「良い羊飼いに導かれ」
聖書箇所 ヨハネ10:7-18。323/509。
日時場所 2026年4月19日平安教会朝礼拝式
人生のなかには良き出会いというものがあり、この人に出会うことによって自分の人生が変わったと思えるような人に出会うということがあります。
世光教会で担任教師をしておられる後宮嗣牧師は、会社で働いた後、同志社大学神学部に入学をして牧師になりました。そのきっかけになったのは、おじいさんとおばさんの葬儀だったそうです。後宮嗣牧師のおじいさんは後宮俊夫牧師です。世光教会の牧師をしておられた方で、日本基督教団の総会議長を務められた方でした。おばさんは榎本てる子牧師です。榎本てる子牧師も関西学院大学の神学部で働かれたり、エイズカウンセラーをされたり、また同志社の近くにありますバザール・カフェを作られたり、社会福祉の実践的な仕事をしておられました。後宮俊夫牧師、榎本てる子牧師の葬儀に、後宮嗣牧師が出られたときに、ほかの人の葬儀に出るのとは違った印象を強く受けられたそうです。それまで企業で働いておられたので、いろいろな人の葬儀に出席をされました。しかし後宮俊夫牧師や榎本てる子牧師の葬儀は、ほかの人たちの葬儀とは違って、多くの人々からとても慕われているということが感じられる葬儀であったそうです。そのことを強く感じて、自分もまたそのような生き方がしたいということで、仕事を辞められ、牧師としての歩みをされることになったそうです。よき導き手があるということは、とても良いことだと思わされます。
わたし自身はそうしたこの人のようになりたいという思いで牧師になるというような出会いはありませんでした。それはわたしの性格によるのだと思います。わたしはどちらかというと、熱い思いということよりも、フラットな感じのほうが好きなのだろうと思います。ですからいまはやりの「推し」というものにも、あまり興味がわきません。そんなわたしですから、熱い思いをもっている人を見ると、うらやましくなります。
人を動物で分類するというのは、まあそんなにふさわしいことでもない気がするわけですが、よくあるものに、イヌ型かネコ型かというものがあります。イヌ型の人は誰かについていくということが得意です。後宮嗣牧師のように「この方のような牧師になりたい」という強い思いをもって力強く歩んでいきます。わたしはネコ型なので誰かについていくということが苦手です。「それでは小笠原さんはどう感じで牧師になっているのか」と問われると、「わたしはネコ型なので、人についているのではなく、家についているのだ」と答えます。ネコはよく家につくと言われます。わたしは人についているのではなく、たぶん教会という家についているのだと思います。なんとなく教会という共同体が醸し出す自由で安心できる豊かな雰囲気というところが好きなのだと思います。
そんなネコ型であるわたしですけれども、イエスさまに対してだけは「この人についていく」という思いをもっています。それはイエスさまがわたしの罪のために十字架についてくださった方だからです。
今日の聖書の個所は「イエスは良い羊飼い」という表題のついた聖書の個所の一部です。イエスさまはヨハネによる福音書において、「わたしは・・・である」と言われます。「わたしはぶどうの木」とか、「わたしは世の光である」とか、「わたしは命のパンである」。そのように言われます。そして今日の聖書の箇所では「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」と言っておられます。
ヨハネによる福音書10章7-10節にはこうあります。【イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。】
イエスさまは「わたしは羊の門である」と言われます。イエスさまは門で、イエスさまを通って入る者は救われるということです。どこの国でもいつの時代でも、自分のために政治を行っている国の指導者たちがいるわけです。おかしなことをしていても、自分勝手に法律を判断して、「問題はない」と言い、自分たちのやっていることを正当化します。盗人のような指導者です。イエスさまの時代にもそういう人たちがいました。そういう人たちのところに行くのではなく、わたしのところに来なさいと、イエスさまは人々を招かれました。「わたしは羊の門である」。わたしのところに来なさい。そのように言われました。
旧約聖書のエゼキエル書34章1節以下に「イスラエルの牧者」という表題のついた聖書の箇所があります。旧約聖書の1352頁です。預言者エゼキエルは当時のユダヤの指導者たちが人々のことを大切にしないで、私欲のために政治を行っていることを非難しています。エゼキエル書34章1−5節にはこうあります。【主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。】。
