨハネもエリヤもエレミヤもほかの預言者も、神さまから遣わされた人たちでした。

イエスさまは人々がどのように自分のことを言っているのかと問われたあと、今度は弟子たちに「あなたがたはどうなのか」と問われました。マタイによる福音書16章15-16節にはこうあります。【イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた】。

イエスさまは弟子たちに「あなたがたはどうなのか」と問われました。使徒ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。洗礼者ヨハネやエリヤやエレミヤやほかの預言者は神さまから遣わされた人ではあるわけですが、しかし彼らは人間です。りっぱな人であるわけですが人間であるわけです。使徒ペトロはイエスさまのことをそうしたいわゆるりっぱな人間ということではなく、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのでした。使徒ペトロは「イエスさまこそが私たちを救ってくださる救い主であり、生ける神の子です」と信仰告白をしました。

マタイによる福音書16章17-20節にはこうあります。【すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた】。

イエスさまは使徒ペトロの信仰告白を聞かれ、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われました。そして「あなたがこのようにわたしに対して信仰告白することができたのは、神さまのわざなのだ」と言われました。

この聖書の箇所はキリスト教において信仰告白ということを考えるときに、大切な聖書の箇所です。信仰告白というのは人間の業ではないのです。もちろん人間がすることなのですけれども、それは神さまの業であるということです。そういう意味で信仰というのは与えられるものなのです。神さまによって私たちは信仰告白をさせていただくということです。

私たちの信仰は神さまから与えられています。とても心強いことだと思います。ときに私たちは「こんな信仰で大丈夫なのだろうか」と思ったりすることがあります。でもやっぱり神さまから与えられた信仰を、「こんな信仰」と思わないほうがいいと思います。あるいは人から「あなたの信仰はなまぬるい」などと言われたりして、「わたしの信仰はなまぬるいかなあ」と心配になったりすることがあります。でも神さまから与えられている信仰を「なまぬるいかなあ」などと思わない方がいいと思います。私たちの信仰は神さまから与えられているのです。「わたしの信仰は神さまから与えられている」。とてもうれしいことです。私たちの信仰は神さまから与えられているのです。もしもわたしの信仰が「こんな信仰」であるのであれば、それは神さまが正してくださいます。本当に「なまぬるい信仰」なのであれば、それは神さまが正してくださるのです。

使徒ペトロは信仰告白をしたことによって、イエスさまからほめられます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われます。これはなかなか重大な使命です。重大な使命を受けて、使徒ペトロがしなければならないことはなんでしょうか。「わたしが天国の鍵を授かった」と言って、人々の上に立って裁き人となるということでしょうか。わたしにはそのようには思えません。重大な使命を受けた使徒ペトロがしなければならないこと、それは謙虚になるということでした。イエスさまから誉められた信仰告白も、それは使徒ペトロ自身の功績によるものではありません。使徒ペトロの信仰告白は、神さまから与えられたものだからです。

使徒ペトロが信仰を言い表すという話の直後に、マタイによる福音書には使徒ペトロがイエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われたことが記されています。マタイによる福音書16章21-23節にはこうあります。【このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」】。

イエスさまが弟子たちに対してご自分の十字架と復活について話されたことを聞いて、使徒ペトロはイエスさまをいさめます。さすがに他の弟子たちのいる前ではなく、イエスさまをわきへお連れしたと聖書には記されています。使徒ペトロはイエスさまから「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われたわけですから、そのイエスさまは地上で立派な方として人々の上に君臨してくだされなければ困ります。せっかく信仰告白のことでイエスさまに誉めていただいたのですから、ペトロの出世はこれからです。それなのに、イエスさまが長老、祭司長、律法学者たちによって殺されてしまっては困ります。

そのような思いになってイエスさまをいさめる使徒ペトロに対して、イエスさまは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。いくら何でもサタン呼ばわりは使徒ペトロがかわいそうだろうと私たちは思います。しかしイエスさまは激しい調子で使徒ペトロを叱責なさいました。

使徒ペトロはイエスさまから誉められて、「ペトロ樣」になってしまい、謙虚さを忘れてしまったのでしょうか、イエスさまの言葉をしっかりと受けとめるということをしませんでした。もちろん使徒ペトロにはこれから起こるイエスさまの十字架と復活ということがわからなったもしれません。しかし普段のペトロであればわからないながらも、その言葉を心に留めるということはできたでしょう。しかし天国の鍵をもつ裁き人・ペトロ樣になってしまい、人間のことばかりを考えているペトロには、そのことができませんでした。

使徒ペトロは激しい調子でイエスさまから叱責されました。「サタン、引き下がれ」と言われました。使徒ペトロにとっては恥ずかしい出来事ですし、なさけない出来事であるわけですが、しかし自分を正してくださる方がおられるということはとても幸いなことです。イエスさまが使徒ペトロの信仰を正してくださったのです。私たちの信仰は、イエスさまが、神さまが正してくださるのです。

マタイによる福音書16章24-28節にはこうあります。【それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」】。

