2025年7月26日土曜日

7月27日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「落ち着いて考え、前に進む」

 「落ち着いて考え、前に進む」

 

聖書箇所 マタイ7:15-29。433/465。

日時場所 2025年7月27日平安教会朝礼拝式

  

女優の長澤まさみは、年齢関係なく敬語で話すようにしているそうです。女優さんですから、いろいろな年代の人と接することになります。【最近は、年齢関係なく敬語で話すようにしています。幅広い年代やキャリアの方とご一緒する仕事でもあるので、年齢によって話し方や態度を変えるよりも、自分が後輩の気持ちで接するほうがスムーズだし楽だとわかって。それから、例えば俳優業で、「この人と仲よくしてみたい」とか「もっと距離を縮めてみたい」と感じたら、その方の出演作や活動にまつわる話でコミュニケーションを取るように心掛けていますね。自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと。そのためには、相手を知ることも必要。知ること自体がひとつのリスペクトになり、心を開いてもらえるきっかけにもなる。そういう順序を間違えなければ、人とうまく付き合っていける気がしています】(magacol.5/4.16:00配信)(長澤まさみさん『最近は、年齢関係なく敬語で話すようにしています』|CLASSY.)。

わたしもどちらかと言うと、どの年代のかたに対しても同じように接するように、心がけています。先輩の牧師さんに対しても、後輩の牧師さんに対しても、同じように「さん」づけで呼ぶというような感じです。昔からのつきあいで、わたしが岡山教会時代に教会学校の生徒さんだった、いま、南大阪教会の牧師で大阪教区の議長をしておられる、尾島信之牧師などに対しては、ときどき、話をしていて、「尾島君」というふうに言ってしまったりしますが、それもなるべく「尾島さん」というふうに言うようにしています。

なかなか人間関係というのはむつかしいものだと思います。女優の長澤まさみにしても、いろいろなことに配慮をしているのだと記事を読みながら、感心させられました。「自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと」。ああ、たしかにそういうことはとても大切なことだと思わされました。

今日の聖書の箇所は、「実によって木を知る」「あなたたちのことは知らない」「家と土台」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書7章は、山上の説教という、イエスさまが山の上で話されたと言われる聖書の箇所の一部です。山上の説教は、マタイによる福音書5−7章です。山上の説教は、イエスさまが伝えたかった大切なことが語られている聖書の箇所だと言われています。今日の「実によって木を知る」「あなたたちのことは知らない」は、どちらかと言うと、処世術的な感じのする教えです。「このようなことに注意をして生きていきなさい」というような感じのことが書かれてあります。

マタイによる福音書7章15−20節にはこうあります。【「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」】。

「偽預言者を警戒しなさい」と、イエスさまは言われました。だれが偽預言者であるかを判断するのは、なかなかむつかしいものです。先週、参議院選挙がありましたが、いろいろな政治家が、わたしの言っていることこそすばらしいのだと言うわけです。自分の考えに近いなあと思ったりするわけですが、でも行なっていることはなんかいいかげんで、自分に対してはやさしく、人に対しては厳しかったりして、なんかゲンナリしてしまうというようなことがあります。「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」ということですから、選挙のときだけでなく、日常的に政治家の人たちの行動をしっかりと見ていないといけないわけです。

しかし「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」という言葉は、人に対してだけの言葉ではなく、私たちに対しても向けられている言葉であるわけです。私たちも口先だけで良いことを言っているのではなく、やはり実際に何をしているのかということが問われているということです。

マタイによる福音書7章21−23節にはこうあります。【「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」】。

ここでも口先だけで「主よ、主よ」と敬虔なふりをしているだけではだめだと、イエスさまは言われます。イエスさまに向かって、「イエスさま、イエスさま」と、イエスさまに従うふりをしていてもだめで、神さまの御心を行なうということが大切なのだと、イエスさまは言われます。

キリスト教の信仰は、基本的には「信仰によって義とされる」ということです。「行ないによって義とされる」というわけではありません。しかしそれでは行ないはどうでも良いのかと言いますと、そういうわけでもないのです。やはり神さまの御心を行なうということが大切なのです。しかしそれでは良い行ないをすれば良いのかと言うと、そういうわけでもありません。「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」としても、謙虚な思いを忘れてしまっていると、やはりだめであるわけです。なんかいろいろ言われてむつかしいなあというふうにも思うわけです。でも素直な気持ちで謙虚に、神さまの御心に従って、小さな良き業を行なっていくという姿勢を大切にしたいと思います。

マタイによる福音書7章24−29節にはこうあります。【「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。】。

