2024年7月27日土曜日

7月21日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「朽ちる食べ物のためではなく」

 「朽ちる食べ物のためではなく」

聖書箇所 ヨハネ6:22-27。227/419。

日時場所 2024年7月21日平安教会朝礼拝


年を取ってくると、かかる病院の数も増えてきて、なんとなく気が沈みます。わたしはことしはどうも元気一杯というわけにはいかず、いろいろな病院にかかっています。いまは60肩で肩が痛いのがなかなか治りません。肩が痛いので整形外科に行き、そこでいただいた薬が合わず、皮膚が赤くなったので、皮膚科に行き、原因を突き止めてもらい、また整形外科にいって薬を変えてもらったりして、なんともくたびれました。

病院に行くと看護師さんが働いておられます。病気のときは気落ちしているからでしょうか。看護師さんから「お大事になさってくださいね」などとやさしい言葉をかけていただくと、やっぱり安心します。大切な仕事だなあと思います。

フローレンス・ナイチンゲール(1820年5月12日 - 1910年8月13日)は、イギリスの看護婦です。「クリミヤの天使」とか「ランプの貴婦人」というふうに言われて讃えられる人です。ナイチンゲールはイギリスの上流階級の子どもとして生まれました。19世紀の上流階級というのは、働かなくても一生涯地代や利子で暮らしていける人たちのことです。ナイチンゲールの両親は新婚旅行でヨーロッパ大陸に行きました。まあヨーロッパを回るんだったら、1、2ヶ月はほしいですか。行ったことがないので良くわからないですが、ナイチンゲールの両親はほぼ3年間かけて新婚旅行を行なっています。ナイチンゲールの名前のフローレンスは、ナイチンゲールが生まれた土地でありますフィレンツェから取られています。

【一八三七年、フローレンス・ナイチンゲールが十七歳のとき、自分の力を神に捧げるようにというお告げがあったという】(P.18)(ヒュー・スモール『ナイチンゲール 神話と真実』、みすず書房)。(このヒュー・スモール『ナイチンゲール 神話と真実』という本は、ナイチンゲールの謎についての推理小説のような本でした)。ナイチンゲール家はフローレンス・ナイチンゲールが17歳のとき、二度目の家族での大海外旅行に出かけます。18ヶ月です。【フローレンスは、この海外旅行に旅立つ前に、つぎのように書き記していました。「くだらないことがらに時間をむだに使うのではなく、私はなにかきちんとした職業とか、価値ある仕事がしたくてたまらなかった」と。ここで「くだらないことがら」というのは、たとえば、おおぜいの客を自宅に招いてパーティを開いたり、親類縁者へささいな日常を手紙で伝えあうような、上流階級の習慣をさすようです】(P.33)(長島伸一『ナイチンゲール』、岩波ジュニア新書230)。

ナイチンゲールは若くしてこうしたしっかりした考え方をもっていました。そしてナイチンゲールは看護婦の道を志します。いまの世の中ならまあ上流階級の娘さんの気まぐれというような感じに受け取られるかも知れませんが、当時の看護婦さんの状況というのはなかなかたいへんなものでした。19世紀中頃の病院は、不潔と不道徳のはびこる温床地帯だったそうです。【当時の病院では、ジンやブランデーなどが病棟にもちこまれることはめずらしくなく、それは患者ばかりでなく看護婦にも共通していたからです。また男性病棟の看護婦が男性の病室で寝泊まりすることすら公然と行なわれていました。信じられないことかも知れませんが、看護婦の泥酔と不道徳は、当時の「常識」だったのです】(P.54)(長島伸一『ナイチンゲール』、岩波ジュニア新書230)。そんな時代ですからナイチンゲールの両親は、ナイチンゲールが看護婦になることに猛反対しました。

ナイチンゲールは看護婦になって、こうした病院の状況を改革していきます。ナイチンゲールは私たちがもつ「白衣の天使」というイメージの人ではなくて、社会改革者であったようです。ナイチンゲールは看護婦を「専門職」にまで高めることをめざしていました。

【一般に、「ナイチンゲール精神」といえば、博愛的奉仕と自己犠牲のことであると考えられているようです】(P.200)(長島伸一『ナイチンゲール』、岩波ジュニア新書230)。ナイチンゲール誓詞(せいし)にはこうあります。

【ナイチンゲール誓詞  我々はここに集いたる人々のために厳かに神に誓わん。我が生涯を清く過ごし、我が任務を忠実に尽くさんことを。我はすべて毒あるもの、害あるものたち、悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。我は我が力の限り、我が任務の標準を高くせんことを努むべし。我が任務にあたりて取り扱える人々の私事のすべて、我が知りえたる一家の内事のすべて我は人にもらさざるべし。我は心より医師を助け、我が手に託されたる人々の幸のために身を捧げん】。

ナイチンゲール誓詞には「任務」という言葉がでてきます。【我は我が力の限り、我が任務の標準を高くせんことを努むべし】。この「任務」というのは「専門職」ということです。「専門職としての水準を高めるために全力をあげることを」。私たちはプロフェッショナルでなければならない。私たちはプロフェッショナルなのだから、ほかの専門職と同様に、高い俸給を得ることも当然である。ナイチンゲールはそんなふうに看護職について考えていました。【ナイチンゲール精神とは、プライドをもって「専門職の水準」向上に全力をあげようとする自己努力の精神】(P.203)なのです。

