2026年5月8日金曜日

5月10日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまにつながって生きる」

「生まれてきてよかった」

聖書箇所 ヨハネ16:12-24。470/493。

日時場所 2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日、

  

先週、新聞を読んでいますと、「あのイルカ20年ぶり復活」という記事があり、笑いました。あのイルカというのは、マイクロソフトの業務用ソフト「オフィス」を使っていると現れる、アシスタントキャラクターのイルカの「カイル君」です。作業を助けるキャラクターとして、1997年に登場ということでした。ワードを使っていると、勝手に出てくるイルカで、多くの人から、「ウザイ」「このイルカ、消したい」とよく言われたイルカです。わたしもよく腹を立てていました。いつのまにかなくなったのですが、またほかのアプリで復活ということのようです。いろいろと言われて、カイル君も、意気消沈していたと思いますが、また復活して多くの人たちの役に立てるようです。イルカのカイル君、大変な時もあったわけですが、「生まれてきてよかった」と思っていることと思います。

今日は5月第二週の日曜日で、母の日です。人は人から生まれますから、生まれるとその人には母がいます。その人にとって母がどのような存在であるのかということは、まあいろいろなのだと思います。また時期によって、関係が良い時もありますし、まああまり良くない時もあるかも知れません。親子の関係というのは、むつかしいですから、「こうした良いよ」というふうに、わたしも簡単に言えるような気もしません。イエスさまとマリアさんとの親子関係も、まあいつもいつも良かったのかと言うと、そうでもないと思えるような聖書の箇所もあります。

ヨハネによる福音書2章1節以下に、「カナでの婚礼」という聖書の箇所があります。イエスさまが初めて奇跡を行なわれたという話です。婚礼でイエスさまが水をぶどう酒に変えたという話です。ヨハネによる福音書2章3ー5節にはこうあります。新約聖書の165頁です。【ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。】。イエスさまはお母さんであるマリアさんのことを、「婦人よ」と言いますし、マリアさんはマリアさんで、イエスさまのことを「この人」というふうに言います。「ああ、なんか、お二人の親子関係、あんまりよくないのかなあ」と思わされる聖書の箇所です。

まあそんな感じのときもあるわけですが、マリアさんはイエスさまのことをいつも心配していただろうと思います。そしていろいろあるにしても、イエスさまが「生まれてきたよかった」と思えるような人生であってほしいと思っていたと思います。人生、うまくいかないこともありますし、悲しかったり、つらかったりする出来事にも出会います。そうしたなかで、「死んだほうがましか」と思うようなときもあるかも知れません。でもやっぱりマリアさんがそうであったように、母は我が子に「生まれてきてよかった」と思える人生を歩んでほしいと思うのです。

良い季節ですから、散歩に出かけます。わたしは宝ヶ池に散歩に出かけます。宝ヶ池はとても良いところで、いつ行っても気持ちがよいところです。教会の前のつばきの径をとおって、プリンスホテルに出て、国際会館の通りを歩き、そして宝ヶ池に下っていきます。

宝ヶ池では幸せそうな人たちがいます。池を背景にして、スマホで自撮りをしているカップル。かわいい犬を散歩している女性。ジョギングをしている男性。池の近くにシートを敷いて、お弁当を食べている若者二人。お孫さんのご家族と散歩をしているおじいさん・おばあさん。林の風景をカメラでとっている男性。ゆっくりと話ながら歩いている人たち。幸せそうにしている笑顔にふれると、なんとなく幸せな気持ちになってきます。小さな幸せを楽しんでいる人たちを見ながら、「よかったね」と思えるのは、とても幸せなことだなあと思います。

人の幸せをみても、「よかったね」と思えないときというのもあるわけです。自分がつらい思いをしているときは、なかなか「よかったね」と思えません。自分だけがどうしてこんな目にあわなければならないのだろうか。みんな幸せそうにしているのに、どうして自分だけが不幸なのだろうか。とても人の幸せをみて、「よかったね」と思えない。そんなときも、私たちはあるわけです。

今日の聖書の箇所は「聖霊の働き」という表題のついた聖書の箇所の一部と、「悲しみは喜びに変わる」という表題のついた聖書の箇所です。5月24日がことしのペンテコステ、聖霊降臨日です。だんだんとペンテコステが近づいているということで、今日の聖書の箇所が選ばれています。

ヨハネによる福音書16章12−15節にはこうあります。【言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」】。

