「イエスさまに治していただく」
聖書箇所 マタイ4:18-25。495/459。
日時場所 2025年1月19日平安教会朝礼拝式
1月17日は、阪神淡路大震災30年の記念の日でした。そのとき、わたしは新潟県の三条市というところで牧師をしていました。阪神大震災の前日、友人の牧師の結婚式があり、関西に来ていました。京都で地震の揺れを体験しましたが、その翌日、三条市に帰っていきました。いまもそのままとどまって、何かをしてから帰ったら良かったのではないかと思いが残っています。神戸におられて被災をされた方や、ご家族が被災をされた方もおられることと思います。
俳優の北川景子は、小学生のときに、神戸で被災をしています。日本経済新聞の2025年1月5日の記事に、「俳優・北川景子さん 神戸に咲いた、己(おのれ)と闘う表現者」という記事の中に記されてあります。北川景子の自宅が神戸市にあったので、学校での生活は一変します。学校が避難所になり、祖母の実家のある香川県で「疎開生活」をはじめることになりました。自宅や家族は無事でしたし、受け入れ先でも親切にされたわけですが、それでも「なぜ自分がこんな目に逢うのか、亡くなった人はどうして亡くならないといけなかったのか」。そうしたことを考えるようになり、とても気持ちが落ち込みます。
北川景子は数年後、大阪にあるキリスト教系の中学校である、大阪女学院に入学をします。【転機は中学時代。キリスト教系の大阪女学院に入学すると、震災以来の不安感や絶望感が次第に薄れていく。きっかけは言葉の力だった。今でも忘れられないのが、入学式後に教師から教えてもらった「置かれた場所で咲きなさい」という語句だ。ずっと「なぜ自分が」と狭い世界の中で思考を巡らせていたが、それぞれの環境で頑張ればいいと「腑(ふ)に落ちたというか、救い、気づき、導きになった」。他にも「神は乗り越えられる試練しか与えない」「人にしてもらいたいことをしてあげなさい」など、たくさんの言葉が思春期の心を支える】。
「置かれた場所で咲きなさい」というのは、カトリックのシスターで、ノートルダム清心女子大学の学長であった渡辺和子さんの言葉です。「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。咲けない時は、根を下へ下へと降ろしましょう」。「神は乗り越えられる試練しか与えない」というのは、コリントの信徒への手紙(1)10章13節の言葉です。新約聖書の312頁です。【あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます】。「人にしてもらいたいことをしてあげなさい」は、マタイによる福音書7章12節の言葉です。新約聖書の11頁です。【だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。】。
阪神淡路大震災のあと、なかなか前向きになることができなかった、北川景子を導いたのは聖書の言葉でした。北川景子は聖書の言葉、イエスさまの言葉によって、癒やされたのでした。北川景子はクリスチャンではないですが、おりにふれて、聖書の言葉に支えられて、励まされて、俳優であることを続けているようです。北川景子がそうであるように、聖書の言葉や、イエスさまの生き方は、人を励まし、その人生を支えます。そうした豊かさをもっているのが、キリスト教であるわけです。
今日の聖書の箇所は、「四人の漁師を弟子にする」「おびただしい病人をいやす」という表題のついた聖書の箇所です。マタイによる福音書4章18ー20節にはこうあります。【イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。】
イエスさまはガリラヤ湖で漁をしていたペトロとアンデレに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけ、ご自分の弟子にされました。イエスさまのお弟子さんは、12弟子と言われます。聖書に記されている名前は、若干、いろいろですので、もともとの弟子が12人であったというわけでもないのです。でもペトロ、アンデレ、そしてあとヤコブとヨハネは有名なお弟子さんですが、彼らはみな漁師でした。12人のうち、4人が漁師であるわけですから、3分の1が漁師であるわけです。イエスさまは学問をしていた人を弟子として選ばれたわけではなく、ふつうに働いている人を弟子として選ばれました。
マタイによる福音書4章21−22節にはこうあります。【そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。】。
イエスさまの弟子選びは、イエスさまの方から声をかけ、そして声をかけられた人が、イエスさまに従うという形です。まあ「イエスさまについて行きたい」と思って、イエスさまのところにやってきたという人もいたのではないかと思います。でも基本形としては、イエスさまが招き、弟子が応えるというものです。ペトロ、アンデレがそうであったように、ヤコブもヨハネも、すぐにイエスさまに従って歩みはじめます。