この聖書の箇所は「家と土台」という表題がついています。ですから「土台」の話をしているのかというと、たんにそういうわけでもないのです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とありますから、「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう」ということの大切さも語られているわけです。イエスさまの言葉を聞いて行なう人は、岩を土台としているようなあり方で、その人生は祝福されたものとなる。イエスさまの言葉を聞くだけで行なわない人は、砂の上に家を建てたようなあり方で、その人生は大変なことになってします。雨が降り、川があふれ、風が吹いてくると、家は倒れてしまうのです。ですからイエスさまの言葉を聞いて行なう人になりたいよねということです。

イエスさまは「偽預言者に警戒しなさい」、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と言われました。なかなか人を見極めるということはむつかしいことであるわけです。あたかも神さまの言葉を預かっている預言者のように語る人であっても、偽預言者であるかも知れません。またとても敬虔そうに、「主よ、主よ」「神さま、神さま」と言っていても、その人が信仰深い人であるとは限りません。

ルカによる福音書18章9節以下には「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の144頁です。ルカによる福音書18章9ー14節です。【自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」】。

このファリサイ派の人は、週に二度断食をして、全収入の十分の一を献げている敬虔な人であるわけです。「主よ、主よ」「神さま、神さま」といつも言って祈りを献げているわけです。しかしこのファリサイ派の人は本当の意味で敬虔な人ではないのです。敬虔そうで、実際に律法にかなった敬虔な生活をしているのだけれども、しかし敬虔ではないのです。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下しているのです。

人にだまされないということも大切ですが、しかしもっと大切なことは自分がどのように生きるのかということです。ということで、何を土台にして生きていくのかということが問われるわけです。「家と土台」という聖書の箇所では、そもそもはイエスさまの言葉を聞いて行なうか、行なわないかということが問われているわけです。しかし読む私たちは、「何を土台にして生きていくのか」ということが気になるわけです。そしてそれは「何を土台として生きていくのか」ということは、とても大切なことであるからです。いいかげんなものを土台にしていては、人生をあやまってしまうのです。私たちは確かな土台として、イエス・キリストにより頼んで生きていきます。

何が本当か、何がうそなのかが判断がつきにくい社会になりました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」という電話が警察からかかってきます。この電話ははたして警察からかかってきた電話なのか。「クレタ人はいつもうそつき」と言っているクレタ人のような話です。「クレタ人はいつもうそつき」は、新約聖書のテトスのへの手紙1章12節の言葉です。新約聖書の396頁です。また参考にしてください。警察からの電話、平安教会にもかかってきました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」。教会にかかってきた電話は、下鴨警察署上高野交番の電話であると電話のナンバー・ディスプレイに出ていましたから、警察からの電話のようでした。

「偽預言者を警戒しなさい」「偽警察を警戒しなさい」。詐欺事件やフェイクニュースにあふれた私たちの社会です。なかなか大変な世の中ですが、私たちは落ち着いて考え、前に進んでいきます。そしてイエスさまの言葉を土台として歩んでいきたいと思います。

今日の聖書の箇所は、イエスさまの大切な教えが書いてあると言われる、山上の説教の最後のところにあたります。山上の説教は、マタイによる福音書5章からはじまり、7章で終わります。

イエスさまは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。イエスさまは「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。イエスさまは「富は、天に積みなさい」と言われました。イエスさまは「人を裁くな」と言われました。イエスさまは「狭き門から入りなさい」と言われました。

イエスさまの教えを土台として、イエスさまから離れることなく、歩んでいきたいと思います。



  

(2025年7月27日平安教会朝礼拝式) 



2025年7月19日土曜日

7月20日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「人の温かさに感じ入る」

「人の温かさに感じ入る」

聖書箇所 マタイ7:1-14。402/483。

日時場所 2025年7月20日平安教会朝礼拝式

   

数年前、妻と一緒に東京にいったときに、池袋にあります「自由学園明日館(みょうにちかん)」を見にいきました。自由学園明日館は、1921年に創立された自由学園の校舎です。フランク・ロイド・ライトの設計によって立てられました。なかなかすてきな建物です。

森まゆみの『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』(婦人之友社)は、自由学園をつくった羽仁もと子について書かれてあります。「じょっぱり」とは羽仁もと子の故郷の青森の言葉で、「信じたことをやり通す強さ」を意味する言葉です。羽仁もと子は、よいことは必ずできると信じて、周りの人々を巻き込みながら突き進んでいきました。

