2026年5月8日金曜日

5月3日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

 「イエスさまにつながって生きる」 

日時場所 2026年5月2日平安教会朝礼拝

聖書箇所 ヨハネ15:1-11。57/549


わたしが大学生で高松の大学に行っていたときは、まだ瀬戸大橋はできていませんでした。高松から岡山に行くのにも、宇高連絡船という船に乗って、宇野から宇野線に乗り換えて、岡山に行っていました。宇高連絡船1時間、電車1時間、合計2時間くらい高松から岡山に行くのにかかりました。わたしは京都で大学生活を送るために高松を後にするときに、高松の大学の後輩たちが見送ってくれました。紙テープを投げてくれて、「さようなら」となかなか感動的なお見送りでした。だいたい宇高連絡船にのると、かならずうどんを食べるのです。関西から帰ってきて、宇高連絡船のうどんを食べると、「あー、帰ってきたなあ」と思えるのです。いまでは高松から岡山は50分くらいでいきます。岡山で新幹線に乗り換えて、だいたい高松から京都まで2時間15分くらいです。便利になったなあと思います。四国に住んでいた者としては、やはりつながるということは、なかなか安心なものだと感じます。

つながるということは微妙なことで、なんにでもつながっていれば、なんにでも乗っかっていればいいということではないです。瀬戸大橋や明石海峡大橋で四国は本州とつながりました。そうすることによって経済的な発展を遂げるというはずだったのですが、しかし現実には本州から四国に来るというよりも、四国から本州に人が行くということが多く、あまり四国にはいいことがなかったのではないかというふうに言われたりします。四国の電車も本数がどんどんとなくなりました。安易につながるのではなく、やはり自分がどういうものを基盤として生きていくのか、何につながっていきていくのかということをしっかりと考えるということも大切なのだと思います。

ヨハネによる福音書15章5節の【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である】という聖書の言葉は、とても有名な聖書の箇所です。この聖書の言葉が好きだというかたもおられるのではないかと思います。ぶどうの木というのは、聖書の世界だけでなく、古代の世界では良きものとして扱われることが多いようです。古代オリエントでは、ぶどうの木は「健康と富」の象徴でした。また古代メソポタミアではぶどうの木は「生命の草」というふうに考えられていました。聖書では、ぶどう畑とぶどうの木は、選ばれた民の象徴として用いられています。

イザヤ書5章1ー7節には「ぶどう畑の歌」という箇所があります。旧約聖書の1067頁です。イザヤ書5章1ー2節にはこうあります。【わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねをほり、良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ってのは酸っぱいぶどうであった】。

ぶどう畑やぶどうの木は、イスラエルにおいては、選ばれた民の象徴として用いられています。しかしイスラエルは神から選ばれた民であったのに、神から離れていくことがしばしばありました。そうしたことがこのイザヤ書5章1節以下には書かれてあるのです。

今日の聖書の箇所は「イエスはまことのぶどうの木」という表題がついています。昔のイスラエルではぶどうの木自体が、「選ばれたもの、選ばれた民」でありました。それに対して、イエスさまは「ぶどうの木はわたしだ」と言っておられます。そして「わたしは『まことの』ぶどうの木」と言われます。「まことのぶどうの木は、わたしである」ということです。いろいろなニセモノのぶどうの木があるわけです。イスラエルの民もそうでした。神さまから選ばれた者とされていながら、しかし結局は、彼らはニセモノのぶどうの木であったわけです。イエスさまの時代には、ファリサイ派の人々や律法学者という、ニセモノのぶどうの木がありました。彼らは律法を守りながらも、しかし虐げられている人々を蔑み、彼らを罪人であるとしていました。自分たちだけが神さまから選ばれた民であり、よいぶどうの木であるというふうに思っていました。しかし彼らはニセモノのぶどうの木でした。

ヨハネによる福音書15章1ー3節にはこうあります。【「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】。

ぶどうの木が良い実りを結ぶためには、手入れが必要です。【実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】というと、何かとてもおそろしい脅しのような印象を受けるかもしれません。そうしたこともあるわけですが、しかし大切なことは、神さまがちゃんと豊かに実を結ぶように手入れをしてくださるということです。わたしがなにか「いい子にしていないといけない」というようなことではないのです。【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】というように、わたしたちはすでにイエスさまによって祝福を受けているということです。私たちが何かするということではなく、私たちに大切なことはイエスさまにしっかりとつながっているということなのです。

ヨハネによる福音書15章4−6節にはこうあります。【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう】。

イエスさまは【わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている】と言われます。私たちが一方的にイエスさまにしがみついているということではありません。イエスさまも私たちにつながっていてくださるのです。こちらのほうが大切なのです。もちろん私たちがイエスさまに救っていただこうと、イエスさまにしがみつき、イエスさまにつながっているという思いは、切実な大切な思いです。しかしそれは人間の思いです。人間の思いはうつろいやすいものです。使徒ペトロは【「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」】(マルコ14章29節)と、イエスさまに言いました。しかし使徒ペトロはイエスさまに従うことができず、イエスさまのことを三度知らないと言ったのです。