イエスさまは弟子たちにとてもきびしいことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。この世的なことを考えれば、イエスさまについていくということで、これから先、いいことがあるというわけではありません。まさに弟子たちは自分の十字架を背負うことになります。しかしイエスさまは「わたしに従うということは、この世的なことだけではないのだ」と言われます。イエスさまは世の終わりの時、終末のとき、あなたたちはわたしに従ったかどうかが問われることになると、イエスさまは言われます。

イエスさまは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。私たちは「自分を捨て」なければなりません。自分の正しさを捨てなければならないのです。使徒パウロは【知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです】(1コリント8章1−2節)(新約聖書の309頁)と言いました。私たちは「自分を捨て」なければなりません。

イエスさまは「自分の十字架を背負いなさい」と言われました。自分の十字架を背負うということは、イエスさまと同じ生き方をしなさいということではありません。私たちはそれぞれに追うべき、「自分の十字架」があるのです。自分の十字架があるわけですから、あまり人の十字架を気にしないことが大切です。「あの人の十字架は軽そうだ」。「あの人は一生懸命に自分の十字架を背負っていない」。そうしたことはわたしの十字架にはあまり関係のないことです。たしかなことはイエスさまについていくときに、私たちは自分の十字架を背負うということなのです。

信仰に生きるということは、どの方向に歩むのかということです。使徒パウロは自分は「目標をめざしてひたすら走っている」と言いました。フィリピの信徒への手紙3章12-16節の言葉です。新約聖書の365頁です。【わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです】。

使徒ペトロはりっぱな信仰告白を誉められ、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とイエスさまから言われました。しかしそのあとイエスさまが死と復活を予告されたとき、イエスさまをいさめ、そしてイエスさまから「サタン、引下がれ」と言われてしまいました。わたしは人間って、そんなものだと思います。

私たちは自分が使徒ペトロのようにだめな人間であることを知っています。イエスさまについていきたい。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまについていきたい。そのように思いながら、またいろいろな困難や誘惑の前に、どうしたらいいのかわからなくなります。しかしそんな私たちを神さまは捕えて導いてくださいます。

私たちは自分が使徒ペトロのようにだめな人間であることを知っています。そして使徒ペトロの生涯を通して働かれた神さまの祝福を、私たちは知っています。私たちはこのことに希望を置いているのです。使徒ペトロがだめな人間であったとしても、私たちがだめな人間であったとしても、神さまは私たちを豊かに祝福し、導いてくださるのです。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節で、【わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです】と言いました。キリスト教においては、「わたしが信じている」ということが大切なのではなく、【自分がキリスト・イエスに捕らえられている】ということが大切なのです。

私たちは神さまの祝福を受けて生きています。このことを喜びをもって受け入れ、キリスト者として神さまの祝福を一杯に感じて歩んでいきましょう。


(2025年3月23日平安教会朝礼拝・受難節第3主日)


2025年3月20日木曜日

3月16日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「悪魔はどんな顔でやってくる?」

「悪魔はどんな顔でやってくる?」 

聖書箇所 マタイ12:22-32。294/300。

日時場所 2024年3月16日平安教会朝礼拝式


2月に京都教区の教師一泊研修会がありました。講師は小西二巳夫牧師でした。新潟市にあります敬和学園高等学校で校長をされたあと、四国にあります清和女子中高で校長をされました。わたしより10歳くらい年上の方です。

小西二巳夫牧師は敬和学園に校長としてつとめるときに、周りの人からこのように言われるようになったら、敬和学園の校長をやめようと思っていたという言葉があったそうです。それは「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」という言葉だそうです。校長になって自分の思いでやろうとするのですが、うまくいかないこともありました。「こうしよう」と思っても、周りの人たちから反対をされてできないこともありました。しかし粘り強くやっているうちに、成果が上がり、周りの人たちも、小西二巳夫校長の思いを汲んでくれるようになります。そして学校も良いように回っている。すると、周りの人たちが「先生の思いどおりにやってくださったらいいですよ」と言うようになります。まあまことに、小西二巳夫校長にとってはうれしいことではありますし、やりやすいことではあるわけです。しかし小西二巳夫校長は、そろそろ潮時だなと思い、敬和学園高校をやめることにしました。これ以上続けていると、自分の意見に賛成する人だけになり、自分が高慢になってしまう。小西二巳夫牧師は、そうそう高慢になるような方ではないと、わたしから見れば思うわけですが、しかし小西二巳夫牧師は高慢になる気配をおそれて、新しい歩みへと出発をされたということでした。赴任をされた清和女子中高は、キリスト教主義の中高ですが、経営的にもなかなか苦しい中高で、そこでいろいろと苦闘しながら歩んでいかれることになります。