森まゆみは自由学園から依頼されて、この本を書いています。外部の人に書いてもらいたいということで、森まゆみが書いています。内部の人が書くと、客観的に書くことができなかったりするので、外部の人に書いてもらいたいということで、森まゆみが書いているということです。ですから森まゆみはこの『じょっぱりの人』のなかで、羽仁もと子がある部分では戦争に協力をしていったことなどについても書いています。創立者である羽仁もと子への批判もしっかりと受け入れるということですから、自由学園というのはほんとに自由なところなのだと思います。

わたしは羽仁もと子と言えば、自由学園と友の会の活動というくらいの知識しかありませんでした。わたしの母も昔、友の会に入っていて、わたしの家には「羽仁もと子案 家計簿 婦人之友社」がありました。わたしの前任地の高槻日吉台教会には、友の会のメンバーの人が数人いらしてくださっていて、教会のバザーのときなど、いろいろとお世話になりました。

羽仁もと子は、自由学園、友の会以外にも、いろいろな活動をしています。「あとがき」で森まゆみはこんなふうに書いています。【連載が進むにつれ、だんだん楽しくなってきた。『婦人之友』の経営者としても、彼女は家庭生活の合理化、家計簿の考案、洋服の提唱、使いやすい道具や家具の開発と販売、など先駆けの事業を次々実現していった。続いて自由学園を創り、『婦人之友』の読者を「友の会」として組織し、格段に行動は広がり、規模が大きくなった。関東大震災の救援に始まり、東北飢饉の際の農村生活合理化セツルメント事業、戦争中の北京生活学校、そして引揚女性と子供の援護活動。これら四つの大事業について、私はほとんど知らなかった。すべて世界史の激動の中で行われ、もっと知られてもよい。批判もあるだろう。よそものが東北の農村の実情も知らずに、都会の近代主義の論理を持ち込んだだけではないか。北京生活学校は戦争と植民地主義のうえに乗って行われた学校事業ではないか、引揚援護だって時の政府やGHQに利用されたに過ぎないではないか。それぞれ聞くべき意見だが、実際の当事者の悩みを解決し、助け、喜ばれたことも確かである】(P.423)。

羽仁もと子は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という人生をおくりました。いつも自分で考え、そして生活に根ざしたことを行ない、神さまに祈りつつ歩みました。そして困っている人がいると、なんとかして手を差し伸べるという姿勢で歩みました。『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』を読んでいますと、「人の温かさに感じ入る」という気持ちになりました。ああこんなに温かい人いて、人のためになんとなしようと思う人がいるんだと思うと、とてもうれしい気持ちになります。それと同時に、「まあ、なんて自分は冷たい人間なんだろう」という気持ちにもなります。でもやっぱり世の中には、とても心の温かい人たちがおられて、そうした人たちの温かさによって、世の中は支えられているんだと思えます。

今日の聖書の箇所は「人を裁くな」「求めなさい」「狭い門」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書7章1−6節にはこうあります。【「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」】。

イエスさまは「人を裁くな」と言われました。人を裁くと、自分も裁かれるようになる。「自分の量る秤で量り与えられる」。人は他人の欠点や失敗は気づきやすいけれども、自分の欠点や失敗には気づきにくいものなのだ。自分の目の中に丸太があることには気づかない。しかし他人の目の中のおが屑には気がつく。そして恥ずかしげもなく、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言う。それが人間というものなのだ。まず自分のことをしっかりと見て、自分の悪いところを謙虚に受けとめて生きていきなさい。そして裁きあいの世界に生きるのではなく、互いに支え合いながら生きていくという世界を、みんなでつくりだしていきなさい。イエスさまはそのように言われました。

マタイによる福音書7章7−12節にはこうあります。【「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」】。

イエスさまは「求めなさい」と言われました。あなたがこれをしたいと思ったら、一生懸命に、それを求めて生きていきなさい。神さまがあなたの望みをかなえてくださるから、一生懸命に求めて生きていきなさい。神さまを信じて求めていきなさい。「どうせだめだよ。かないっこないよ」と思うのではなく、神さまが救いの御手を差し伸べてくださることを信じて、求めていきなさい。パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えたりしないだろう。魚を欲しがる子どもに、蛇を与えたりしないだろう。あなたたちは自分の子どもに良い物をあたえるだろう。神さまもまたあなたたちに良い物を与えてくださる。だから神さまに求めて歩んでいきなさい。そして神さまがあなたに良いものを備えてくださるのだから、あなたたちは困っている人に対してやさしくしなさい。あなたたちがしてもらいたいと思うことを、あなたちも人にしてあげなさい。私たちが大切にしている律法や預言者の言葉は、そういうことを私たちに教えてくれているのだ。そのように、イエスさまは言われました。

