「疑いは幸いに変わり」
聖書箇所 ヨハネ20:19-31。325/507
日時場所 2026年4月12日平安教会朝礼拝
わたしはとても気になる性分で、ガスの栓をしめただろうかとか、ストーブをちゃんと消しただろうかとか、戸締りはちゃんとできているだろうかというようなことが、たいへん気になる性分です。寝る前などは、いろいろとチェックしないと気になってしょうがないのです。それもしっかりと見て確認しないと、気がすまないのです。台所のガスを点検したあと、ホットカーペットを消したがを点検し、ストーブを点検し、二階のトイレの電気が消えているかを点検すると、台所の換気扇がまわっていなかったかとか、台所の水道がちゃんと絞ってあったかということが、気になります。そこでまた台所にいき、確かめたあと、もう一度台所のガスは大丈夫かと、点検するような感じです。点検をしてふとんに入ったあと、まだどうしても気になってしょうがないので、寒さに震えながら、また確かめにいくというようなことさえあります。このようにあまりに気になるので、そういうことが気にならない人をみると、まさに「見ないで信じるものは幸いである」という気がします。しかしテレビの電源が気になって、下まで降りていって、点検して安心して眠ると、朝起きてみると、点検に行った時に消し忘れた階段の電気がついていたというようなこともあるわけで、いったい何のための点検なのかというようなこともあるわけです。
デカルトという16世紀のフランスの哲学者は、「われ思うゆえに、われあり」という有名な言葉を残しています。デカルトがすごいのは、自分の思想を、この「われ思うゆえに、われあり」という短い文で、わかりやすくあらわすことができたからだ、というふうに言われたりします。デカルトは確実な知識を得るためには、疑うということが大切であるというふうに考えました。そしてすべてのものを疑っていくと、どうしても疑うことのできないものがある。それは「わたしが疑う」ということと「疑っているわたしがある」ということです。こう考えて、デカルトは「われ思うゆえに、われあり」という哲学を確立したのです。
知識というのは、疑うということによって得られます。「これは、おかしいのではないか」ということがなければ、すべての学問は発達しませんでしたし、すべての技術も発展しませんでした。私たちの時代はそうした厳密な知識や技術によって、多くのものを手に入れました。しかしそのことによって、ほんとうにこれでいいのだろうかというようなことも出てきます。核兵器の問題であるとか、子供の産みわけとか臓器移植などの生命に対する倫理の問題とか、あるいはAiの技術などもそうですが、技術ではつくることができるけれども、はたしてそのことが、本当にいいことであるのかどうかということが、問われたりします。
私たちは多くの場合、そうした厳密な知識ということだけで、この世に生きているわけではありません。たとえば春になると、私たちの関心は、桜がいつ咲くかというようなことに関心を寄せます。春になると、いつ桜が咲くか気になるところですが、しかしそれは、何月何日になったら、桜が咲くとか、何月何日になったら春になるとか、気温が何度になったから春になるということではないのです。なんなく温かい日があったり、桜が咲いたりすることによって、私たちは春になるということを感じます。春になるということは、何月何日に春になったとかということではないのです。そして私たちはそんなことを必要としているのではないのです。
私たちは日々、宇宙へロケットを飛ばすような正確な知識を必要しているのではありません。私たちには、そうした厳密な知識よりもはるかに大切なものがあるわけです。桜を見てきれいであると思ったり、好きな人と一緒に桜を見たいというような、知識を越えたところで、私たちは生活しています。もちろん美意識ということについても、ある一定の価値観によって左右されているということがあるでしょうけれども、しかし人を愛するというときなど、そうした自分のもっていた価値観や美意識を越えた出会いというものがあるのです。
私たちは現実の生活において、疑いや知識ということを、それほど大切なこととして考えていないにもかかわらず、ことイエス・キリストの復活ということになると、疑いの気持ちが大きくなってくるという奇妙な気持ちを持っています。それは悪いことであると同時に、いいことであるような気がします。私たちにとって、イエス・キリストの復活は、重要なことであるからこそ、私たちは関心をもち、そして疑ってみたりするからです。自分と関係のないことや、どうでもいいことを疑ってみるということはしないでしょうし、関心を払うということがないからです。
案の定といいますか、聖書にはイエスさまの復活の出来事を疑ったということが出てきます。わたしはこの話を読みながら、ほっとします。そういう意味で、今日の聖書の箇所に出てきますトマスという人は、のちのキリスト者にとって、ほんとうに良き働きをした人だというふうに思えます。トマスは長い間、疑り深い者の代名詞として、表向きは非難され続けてきました。その疑いの姿勢を、とがめられ続けてこられたわけです。しかしそのことで非難されるとすれば、トマスはとても運の悪い人であると思います。もしトマスが、イエスさまがはじめ尋ねてこられたときに、弟子たちと同じところにいれば、彼は疑う必要はなかったからです。