マタイによる福音書の4章1節以下には「誘惑を受ける」という表題のついた聖書の個所があります。イエスさまが悪魔から誘惑を受けるというお話です。悪魔は人を誘惑するものであるわけです。近づいてくるものが悪魔であるということがはっきりしていたら、その誘惑にのることはないわけです。よく言われることに、「悪魔は黒い服をきて、角としっぽが生えている状態で現れるのではない」ということです。だれもが「ああ、悪魔だね」という姿で現れてくれるのであれば、「退け、悪魔」「退け、サタン」と言うことができるわけです。しかしそうではなく、とても親切な顔をして現れる悪魔もいるわけです。

怖い話ですが、ホスト倶楽部にだまされて、数千万という借金をつくってしまった女性の話などがニュースでながれたりします。「そんなホスト、悪魔だろう」というふうに、私たちは思うわけですけれども、まあだまされた本人にとっては、悪魔には見えなかったのだろうと思います。「いや、黒い服きて、角としっぽがはえている悪魔としか思えない」と、私たちは思うわけですが、「わたしは精神的に落ち込んでいた時に助けてくれた恩人なの」というような返事であったりするわけです。なかなか怖いなあと思います。微笑みながら近づいてくる悪魔もいるわけです。

今日の聖書の箇所は「ベルゼブル論争」という表題のついた聖書の箇所です。「ベルゼブル論争」などという表題がついていますと、「なんかむつかしすぎて、読む気がしない」というように思いますが、そんなに「論争」というような大したことが書かれてあるわけでもないのです。最後の、マタイによる福音書12章31−32節に書かれてあることは、「ちょっと、なんだかわからない」という気がするので、これがまたこの聖書の箇所をとっつきにくいものにしている原因のような気がします。

マタイによる福音書12章22ー24節にはこうあります。【そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った】。

イエスさまの時代は、病気にかかっている人は悪霊に取りつかれていると考えられていました。イエスさまは病気の人々をいやされます。それで人々は、イエスさまが神さまの力によって悪霊を追い出していると思いました。しかしファリサイ派の人々は、イエスは悪霊の頭だから、悪霊を追い出すことができるのだと言って、イエスさまのことを「悪霊の頭ベルゼブル」呼ばわりしたわけです。「ベルゼブル論争」と言うと、「ベルゼブル」って何だろうと思って、むつかしい気がしたわけですが、まあ答えがすぐに書いてあるわけです。「ベルゼブルは、悪霊の頭」であるわけです。まあ「サタン」ということです。「イエスさま、サタン呼ばわりされる」という表題でも良いような気がします。

マタイによる福音書12章25−30節にはこうあります。【イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。】。

ファリサイ派の人々から、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルだから、悪霊を追い出すことができるんだ」と言われたので、イエスさまはファリサイ派の人々に、「そんなばかな話があるか」と答えるわけです。サタンがサタンを追い出すのであれば、内輪もめとなる。サタンは馬鹿じゃないから、そんなことをするはずがない。あなたたちの仲間も悪霊を追い出しているけれども、それじゃあ、あなたの仲間も悪霊なのか。そうじゃないだろう。わたしは神さまの霊で悪霊を追い出しているんだ。まず強い悪霊をやっつけて悪さをしないようにしたのちに、私たちの世の中を良いように整えて行こうとしているのだ。わたしに味方をしない、あなたたちは悪魔の仲間であり、わたしと一緒に神さまの国を作ろうとしないあなたたちは神さまのみ旨にかなったことをしようとしていないということだ。

マタイによる福音書12章31−32節にはこうあります。【だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」】。

この聖書の箇所はすこしわかりにくい聖書の箇所だと思います。なにがわかりにくいのかと言いますと、私たちはキリスト教の教えで、「三位一体」という教義を知っています。神さまとイエスさまと聖霊が一つであるという教義が、三位一体という教義です。それからすると、イエスさまに言い逆らう者は赦されるのに、どうして聖霊に言い逆らう者は赦されるのだろうという疑問がわいてくるからです。人の子というのは、イエスさまのことです。三位一体であるならば、聖霊に言い逆らうことがだめなら、イエスさまに言い逆らうこともだめなのではないかという疑問がわいてくるからです。しかしここでイエスさまが言われることは、人間はいろんなことで罪を犯してしまうし、神さまを冒涜するというようなことも、人間の弱さのゆえに行なってしまう。しかし神さまや聖霊の力が偉大であるということを信じないものは、それは赦されることのないことなのだ。というようなことでしょう。いくら自分に対して悪口をいったり、ばかにしたりしても良いけれども、しかし高慢になって神さまのことをないがしろにするような振る舞いは赦されないということだと思います。

イエスさまはファリサイ派の人々や律法学者たちと激しい論争をすることがありました。ファリサイ派の人々や律法学者たちの多くは、イエスさまのことを憎んでいます。この関係はなかなか修復し難いものでありました。お互いのことを、悪魔呼ばわりしているわけですから、なかなか大変です。そうした事情がありますから、イエスさまも「敵か味方か」というような話をしています。マタイによる福音書12章30節にはこうあります。【わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている】。あなたたちはわたしに味方するのか、敵対するのかというような感じであるわけです。