クリミヤの天使といわれてもてはやされたナイチンゲールですが、ナイチンゲール自身はこの出来事についてこんなふうに言っています。【かねてから心を痛めてきたことですが、私のこの実験事業に寄せられたはなばなしい声望(せいぼう)を聞くにおよび、私はいっそう心を痛めています。この仕事にたいする並はずれた喝采がわれわれのなかによびおこした虚栄心と軽挙妄動(けいきょもうどう)とは、この仕事にぬぐい去ることのできない汚点をのこし、おそらくはイギリスではじまった事業のなかでもっとも将来性のあるこの事業に、害毒を流しこみました。困難と辛苦と苦闘の無名のなかで、この仕事に着手したわれわれの当初の一行のほうが、ほかのだれにもましてよい仕事をしてきました。・・・少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力、これこそが、ひとつの事業がしっかりと根を下ろし成長していくための地盤なのです】(P.138)(長島伸一『ナイチンゲール』、岩波ジュニア新書230)。

ナイチンゲールの墓石にはナイチンゲールの名前が刻まれていません。「F・N、1820年生、1910年没」というふうに、イニシャルだけが刻まれています。「私は死後まで人に覚えていてもらいたくないのです」とナイチンゲールは言っているそうです。

【少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力、これこそが、ひとつの事業がしっかりと根を下ろし成長していくための地盤なのです】。味わい深い言葉だと思いました。私たちは「クリミヤの天使」がいてほしいと思いますし、「ランプの貴婦人」がいてほしいと思います。私たちはしるしやえらい人や大きな出来事を求めます。しかしナイチンゲールはそうではなくて、【少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力】が大切なのだと言いました。

今日の聖書の箇所は「イエスは命のパン」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書6章22-24節にはこうあります。【その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た】。

イエスさまは5千人に食べ物を与えられたあと、ひとりで山に退かれました。弟子たちは舟に乗って向こう岸のカファルナウムに出かけました。強い風が吹いて湖が荒れ始めたとき、イエスさまが湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。そして弟子たちがイエスさまを舟に招き入れたあと、ほどなくして舟は目指す地であったカファルナウムに着きました。群衆は弟子たちもイエスさまもおられないことに気がつくと、小舟にのり、イエスさまを探し求めてカファルナウムにやってきました。

ヨハネによる福音書6章25-27節にはこうあります。【そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」】。

群衆はカファルナウムでイエスさまを見つけました。群衆はイエスさまに「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。群衆はイエスさまが山に退かれたのは見ていたのですが、弟子たちとイエスさまが一緒に舟に乗ったわけでもありません。またイエスさまが一人で舟に乗ってカファルナウムに出かけたわけでもありません。ですからとても不思議であったわけです。群衆は五千人に食べ物を与えるというイエスさまの奇跡を見たわけですから、イエスさまが何か不思議なしるしを行なうことを期待しているのです。

イエスさまは群衆に「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われました。イエスさまは以前、病気の息子をもつ役人にこう言っておられます。にはこうあります。【イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。】(ヨハネによる福音書4章48節)。しるしや不思議な業でもって、イエスさまのことを追い求めるのはいいことではないと、イエスさまは言っておられます。今日の箇所では「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言っておられます。

食べるということはなかなか切実なことです。「何を着ようか、何を食べようかと思い煩うな」とイエスさまは言われましたが、しかしそれでもまあ食べるということはとても大切なことです。群衆がしるしではなく、パンを食べて満腹したから、イエスさまを探しているということについて、イエスさまはとても怒っておられるということでもないでしょう。そんなことで怒られるのであれば、たぶん五千人に食べ物を与えるというような奇跡はなさらないでしょう。「パンを食べて満腹したから」イエスさまのところにやってやってくるというのは悪いことではありません。ただイエスさまは食べ物のためだけに生きるのではなく、ほかにしなければならないことがあるということを、集って来た人々に告げられたのでした。

【朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である】。永遠の命に至る食べ物とはいったいなんでしょうか。それはヨハネによる福音書6章35節に書かれてあります。【イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない】とあります。永遠の命に至る食べ物は、主イエス・キリストを信じることです。

主イエス・キリストは私たちに五千人の食べ物を与えるという奇跡を通して、いのちは天から恵みとして与えられているものであり、食べ物はわかちあうものであることをお示しになられました。そして主イエス・キリストは人々が助け合って、共に分かち合って生きていくことを、世の人々に示されました。【朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である】。イエスさまは朽ちるものではなく、永遠なるものにつながって歩みなさいと言われました。

フローレンス・ナイチンゲールは上流階級の暮らしを望みませんでした。それは何も生み出さない朽ちる食べ物のような生活であったからでしょう。そうではなくナイチンゲールは、永遠の命につながる働きがしたかったのだと思います。「くだらないことがらに時間をむだに使うのではなく、私はなにかきちんとした職業とか、価値ある仕事がしたくてたまらなかった」。

環境破壊もテロも食糧も金融も労働条件もボーダレスの世にあって、私たちはもう一度、自分たちの生き方を考えなければならないときに来ているような気がします。イエスさまは【朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい】と言われました。私たちは神さまの御前にしっかりと生きるということを大切にしたいと思います。人頼みにしたてしるしを求めたりするのではなく、自分が小さいことでもいいから、しっかりとそのことを神さまの前に大切にして生きるということです。

「御国がきますように」と祈りながら、小さな良き業に励みたいと思います。神さまから託されている小さなわざを誠実にコツコツと行なっていきたいと思います。神さまは私たちの歩みを見守り、祝福してくださっています。