マタイによる福音書7章13ー14節にはこうあります。【「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」】。

イエスさまは「狭い門から入りなさい」と言われました。滅びに通じる門は広々としていて、なんとなく入りやすく見える。その道も大きいので、なんとなく誘われてそっちに向かってしまう。しかし永遠の命に通じる門は狭い門である。その道も細い。だから狭い門を通ろうとする者は少ない。

良いと分かっていても、なかなか理想を貫くということはむつかしいものです。「理想ではなく、現実をみなさい」と言われると、自分が現実を見ていない愚か者であるかのような気がしてきたりします。しかし現実を見ていたら、現実しかみえないですから、だんだんと理想はしぼんでいってしまいます。それではあまりに悲しいのです。イエスさまは理想を掲げて生きていくことの大切さを、私たちに教えてくださっています。永遠の命に通じる門は、たしかに狭い門である。しかしあなたたちはクリスチャンとして、その狭い門から入ることを大切にしなさい。その狭い門は永遠の命に通じる門であるのだから。そのようにイエスさまは言われました。

私たちは「御国がきますように」と祈ります。神さまの御心が、神さまの愛が、この世界に行き渡りますように。神さまの御心にかなった世界になりますように。そのような思いをもっています。しかし現実はなかなかそういうわけにもいかず、私たちの世界では戦争が行われています。自由のない国で生きることを強いられている人々がいます。差別や抑圧が社会のなかにあり、悲しい思いをしている人たちがたくさんおられます。そうしたことは現実です。それが現実なのだからしかたがないじゃないか、どうしようもないことなんだと、「現実を見ろよ」と言われます。しかしそれでも「御国がきますように」と祈ります。狭い門かもしれないけれども、しかし理想を手放すことなく、神さまのみ旨にかなった社会になることを祈りつつ歩んでいきます。

はじめに紹介いたしました、羽仁もと子はクリスチャンとして、「神さまの思し召し(おぼしめし)」という召命感を大切にして歩みました。神さまが羽仁もと子に託されたわざを、一生懸命に行なったわけです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。神さまが導いてくださっているのだから、神さまを信じて、神さまから託されたわざを一生懸命に行なっていくのです。羽仁もと子は、人を裁くのではなく、共に助け合いながら、良きことのために協力して働いていくのです。人を信じて、自分の協力者として一緒に歩んでもらうのです。狭き門に見えるけれども、神さまが示してくださる道を、まっすぐに歩んでいくのです。困っている人、助けを求めている人がいたら、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいくのです。

羽仁もと子もそうでしたが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というような、温かみのある人たちが、私たちの世界を支えています。先月、梅花女子大学の礼拝に行きました。梅花女子大学は私たちの教会員であります、小﨑眞さんが学園長をしておられる大学です。梅花女子大学の創設者である、沢山保羅の愛唱聖句も、マタイによる福音書7章12節の言葉です。「何事でも人からしてほしいと望むことは人々にもそのとおりにせよ」(マタイによる福音書7章12節)と、礼拝堂の聖書に挟まれた「しおり」に書かれてありました。沢山保羅もまたそういう人でありました。

よき社会のために、あきらめることなく、祈りつつ、歩んでいった信仰の先達が、私たちにおられます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいった、温かい信仰にふれることができ、とてもうれしい気がいたします。私たちもまたキリスト教のよき伝統を受けついて、小さな良き業に励む、こころの温かい人でありたいと思います。




 

(2025年7月20日平安教会朝礼拝式) 

2025年7月12日土曜日

7月13日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「あなたの中にある光」

「あなたの中にある光」

聖書箇所 マタイ6:22-24。470/493。

日時場所 2025年7月13日平安教会朝礼拝


参議院選挙などのニュースを見ていますと、日本もいろいろと変わったなあと思わされます。アメリカのトランプ大統領などの行動を見ていても、アメリカもいろいろと変わったなあと思います。またヨーロッパの国々の様子を見ていても、なんかいろいろ変わったなあと思わされます。そういう面では世界も変わったなあというような気がします。全体的にみると、自国中心主義が声高に語られ、すこし優しさが失われてしまったような気がして、不安になります。

時代の変わり目の出来事というものがあります。よく「第二次世界大戦後」とか「明治以降」とか、世の中の動きが大きく変わるというときというのがあります。よく「百年に一度の危機」というようなことが言われます。なんとなく世界が変化していると感じるいま、私たちはいままでのあり方をもう一度しっかりと考え直してみるときなのだろうと、わたしは思います。「