私たちはプロテスタントというだけあって、論争や対立することを好む傾向があります。プロテスタントというのは、「抗議する者」という意味です。抗議の声をあげているうちは良いですが、いつのまにか二つに一つというような構造ができあがり、敵か味方かというような雰囲気になり、ちょっと困ったなあというようなことになることがあります。いまのアメリカの政治情勢は、まったく二つに分かれてしまっている状態で、「敵か味方か」というような感じになってしまっていると言われたりします。しかしまあ、世の中、ふつうに考えると、「敵か味方か」というふうに二つに分類できるわけがないので、落ち着いて考えてみるということが大切であるわけです。

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というイエスさまの御言葉を聞くと、私たちは「あいつがイエスさまに敵対し、あいつが散らしている者だ」というふうに思えます。「あいつがいなければ、うまくいくのに」というような気持ちになります。「もうわたしの周りにはファリサイ派の人々や律法学者たちが多過ぎて困るわ」という気持ちになります。しかしまあ、多くの場合はそれは気のせいです。私たちの横でサタンが耳打ちしているので、そんな気持ちになるのです。サタンはにこにこと微笑みながら、私たちの横で「そうだよね。そうだよね」と相づちをうってくれています。高慢のなせるわざというのは、こうしたところが怖いところで、いつも自分はイエスさまの側、神さまの側にいるかのような気になるわけです。「怖いなあ」と思います。

イエスさまは「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」とも言っておられます。いたずらに争うことなく、落ち着いて、神さまの御心とは何であるのか。自分は高慢になっていないのかと、振り返ってみる歩みでありたいと思います。

レント・受難節のときを過ごしています。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。私たちのこころのなかにある邪な思いを、イエスさまに取り除いていただきたいという思いをもって、謙虚に歩んでいきましょう。



(2024年3月16日平安教会朝礼拝式)



3月9日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「良い物をくださる神さま」

「良い物をくださる神さま」

聖書箇所 マタイ7:7-12。470/493

日時場所 2025年3月9日平安教会朝礼拝式・きてみてれいはい


3月4日に灰の水曜日を迎え、レント・受難節に入りました。レント・受難節は、イエスさまの御苦しみを覚えて過ごすときです。私たちの罪のために、イエスさまが十字架についてくださったことを覚えて過ごしたいと思います。

今日は、「きてみて・れいはい」です。この日はとくにわかりやすい、親しみやすい話をすることにしています。

今日は一つの詩をみんなに紹介します。小曽根俊子(おぞね・としこ)さんの「花」という詩です。小曽根俊子さんは生れてまもなく高い熱がでて、それがもとで体とことばが不自由になりました。小曽根俊子さんは詩を作るのが好きだったので、いろいろな詩を書きました。その一つが「花」という詩です。


さあ涙をふいて

あなたが花になりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


さあ涙をふいて

あなたが花におなりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


   上田紀行『覚醒のネットワーク』(カタツムリ社)(P.50)より。


悲しいこととか、くやしいこととか、ときどきないですか。

どうして夫はわたしの気持ちをわかってくれないのだろう。どうして父はぼくの気持ちをわかってくれないんだろうとか。どうしておねえちゃんは大きい方のケーキをとったんだろうとか。どうしておとうとはけんかをしたときうそ泣きをして、それでおねえちゃんのわたしが怒られなければならないんだろうとか。

小曽根俊子さんは体が不自由だったので、なかなか自分のことが思い通りになりませんでした。だからね、たぶんとっても悔しい思いをしたり、涙が出ることもあったんだろうなあと思います。でもね。小曽根さんはやっぱり「涙をふこう」と思いました。「さあ涙をふいて」、わたしの花を咲かそうと思いました。

人のことを悪く言ったり、人が自分のことをわかってくれないということに腹を立ててばかりいるのではなく、わたしが人のことを愛してあげて、人のことをわかってあげられるやさしい人になろう。


さあ涙をふいて

あなたが花におなりなさい

あなたの花を咲かせなさい

探しても探しても

あなたの望む花がないなら

自分がそれにおなりなさい


イエスさまは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われました。それは「あなたたちには神さまがついているから、大丈夫だよ」ということです。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われました。それは「私たちの神さまは私たちに良いものを必ずくださるから、大丈夫だよ」ということです。そしてイエスさまは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われました。「あなたにはやさしい気持ちがあるから、それを大切にしなさい。大丈夫だよ」ということです。

わたしは人生において、やさしさというのは、とても大切なことだと思っています。沖縄には「フクギ」という木がよく植えられているそうです。2月に沖縄に行きましたが、たしかにフクギという木が街路樹などでよく植えられていました。沖縄ではフクギが、その名前のとおり、「この木は福をもたらす」とされてきました。精神科医の中井久夫さんはこ沖縄の「フクギ」についてこんなことを書いています。【フクギは何の役にも立たない木だそうである。とりたてて美しい樹でもない。果実は役に立つどころか、熟して落ちると醜く潰れて悪臭を放つ。だが、ここでは、フクギの名のとおり、この木は福をもたらすと言いならわされてきたという。「子どもの時分には屋敷のまわりにはフクギがあったものです」と案内の人は語った】(P.15)。【役に立たないどころか悪臭を放つ実を降らせるフクギの、いわば存在自体を肯定して、福をもたらすとするのが沖縄の心ばえである。おそらく無用にみえるももの存在を肯定すること自体が福をもたらすのであろう】(P.18)【樹をみつめて】(みすず書房)。