(2024年7月21日平安教会朝礼拝)


2024年7月16日火曜日

7月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「この人のするままに」

 「この人のするままに」

聖書箇所 ヨハネによる福音書12章1ー8節

日時場所 2024年7月14日平安教会朝礼拝


今日は「きてみて・れいはい」にいらしてくださり、ありがとうございます。

毎月第二日曜日を「きてみて・れいはい」として、わかりやすい説教をこころがけることいました。そして初めての人が「来て良かったよね」と思えるような話をしたいなあと思っています。

わたしの好きな中国の笑い話に、「氷がにげた」という話があります。

【氷がにげた

南の国の、しょうしょう頭のたりない男が、北の国のおよめさんをもらった。あるとき、およめさんを自分の家において、ひとりで、およめさんの家に行って、はじめて、氷というものをくった。こいつはうまい、ひとつおよめさんにおみやげにしようと、そっと紙につつんで、ふところに入れて家に持って帰った。「おまえの里に、とてもおいしいものがあったので、おまえに食べさせたいと思って持ってきたよ」。ふところをさがして、氷をつつんでおいた紙ぶくろをとりだしたが、「おや、これは・・・・・・・。あいつめ、小便をしてにげてしまった」】(P90)(黒須重彦(文)、水沢研(画)『中国の笑いばなし』、学燈社)。

わたしはこの「氷がにげた」という話をよみながら、いい話だなあと思いました。ほっとさせられます。たしかに男はしょうしょう頭がたりなくて、氷というものを知りません。氷ですから紙に包んでもって帰ることはできません。そして氷がとけてしまうと、「あいつめ、小便をしてにげてしまった」ということを言う男です。でも男は自分がおいしいものを食べたら、妻に食べさせてあげたいというやさしさをもっています。「おまえの里に、とてもおいしいものがあったので、おまえに食べさせたいと思ってもって帰ってきたよ」。いい夫だと思います。この男の人は、愚かだけれども、愛があります。わたしもできれば、「愚かだけれども、愛がある」世界に生きていたいと思います。

「合理的ではないけれども、そこには愛がある」という話は、ほかにもあります。わたしがこの「氷がにげた」という話を読んで思い出した話は、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」という話です。ジムとデラは仲の良い夫婦でした。互いにクリスマスのプレゼントを贈りたいと思っています。でも貧しいのでお金が十分にありません。ジムとデラのお家には誇るべきものが二つありました。一つはジムのもっている金時計です。そしてもう一つはデラの美しい髪の毛でした。デラは美しい髪の毛を売って、クリスマスプレゼントとして、ジムのために金時計の鎖を買います。ジムは金時計を売って、クリスマスプレゼントとして、デラのために櫛を買います。「なんでこうなっちゃったの」と思える出来事であるわけです。

しかしオー・ヘンリーは小説の最後を次のような言葉で終わります。【二人は愚かなことに、家の最もすばらしい宝物を互いのために台無しにしてしまったのです。 しかしながら、今日の賢者たちへの最後の言葉として、こう言わせていただきましょう。 贈り物をするすべての人の中で、この二人が最も賢明だったのです。 贈り物をやりとりするすべての人の中で、 この二人のような人たちこそ、最も賢い人たちなのです。 世界中のどこであっても、このような人たちが最高の賢者なのです。 彼らこそ、本当の、東方の賢者なのです。】(原作:オー・ヘンリー、翻訳:結城浩、青空文庫)。このオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」も、「愚かだけれども、愛がある」世界の物語です。

私たちの住んでいる世の中は、どちらかと言えば、理路整然としてすきがない人が、すばらしい人として用いられる世界です。賢くて、きっちりとしていて、抜け目のない人が用いられる世界です。しかしそうした世界は多くの場合、「正しさや法はあっても、愛はない」という世界です。それに対して、イエスさまは「愚かだけれども愛がある」世界を好まれた方でした。

さきほどお読みしました聖書の箇所に出てきた女性の話も、「愚かだけれども愛がある」ということを思わされる聖書の箇所です。

イエスさまがラザロという人の家で、食事をしにやってこられたときの話です。ラザロの妹のマリアが、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってやってきました。そしてその香油を、イエスさまの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいました。ふつう女の人にとって髪というのは大切なものです。そして足というのは、とても汚(よご)れているところです。当時は自動車のようなものに乗っているわけではないですから、足は一番汚(よご)れる場所です。足を洗うというのは、奴隷の仕事であるとされていました。マリアはイエスさまの一番汚(よご)れている場所を、自分が大切にしている髪でふいたのでした。家は香油の香りでいっぱいになった】というふうに、いい香油の香りがして、一瞬ふわーとしたような気に、みんながなった、つぎの瞬間、イスカリオテのユダのきびしい叱責の声が聞こえてきました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。

マリアは心からの献げものをしたにもかかわらず、イスカリオテのユダによって怒られたのでした。しかしマリアにはイエスさまがおられました。マリアはイエスさまの言葉によって救われます。イエスさまはマリアに「この人のするままにさせておきなさい」というふうに言われました。