寺島実郎という人が書いた『二十世紀から何を学ぶか(上)一九〇〇年への旅 欧州と出会った若き日本 』(新潮社)という本の中に、夏目漱石の言葉が紹介されていました。夏目漱石と言えば、『坊ちゃん』という小説で、「松山の人はみな語尾に『ぞなもし』とつける」ということを広めたことで有名な人です。わたしは夏目漱石が書いた小説を若い時に有名な小説を一通り読みました。比較的好きな小説家の一人でした。

夏目漱石はロンドンに留学をしていますが、その時の日記にこう記しています。【「未来は如何にあるべきか。自ら得意になる勿(なか)れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々(しし)として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼(たいこ)する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実(しじつ)に行へ。汝の現今(げんこん)に播く種はやがて汝の収べき未来となつて現はるべし(1901年3月21日付)】(P.25)(寺島実郎『二十世紀から何を学ぶか(上)』、新潮社)。

1894年(明治27年)に日清戦争、1902年(明治35年)に日英同盟が結ばれる、1904年(明治37年)に日露戦争というような時代です。「未来はどうあるべきか。得意になったりするな。投げやりになったりするな。牛のように黙々と。鶏のように熱心に。中身のない大言壮語をするな。真面目に考えよ。誠実に語れ。真摯に行なえ。あなたがいま播く種はやがてあなたの未来となって現れる」。

「100年に一度の危機」と言われるとき、私たちはじっくりと自分たちの歩みについて、私たちが何を頼りにして生きているのか。私たちが本当に必要としているものは何であるのか。夏目漱石のように、真面目に考えるときであるような気がします。

今日の聖書の箇所は、「体のともし火は目」「神と富」という表題のついている聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は、山上の説教の一部です。マタイによる福音書は5章から7章が、山上の説教です。イエスさまが言われた大切なことが、まとめられている聖書の箇所です。

マタイによる福音書6章22-23節には【「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」】とあります。マタイによる福音書6章19節以下には「天に富を積みなさい」という話があり、マタイによる福音書6章24節以下には「神と富」という話があります。この「体のともし火は目」という話は、お金の話の間にはさまれています。「目が澄んでいる」というのは、「物惜しみしない」という意味で、お金に対してこだわりのない態度ということです。「濁っている」というのは、お金に目がくらんでしまって、貪欲な気持ちになってしまっているということです。

マタイによる福音書6章24節には【「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」】とあります。この聖書の箇所は、とても端的なので、「そうだなあ」というふうに思うしかないわけです。【あなたがたは、神と富とに仕えることはできない】。

マタイによる福音書19章16節以下には、「金持ちの青年」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の37頁です。

お金持ちの青年はとても誠実に生きようとしていたのです。「どうしたら、永遠の命を得ることができるのか」。そんなことを考える青年であり、そして律法を守って生活していた、まじめな青年だったのです。しかしイエスさまから【「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい】と言われると、やっぱり青年は立ち去っていくのでした。そしてイエスさまの結論はこうです。【「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」】。

また、ルカによる福音書12章13節以下には「愚かな金持ち」の表題のついた聖書の箇所があります。。新約聖書の131頁です。ルカによる福音書12章16節以下で、イエスさまは譬えを話されました。

この譬えを読んでいますと、「そうだなあ。お金は天国に持っていくことはできないいんだ」と思います。そんなふうにも思いながら、しかし私たちはなかなかお金の力から逃げ出すことはできません。まあ不思議ですね。そんなにお金があるわけでもないのに・・・。お金というのは、やっぱり魔力があるわけです。私たちを暗闇へと誘っていくかもしれません。しかしイエスさまは【あなたがたは、神と富とに仕えることはできない】と言われました。このイエスさまの言葉は、やっぱり私たちにとっての根源的な問いかけであると思うのです。【だれも、二人の主人に仕えることはできない】と、イエスさまは言われます。神か、金か、どちらかだと、イエスさまは言われるのです。

【「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」】。この聖書の御言葉は、「あなたの目が澄んでいる」とも、「あなたの目が濁っている」とも言っていません。ただ【目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い】と言っているだけです。そして聖書は言います。【だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう】。「あなたの中にある光が消えれば」ということですから、消える前には私たちの中には光があるということです。聖書は「あなたの中には光がある」と、私たちに言っています。

私たちは自分の暗闇の中でもがき苦しみ、自分のこころの汚さや目のどんよりとした感じにうんざりしたりするわけですが、しかし聖書は「あなたの中には光がある」と言っているのです。「そんな、光なんて、わたしの中にあるんだろうか」と思えます。しかし聖書は確かにあると言います。