マタイによる福音書23−25節にはこうあります。【イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。】
マタイによる福音書によりますと、イエスさまは「ガリラヤで伝道を始める」「四人の漁師を弟子にする」、そして「おびただしい病人をいやす」ということになっています。イエスさまは伝道・宣教活動を始められ、お弟子さんを選ばれました。そしてとくに、病の人々や苦しんでいる人のところを訪ねられ、そしていやしのわざを行われました。イエスさまの評判を聞いた人々は、病気の人たちをいやしてもらうと、イエスさまのところに連れてくるようになります。そして遠くから、イエスさまのところに大勢の人々が来るようになります。
イエスさまはとても魅力的な方だったのでしょう。イエスさまの一番弟子であるペトロやアンデレも、漁師をしていたわけですが、すぐに網を捨てて、イエスさまに従います。ヤコブもヨハネも、「すぐに」、舟と父親を残して、イエスさまに従っています。どちらも「すぐに」、イエスさまに従います。どちらも「網を捨てて」「舟と父を残して」というように、いままでもっているものを「捨てて」、イエスさまに従いました。
「捨てる」というのは、いろいろなことを考えさせられる言葉です。昔は「すべてを捨てて、イエスに従った」と言うと、美談のような話になったわけです。まあ、財産を捨ててというような意味合いが強かったのだと思います。しかし「舟と父を残して」と言っても、「残された父はどうなるんだ。父に対する責任を、他の兄弟や姉妹に対して押し付けるのは、いかがなものか」というようなことも考えられるようになりました。
しかし、人は人生において、「捨てる」ということをしなければならないというのも確かなことです。いつのまにかがんじがらめになっていて、ただただ同じことをするしかないというようなことがあります。まあ人は「前例がない」ことは、なかなかできにくいのです。前例があれば、「まあいいか」と思えます。わたしは大阪教区などで議長をしたりしましたから、とくに「前例がない」ことについては、とても慎重であるべきだという思いが強いような気がします。「あなたはもっと人にやる気を出させるようなものの言い方をしたほうがいいんじゃない」と言われたりしますが、まあやはりわたしは慎重なのだと思います。しかしいろいろな問題が増えていき、変えなければならないというときもあります。「捨てる」ということや、「手放す」ということをしなければ、新しいことを始めるということはできないというときもあるわけです。
私たちの教会は、教会建物改修ということに、これから取り組んでいくことになります。2月9日(日)の礼拝後に、臨時総会がもたれて、どれくらいの規模で教会建物の改修を行なうのかということを決めることになります。改修にともない、いままでとは変わることがあるでしょうし、またこれを機会に「捨てる」「手放す」というようなこともしなければならないだろうと思います。新しいことをするときには、「捨てる」「手放す」ということがやはり必要であるわけです。慎重にしなければならないと同時に、やはりしっかりと決断をしなければなりません。
「四人の漁師を弟子にする」という物語のなかで語られる、「すぐに網を捨てて従った」「すぐに、舟と父を残してイエスに従った」というときの、「捨てて」とか「残して」というのは、がんじがらめになっていたものから解き放たれていくというようなイメージなのだと思います。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、なんとなく自分でどうしたら良いのかわからず過ごしていたのだと思います。そんなとき、彼らはイエスさまに出会い、イエスさまから「わたしについてきなさい」と声をかけられます。彼らはかんじがらめになって、自分でもどうしたらよいかわからなかったけれども、イエスさまから声をかけられ、「この人についていこう」と思い、新しい歩みを始めます。
人はいろいろな意味で、病(やまい)をかかえて生きています。病名がつくような病にかかっている場合もあります。てんかんとか、中風とか、腰痛とか、皮膚病とか、四十肩とか、心臓の病気とか、甲状腺機能低下症といか、いろいろな病気があるわけです。しかしそうしたはっきりとした病(やまい)ではなく、イエスさまから治していただきたいというふうに思える事柄があるのです。
このわたしのこころのなかにあるどうしようもない邪な思いを治していただきたい。自分でもこの気持ちをどうにかしなければならないと思うのだけれども、どうしても断ち切ることができない。人の思いは複雑ですから、自分の思いでありながら、自分でどうすることもできないというようなこともあります。
私たちは自分ではどうすることもできないけれども、でもイエス・キリストは私たちを癒やしてくださり、私たちに新しい命を与えてくださいます。そして私たちに新しい力を与えてくださり、前を向いて歩んでいく力を与えてくださいます。
イエスさまが、私たちを招いてくださっています。イエスさまの招きに応えて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。
(2025年1月19日平安教会朝礼拝式)