2026年1月30日金曜日

2月1日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「命の種は広がっていく」




「命の種は広がっていく」

聖書箇所 マルコ4:1-9。6/494

日時場所 2026年2月1日平安教会朝礼拝


京都教区と韓国基督教長老教会大田老會との交流の実務者会議で、先週、韓国に行ってきました。会議が終わったあと、ソウルにある京東教会(キョンドンきょうかい)を見にいきました。京東教会は韓国で有名な金寿根(キム・スグン)という建築家によって設計された教会です。紹介がないと入れないというふうに、インターネットで調べると書いてありましたので、大田老會のチェヒョンモク牧師にお願いをして、教会に連絡をとっていただきました。京東教会をお訪ねすると、午後7時半から夕礼拝があるということでした。ホテルに戻って、町で食事をしたあと、夕礼拝に出席をいたしました。

礼拝は韓国語で行なわれていましたので、話されている内容はわかりませんでしたが、パイプオルガンの奏楽や独唱もあり、とても豊かなときを過ごすことができました。わたしは日曜日に旅行をするということがあまりありませんが、私たちクリスチャンは旅行中でも、出張中でも、日曜日であれば礼拝に出席をします。クリスチャンがほかの人と大きく違うのは、毎週、日曜日に教会に帰ってきて、神さまに礼拝をお献げしているということです。礼拝で神さまの御言葉をいただいて、そして私たちは世に遣わされていきます。礼拝は私たちの力の源です。

みなさんは礼拝の中で行われていることで一番大切なことは何だと思われますか。わたしは奏楽を聞くのを楽しみにしているとか、聖歌隊の奉唱が大好きだとか、わたしは讃美歌を歌うのが好きで礼拝に集っているという人もおられるかと思います。それぞれが大切なことですから、そのお気持ちもわかります。しかしそれぞれの好みを超えて、本当に大切なことは何であるのかということです。

たとえば礼拝に遅刻をしたときに、みんなで使徒信条を告白しています。静かに席につかれて、「ああ、説教に間に合ってよかった」と思われるときがあるかも知れません。説教者であるわたしとしては、そう思っていただけると、とてもうれしいわけです。しかし礼拝学者である今橋朗牧師は、礼拝の中で行われていることで一番大切なのは、聖書朗読だと言っておられます。【私たちは日曜日キリスト教講話を聞くために教会に行くのではなくて、聖書が語られるのを聞くために集うのです。(P74)。万一、礼拝に遅刻するようなことがあっても、「説教に間に合ってよかった」と考えるべきではありません。礼拝の中心は、説教より前の聖書朗読ですから、これに間に合わなければ駄目なのです】(P75)(今橋朗『礼拝を豊かに 対話と参与』、日本基督教団出版局)。

今橋牧師はこんな提案もしておられます。【礼拝においては、朗読されるその日のみ言に耳を傾ける姿勢がたいせつです。そのために、司会者や聖書朗読者によって聖書が朗読されるときには、自分の聖書を開かないで、静かに聞くようにして、牧師による解き明かし(説教)のときに自分も聖書を開くようにしてはどうでしょうか】(P77)。

礼拝の中で聖書朗読が一番大切なことであるということは、よく考えてみれば当たり前のことです。しかしそれでは私たちが本当にそういう気持ちで、聖書朗読のときを過ごしているかというと、すこし反省させられるような気がいたします。

朗読家の松丸春生(まつまる・はるお)さんは、朗読は朗読する人と朗読の聞き手との合作であると言っておられます。どんなにうまい朗読者であっても、聞き手がだめであれば、いい朗読にはなりえないということです。そして逆にいくらいい聞き手であったとしても、朗読する人がいいかげんであれば、それは朗読になり得ないということです。そして朗読が最良のものになる条件を三つあげておられます。

【朗読する人と、それを受けて心という無限の舞台に想像力で創造していく聞き手との、いわば合作としての「朗読」が最良のものとなる条件は、三つ、です。声にのせて届けたいとっておきの作品があり、それを贈りたいと願う大切な相手がいて、その相手の方でも自分の朗読を聞くのを心待ちにしている、という三つの条件】(松丸春生『朗読 声の贈りもの 日本語をもっと楽しむために』、平凡社新書)。第一に「声にのせて届けたいとっておきの作品があること」、そして第二に「それを贈りたいと願う大切な相手がいること」。そして第三に「その相手の方でも自分の朗読を聞くのを心待ちにしている」。

これは朗読全般について言われていることですが、礼拝式の中の聖書朗読は、この三つの条件にもっとも当てはまるような気がします。「声にのせて届けたいとっておきの作品があること」。私たちは聖書というすばらしい作品をもっています。そして「それを贈りたいと願う大切な相手がいること」。聖書朗読者は礼拝に出席している人々を大切な兄弟姉妹と思っています。そして「その相手の方でも自分の朗読を聞くのを心待ちにしている」。私たちは聖書朗読を心待ちにしています。まさに三つの条件がそろっているわけです。礼拝の中で聖書朗読がしっかりと位置づけられるとき、私たちはもっともっと豊かな礼拝を守ることができるような気がします。