私たちの中には確かに光があるのです。イエス・キリストという光があるのです。ヨハネによる福音書1章は、「言が肉となった」という聖書の箇所です。新約聖書の163頁です。【光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった】(JN0105)。【言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た】(JN0114)。世の光であるイエス・キリストが、私たちの間に宿られたのです。光を理解することのない暗闇である私たちのところに、イエス・キリストは光となって宿ってくださったのです。

私たちの心の中にはとても弱い部分があります。魔力的な力に引き込まれていくような弱さをもっています。私たちの中には底知れぬ暗闇があるのです。引き込まれてしまうと、どんどん、どんどんと引き込まれていくような暗闇です。【(目が)濁っていれば、全身が暗い】と言われる暗闇です。しかしイエスさまは、「あなたがたの中に光がある」と言ってくださっています。【あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう】と、ちょっと悲観的な言い方ですが、それでも「いま、あなたの中には光がある」と言ってくださっています。私たちは底知れぬ暗闇を抱えていながら、しかし同時に「光」をもっているのです。「あなたのなかには確かに光がある」と、イエスさまは言われます。

私たちの中の光とは、私たちのために十字架についてくださり、私たちと共に歩んでくださるイエス・キリストへの信仰です。イエスさまが私たちの光の源となってくださっているのです。私たちの中で、イエス・キリストが光り輝いてくださっているのです。私たち自身は、暗く多くのだめで、だらしないものを抱える者であるかも知れません。薄汚れた心しかもっていないかも知れません。しかし私たちの中で、イエス・キリストは輝いてくださっているのです。

イエスさまは私たちの救い主として、私たちを導いてくださり、私たちを神さまのもとへと導いてくださるのです。私たちが迷い、富に仕えそうになるときに、イエスさまは私たちに正しい道を示してくださり、私たちを神さまへと引き戻してくださるのです。イエスさまは私たちの中で、ともしびとなってくださり、私たちの中にある光として、私たちを支えてくださっているのです。

【だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう】。私たちは光の源であるイエスさまの光を消してしまってはいけないのです。真っ暗闇になってしまってはいけないのです。

不安の多い私たちの世の中です。しかしだからこそ、私たちキリスト者は、目先のことではなくて、根源的なことに目を向けたいと思います。私たちキリスト者は、何により頼んで生きているのか。何を支えにして生きているのか。私たちの光となってくださっている方はだれであるのか。

私たちはイエス・キリストによって生きているのです。イエスさまの御救いに、死すべき私たちは生かされ、私たちはキリスト者として生きています。

イエス・キリストが私たちの光となってくださり、私たちの中に宿ってくださっている。このことを覚えて、歩みましょう。イエス・キリストの光を、消すことのないように、祈りながら、歩んでいきましょう。


(2025年7月13日平安教会朝礼拝)


2025年7月5日土曜日

7月6日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「ごめんね。わたしが悪かったね。」

「ごめんね。わたしが悪かったね。」

聖書箇所 マタイ5章21-37節。404/444。

日時場所 2025年7月6日平安教会朝礼拝

 

以前、わたしの友人の牧師が後輩の牧師さんから、「Tさんはいろんな問題発言をするけど、ちゃんと謝れるからえらいですよねえ」と誉められていました。なかなかの褒め言葉だと思いました。みなさんは「ごめんね。わたしが悪かったね」と、素直に謝ることができますか?。どうですか。わたしはちょっと自信がないです。昔、わたしの友人が、ある人と喧嘩をしました。原因というのは、わたしの友人ではない人が大きな声を出して騒いでいて、わたしの友人はその巻き添えをくって喧嘩になったのです。あとからある人はわたしの友人に「わしも悪かった」と謝ったのですが、わたしの友人は「わしも悪かったやないやろう。わしが悪かったやろ!」と息巻いていました。まあ確かにそのときは「わしが悪かった」というのが正しい日本語だとわたしも思いましたが、でも「わしが悪かった」ということがわかっていても、「わしも悪かった」と言って謝るときって、わたしにもあるよなあと思いました。

今日の聖書の箇所は「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書の5−7章は、イエスさまが弟子たちに大切なことを話されたという山上の説教という聖書の箇所の一部です。

マタイによる福音書5章21-22節にはこうあります。【「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる】。

この聖書の箇所はこの前の表題の「律法について」という聖書の箇所の流れの中にあります。イエスさまは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。ですからこの聖書の箇所では、「律法ではこう言われているだろう。それはこう言うことだ」というふうに説明をしているわけです。【「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける】ということです。

『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』というのは律法で言われていることです。モーセの十戒には【殺してはならない】とあります。出エジプト記20章にモーセの十戒について書かれてあります。旧約聖書の126頁です。