そういう意味では今日の御言葉の中で大切なのは、【わたしにつながっていなさい】ということよりも、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】ということなのかも知れません。「わたしはイエスさまに付き従い、私たちはイエスさまにつながっていくことのできるりっぱな人なのだ」ということよりも、「わたしはイエスさまを離れては、何もできない愚かな者なのだ」という思いが大切なのです。

ヨハネによる福音書15章7−11節にはこうあります。【あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】。

私たちがイエスさまにつながって生きるということは、私たちとイエスさまとの関係ということだけではないと言われます。私たちがイエスさまにつながり、私たちがイエスさまの弟子になることが、神さまの栄光をあらわすことになると、イエスさまは言われます。私たちがイエスさまにつながって生きるということが、神さまが喜ばれることなのです。私たちはしょうもないことをしますし、ろくでもないこともします。私たちは自分がだめな人間であることを知っています。そんな私たちですから、神さまが喜ばれることをして生きることなどできないと思います。しかしイエスさまはそんな私たちにも、神さまを喜ばせることができると言われます。それはただイエスさまにつながって生きるということなのです。イエスさまは私たちを、【わたしの愛にとどまりなさい】と招いておられます。

イエスさまは【わたしはまことのぶどうの木】「まことのぶどうの木は、わたしである」と言っておられます。そして【わたしにつながっていなさい】と言われます。これほどイエスさまにつながっていることが強調されるのは、とくにヨハネによる福音書の書かれた時代に、その理由があります。ヨハネによる福音書の書かれた時代は、ユダヤ教の一派であるとされていたキリスト教が、ユダヤ教から異端であるとされた時代です。「イエスを主と告白する者」は会堂から追放されるというになっていった時代です。ヨハネによる福音書9章22節には【ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである】とあります。またヨハネによる福音書16章2節で、イエスさまは【人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る】と言っておられます。ヨハネによる福音書が書かれた時代は、イエスさまを主と告白する人たちにとっては、大変な時代でした。そのためいったんキリスト者になっていながら、またユダヤ教のほうに帰っていった人々が出てきています。

ですからヨハネによる福音書が書かれて時代の人々は、「イエス・キリストにつながっている」ということが大切になってきました。そしてそうした時代の中で、「まことのぶどうの木とは誰であるのか」ということが、真剣に問われたのです。【あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる】というような言葉も、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々のことを考えると、ある種のきびしさを帯びた言葉であるということがわかります。

私たちは多くの場合、この「イエスはまことのぶどうの木」という箇所を、ある種のやすらぎをもって聖書を読みます。しかしやすらぎだけで、この聖書の箇所を読もうとするとき、いくつかの聖句にひっかかってしまします。ヨハネによる福音書15章2節の【わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる】や、ヨハネによる福音書15章6節の【わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられ焼かれてしまう】などの言葉に、どうもひっかかりを覚えてしまいます。この二つの箇所は、私たちが気分よくこの聖書の箇所を読もうとするときに、どうも不愉快な感じを与える箇所です。しかしイスラエルの民が選民と言われながら神さまから離れていったことや、ヨハネによる福音書が書かれた時代の人々がキリスト教からユダヤ教の離れていったことなどを思い起すとき、私たちはやはりこのひっかかる聖書の箇所の御言葉をも、しっかりとこころに留めておかなければならないのです。

しかしやはりこの聖書の箇所は、私たちにやすらぎを与えてくださる箇所です。イエス・キリストに依り頼むことの確かさを豊かに表わしてくれています。【実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる】【わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている】【わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ】。私たち自身は自分の力で、とくにすばらしいことができるわけではありません。まさに、【わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである】というとおりです。しかしイエス・キリストにつながっていることによって、私たちは希望をもって生きていくことができます。私たちは自分の中には自慢できるものがないとしても、しかし「わたしはイエス・キリストにつながっている」ということだけは自慢することができるのです。

イエス・キリストにつながっているということは、私たちの気持ちをやすらかにしてくれます。人間的な目で見るところの、えらい人になる必要もないですし、力ある者になる必要もありません。私たちはただ神さまから愛されている一人の人として生きていくのです。

イエス・キリストにつながって生きるということは、生き生きと自分らしく生きるということです。「キリスト者としてこうしなければならない」という思いに縛られて、自分では何もできない奴隷のようなつながりということでもありません。イエス・キリストは私たちを自分らしく生き生きといかしてくださいます。私たちはイエス・キリストにつながって生きていると、私たちは自分が神さまに愛されているかけがえのない一人であることを知ることできます。そして自分らしく生きていくことができるのです。

イエスさまは【これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである】と言っておられます。私たちはしかめっ面をして生きていくのではなく、喜びに満たされて生きていきます。イエスさまの喜びが私たちの喜びとなり、私たちは喜びに満たされて生きていきます。

イエス・キリストにつながって、神さまの愛のうちに、やすらかに、そして自分らしく、生き生きと歩んでいきましょう。


(2026年5月2日平安教会朝礼拝)

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