イスラエルの指導者たちが民のために政治を行おうとしないので、人々は疲弊し、苦しんでいます。エゼキエルは「牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」(エゼキエル書34章8節)と、イスラエルの指導者たちを非難します。イエスさまの時代のユダヤの指導者たちも、そうでした。民のために政治を行おうとせず、自分たちのための政治を行っていました。良い羊飼いがほしいのだと、人々は思っていました。それで、イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と言われるのです。
ヨハネによる福音書10章11ー15節にはこうあります。【わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。——狼は羊を奪い、また追い散らす。——彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。】
わたしは良い羊飼いなので、人々のために命を捨てる。良い羊飼いは羊を必死で守ろうとする。しかし羊飼いではなくただの雇い人は、危険なことが起こると、羊を守ろうとせずに逃げ出してします。いろいろな危険が襲ってくる。狼がきたり、外国の軍隊が来たり、天変地異が行なったりします。雇い人は逃げていきますが、良い羊飼いは逃げたりはしません。良い羊飼いであるイエスさまは、羊である私たちのことを良く知っていてくださいます。神さまが私たちを養ってくださるのと同じように、イエスさまは私たちのことを気にかけてくださり、私たちを守ってくださいます。
ヨハネによる福音書10章16-18節にはこうあります。【わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」】。
イエスさまは自分が属しているユダヤ民族のためだけでなく、その囲いに入っていない異邦人たちに対しても、自分は良き羊飼いとして働くと言われます。囲いのなかの人たちのことばかりを考えていると、囲いの外の人たちと囲いの中の人たちの間に大きな溝ができてしまう。そうした溝を大きな壁を作っていくということではなく、すべての人々が等しく、神さまに愛されている人間としてふさわしく生きることのできる社会を作っていくことが大切だと、イエスさまは言われます。
イエスさまはすべての人々のために、すべての人々が神さまの民として歩むことができるように、命をかけて歩まれます。【わたしは命を、再び受けるために、捨てる】というのは、いったい何のことを言っているのだろうと思うかも知れません。すこしわかりにくいことであるわけですが、これはイエスさまは十字架につけられて、三日目によみがえられるということを言っておられます。イエスさまはすべての人の罪をあながうために、十字架につけられます。人は心の中に邪な思いをもち、神さまの前に正しくない、罪を抱えた者であるわけです。しかしイエスさまが身代わりとなって、その罪をあがなってくださり、十字架についてくださいました。それは神さまのご計画であり、イエスさまがご自身の決断でもありました。ですからイエスさまは「わたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」と言われます。自分から命を捨て、そしてそれを再び受け、復活されます。「これは、わたしが父から受けた掟である」とあるように、神さまのご計画であるということです。
私たちにとって、イエスさまは単なる指導者や導き手と違うのは、イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。「この人についていきたい」「この人の生き方を見習いたい」「この人にあこがれる」ということとは別なこととして、イエスさまには「わたしは羊の門である」ということがあります。羊の門であるイエスさまを通して、私たちは神さまの前に赦され、神さまの民として歩むことができるのです。たんに、「わたしは良き羊飼いである」というように、イエスさまが私たちを守ってくださり、私たちを愛してくださっているということがあるわけです。しかしそのことだけでなく、イエスさまは私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖い、私たちを神さまのところに連れて帰ってくださるのです。
イエスさまに委ねてあゆむとき、私たちは幸いな人生を歩むことができます。イエスさまは私たちのことをよく知っていてくださいます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。私たちは弱いところもありますし、またいいかげんなところもあります。熱しやすく冷めやすく、安物の器のようなところもあります。それでも私たちはイエスさまが私たちのことを愛してくださっていることを知っています。イエスさまが私たちにとっての慰め主であることを知っています。悲しい時、さみしい時、私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださる方であることを知っています。主イエス・キリストの導かれ、良き人生を歩みたいと思います。
(2026年4月19日平安教会朝礼拝式)
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