イエスさまは「律法では『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と言われているけれど、『ばか』とか『愚か者』と言って兄弟を見下すのもいけない」と言われました。「兄弟」というのは親族関係ということではなくて、ユダヤ人同士という意味です。ですからまあ人一般というふうに考えたらいいと思います。イエスさまは「殺すな」というような具体的な犯罪というだけでなく、「人を見下す」という心の中のことにまで踏み込んで、それはいけないことなのだと言われました。【火の地獄に投げ込まれる】というわけですから、それは神さまが裁かれる。神さまが良しとされないということです。

マタイによる福音書5章23-26節にはこうあります。【だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」】。

イエスさまは争い事をしている人に対して、和解を勧められました。人と争い事をしているならば、神殿に供え物をしにいく前に和解をしなさい。そして和解をしたあとに、神殿に供え物をしにやってきなさいと、イエスさまは言われました。神殿に供え物をしにいくというのは、神さまと和解をするということです。神さまのところに「ごめんなさい」を言いにいくということです。神さまに「ごめんなさい」を言いにいく前に、争い事をしているのなら、その人にまず先に「ごめんなさい」を言いにいきなさいということです。

私たちはまじめですから、「いや、まず先に、自分が愚か者であったということを神さまの前にお詫びしたのちに、人のところにお詫びしにいったらいいのではないか」と思います。でもイエスさまは「そんな私たちの神さまはやさしいから許してくれるから、とっとと先に人のところに行って詫びを入れてきなさい」と言われたのでした。

マタイによる福音書5章27-30節にはこうあります。【「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」】。

ここもそうですが、「姦淫するな」というのはモーセの十戒に書かれてあることです。イエスさまは律法ではこう言われているけれども、「しかし、わたしは言っておく」というふうに言われるわけです。イエスさまは姦淫という出来事だけを捕えるのではなく、人の心の中にまで踏み込んで問うておられます。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」。

実際に姦淫をするのと、心の中で考えるのとでは、まあふつうは大きな違いがあるわけです。ふつうは出来事が起こらない限り、裁くということはできません。しかしイエスさまは厳しく心の中までも問われるのです。極端過ぎると言えば、そうだと思います。実際に姦淫をするのと、心の中で考えるのとでは、大きな違いがあります。「殺してやる」と思うのと、実際に殺してしまうのでは、やはり大きな違いがあるわけです。しかし現代でも心の中で思っていることがあるのとないのでは、犯罪に対する刑罰の重さは違ってきます。殺人事件でも殺意があったのか、なかったのかとことで、刑罰の重さは違ってきます。

まあそれでもイエスさまの言われることは極端です。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」と言われます。それは「体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」ということです。ですから「地獄に落ちる」ということですから、私たちは神さまの前に立たされているんだということを忘れてはならないということです。人の前であれば実際に行なうことと、心の中で思うことでは大きな違いがあるわけです。しかし罪ということにおいて、私たちは神さまの前に立たされているのです。このことを忘れてはならないということです。

マタイによる福音書5章31-32節にはこうあります。【「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」】。

申命記24章1節には【人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる】とあります。旧約聖書の318頁です。この申命記の規定はもともと離縁状を書かなければならないということによって、安易に離縁をしないようにするために作られた規定だったわけです。しかしあまり効果はありませんでした。「離縁状を書いて妻に渡しさえすれば、どんな場合でも離縁できる」というように解釈されたりするようになります。しかしイエスさまは女性が簡単に離縁されないために、そもそも離縁するということが姦通の罪を犯させることになるんだと言われました。イエスさまは女性が弱い立場にいる場合、離縁するということは、神さまの前に罪を犯すことだと言われました。

マタイによる福音書5章33-37節にはこうあります。【「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」】

レビ記19章12節には【わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である】とあります。旧約聖書の192頁です。モーセの十戒にも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。「天地神明にかけて」というふうに日本語でも言います。【『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』】というように、誓ったら誓ったとおりにしなければならないということです。しかしイエスさまは「誓うな」と言われます。【わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない】。

イエスさまがなぜ「誓うな」と言われるのかと言いますと、だいたい日常生活において「天にかけて誓う」というようなときは、もうすでにその人の言葉に対する信頼が失われているわけです。もちろん私たちは結婚式とか就任式とかで誓約をしますけれども、そうしたときでなく、一般的なときに「天にかけて誓うか?」と問われるとしたら、それは疑われているということです。「天にかけて誓う」というのは「あんたじゃ、信用ならん」ということです。ふつうは天にかけて誓ったり、神さまに誓ったりしなくても、信じてもらえるわけです。