私たち人間は自分たちに利益をもたらすかどうかという判断で、よく植物や生き物をみます。わたしもおいしい実がなる木が好きです。こどものときの家に柿とかいちじくとか夏みかん、なつめ、ざくろなどなど、おいしい実がなる木があったので、とても重宝しました。

しかし私たちはすべての面において、経済効率だけで生きているわけではありません。家で犬を飼っておられる方などもおられると思いますが、別に「お遣いに行ってくれる」ということのために、犬を飼っているわけでもありません。最近は番犬として飼っているわけでもないので、まあ家の中で飼っている場合が多いような気がします。頭がいいから飼っているというわけでもありません。「言うこときかない、ばかな犬なのよ」とか言いながら、でもとてもその犬を愛しておられたりします。経済効率だけがすべてではないわけです。役に立つか役に立たないかだけでなく、その存在を受け入れるというあたたかさが世の中にはなくてはならないわけです。そうしたやさしさを忘れないということが、とても大切なことです。

「人間が人生の最後に願うこと」って、みなさんはどういうことだと思いますか。こんなふうにいう人がいます。児童精神科医の佐々木正美という方がおられました。よく子育ての本などを書いておられました。『子どもへのまなざし』(福音館書店)が有名です。佐々木正美さんはこんなことを言っておられます。【人間が人生の最後に願うことは、もっと勉強をしておけばとか、もっと働いておけばとか、もっとおかねをためておけばよかったとかいうことではなくて、信頼できる家族に見守られていたいということだ】(P205)(佐々木正美『佐々木正美の子育てトーク』、エイデル研究所、1429+税円)。わたしはまあ絶対に家族でなければならないということではないと思います。ただ信頼できるだれかに見守れてることができれば、いいのではないかと思います。【人間が人生の最後に願うことは、もっと勉強をしておけばとか、もっと働いておけばとか、もっとおかねをためておけばよかったとかいうことではなくて、信頼できる誰かに見守られていたいということだ】。

わたしを、そしてみなさんをいつも愛し、見守ってくださっている方がおられます。神さまはいつも私たちを見守ってくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

【「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」】。

イエスさまは私たちに、「神さまはあなたたちのことが大好きだから安心して、悲しいことやつらいことがあっても、勇気を出しなさい」と言われました。神さまはいつも私たちと一緒にいてくださって、私たちを守ってくださっています。神さまの愛のうちを、安心して歩んでいきましょう。


(2025年3月9日平安教会朝礼拝式・きてみてれいはい)




3月2日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「イエスさまに強く願う」

「イエスさまに強く願う」

聖書箇所 マタイ14:22-36。566/528。3/5、灰の水曜日

日時場所 2025年3月2日平安教会朝礼拝式      


京都教区の沖縄現地研修で、2/17から2/20にかけて沖縄を訪れました。わたしはいま京都教区「合同」問題特設委員会の委員長をしています。この委員会が二年に一度、沖縄現地研修を行なっています。激しい沖縄戦が行われた沖縄県南部の戦争の跡を訪ねました。一日目は、平和祈念館、平和の礎、アブチラガマ、ひめゆり平和祈念資料館などを訪れました。二日目は、嘉数高台(かかずこうだい)(上陸後米軍を待ち受けて足止めした激戦地)、沖縄国際大学ヘリ墜落跡、嘉手納道の駅(基地を見る展望台)、読谷・チビチリガマを訪れました。そして3日目は新基地が造られようとしている辺野古を訪ねました。

昔、関東教区の沖縄現地研修に、わたしは参加しました。もう30年ほど前のことになります。しかし当時と同じように沖縄には米軍基地がたくさんあり、そして辺野古には新たな基地が建設をされようとしています。沖縄県はやはり戦争反対ということについては、私たちよりもとても熱心な思いをもっておられます。二度と戦争はしたくない。それはやはり地上戦が行われて、実際にご家族が戦争で亡くなった人たちがとても多いからでしょう。平和を求めて祈ることの大切さを改めて思わされました。

今日の聖書の箇所は「湖の上を歩く」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書14章22−24節にはこうあります。【それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。】。

イエスさま弟子たちを舟にのせて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かせます。そして群衆を解散させて、ひとり山に登られました。一人になられて心を静め、神さまに祈っておられたのではないかと思います。山というのは神さまと出会う場所であるわけです。しかしその間に、舟に乗っている弟子たちは大変なことになっていました。逆風が吹いて、なかなか思いどおりに舟を動かすことができませんでした。

