「あなたのほしいものは何ですか」
聖書箇所 マルコ10:32-45。306/305。
日時場所 2026年3月22日平安教会朝礼拝式・受難節第5週
年をとってくると、若い時のように、「これがほしい。あれがほしい」というような気持ちがちょっと落ち着いてくるような気がします。もちろんもうすでにもっているということもあると思います。冷蔵庫もあるし、テレビもあるし、スマホもあります。自動車などは、「これがほしい」ということよりも、「いつ手放すのか」ということのほうが、年をとってからの話題であるわけです。わたしはこの3月17日で、63歳になりました。サザエさんのお父さんの磯野波平さんは54歳ということですから、わたしのほうがほぼ10歳年上です。わたしも63歳ですから、その年齢でできることを考えます。「またスキーをやってみたいなあ」とか「オートバイに乗ってみたい」とか、もうあと10年経ったらぜったいできないことについて、いまならできるのではないかと考えてみたりします。そういう意味では、逆算して、いろいろなことを考えたりすることがあるわけです。若い時というのは、そういう考え方をすることは、あまりありません。ただやってみたいとか、ただほしいというようなことを考えます。ほしいものなども、若い時は「これ、ほしい」と思ったけれども、もう年をとったのでいまさらほしいとは思わないというような気持ちにもなります。わたしも10年前は、いろいろなものをインターネットで検索して、「ああ、これいいなあ」「これほしい」というようなことをしていましたが、いまは「まあ、そんなに必要ないやろ」と思い直すことが昔に比べて多くなりました。
「マダム・イン・ニューヨーク」というインド映画を先週見ていました。シャシという主人公がいう言葉に「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」のがあります。シャシは二人の子供と夫のために尽くすけれども、英語がはなせないということで、ときどき家族からも失礼な振る舞いをされたりします。シャシは「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」と言います。人によって、また年齢によって、状況によって、ほしいものはさまざまでしょう。イエスさまは今日の聖書の箇所で、「あなたのほしいものは何ですか」と問われます。
今日の聖書の箇所は「イエス、三度目の死と復活を予告する」「ヤコブとヨハネの願い」という表題のついた聖書の箇所です。「ヤコブとヨハネの願い」という聖書の箇所は、ヤコブとヨハネが出世したいと、イエスさまに願い出たという話です。地位や名誉を願い出たという話ですから、若い時はとても気になる聖書の箇所ですけれども、年をとったいま読んでみると、若干、自分のこととして考えにくい聖書の箇所になっているなあというような気もいたします。願い出た内容は置いておいて、ヤコブやヨハネやイエスさまの弟子たちの前に進んでいく勢いみたいなものは、それはそれでうらやましいような気もします。しかし、勢いだけで生きていくのは、ちょっと違いますと思いますから、すこし落ち着いて自分の歩む姿勢を整えていくということもまた大切なことだと思います。
イエスさまは自分の死と復活について、弟子たちに話されました。イエスさまが自分の死と復活について話されるのは、これで三度目です。今日は受難週第5週の始まりです。来週の日曜日は棕櫚の主日です。イエスさまが子ロバにのって、エルサレムに入城され、そして受難週の歩みをされることになります。
イエスさまはエルサレムに行かれます。そして祭司長たちや律法学者たちによって捕まえられ、裁判にかけられます。イエスさま裁判で死刑の宣告をうけられます。そして十字架を背負ってゴルゴタの丘へと歩み、人々から蔑まれ、侮辱され、唾をかけられ、兵士によってむち打たれ、そして十字架にかけられ、天に召されます。そして三日ののちに、イエスさまはよみがえられます。
神さまはイエスさまによって私たち人間の罪をあがなってくださり、そして私たちは神さまの前に救いを得ることができました。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。イエスさまは神さまの御子であったのですが、ほめたたえられることを望まず、人々に仕えて、そしてすべての人のしもべとなる生き方をされました。その生き方について、イエスさまは「死と復活を予告する」ということを話すことによって、弟子たちに伝えようとされたのですが、しかし弟子たちはそのことを理解することはありませんでした。
そして今日の聖書の箇所の「ヤコブとヨハネの願い」という話になるわけです。マルコによる福音書10章35−40節にはこうあります。【ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」】。
ヤコブとヨハネは、イエスさまの弟子のなかで、とてもよく用いられた弟子でした。ヤコブとヨハネは、イエスさまに「イエスさまがえらくなったときは、私たちを特別に用いてください」とお願いをします。しかしイエスさまはヤコブとヨハネに対して、「あなたがたはよくわかっていない」と言われました。イエスさまが十字架への道を歩まれると話しておられたのに、ヤコブとヨハネは自分たちの出世の話をするからです。イエスさまは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と、ヤコブとヨハネに問いました。「わたしが飲む杯」というのは、イエスさまの十字架ということであり、ヤコブとヨハネもイエスさまと同じように、迫害を受け、そして辱めを受けて、殺されるかも知れないということです。ヤコブとヨハネは、イエスさまが言っておられることの意味もよくわからず、「できます」と答えます。イエスさまは「あなたたちはわたしと同じ苦しみを受けることになるだろう。しかしわたしの右や左に誰が座るかということは、神さまが決められることであり、わたしが決めることではない」と答えられました。