たとえばよく寝坊をする人が、「昨日もまた朝起きるのが遅かったじゃない」と言われると、「明日は絶対、朝6時に起きるから」と言う。「天にかけて誓うか?」と言われ、「天にかけて誓います」と答えるわけです。そして翌朝6時には起きなかったとなるわけです。よく酔っぱらって帰る人が「もう酔っぱらって家に帰りません」と言うと、「天にかけて誓うか?」と問われるわけです。

イエスさまはどうせそんなろくでもない誓いなのだから、「誓うな」と言われます。そして【あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい】と言われます。「『できることはできる』『できないことはできない』と正直に言いなさい」ということです。

わたしの友人でよくいろいろな会で一緒になるに牧師さんがおられるのですが、その人に「Tさんは夜たまに、教区の委員会などが終わった後に、付き合いで食事をしながら一杯飲んでも帰ってきても、おつれあいはあまり何も言われないの?」とたずねると、「外に出る時、夕食を家で食べるかどうかだけ聞いてきますね」ということでした。この話をお聞きしながら、これってイエスさまが言われる。『然り、然り』『否、否』ということだなあと思いました。「一杯飲んで帰ってきません」とは誓わせてもどうせ無理だろうから、夕食を食べるかどうかということだけを尋ねるわけです。「Tさんのおつれあい、イエスさまみたいやなあ」と思いました。

「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」と、イエスさまは言われました。イエスさまはこうした「してはならない」ことを取り上げながら、「人間のしていることというのはいいかげんなことなのだ」と言われます。「殺すな」と言われているから、「わたしは殺さない」と胸をはるけれども、しかし人に対して腹を立てたり、人を馬鹿にしたり、人を見下したりして、人を傷つけている。「姦淫するな」と言われているから、「わたしは姦淫しない」と胸をはるけれど、しかし心の中では何を考えているかわからない。「離縁状を出せば、自由に離縁することができる」と律法を誤って解釈して、女性に対して辛く当たっているということを考えもしない。できもしないことを誓い、人々に迷惑をかけ通しだ。イエスさまは私たちはいいかげんなことや自分勝手なことをしていると言われます。

そんな私たちであり、絶望的なのだから、「火の地獄に投げ込まれ」てしまえばいいと、イエスさまは言っておられるわけではありません。人はいいかげんであり、情けないところや自分勝手なところがあるけれども、互いに許し合い、和解し合って歩んでいこうと、イエスさまは言われます。許せないけれども、やっぱり許し合っていこう。やっぱり仲直りできるときに仲直りしよう。「あっ、わたし、あの人に悪いことをしてしまった」と思ったら、神殿に献げ物を献げにいく途中であろうと、日曜日に大切な大切な礼拝に行く途中であっても、やはり仲直りしにいこう。

そして自分の罪をしっかりと見つめよう。「律法に書いてあることを守っていればいいや」「決まっていることだけ守ればいいや」ということではなくて、自分でしっかりと神さまに向き合って、「神さま、わたしはこれでいいのでしょうか。わたしのしていることはあなたの御前で恥ずかしいことではないでしょうか」という思いを持ちなさいと、イエスさまは言われます。

そして無意味に誓ったりするのではなく、『然り、然り』『否、否』というように、自分のできることを考えて、謙虚に生きていきなさいということです。「おれはこんなにすばらしい人間なんだ」というふうに人に見せかけるのではなくて、自分のできることを淡々と謙虚に行なっていきなさいということです。イエスさまは「赦し合い、自分の罪を見つめ、謙虚に生きていきなさい」と言われました。

私たちはみな、神さまから赦されて生きています。神さまは私たちの罪のために、イエス・キリストを私たちの世に送ってくださいました。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちは神さまの前にふさわしい者ではないけれども、イエスさまの私たちへの愛のゆえに、神さまは私たちの罪を赦してくださいました。私たちはみな、神さまから罪赦された者として生きています。

いろいろなことで腹の立つこともあります。わたしだけが悪いのではないと思えることもあります。しかし私たちは罪赦された者として生きているわけですから、自分が悪かったと思えるとき、「ごめんね。わたしが悪かったね」と素直に言える者でありたいと思います。そして神さまが罪赦されていることの喜びを、こころから受けとめることのできる者でありたいと思います。

私たちは神さまから赦されている。私たちは神さまの愛のなかに生かされています。神さまの愛に気づき、大いなる平安のなかにあることを、喜びをもって受けとめましょう。神さまは私たちをしっかりととらえ、守ってくださっています。


(2025年7月6日平安教会朝礼拝)


12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》