今日の聖書の箇所は、「イエス、弟子たちに現れる」「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書20章19-20節にはこうあります。【その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。】。
イエスさまはマグダラのマリアに対して、墓でその姿をみせられたあと、今度は弟子たちのところにやってこられました。弟子たちは自分たちがイエスさまの仲間として、ユダヤ人たちによって捕えられることをおそれて、自分たちのいるところの戸をしめてひっそりとしていました。そこにイエスさまは現われます。【戸に鍵をかけていた】というのは、弟子たちの心がかたくなになってしまっているということを意味しています。心を閉ざしてしまって、もう何もしようとしないでひっそりとしているのです。イエスさまが生きておられたとき、イエスさまが歩まれたように、人々に仕えるものとして歩むことが教えられていました。にもかかわらず、弟子たちがしていたことは、ひっそりとして心を閉ざしているということでした。そこにイエスさまがいらしてくださり、弟子たちのかたくなな心を開いてくださるのです。
ヨハネによる福音書20賞21-23節にはこうあります。【イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」】
イエスさまは弟子たちのところへ入ってこられ、【あなたがたに平和があるように】と言われました。「あなたがたに平和があるように」というのは日常のあいさつです。しかしそれはあいさつということ以上に、イエスさまが不安なときを過している弟子たちに対して、「もうわたしが共にいるのだから、安心なんだ」ということを示されたのでした。イエスさまは自分が十字架につけられたイエスであることを示すために、十字架のつけられたときの手のきずと、死んだあと兵卒にさされたわきを、弟子たちに見せられました。弟子たちはその手とわきのきずを見て、イエスさまであることがわかり、喜びます。そしてイエスさまは彼らに聖霊を与えられます。弟子たちがイエスさまから聖霊を受けるというのは、イエスさまの死んだあと、力をなくしていた弟子たちに対して、イエスさまが再び生ける力を与えられ、そしてイエスさまが彼らに託した歩みを再びはじめられるようにとの願いを込めて行われたのでした。
ヨハネによる福音書20章24-25節にはこうあります。【十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」】。
イエスさまの弟子たちは、イエスさまご自身と出会い、生ける力を与えられたのですが、しかしそのとき、たまたまいなかった弟子がいました。それがトマスでした。ほかの弟子たちはトマスに【わたしたちは主を見た】と言います。それに対してトマスは「よかった、イエスさまがよみがえられたのか」と言うのではなく、【あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない】と言ってしまいます。まるっきりイエスさまのよみがえりを信じていないわけです。
トマスのほかの弟子たちは、イエスさまから、手とわきのきずを見せられて、イエスさまがよみがえられたことを信じたのでした。しかしトマスはもう一歩進めて、「その手の釘あとを見たくらいじゃ信じられない。じっさいに自分の指をさしいれてみないと信じられない。そのわきのきずを見たくらいじゃ信じられない。じっさいに自分の手をわきにさしいれてみないと信じない」というふうに言ったのです。なかなか感心するくらいに、徹底して疑っているのです。
ヨハネによる福音書20章26-27節にはこうあります。【さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」】。
しかしそうした疑り深いトマスのところに、イエスさまはやってこられました。今度はイエスさまの弟子たちもトマスも、みんな家にいました。まえと同じように戸はみな閉ざされていたのですが、イエスさまがはいってこられ、真ん中に立たれ、【あなたがたに平和があるように】と言われました。そしてそれからイエスさまはトマスに言われました。【あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい】。イ
エスさまはトマスの疑いに対して、それを責めるのではなく、「あなたがわたしの手のきずに指を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい。あなたがわたしのわきのきずに手を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい」というふうに言われたのです。イエスさまは、疑り深いトマスのところに降りてきてくださいました。疑り深いトマスを見捨てられるのではなく、トマスが信じることができるようになるためであれば、どんなことでもいとわないというふうに言われたのです。
ヨハネによる福音書20章28-29節にはこうあります。【トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。