マタイによる福音書14章25−29節にはこうあります。【夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。】。

「夜が明けるころ」というわけですから、弟子たちも湖のうえで、ずっと漂っているのは、とても大変だったと思います。イエスさまは湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれます。「湖の上を歩いて」というのは、そんなことできるのだろうかと、私たちは思いますが、それはやはり弟子たちもそのように思ったわけです。イエスさまが海の上を歩いて来られたのをみて、弟子たちは「幽霊だ」と言って脅えます。その様子をみて、イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。使徒ペトロは、「ほんとうにイエスさまであるのであれば、わたしに命令をして、水の上を歩いて、イエスさまのところに行かせてください」と言いました。そんなことでイエスさまであることが証明されるのかと、まあ不思議な気もいたします。湖の上を歩くことができる幽霊が、その力を使って他の人を歩かせることもできるような気もします。でもまあそうしたことがたいせつなのではないのです。イエスさまがペトロに命令をされるということが大切なのだと思います。ペトロはイエスさまから「来なさい」と言われ、舟から降りて湖の上を歩き始めます。

マタイによる福音書14章30−33節にはこうあります。【しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。】。

イエスさまだと信じて湖の上を歩きはじめてペトロでしたが、強い風が吹いてくると、怖くなります。そしてペトロは湖の中に沈んでしまいそうになりました。。そのときペトロは「主よ、助けてください」と、イエスさまに助けを求めます。するとすぐにイエスさまは手を伸ばしてくださり、ペトロを助けてくださいました。イエスさまは「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。そのあとイエスさまとペトロは舟に乗ります。すると風も静まり、波も穏やかになります。舟の中にいた人たちは「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスさまを拝みます。

マタイによる福音書14章34−36節にはこうあります。【こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。】。

湖の向こう岸に渡ったあと、人々はイエスさまのことを聞いて、イエスさまのところに病気の人たちを連れてきます。そしてイエスさまにいやしてもらいます。「その服のすそにでも触れさせてほしいと願った」という言葉に、その切実さと、イエスさまに対する信頼を見てとることができます。人々はイエスさまのことを信じて、イエスさまのところに集まってきていました。

今日の聖書の箇所の「湖の上を歩く」という聖書の箇所は、初期のキリスト教の状況を表わしている聖書の箇所です。イエスさまが天に帰られ、人々は目の前にイエスさまがいないというなか、イエスさまを信じて歩んでいくことになります。それは私たちと同じであるわけです。イエスさまの直接の弟子たちは、イエスさまと一緒にいるわけですが、それにしても、いつもいつもイエスさまがいるわけでもありません。イエスさまはお祈りに行かれたりするわけです。どんな人も、いろんな時代に、人間ですから不安な気持ちになりますし、また信じられないというような気持ちになります。それは人間ですから、仕方がないのです。初代教会の頭であり、イエスさまの一番弟子である使徒ペトロでも、不安になったり恐れたりするのです。

ペトロはイエスさまから「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。そしてペトロはイエスさまに水の上を歩きたいと願います。水の上を歩くというできそうもないことを、ペトロはイエスさまに願うのです。ペトロは不安であったと思います。できそうもないことを願っているからです。しかしイエスさまは「来なさい」と言われます。わたしをしてわたしのところに「来なさい」と、イエスさまは言われます。。そしてペトロは勇気を出して、イエスさまの招きに応えます。しかし風が強くふき、ペトロは不安になります。やっぱりだめなのではないかと思います。そして事実、ペトロは湖に沈みそうになります。「ああ、だめだ」と思えた時、イエスさまは手を差し伸べてくださり、ペトロを救ってくださいました。「ああ、だめだ」と思えるとき、イエスさまは救いの御手を差し伸べてくださる方であるのです。

人間ですから失敗することもありますし、「ああ、だめだ」とあきらめてしまいそうになることもあります。しかしだから最初から何もしないでおこうというふうになると、何も良き働きを行なうことができません。失敗するかも知れないけれども、イエスさまに強く願って始めてみるということが大切であるのです。

イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、私たちを励まし、導いてくださっています。私たちはイエスさまに強く願い一歩を踏み出してみたいと思います。「ああ、だめだ」と思えることもあるかも知れません。そんなとき、イエスさまは私たちの手を取ってくださり、私たちを導いてくださいます。

いまは私たちの世の中は、力でものごとを解決する道を選ぶことが多くなり、正しさややさしさがないがしろにされることが多くなっています。ウクライナやパレスチナでは戦争が続き、ミヤンマーでは軍事政権が続いています。「私たちの世界が平和な世界になりますように」という私たちの祈りも、力によってかき消されてしまいような気持ちになってしまいます。しかし私たちはやはり、「平和な世界になりますように」との祈りを、イエスさまに、神さまに強く祈り続けていきたいと思います。

イエスさまはいつも私たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼びかけてくださっています。イエスさまの言葉を信じて、恐れることなく歩んでいきましょう。


  

(2025年3月2日平安教会朝礼拝式)