イエスさまはマリアに対して、「何かもっとふさわしいものを」とか、「常識的な役に立つことを」というふうに言われませんでした。そうではなく、イエスさまは「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。イエスさまは人と人とのかけがえのない関係を大切にされました。それによって、なにか効率よく、うまくいくということを大切にされたのではありませんでした。この人がなにか自分にとって役に立つから大切にしよう。あるいはこの社会にとって役に立つりっぱな人であるから、大切であるというふうには考えませんでした。そうでなくてイエスさまは、マリアをそのままで受け入れられたのでした。マリアがとても機転がきいて、信仰的にもりっぱで、貧しい人々に対しても配慮もばっちりであるから、マリアを受け入れられたのではありませんでした。またイエスさまはマリアに対して、「貧しい人々に対する配慮が大切であり、おまえにはそのことが欠けていたから、そのことを身につけなさい。そうすればわたしはあなたを受け入れよう」というふうに言われたのではありませんでした。マリアがあと何かこのことができたら、マリアを評価しようというふうには、イエスさまは言われませんでした。そうでなく、「この人のするままにさせておきなさい」というふうに言われたのでした。

イエス・キリストは私たちに「この人のするままにさせておきなさい」と言ってくださっています。イエス・キリストは私たちが、「りこうであるから、役にたつから、配慮があってすばらしい人であるから」、私たちを受け入れてくださるのではありません。また「もう少しりこうになったら、もう少し役に立つことができるようになったら、もう少し配慮を身につけなさい」と言っておられるのでもありません。「この人のするままに」、「あなたをそのままで受け入れているんだよ」というふうに言っておられます。

私たちは「この人のするままに」というイエスさまの温かい言葉に支えられながら生かされています。イエスさまはいつも私たちをやさしく招いてくださっています。



(2024年7月14日平安教会朝礼拝)


2024年7月10日水曜日

7月7日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさま、す・て・き」

 「イエスさま、す・て・き」

聖書箇所 ヨハネ5:19-36。226/280。

日時場所 2024年7月7日平安教会朝礼拝式


夢のなかで、自分がいやなことをしてしまい、夢から覚めて、「ああ、夢でよかった」というふうに思うことがあります。殺人事件を起こすとか、そういうことではないのですが、「倫理的にどうよ」というようなことをしてしまい、どうなるんだろうと思っていると、夢から覚めるというような感じでしょうか。まあ詳細を覚えているということではないのですが、とにかくなんか良くないことをしてしまい、「ああ、夢でよかった」と思うのです。しかし夢のなかとはいえ、自分のなかの良くないことが、まざまざと現れるということですから、なんとなく意気消沈してしまいます。良き人として生きられない自分に出会うということです。イエスさまを信じ、イエスさまに従って歩もうと思いつつも、しかしイエスさまの御心に反したことをしてしまう。そうしたどうしようもない自分がいるからこそ、イエスさまのことがとてもすてきな方だと思えるのでしょう。自分はどうしようもない弱さを抱えているけれども、イエスさまがわたしを導き、守っていてくださる。わたしの弱さやこころの醜さを知っておられるのだけれど、それでもわたしのことを愛し、励ましてくださる方がおられる。わたしにはすてきな方がついてくださっている。そのように思いながら、自分なりの歩みをしていきます。

今日の聖書の箇所は「御子の権威」という表題のついた聖書の箇所と、「イエスについての証し」という表題のついた聖書の箇所の一部です。ヨハネによる福音書5章19−23節にはこうあります。【そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。】。

ヨハネによる福音書は、イエスさまが神さまの御子であることを、私たちに伝えています。そして今日の箇所は、イエスさまと神さまとの関係がどのようなものであるのかということを伝えています。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」とありますように、イエスさまは神さまの御心にしたがって歩んでおられるということです。自分勝手に好きなことをしているのではないということです。そしてイエスさまは神さまと同じように、悔い改める者に永遠の命を与えられます。神さまは律法による裁きを求められるのではなく、イエスさまにすべてのことを任せられます。

ヨハネによる福音書5章24−27節にはこうあります。【はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである】。

イエスさまの御言葉を信じて、神さまのことを信じる人は、永遠の命を得ることができる。でもイエスさまのことを知らないで死んでしまった人はどうなるのということがあります。イエスさまが生まれる前に生きていた人はどうなの。イエスさまが活動しておられた地域から遠く離れていて、イエスさまのことを知ることができなかった人たちはどうなの。というように、いろいろな疑問があるわけです。しかしそうした細かな疑問に対して、イエスさまは「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る」と言われます。イエスさまの力はとても大きなものだから、たとえ死んだ人であったとしても、イエスさまが良きようにしてくださるのだと言うわけです。神さまがイエスさまに力を与えてくださっているのだから、安心しなさいと言うわけです。

ヨハネによる福音書5章28−30節にはこうあります。【驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」】。

「時が来ると」というのは、世の終わり・終末のときということです。世の終わり・終末の時に、善を行なっていた人はよみがえり永遠の命を受ける。そして悪を行なっていた人はよみがえり、そして裁きを受ける。イエスさまは神さまの御心に従って、裁きを行われる。すべてのことにおいて、イエスさまは神さまの御心に従って行われるということです。

ヨハネによる福音書5章31-36節にはこうあります。【「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。】

イエスさまは自分のことを自分で誇るようなことはされないと言われます。神さまがわたしのことを証してくださると、イエスさまは言われます。洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを迫り、そしてヨルダン川で洗礼を授けます。洗礼者ヨハネは、燃えて輝くともし火のように、世を照らし、世の不正や不正義を明らかにしました。世の指導者たちは貧しい人々のことを顧みようとはしませんでした。洗礼者ヨハネは指導者たちを糾弾しました。その姿をみて、世の人々は喜びました。しかし洗礼者ヨハネはヘロデ王によって殺されます。そのあと神さまは洗礼者ヨハネとは違った形で、イエスさまを世に遣わされます。イエスさまは世の罪を取り除く神の子羊として、私たちの世に来られます。そしてイエスさまは私たちの罪のために十字架につけられます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」とは、イエスさまの十字架ということです。イエスさまは十字架は、世の人々を救うために、神さまが用意された出来事でした。

イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心に従って歩まれる。神さまの御心に従って、私たちの罪のための十字架についてくださり、私たちを救ってくださる。イエスさまは自分のことを誇ることなく、謙虚に神さまに従って歩まれる。ヨハネによる福音書は、今日の聖書の箇所でそのように、イエスさまのことを記しています。

フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という表題のついた聖書の箇所があります。フィリピの信徒への手紙は、イエスさまのお弟子さんのパウロが書いた手紙です。この「キリストを模範とせよ」という箇所には、初代のクリスチャンたちが、イエス・キリストはこんな人だったと言い表している信仰告白が使われています。フィリピの信徒への手紙2章6ー11節の御言葉です。新約聖書の363頁です。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。】。

イエスさまは神さまの御子でありながら、僕の身分となり、私たちの世にきてくださいました。そしてへりくだり、謙虚に歩まれました。そして私たちの罪のために十字架についてくださいました。イエスさまは神さまから託された業を行われ、そして高ぶることなく謙虚に歩まれます。

イエスさまは本当にすてきな方だと思います。「イエスさま、す・て・き」。初期のクリスチャンたちもまた、そのような思いをもって、イエスさまに付き従っていったのだと思います。すてきな方が、私たちを導いておられます。神の御子が私たちのところにきてくださり、私たちと共に歩んでくださいます。その恵みに感謝をして、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。



  

(2024年7月7日平安教会朝礼拝式)


2024年7月1日月曜日

6月30日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「イエスさまの言葉に希望を置く」

 「イエスさまの言葉に希望を置く」

聖書箇所 ヨハネ4:43-54。211/361。

日時場所 2024年6月30日平安教会朝礼拝式


毎月第一、第三土曜日の午前10時半から、「おっとり学ぶキリスト教」という会をもっています。あまり堅苦しい会でなく、率直に来ておられる方々が、率直に話し合うことができれば良いなあと思っています。いま感じていることなどをお話しくださる方もおられ、「ああ、キリスト教について、そんなふうに思っておられるのだなあ」ということがわかります。

「神さまがおられるのに、どうして世の中には悲しい出来事が起こるのですか」。世界ではいろいろな戦争が行われて、罪のない子どもたちが殺されるというような出来事が起こります。どうしてこんなことが起こるのかということが、私たちの世界では起こるわけです。「それはこういう理由です」と答えられるということでもありませんが、私たちもまた「神さまどうしてですか」との思いをもちつつ、神さまに「御国がきますように」と祈りながら、教会生活を送っています。

いまNHKの朝の連続テレビ小説で「虎に翼」というのをやっています。主人公のモデルは、日本で初めて女性として弁護士になった三淵嘉子(みぶち・よしこ)です。いまドラマは、戦後、家庭裁判所がつくられ、三淵嘉子がそこで働いているところです。戦後、日本国憲法は施行(しこう)されています。ドラマの中ではなんども日本国憲法第14条が出てきます。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地(もんち)により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。しかしそのような世の中になっているかと言えば、そうではないわけです。ましてドラマは戦後、まだ間もない時ですから、世の中は混乱し、だれからも世話をされない戦争孤児たちがあふれています。

日本国憲法第14条に書かれてあるような社会であるわけはありません。いろいろなところで差別が行われていたりします。しかしそれでも戦後、日本国憲法が施行されたとき、多くの人々はそのような社会ではないけれども、そのような社会になってほしい、そのような社会を作っていくのだという思いをもって、戦後の苦しい時期を歩んだのです。

清永聡(きよなが・さとし)『家庭裁判所物語』(日本評論社)には、家庭裁判所の父と言われる宇田川潤四郎について書かれてあります。糟谷忠男(かすたに・ただお)という新任の裁判官がいました。どのようにすれば良いのかわからないので、いろいろと先輩に聞いていました。糟谷は、宇田川潤四郎を訪ねて、「少年審判の心得とは何か」と直接質問したそうです。

【糟谷は新任判事補の研修で、宇田川と面識があった。「家庭裁判所の父」として名高い宇田川であれば、役立つテクニックを教えてくれるのではないか。そう考えたのだ。訪ねてきた若い裁判官の質問に、宇田川は大きくうなづくと、こう言った。「ぼくはね、祈るんだ」。予想外の言葉であった。「少年事件をやる時は、審判を受ける少年に祈るんだ。そして拝むんだ。どうか、立派になってくれ。立ち直ってくれと」。宇田川は糟谷の顔の近くまで来ると、おもむろに彼の手を取り、両手で胸の前へと持ち上げ、ぐっと握った。「審判が終われば、こうやって握手をするんだ。いいかい、ここにいる人たちはみんな君の味方だ。君の未来を、一生懸命考えているんだ。どうか、どうか、これから頑張るんだよ。そう言うんだ。 オレ、頑張ろう・・・・・。六〇年あまり前のこの日の思いを語る時、糟谷は今も、涙で言葉を詰まらせる】(P.118)清永聡『家庭裁判所物語』、日本評論社)。

今日の聖書の箇所は「役人の息子をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。ヨハネによる福音書4章43−45節にはこうあります。【二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。】。