マルコによる福音書10章41−45節にはこうあります。【ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。】。
ヤコブやヨハネがイエスさまに自分たちの出世を願い出たことについて、他の弟子たちは腹を立てます。みんなヤコブやヨハネと同じように、自分たちも出世したいという思いをもっていたからです。まあみんな若者であるわけですから、仕方がないのです。弟子たちはみんな若いですから、勢いで生きています。逆に、勢いがなければ、イエスさまについて行くというようなことはできないのです。
しかしイエスさまは弟子たちを諭されます。みんな知っていると思うが、世の中では支配者と見なされている人々が民を支配し好き勝手なことをしている。偉い人たちが権力をもって、人々を虐げている。そんな世の中、あなたたちはどうもうのか。そんな世の中でいいのか。世の中は力やお金で動いているけれども、あなたたちのなかはそうであってはだめだ。偉くなりたい人はみんなに仕える人になってほしい。いちばん上に立つ者は、みんなの僕になってほしい。そうした生き方をしてほしい。そうした生き方を神さまは喜ばれる。わたしもまたそのように生きている。わたしは人々の罪のために十字架につくために、わたしはこの世に来たのだ。そのようにイエスさまは言われました。
私たちは昔に比べて、宗教性を失った社会に生きています。自分のことばかりを考えて、自己中心的な考え方に陥ってしまい、周りの人のことも考えるというような道徳的なことは後回しにされるような社会です。宗教性を失った社会は、さみしい社会になっていきます。島田裕巳(しまだ・ひろみ)という宗教学者は、「宗教で読み解く現代世界-ニヒリズムの時代に対抗する宗教」というカルチャーセンターでの講義のなかで、エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(文藝春秋)(P.170)を紹介しています。
エマニュエル・トッドは宗教の衰退の段階を三つに分類しました。活動期、ゾンビ段階、宗教ゼロ段階。活動期というのは、宗教が世の中で活発に行なわれている状態です。そしてゾンビ段階というのは、信仰心は失われているけれども、洗礼・結婚式・葬儀などの儀礼習慣は残っているという状態です。そして宗教ゼロ段階というのは、宗教的な習慣も消えてしまい、宗教が支えていた道徳観や価値観が失われてしまっている状態です。いまの西洋社会の状態はそのような状態だということです。宗教はみんなを柔らかく一つにまとめる働きをしていたわけですが、それさえもなくなり、社会はニヒリズム(虚無主義)に陥っているということです。エマニュエル・トッド自身は、「わたしは神を信じていない」と言うわけですが、それでもこの宗教ゼロ社会という世界の状況は、とても危機的な状況だと言うわけです。宗教ゼロのエマニュエル・トッドであるわけですが、宗教ゼロの社会はとても危険な社会だというわけです。
日本でもそうですけれでも、「お天道(てんとう)さまが見ているよ」というようなことが、社会のなかにはあったわけです。自分以外の誰かが見ているという視点をもって、多くの人々は生きてきたわけです。しかし現代ではそうした感覚は失われ、「いまだけ」「かねだけ」「じぶんだけ」というような感覚が、この世をうまく生きる上での指針であるかのような主張が得意げにされるようになってきます。他者の視点というのが失われてしまっているわけです。
実際の世の中は、多くの人々が助け合うことによって動いています。また自分の代以前の人の良き働きによって、いまの社会が成り立っています。私たちは言葉を自分でつくったわけではないですし、また私たちは先人たちが獲得した法律の恩恵によって生きています。
わたしはエマニュエル・トッドと違って、神さまを信じていますから、世界がこのような状態になっていることに対して、わたしが神さまのことをもっともっと一生懸命に伝えたらよかったとの思いがあります。もっともっと人々が神さまを信じるようになり、まっとうな世界に戻ってほしいという思いがあります。
イエス・キリストは神さまの御子であったわけですが、私たちの世にきてくださり、私たちのために十字架についてくださいました。そして弟子たちに、自分のことだけを考えて生きるのではなく、隣人のことを考えて、みんなで一緒に助け合って生きていくことを進めました。そしてなかなかできることではないかも知れないけれども、自分が偉くなりたいというような志の高い人々は、人に仕える生き方を心がけてほしいと言いました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
イエスさまはヤコブとヨハネに「何をしてほしいのか」「あなたのほしいものは何ですか」と問いかけられました。ヤコブとヨハネは「出世したい」「えらくなりたい」と答えたわけです。でもイエスさまは「あなたのほしいものと、あなたが本当に必要としているものは、おなじものではない」と言われます。あなたのほしいものは、出世することやえらくなることかも知れない。でもあなたが本当に必要としていることは、そうしたことではない。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。あなたが必要としていることは、謙虚な思いになって、隣人と共に歩んでいくことだ。わたしがそのようにしたように、あなたもまたそのようにしてほしいと、イエスさまはヤコブとヨハネ、そして弟子たちに言われました。
レント・受難節も第五週を迎えました。私たちはイエス・キリストの歩みを、こころに深く受けとめたいと思います。イエスさまは仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られました。そのイエスさまの愛の姿を、こころに受けとめて、私たちもイエスさまの愛にふさわしい歩みでありたいと思います。
(2026年3月22日平安教会朝礼拝式・受難節第5週)
0 件のコメント:
コメントを投稿