イエスさまの限りないやさしさに対して、トマスは「わたしの主よ、わたしの神よ」と、イエスさまに対する信仰を告白します。それに対してイエスさまは、【わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである】と言われました。【見ないのに信じる人は、幸いである】という言葉は、トマスにだけ語られている言葉ではありません。「トマスは疑い深く、見ないと信じない悪いやつだ」というふうに、よく思われています。しかしヨハネによる福音書において、復活の出来事に接した人々の多くは、みんな見て信じているのです。マグダラのマリアは、イエスさまを見ても、イエスさまであることがわかりませんでした。イエスさまから声をかけられて、イエスさまであることに、はじめて気がついたのです。トマス以外のイエスさまの弟子たちも、イエスさまが手とわきとを彼らに見せられたことによって、彼らはイエスさまを見て喜んだのです。マグダラのマリアも、そしてトマス以外のイエスさまの弟子たちも、みんな見て信じたのであって、見ないで信じたのではないのです。そしてトマスもまた、イエスさまを見て信じたのでした。
イエスさまの復活が信じられないという人々はたくさんいました。そうした人々のために、ヨハネによる福音書20章30-31節は【このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである】と言っています。「わたしがこの福音書を書いたのは、あなたたちがイエスさまを神の子キリストであると信じるためである。信じることができれば、必ずイエスさまの名によって、あなたは生き生きとした命を得ることができるのだから」と言っています。
私たちはイエスさまの弟子たちと違って、復活してまもないイエスさまを見ることはできません。私たちは「復活のイエスさまを見れば信じられるのに」と思いますが、しかしそれは不可能なことです。私たちは聖書をとおして、イエス・キリストに出会い、信じることができるのです。それは、見ないで信じることであります。イエスさまの弟子たち以後の人々は、みな、見ないで信じたのです。ペトロの手紙(一)1章8節にはこうあります。新約聖書の428頁です。【あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています】とあります。
「見ないで信じる者は幸いである」と言われると、「見ないで信じることなどできない」というふうに、私たちは思ってしまうことがあります。しかし見たものがすべて正しいということではないのです。テレビ番組は、見て信じるということのあやうさを教えてくれます。基本的にテレビの映像というのは、こころから信じてはいけないと思ったほうがいいいと思います。テレビでいつも出てくる問題は、ドキュメンタリー番組のやらせということが問題です。私たちはテレビで見る映像がすべて正しいような気がしますが、しかし多くの映像は再現であるわけです。私たちはやらせの番組をみて信じるわけですが、しかしそれは真実ではなかったりするのです。逆に、テレビの映像をみても、本当に見たことにはならない。現実にそのところにいって見なければ見たことにはならないというのであれば、ほとんどのものを私たちは見ないで信じていることになります。
見て信じることの危うさを知っているのと同時に、見ないで信じることの確かさをよく知っています。私たちが本当の意味でより頼んでいる、愛とか信頼とかいうものは、それを見て信じるのではなくて、見ないで信じているのです。「わたしの愛する人は、わたしを裏切るはずはない」とか、「あの人は信頼することができる」というのは、見ないで信じているのです。そして多くの場合は、そうしたことは自分が見て確かめることよりも、見ないで信じていることのほうが確かであるのです。
私たちは、見て信じることの危うさや、見ないで信じることの確かさということは、いろいろな形で知ることができます。しかしそうした事例をいくつもあげたとしても、こと信仰についてはなかなか疑いの気持ちなくなることはありません。なかなか信じられないものであります。わたしはそれはそれで仕方のないことだと思います。信仰とはどうでもいいことではなく、その人にとってもっとも大切な事柄です。それだけ真剣な事柄であればこそ、疑いの気持ちが出てくるのです。そして「そうした私たちの心に中にうかんでくる疑うの気持ちがだめだ」と、聖書は私たちを裁いているわけではないのです。「見ないで信じる者は、幸いである」という言葉は、裁きの言葉ではないのです。
聖書が語ることは、「疑ってはいけない」ということではありません。「疑うものは神さまから裁きを受ける、神さまは信じられない者を裁かれる」ということではないのです。疑ってはいけないということではなく、疑っている私たちを許してくださっているということが大切なのです。イエスさまは疑っているトマスのところに、わざわざ現われてくださるのです。そしてイエスさまがきてくださったことによって、トマスは信じることができたのです。私たちは疑い深い者であるかも知れないけれども、神さまはそういう私たちの疑いを幸いに変えてくださるかたなのです。私たちの疑いを疑いのままで終わらせることなく、幸いに変えてくださる神さまによって、私たちは生かされているのです。私たちをとらえて離さない神さまの愛によって、私たちは見ないで信じる者へと導かれていくのです。
疑いは幸いに変わるのです。自分たちのちっぽけな信仰などをあてにするのではなく、疑っても疑っても、私たちを愛してくださる、神さまの愛を信頼して歩んでいきましょう。
(2026年4月12日平安教会朝礼拝)
0 件のコメント:
コメントを投稿