イエスさまはサマリアの町で、サマリアの人たちに神さまのことを宣べ伝えていました。サマリアの女性がサマリア人たちに、イエスさまのことを紹介したのでした。そのあと、イエスさまはサマリアの町をたって、故郷のガリラヤに帰られます。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というのは、まあそうしたこともあるでしょう。小さい時からその人のことを知っているわけです。「赤ちゃんのときに抱っこしてあげた」というような人たちがたくさんいるわけです。「故郷の誉れ」というようなことはあるにしても、「敬う」というのとはまた違った感覚があるということもあると思います。しかしイエスさまはガリラヤの人たちが歓迎を受けました。イエスさまがエルサレムで「神殿から商人を追い出す」というようなことをしていたのを、彼らも見ていたので、「なんかイエスさま、すごいなあ」という雰囲気があったのだと思います。「神殿から商人を追い出す」という話は、ヨハネによる福音書2章13節以下に書かれてあります。新約聖書の166頁です。

ヨハネによる福音書4章46−50節にはこうあります。【イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。】。

イエスさまはガリラヤのカナに行かれます。イエスさまが結婚式に水をぶどう酒に代えるという奇跡を行われた町です。ヨハネによる福音書2章1節以下に「カナでの婚礼」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の165頁です。

カファルナウムに住んでいる王の役人の息子が重い病気にかかり、死にそうになっていました。この役人はイエスさまがカナに来られたということを知り、イエスさまにカファルナウムに来ていただいて、息子の病気を治してもらおうと思い、イエスさまにお願いをします。イエスさまは役人に「あなたがたはしるしや不思議な業を見なければ、わたしのことを信じないだろう」と言われました。まあ言葉としてはちょっといじわるな言葉です。しかし役員はそうしたイエスさまの言葉に反応することなく、とにかく自分の子どもが生きているうちいやしにきてくださいと、ただただイエスさまにお願いをします。するとイエスさまは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とだけ、役人に言われます。役人はそのイエスさまの言葉を信じて、家に帰りました。

ヨハネによる福音書4章51−54節にはこうあります。【ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。】。

役人は家に帰る途中、僕たちに出会い、息子が元気になってきたことを知らされます。役人は息子がいつ元気になったのかを僕たちに尋ねます。僕たちは「昨日の午後1時に熱が下りました」と答え、それはイエスさまが役人に「あなたの息子は生きる」と言われた時間だということに、役人は気づきました。そして役人も、役人の家族もイエスさまのことを信じるようになりました。

この物語で印象的なのは、役人が「あなたの息子は生きる」と言ったイエスさまの言葉を信じたということです。「そんなことを言われても信じることができません。どうかイエスさま、カファルナウムまできてくださり、わたしの息子をいやしてください」というふうにお願いするのが、まあふつうのことだと思うわけですが、しかし役人はただイエスさまの言葉を信じるのです。

ヨハネによる福音書では、同じように「見ないで信じる」ことの大切さが記されている聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書20章34節以下に「イエスとトマス」という表題のついた聖書の箇所があります。新約聖書の210頁です。イエスさまは復活されて、トマス以外の弟子たちに合うのですが、トマスは自分だけがあっていなかったので、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言います。イエスさまはトマスのところにもやってきてくださいます。そしてイエスさまはトマスに言われます。ヨハネによる福音書20章27−29節にはこうあります。【それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」】。

イエスさまの時代の人たちも、イエスさまをなかなか信じることができずにいた人々も多かったと思います。しかしそれでも、イエスさまの言葉を信じて、私たちの世が神さまの御心にそった世の中になりますようにと祈りつつ歩んでいきました。なかなか信じることはできないけれども、しかしイエスさまの言葉を信じて生きていきたい。そのような思いが、今日の聖書の箇所にも現れているように思います。

役人はただ「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というイエスさまの御言葉を信じて、そしてカファルナウムの家に帰っていきます。イエスさまの言葉を信じよう。イエスさまが必ず、息子をいやしてくださる。

その姿は、日本の戦後、日本国憲法第14条を掲げて、歩み始めた人々と似ていると、わたしは思います。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。いまそのような社会でないことは重々承知だけれども、いつの日かそのような社会になってほしい。いつかそのような社会になるはずだ。

いつの日か、神さまの御心が実現する。アメリカの公民権運動の指導者でありました、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、その思いを、I have a dream that one day.「わたしには夢がある」という言葉で言い表わしました。1963年8月28日の「ワシントン大行進」のときの演説です。「私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である」。「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。」。

キング牧師、「いつの日か」と言います。「いつの日か」ですから、それはいま叶っているということではないのです。しかしキング牧師は、演説の終わりを、「ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝する。われわれはつい に自由になったのだ!」という言葉で終わります。いま叶っているわけではないけれども、神さまがおられるのだから、それは必ず実現するなのだと言う信仰です。

そして祈るのです。神さま、私たちはあなたにより頼んで生きていきます。どんなことがあったとしても、神さま、あなたが私たちに良きものを備えてくださり、私たちを導いてくださることを信じています。神さま、私たちはあなたの御言葉を信じて歩みます。どうかあなたの国が来ますように。私たちをあなたの愛で満たしてください。

神さまが私たちを守り導いてくださいます。安心して歩んでいきましょう。




  

(2024年6月30日平安教会朝礼拝式)


6月23日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師) 「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」