ここで話されていることは、イエスさまが十字架につけられて殺されてしまうということです。ヨハネによる福音書16章5節には【今わたしはわたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている】とあります。ですからイエスさまは天に召されるということです。弟子たちはイエスさまが自分たちの前から消えてしまうということの意味がよくわかりません。大切な大切なイエスさまがいなくなるなんて考えられないわけです。しかしイエスさまは私たちの罪のために十字架についてくださるために、この世に来られました。弟子たちがそうしたことを理解するようになるのは、のちのことであるわけです。聖霊によって導かれることによって、真理の霊に導かれることによって、弟子たちはイエスさまの十字架について理解することができました。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と書いてあるのはそのことです。弟子たちもそうですけれども、私たちもどうもよくわからない。どうしてこんな目にわたしがあわなければならないのかと思えるときがあるわけです。意味不明・理解不能。そうしたことが人生の中に起こってきて、戸惑い、気が滅入り、立ち上がることができない。そんかときを過すことがあります。しかしイエスさまはそうしたことがあっても、聖霊の導きによって、あなたは立ち上がり、また歩み始めることができるのだと言われます。

ヨハネによる福音書16章16−19節にはこうあります。【「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。】

イエスさまは【しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。】と言われます。そして弟子たちは【何のことだろう。何を話しておられるのか分からない】と言います。弟子たちにとって、イエスさまがいなくなるということは考えられないことです。イエスさまに付き従って、そして自分たちもまたイエスさまの弟子として、人間的な意味で豊かな歩みをすることができると、弟子たちは思っていました。イエスさまについていくと、立身出世がかなうのだと思っていたわけです。ですからイエスさまが「父のもとに行く」と、弟子たちは困るのです。弟子たちは動揺して、このことについて弟子たち同士で、いろいろと話すのです。

ヨハネによる福音書16章20−24節にはこうあります。【はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」】。

イエスさまは弟子たちに、わたしが天に召されると、あなたたちは泣いて悲しみに打ちひしがれるだろう。しかしあなたがたのかなしみは喜びに変わると言われます。【女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない】と、イエスさまは言われます。イエスさまは子どもを産んだことがないので、この聖書の箇所を読みながら、目をぱちくりさせる女性の方もおられると思います。ただ、一人の子どもがこの世に生まれてくるということは、とても大きな喜びですし、「生れて、すみません」という社会にはなってほしくないと思います。

イエスさまは弟子たちに、わたしがいなくなり、あなたたちは大きな悲しみを経験する。しかしわたしはよみがえり、あなたたちと再び出会うことになる。そしてあなたたちは、こころから喜ぶことになるのだと言われます。そしてその喜びは神さまがあなたたちに対して与えてくださる喜びであるので、けっしてそれが消えてしまうことはない。わたしがよみがえるそのときに、はじめてすべてのことが、あなたたちのうちで理解されるようになり、大きな喜び、大きな安心にあなたたちは満たされる。どんな不安ななかにあっても、神さまはあなたと共にいてくださる。だからわたしの名によって神さまに願いなさい。神さまがすべてのことを導いてくださるから大丈夫だ。神さまにお委ねして歩みなさい。そうすればあなたたちは喜びで満たされることになる。そのようにイエスさまは弟子たちに言われました。

先月、以前にいた教会の方が電話をしてくださり、教会員の方の訃報をお知らせくださいました。わたしと同じくらいの年齢の方で、教会のなかでよく働いておられる方でした。ときどき、私たちの平安教会に献金をしてくださったりする方でした。病気で突然、天の召されたということで、さびしい気持ちで一杯になりました。また先日は病気で仕事をやめて静養していた友だちが、回復をして復帰することができたということを聞いたので、お家をお訪ねしました。するとおつれあいが出てこられて、またちょっと調子を崩して入院をしているのだと伝えてくれました。このことも、なんともショックなことでした。なんか悲しいなあと思いました。つらいこと、悲しいことは起こります。そして「どうして。神さま。どうして」という思いになります。

それでも私たちは、イエスさまの御言葉を信じています。【あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる】。イエスさまが十字架につけられ、世は喜び、弟子たちは悲しみました。弟子たちはどうしたら良いのかわからなくなりました。しかし弟子たちは復活されたイエスさまに出会い、その悲しみは喜びに変わりました。弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださった神さまは、私たちの悲しみも喜びに変えてくださると、私たちは信じています。

「生まれてきてよかった」。イエスさまは私たち一人一人がそのように思える人生であってほしいと願っています。そして私たちが悲しいとき、さみしいとき、いつも私たちの傍らにいてくださり、私たちを守ってくださっています。「その悲しみは喜びに変わる」、大丈夫、わたしがいるから。安心して歩んでいきなさい。イエスさまの慰めの言葉に励まされ、また新しい歩みを始めたいと思います。





(2026年5月10日平安教会朝礼拝式・きてみて、母の日) 


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