2月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「わたしもイエスさまにほめられたい」

「わたしもイエスさまにほめられたい」 

聖書箇所 マタイ15:21-31。466/512。

日時場所 2025年2月23日平安教会朝礼拝式


「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが、一時期、よく言われていました。いまは「誉めるだけではだめだ」というようなことも言われ、まあこう言うのは流行のようなもので、当り前ですが、程度があるわけです。でもまあ、わたしも怒られる時代に育っていますから、やっぱり「私は褒められて伸びるタイプだから」というようなことが言える時代に育ちたかったなあと思います。

まあ昔の日本の若者はよく叱られて育ちました。意味もなく怒る大人がたくさんいたからでしょう。昔の映画監督になりますが、大島渚という人がいましたが、この人は怒ることで有名な人でした。大島渚は『戦場のメリークリスマス』(1983年)の監督をしています。この映画に音楽家の坂本龍一やお笑いタレントのビートたけしが出演しています。出演する時に彼らが大島渚に対して言ったことは、「おれたち怒られたら辞めるから」ということだったと言われています。

最近、京都教区定期総会議事録精査委員というのに選ばれて、2024年度に行なわれた京都教区定期総会の議事録を読んでいました。誤字脱字とかを探したり、意味のわからない表現になっていないかというようなことを探すわけです。京都教区定期総会のなかでいろいろなやりとりがなされているわけですが、やはり激しいやりとりもなされています。精査委員として議事録の校正をしているときに、京都教区の総会議長をしています今井牧夫議長にお会いする機会がありました。今井牧夫議長も最近、2024年度の定期総会議事録を読んでいて、「ぼく、なんでそんなに悪く言われなければならんのかなあ」「ぼく自身というより、まあ京都教区に対して言っているということなんだろうと思うけど」というような感想をもらしておられました。「まあ今井牧夫議長も一生懸命にやっておられるのだから、やっぱり誉められたいよなあ」と思いました。

今日の聖書の箇所は「カナンの女の信仰」「大勢の病人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。この聖書の箇所はマルコによる福音書7章24−30節に、同じような内容の聖書の箇所があります。

マタイによる福音書15章21−23節にはこうあります。【イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」】。

イエスさまはティルスとシドンの地方に行かれたということですから、ユダヤから離れて北の方の外国の地に行かれたということです。そこでカナンの女性に出会います。マルコによる福音書7章24節以下では「シリア・フェニキアの女の信仰」という表題がついています。新約聖書の75頁です。そしてそこでは【女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであった】と記されています。まあ女性はユダヤ人ではなく、外国人であったということです。女性の娘さんは病気にかかっていました。ですからこの女性はイエスさまに治していたいだきたいと思っています。女性は「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びながら、イエスさまについてきます。あまりにうるさいので、イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまに「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」と言いました。

マタイによる福音書15章24−28節にはこうあります。【イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。】。

イエスさまのように、人々の病をいやしている人が外国人にもいました。ですからイエスさまは、わたしはイスラエルの人々をいやすことにしているので、あなたはそうした人にいやしてもらったよいですよと、やんわりとことわったわけです。まあ外国にいって外国人をいやしていると、外国人のお医者さんから「イエスはおれたちのシマを荒している」というようなことをいわれてしまうかも知れません。まあそうしてことはイエスさまもできるだけさけたいわけです。それでイエスさまは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。「子供たち」というのはユダヤ人たちで、「小犬」というのは外国人ということです。まあ現代的に言えば、あんまりふさわしい例え方ではないような気もします。外国人を小犬呼ばわりするなど、まあ現代ではありえないわけです。

しかし女性はそうしたことにこだわらず、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と言いました。小さいこどもは食べ物をよくこぼします。こどもが食べているのか、こどもが着ている服が食べているのかわからないというようなことがあったりします。またこどもが食べ物をたくさん落として、落としたものを小犬が食べているというようなこともあります。女性はそれに例えて、「イエスさまの立場もよくわかります。こどもが落として食べ物を小犬が食べるというようなこともあるんだから、わたしの娘は外国人でユダヤ人でないけれども、でも治してくださっても大丈夫ですよ。なにか言われたら、『あの女はつきまとってきて、うるさくてうるさくてたまらなかったから、迷惑だったけど、特別に娘を治してあげたんだよ。うるさくてしかたがないんだから、どうしようもないよ』って言ってくださったら結構ですから」と言いました。

女性があきらめることなく、一生懸命に、そしてとんちをきかせて、イエスさまに頼み続けたので、イエスさまは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言われました。そして女性の娘の病気は、イエスさまによっていやされました。

マタイによる福音書15章29−31節にはこうあります。【イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。】。