 「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」

聖書箇所 ヨハネ4章27-42節。197/566。

日時場所 2024年6月23日平安教会朝礼拝


翻訳という仕事は一風変わった仕事です。翻訳家の鴻巣友季子さんは『全身翻訳家』(ちくま文庫)という本の中で、翻訳家という職業についてこんなふうに書いています。

【役者(俳優のことです)は数々の他人の人生を生きる。それに倣っていえば、訳者(翻訳家のことです)は他者のことばを生きる。そんなことを今さらながらしみじみと思う。この夏で、翻訳の仕事を始めてから丸二十年が経った。・・・。以前、自分が翻訳に費やした時間を計算してみたら、六万時間ほどになった。六万時間、他人として生きてきたのかと思うと、おかしくなった。「きみはこれまでどんな仕事をしてきた?」「三十年間、翻訳をやってきたよ」「なるほど、三十年間、何もしてこなかったということだな」たしか、ルネサンスの哲人たちのこんな会話があった。わたしも「わたし」としては、ほとんど何もしてこなかったわけだ】(P.218)。

小説を書きながら翻訳をしているとか、大学で教えながら翻訳をしているとか、何かしながらという人も多いのでしょうけれど、自分の作品を書くというのではなく、他人の作品を訳すというのは、楽しそうではありますが、やはり地味な感じがします。たんに本を読むのとは違って翻訳は時間もかかるでしょう。でもよく考えてみると、わたしはこの翻訳家の人たちのお世話になっていると思います。わたしは日本語以外の言語を読むことができませんから、なおさらです。聖書やキリスト教の知識などもほとんど翻訳してくれた人たちによってもたらされたものです。そもそも聖書自体が、日本語の聖書です。

翻訳する人はその言語を読むことができるわけですから、その人自身にとっては、その本は翻訳される必要はない本です。にもかかわらず翻訳をするというのは、それは自分以外の人のためにしてくれているわけです。もちろん仕事であるわけですから、それで食べているということはあるわけですが、でもやはり「この本を多くの人々に知ってもらいたい」という強い思いがあるからできるのでしょう。翻訳家という人の存在を思うとき、【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】というイエスさまの言葉は、わたしにとってはほんとにそうだなあと思います。

今日の聖書の箇所は「イエスとサマリアの女」という表題のついている箇所の一部です。先週の礼拝も「イエスとサマリアの女」の話でした。いろいろな事情のあるサマリアの女性に、イエスさまが「水を飲ませてください」と話しかけたのでした。そしてサマリアの女性はイエスさまこそ、自分の魂の渇きをいやしてくださる方であることに気がつきました。イエスさまは永遠の命に至る水をくださる方であるからです。

そして今日の箇所になるわけです。ヨハネによる福音書4章27−30節にはこうあります。【ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た】。

イエスさまとサマリアの女性が話しておられたのは、弟子たちが食べ物を買うために町に行っている間のことでした。イエスさまとサマリアの女性が話をしておられるのに、弟子たちはすこしびっくりします。イエスさまが女性と二人で話をしておられるということにも、すこし驚いたでしょう。そして相手がユダヤ人とけんかをしているサマリア人であるということにも驚いただろうと思います。弟子たちはどうしたものかよくわからなかったので、あえてイエスさまに聞いてみるということをしませんでした。

サマリアの女性は町に行って、自分がすばらしい人に出会ったことを、町の人々に告げ知らせます。【水がめをそこに置いたまま】ということですから、急いで町に行ったのでしょう。自分がすばらしい人に出会ったということを、町の人々に知らせたくて知らせたくてたまらなかったのだと思います。サマリアの女は正午頃に井戸に水をくみにいく人であったわけですから、たぶん町の人々からはあまりよく思われていなかっただろうと思います。またサマリアの女性も町の人たちのことをよく思っていなかっただろうと思います。そんな関係であったわけですが、でもイエスさまのことは知らせずにはいられなかった。すばらしい人がいたということを、町の人々に知らせずにはいられなかったのです。サマリアの女性はイエスさまのことを町の人々に伝道します。サマリアの女性が町の人にイエスさまのことを伝えたのです。

ヨハネによる福音書4章31−38節にはこうあります。【その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」】。

サマリアの女性が伝道をしている間に、弟子たちはイエスさまから「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」という話を聞きました。【「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである】ということですから、イエスさまの食べ物とは神さまのことを宣べ伝えるということなのでしょう。【目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている】ということですから、神さまのことを信じる人々がどんどんと出てくるということでしょう。でも弟子たちはそのことに気づいていません。弟子たちは【『刈り入れまでまだ四か月もある』】と思っています。でも実際には種を蒔いてくれている人がいて、どんどんと成長しているのです。【あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした】ということですから、弟子たちは福音の種まきをしていないけれど、でも刈り入れるために弟子たちはイエスさまによって招かれているのです。

『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』とイエスさまは言われるわけですが、ではだれが種を蒔いているのでしょうか。今日の聖書の箇所の場合は、サマリアの女性であるわけです。サマリアの女性は町の人々のところにイエスさまのことを伝えに行っています。サマリアの女性はサマリアの町の人々からあまりよく思われていないにも関わらず、彼らのところにイエスさまのことを知らせに行っています。

ヨハネによる福音書4章39−42節にはこうあります。【さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」】。