聖書の御言葉には力があって、私たちがその御言葉をしっかりと聞くときに、その御言葉は豊かな実を結びます。それは礼拝式という場にとどまらず、私たちの生き方を変え、私たちの世界を変える力になるのです。

今日の聖書の箇所で、イエスさまは「聞く耳のある者は聞きなさい」と言っておられます。今日の聖書の箇所は、「『種を蒔く人』のたとえ」という表題のついている聖書の箇所です。マルコによる福音書4章13節以下には「『種を蒔く人』のたとえの説明」という表題のついた聖書の箇所があります。ですからわたしがまた説明をする必要もないような気もします。しかし「それではお祈りします」というわけにもいかないのですが、ちょっと困ってしまいます。

マルコによる福音書4章1-2節にはこうあります。【イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた】。イエスさまはガリラヤ湖畔で、大勢の群衆に、神さまのことをお話しされました。そしてよく伝わるようにと、たとえを用いて話されました。今日の聖書の箇所もたとえを用いて話されています。

マルコによる福音書4章3−8節にはこうあります。【「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」】。

畑に種蒔きをする場合、まあなるべく良い土地に蒔こうとするのは、当たり前です。しかしずっと蒔いていると、「ありゃ、あんなところにとんでいってしまった」ということもあるでしょう。道端に落ちてしまった種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨が茂っているところに落ちた種。それぞれ実を結ぶことがありませんでした。しかし良い土地に落ちた種は、豊かに実を結びます。30倍、60倍、100倍というように、多くの実を結びます。

この譬えを説明して、マルコによる福音書4章14節にはこうあります。【種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである】。そしてマルコによる福音書4章20節にはこうあります。【良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである】。「種を蒔く人」のたとえでは、イエスさまが語られた御言葉を聞く側の人々の態度が問われています。しっかりと御言葉を聞いているのか。それともいい加減にしか聞いていないのか。あなたはどうなのか。ということが問われています。ですからイエスさまはたとえのはじめに「よく聞きなさい」と言われました。そしてまたたとえの最後に、マルコによる福音書4章9節ですけれど、【そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた】とあります。

私たちはしっかりとイエスさまの御言葉を聞かなければなりません。しかし私たちはいい加減ですから、そんなに一生懸命に御言葉を聞くことができるのだろうかという思いもいたします。私たちは自分のいいかげんさというのをよく知っています。私たちは道端のようなものであり、石だらけの土地のようなものであり、茨が生い茂った土地のようなものです。サタンが来て、御言葉を奪い去ってしまう。御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない。まあ、イエスさまは私たちのことをよく知っておられます。私たちがしっかりと御言葉を聞かず、いい加減なことをしているから、だめなのでしょうか。「そのとおり」と神さまに叱られているような気もしますが、イエスさまは「そうでもない」と言われます。

イエスさまは同じ種のたとえですが、マルコによる福音書4章26節以下に、「『成長する種』のたとえ」「『からし種』のたとえ」という話をしておられます。マルコによる福音書4章26-29節にはこうあります。新約聖書の68頁です。【また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」。更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。】。

【人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない】とありますように、神の国は人の思いを超えて広がっていくと、イエスさまは言われました。ちいさなからし種が大きな枝を張り成長するように、命の種は豊かに実を結び広がっていく。私たちがどんなにだめな人間であったとしても、イエスさまの御言葉は、私たちの思いを超えて、広がっていきます。

そしてイエスさまの御言葉は、愚かな私たちをも変える力をもっています。イエスさまは【天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない】(MK1331)と言われました。イエスさまの弟子たちは、私たちと同じように、イエスさまの御言葉をしっかりと聞くことのできない人たちでした。イエスさまから叱られることもありました。そして弟子たちはイエスさまが十字架につけられたとき、逃げ出してしまう弱い人たちでした。しかしその弟子たちが復活のイエス・キリストに出会って、イエスさまの御言葉を宣べ伝えたのです。イエスさまが天に帰られたあと、弟子たちはイエスさまの御言葉にくり返しくり返し聞いて、その人生を歩みました。

弱さやいいかげんさをもつ私たちですけれども、私たちもまた聖書の御言葉をしっかりと聞く者でありたいと思います。心を傾けて、しっかりと御言葉を聞くときに、私たちは新しい者へと変えられていきます。聖書の御言葉は、私たちをキリストへと導いてくださいます。御言葉の力を信じて、しっかりと聖書の御言葉に耳を傾けましょう。


(2026年2月1日平安教会朝礼拝)


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