イエスさまはカナンの女性の娘をいやされたあと、ティルスとシドンの地方から、いつも自分たちが活動をしているガリラヤ湖のほとりに帰られました。イエスさまが山に登ると、大勢の群衆がイエスさまのところにやってきます。たくさんの病気の人たちが、イエスさまにいやしていただこうと連れて来られました。足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人。たくさんの人たちをいやされるわけですから、イエスさまもお疲れになられるだろうと思います。ユダヤの人たちも大勢病気の人たちがおられるわけですから、外国人まで手が回らないということも、それはそうかもしれないと思わされるほど、たくさんの人たちが、イエスさまのところに癒やしてもらうとやってきました。そしてみんなイエスさまによって癒やされたのです。それをみた、人々は神さまを賛美しました。

カナンの女性も、ユダヤの群衆たちも、「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていました。病気の娘をいやしてもらいたい。隣に住んでいる足の不自由な人をいやしてもらいたい。目の見えない友だちが見えるようになってほしい。体の不自由な義理の娘が、歩けるようになってほしい。貧しい生活のうえに、いろいろな病気や不自由なところをかかえて生きていくのは、それはそれは大変であるわけです。自分が病気であるわけではないけれども、「つらい思いをしている人と助けたい」。そうした思いをもっていた人たちは、イエスさまが病気の人や体の不自由な人が癒やされるのをみて、神さまを賛美したのでした。

「つらい思いをしている人を助けたい」というまっとうな思いをもっていた、カナンの女性やユダヤの群衆たちは、私たちと同じように、日常生活のなかで、誉められるというようなことはそんなになかったのではないかと思います。イエスさまの弟子たちはカナンの女性のことを、「叫びながらついてくる面倒な女」「イエスさまに追い払って欲しい女」という目で見ていました。まあ弟子たちだけでなく、いろいろな人が女性をそういう目で見ていたということだと思います。しかしイエスさまはカナンの女性をほめられました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」。

イエスさまはカナンの女性のどんなところをほめられたのかというようなことが気になるということもあるかも知れません。わたしはそれは「カナンの女性がおもしろいことをいったから」だと思いますが、ですからみなさんに「カナンの女性のように、みんなおもしろいことを言う人になりましょう」という説教をするわけにもいきません。

しかしカナンの女性がなにかしたから、イエスさまがほめられたということよりも、ただイエスさまがカナンの女性をほめてくださったということのほうに、わたしは大きな意味があると思います。イエスさまはしんどい思いをしているカナンの女性をほめてくださったように、しんどい思いをしている私たちをほめてくださる方なのです。イエスさまは小さき者たちを顧みてくださる方なのです。私たちの悩みや苦労を知っていてくださり、私たちをほめてくださる方なのです。

いまもイエスさまは一生懸命に生きておられるみなさん、ひとりひとりをほめておられます。「あなたの信仰は立派だ。安心していきなさい」。そんなイエスさまに導かれて、神さまの愛のうちを、私たちも歩んでいきたいと思います。



  

(2025年2月23日平安教会朝礼拝式)


2月16日平安教会礼拝説教(俣田浩一牧師)「ここにいますよ~イエスの神殿」

「ここにいますよ~イエスの神殿」

西陣教会 俣田浩一牧師

イエスは神殿から商人達を追い出します。でも境内で売り買いされていた牛や羊や鳩は捧げもの用でした。遠くから来る巡礼者達は、牛や羊を連れて旅する分けには行きません。身軽に旅をして、捧げ物は神殿で買うのです。また神殿では献金用のユダヤの伝統的な貨幣に交換する必要がありました。そのために両替人が境内にいたのでした。ですからこれらの商売は必要でした。イエスはそれを破壊したのでした。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」ユダヤ人達はすぐに反応します。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか。」それに対してイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言います。しかし建てるのに四十六年もかかった神殿を、あなたは三日で建て直すのかと、ユダヤ人達はまた不審に思います。しかしイエスが言う神殿とは御自分の体のことでした。つまり死と復活のことでした。するとなぜイエスはそれを言うために神殿にいる商人達を追い出したのでしょうか。

過越祭の「過越」はギリシア語で「パスカ」、これはあるものから別のものへと変わるという意味の言葉です。別のものに変わるということは交換が可能ということです。それはお金とも交換可能です。つまり商売です。物はお金と交換されます。価値の交換である商売を神殿でしていた。イエスはどうもそれが気に入らなかったようです。価値の交換をしてはならない、商売をしてはならない。それはなぜか。イエスにとって、神殿、父の家とは交換出来ないものを扱うところだったからです。交換できないもの、それは神から与えられたいのちです。十字架の死からの三日後の復活に顕される、神から与えられた永遠のいのち。「建て直す」という言葉は「よみがえる、復活する」と同じ言葉です。死と復活に示される私達を創られた神との根源的な関係は、何を持ってしても交換できない、かけがえのない関係なのだと。そのことを扱う場所が神殿だと。イエスはそれを言おうとした。そしてそれを行動で現したのではないかと思います。結果的にはこの行為がイエスを十字架の死へと招きました。神から与えられたいのちは何を持ってしても代えられないもので、死に勝利する復活の永遠のいのちだと、イエスは自らの命を持ってそのことを伝えたのでした。



12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》