多くのサマリア人はサマリアの女性の言葉によって、イエスさまのことを信じました。サマリアの女性がイエスさまのことをサマリアの町の人々に伝えたのです。そして弟子たちはその実りに預かることになりました。サマリア人たちはでももう少し、いろいろな話をイエスさまから聞きたかったのでしょう、イエスさまにもう少し自分たちのところに留まってほしいと願いました。イエスさまは二日間サマリアに滞在されました。そのことによって更に多くの人々が、イエスさまの言葉を信じることになりました。そしてサマリアの人々ははっきりと自分で、イエスさまが本当に世の救い主であるということがわかりました。そしてそのようにサマリアの女性に言いました。

イエスさまの弟子たちではなく、サマリアの女性がサマリアの町の人々に、イエスさまのことを宣べ伝えました。『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』。そして弟子たちは労苦しなかったものを刈り入れることになります。

イエスさまは【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】と言われました。私たちの世の中というのは、そうした面があるということを、やはり心にとめておかなければならないと思います。【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】。人の労苦の実りを、自分の労苦の実りとしてかすめ取っていく人々がいます。そしてそうしたことこそが、この世にあって頭のいい人のすることであるかのような雰囲気を作り出していく社会のあり方があります。どれだけ自分が能力があるのかということをアピールして、他の人々がした労苦の実りさえも自分の労苦の実りであるかのように強弁して、自分をアピールしていく。そうしたことがスマートな生き方であるかのように思わせる社会のあり方があります。わたしはそうした社会のあり方は、なんかとてもいびつな気がします。

イエスさまは【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】と言われました。私たちの社会はいろいろな人たちの労苦でなりたっています。それはおもてに見えない場合が多いですし、だれがしてくださっているのかもよくわからないというようなこともあります。ですから私たちは自分たちがだれかの支えによって助けられているということに感謝をもって生きていきます。そして自分もまたときに労苦し、たとえその労苦の実りが、自分に対してもたらされることがなかったとしても、そのことを受け入れます。支えたり、支えられたりして、私たちの社会はなりたっています。

サマリア人がサマリアの女性に言った言葉は、ある意味ではすこし釈然としない言葉です。【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです】。なんとなくサマリアの女性に対して、とげのある言葉のように思えます。サマリアの女性がイエスさまのことを伝えることによって、多くのサマリア人がイエスさまを信じることができたのです。ですからサマリア人はサマリアの女性に「ありがとう。あなたのおかげでイエスさまにお会いすることができた」と言ってあげてほしいと思います。【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」】という言葉は、なんとなくこころない言葉のように思えます。サマリアの女性の労苦によって、サマリア人たちはその労苦の実りにあずかっているということを認めてほしいと、わたしは思います。

しかしこの【「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです】という言葉は、すこし別の側面のある言葉なのです。それはこの言葉が「信じる」ということに関しての言葉だからです。この言葉はサマリア人がサマリアの女性に言った言葉ということだけでなく、「信仰とはこういうものだ」ということを言い表している言葉です。信仰とはたんにだれかから聞いて信じたということではなく、その人の個人のなかで「確かにこの方が本当に世の救い主だ」と心の底から感じることができたということが大切なのだということです。なんとなく誘われたからとか、なんとなくこの人に勧められて、ということではなく、その人自身が心底「信じる」ということでなければだめなのだということです。

サマリアの女性にとっては少し気の毒なことかも知れませんが、結局は、「だれがどうした」ということを越えて、「感謝は神さまに帰す」というところがあるのです。イエスさまは弟子たちに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われました。弟子たち、私たちには「知りえない」ことがあるのです。ある意味、私たちの世の中には秘密が隠されているのです。私たちが知りえないことがたくさんあるのです。「だれがどうした」か、わからないことがたくさんあるのです。ですから私たちはだれかわからないので、「だれがどうした」ということを越えて、「感謝は神さまに帰す」のです。そして神さまの前に、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ】という世界へと導かれていきます。【他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている】のですが、そのことを受けとめた上で、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、神さまに感謝して生きていきます。

私たちは豊かな実りをもたらしてくださる神さまを信じて歩んでいます。私たちの神さまは必ず、私たちに良きものを用意してくださるということを、私たちは信じています。そして私たちは神さまのために働きます。

【目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている】。私たちの世の中にはイエスさまの御言葉を待っている人たちがおられます。イエスさまの御言葉を必要としている人たちがおられます。サマリアの女性のように、また私たちのように、心の渇きを覚えて、永遠の命に至る水を必要としている人たちがおられます。ですから私たちはそのことのために働きます。わたしが刈り入れたいとか、わたしが種を蒔いたのにということではなくて、【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、私たちは神さまのために働きます。

私たちは自分だけで生きているのではありません。いろいろな人々のお世話になって、私たちは生きています。神さまは私たちに命を与えて生かしてくださり、また他の人々にも私たちと同じ命を与えて生かしてくださっています。私たちは自分だけで生きているのではなく、神さまによって共に生かされています。そして神さまがもたらしてくださる豊かな実りによって、私たちは生かされています。私たちは、神さまの前には小さな者です。私たちは神さまによって造られた者にすぎません。しかし神さまから愛され、神さまがもたらしてくださる豊かな実りに預かって生かされています。その意味では私たちは一人一人尊い存在です。

私たちは神さまから愛されている尊い一人一人です。ですから【種を蒔く人も刈る人も、共に喜】び、豊かな歩みをしていきたいと思います。



(2024年6月23日平安教会朝礼拝)

12月14日平安教会礼拝説教(小笠原純牧師)「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 

               ティツィアーノ・ヴェチェッリオ               《聖母子(アルベルティーニの聖母)》